森繁夫
「人物百談」の「三 西行法師終焉地の話」より
假りに、ら今、富士山の繪があつて、そこに旅裝した一人の僧が休息してゐる、傍に笠と杖と笈がある、としますると、それは子供でも直ぐに西行法師だといひます。
西行に就て、其事蹟を劇化したるもの、文學化したるものは、たとへば富士見西行・時雨西行・墨染櫻など十數種を算へ、又其歌集山家集についてのものなどは、徳川期に於ても若干刊行されてをりまするものの、其正傳−實傳といふやうなものは殆ど見ることがありませんでした、が、明治時代に入つてからは、中々研究者が多く、彼を專門に書いた書物だけでも、おほかた十種以上にも上りませう、洵に嬉しいことであります。
似雲が雲水の身といひながら、よく緒國を遍歴したことは、其歌集などにても知られ、故郷廣島から東へ、須磨・明石から京阪地方は勿論橋立・諏訪州更科などの、北寄りから、南、牛瀧・和歌浦・那智に及び、大和・河内・近江・美濃・富士を中心とする東海道、.果ては陸前松島にまで足を仲ばしてゐる點、歌に巧みであつた迄、西行に私淑した點などで、時人呼んで今西行といひましたが、彼は、
西行に姿ばかりは似たれども心は雪と墨染の袖
と、謙遜してゐました。
「人物百談」の「六七 中島棕隱と雪百首」より
一題百首と云ふ事は、昔から多く歌はれ、富士百首・酒百首・蹴鞠・鷹・庵・楓・時鳥・心・月・牽牛花・馬・遊女・鶴・櫻・菊・梅・鶏・鶯などそれ/\詠まれ川井立牧の五井蘭洲に次いだ春曙及新題百首があり、僧立綱は小倉百首の第一句を採て雪百首を、第三句を採て月百首を、第五句を採て花百首を詠み、新井守村の雁・紅葉等十種に渉り各百首を詠じたるなど、其例乏しからす、既にして棕隱亦水鷄五十首の詠ありと聞けば、今叙上短冊の雪百首も、敢て珍とするには足るまいが、當時その百首の歌を知るべくもなかつた。