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2007年02月17日

松尾芭蕉

霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き

富士の山蚤が茶臼の覆かな

雲を根に富士は杉形の茂りかな

一尾根はしぐるる雲か富士の雪

富士の風や扇にのせて江戸土産

富士の雪慮生が夢を築かせたり

目にかかる時やことさら五月富士


「奥の細道」
弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から不二の峯幽にみえて、上野谷中の花の梢又いつかはと心ぼそし。
むつまじきかぎりは宵よりつどひて舟に乗て送る。千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて幻のちまたに離別の泪をそゝく。
   行春や鳥啼魚の目は泪

室の八島に詣す。同行曾良が曰、「此神は木の花さくや姫の神と申て富士一躰也」。無戸室に入て焼給ふちかひのみ中に、火々出見のみこと生れ給ひしより室の八島と申。又煙を読習し侍もこの謂也」。将、このしろといふ魚を禁ず。縁起の旨世に伝ふ事も侍し。


「野ざらし紀行」
崑崙は遠く聞き、蓬莱・方丈は仙の地なり。まのあたりに士峰地を抜きて蒼天を支へ、日月のために雲門を開くかと。向かふところ皆表にして、美景千変す。詩人も句を尽くさず、才子・文人も言を絶ち、画工も筆捨てて走る。若し藐姑射の山の神人有りて、其の詩を能くせんや、其の絵をよくせん歟。
  雲霧の暫時百景を尽しけり


「幻住庵の記」
比叡の山、比良の高根より、辛崎の松は霞をこめて、城あり、橋あり、釣たるる舟あり、笠取に通ふ木樵の声、ふもとの小田に早苗とる歌、蛍飛びかふ夕闇の空に水鶏のたたく音、美景物として足らずといふことなし。中にも三上山は士峰の俤に通ひて、武蔵野の古き住みかも思ひ出でられ、田上山に古人をかぞふ。

2007年02月15日

豊島与志雄

「女心の強ければ」
千代乃は座に戻ってきて、まだ硝子戸の方へ眼をやりながら言った。
「お酒は、もうよしましょうよ。霧がはれかかってきたようなの。裏山にでも登ってみましょうか。霧の上から富士山が見えてくるところは、きれいですよ。」
何を言ってることやら、気まぐれにも程がある、と長谷川は思った。裏山の頂からは富士山がよく見えたが、それももう彼には面白くなかった。


「ヒロシマの声」
理想の実現には長年月を要するだろう。だが地の利は得ている。太田川の七つに分岐してる清流が市街地を六つのデルタに区分し、北方は青山にかこまれ南方へ扇形をなして海に打ち開け、海上一里ほどの正面に安芸の小富士と呼ばるる似ノ島の優姿が峙ち、片方に宇品の港を抱き、その彼方は、大小の島々を浮べてる瀬戸内海である。ここに建設される平和都市の予見は楽しい。


「野ざらし」
「君は富士の裾野を旅したことがあるかい?」
「ありません。」と昌作はぼんやり答えた。
「僕は富士の裾野を旅してる所を夢に見たよ。そして実際に行ってみたくなった。富士の……幾つだったかね……五湖、七湖、八湖……あの幾つかの湖水めぐりって奴ね、素敵だよ、君。鈴をつけた馬に乗って、尾花の野原をしゃんしゃんしゃんとやるんだ。……河口湖ってのがあるだろう。その湖畔のホテルに大層な美人が居てね、或る西洋人と……多分フランス人と、夢のような而も熱烈な恋に落ちたなんてロマンスもあるそうだよ。

で、要するに、その頃僕の心は、可なり妻から離れて、或るやさしい魂を求めていたことだけは、君にもお分りでしょう。
 そういう心で僕は妻を眺めてみて――今迄よく見なかったものを初めてしみじみと眺める、といった風な心地で眺めてみて、喫驚したのです。何という老衰でしょう! 髪の毛は薄くなって、おまけに黒い艶がなくなっています。昔はくっきりとした富士額だったその生え際が、一本々々毛の数を数えられるほどになっています。顎全体がとげとげと骨張っていて、眼の縁や口の隅に無数の小皺が寄っています。


「「草野心平詩集」解説」
知性と感性との渾然たる融合、鮮明なるイメージ、豊潤奔放なる韻律など、心平さんの詩の特長は、そうやたらに存在し得るものではない。
 それからまた、心平さんのこれまでの詩業を通覧しても、特殊なものがある。たいていの詩人には、その詩集を以て名づけられる何時代というのがあるものだが、心平さんにはそのようなものは一向ない。例えば、その詩集を取ってきて、「母岩」時代とか、「大白道」時代とか、「日本沙漠」時代とか、そういうことを言ったならば、おかしいだろう。ばかりでなく、「蛙」の詩や「富士山」の詩は、十数年に亘って幾つとなく書き続けられたものである。恐らく今後もまだ続けられるだろう。

然し、天をじかの対象とせずとも、それを背景として、いろいろな表現が為され得る。その時、天の比重はさまざまになる。心平さんの近著「天」の後記の一節を見よう。
「数年前、私の天に就いての或る人のエッセイが詩の雑誌にのったことがあった。私はそれまで天というものを殊更に考えたことはなかったのだが、ふと……従来の詩集をひらいて天のでてくる作品に眼をとおした。あるあるあるある。私のいままで書いた作品の約七十パアセントに天がでてくる。」
富士山の詩を私は永いあいだ書いてきたように思うが、もともと富士山などというものは天を背景にしなければ存在しない。」

漸く「富士山」に辿りついた。
 心平さんは富士山の詩人とも言われる。十数年来、富士山の詩を幾つも書き続けてきたからだ。今後も続くことだろう。
 ところが、心平さんは富士山そのものだけを歌ってるのではない。存在を超えた無限なもの、日本の屋根、民族精神の無量の糧、として歌っているのだ。そして殊に、前に引用しておいた文章が示す通り、もともと富士山などというものは天を背景にして存在するのだ。
 斯くて、富士山はもはや象徴である。現実の富士山の姿態などは問題でない。けれども、象徴は具象を離れては存在しない。心平さんの富士山はやはり美しい。その美しさが、平面的でなく、掘り下げられ深められてるのを見るべきである。
 これらの作品に於て、知性と感性との比重がどうなっているか。比重の差は多少ともある。その差の少いもの程、すぐれた作品となすべきであろう。

心平さんは、富士山の詩人であるよりも、より多く「蛙」の詩人である。そしてここに於て、最も独特である。

富士山が象徴であるように、心平さんにとっては、蛙も一種の象徴である。一種の、と言うのは、富士山の場合と少しく意味合が異るからだ。心平さんは先ず蛙を、あくまでも蛙として追求する。時によっては客観的にさえ追求する。追求してるうちに、しぜんと、他のものが付加されてゆく。何が付加されるか。それは、蛙自体の成長そのものだ。よそから、持って来られたものではない。蛙自体が成長して、やがて、人間と肩を並べる。蛙の本質的脱皮だ。蛙はあくまでも蛙だが、もはや昔日の蛙ではない。そこに、一つの世界が創造される。


「風俗時評」
箱根、日光、富士山麓、軽井沢など、自然の美と交通の便宜とに恵まれた土地の、安易なホテルのホールなんかでは、よく、家族か親しい仲間かの数人の、午後のお茶の集りが見受けられる。その中で、欧米の白人の連中は、いろんな意味で人目を惹く。大抵、彼等の体躯は逞ましく、色艶もよい。眼は生々と輝き、挙措動作は軽快で、溌剌たる会話が際限もなく続く。心身ともに、精力の充溢があるようである。之に比較すると、日本人のそうした集りには、あらゆる点に活気が乏しい。見ようによっては病身らしく思える身体を、椅子にぎごちなくもたせて、動作は鈍く、黙りがちにぼんやりしている。精力の発露などはあまり見られない。

2007年02月13日

佐藤垢石

「榛名湖の公魚釣り」
榛名富士、相馬山、ヤセオネ、天神峠に囲まれた、広いなだらかな火口原の野の末に、描いたような枯れ林を水際に映した美しい榛名湖で、公魚を釣る気分はまことに愉快である。
 しかし氷の穴から釣るよりも、水に舟を浮かべて釣る方が面白い。すべて脈釣りで、ここ独特の仕掛けである。


「香魚の讃」
鮎の多摩川が、東京上水道のために清冽な水を失った近年、関東地方で代表的な釣り場とされているのは相模川である。富士山麓の山中湖から源を発して三、四十里、相州の馬入村で太平洋へ注ぐまで、流れは奔馬(ほんば)のように峡谷を走っている。中にも、甲州地内猿橋から上野原まで、また相州地内の津久井の流水に棲む鮎は、驚くほど形が大きい。

酒匂川も捨て難い。二宮尊徳翁の故郷、栢山村を中心として釣りめぐれば殊のほか足場がよろしいのである。この川もまた震災後はじめての大遡上であると、沿岸の漁師が喜んでいるほど鮎が多い。鬼柳の堰に、メスのように光る若鮎が躍っている。足柄山の尾根をきった空に、富士の白い頂が釣り人を覗いているではないか。


「想い出」
私は、黙ってその場を立って、自分の竿のあるところへ行き、道具をかたして堤防の上へ登った。広々として、果てしのない酒匂の河原を望んだ。足柄村の点々とした家を隔てて、久野の山から道了山の方へ、緑の林が続いている。金時山の肩から片側出した富士の頂は、残雪がまだ厚いのであろう、冴えたように白い。遠く眺める明星ヶ岳や、双子山の山肌を包む草むらは、まだ若葉へもえたったばかりであるかも知れない。やわらかい浅緑が、真昼の陽に輝いている。


「濁酒を恋う」
けれど、現在世の中にあるおいしい酒というのはすべて味わい尽くしたから、この頃では昔上方にあったという『富士見酒』の味を想像して、舌に唾液をからませている。『富士見酒』というのは、糟丘亭が書いた百万塔のひともと草に出ている。百万塔は百家説林のように、各家の随筆を収録したもので文化三年に編粋され、ひともと草はそのうちの一篇であるが、糟丘亭は上条八太郎の筆名だと聞く。
 酒の初まれるや、久方のあめつちにも、その名はいみじき物を、ことごとしくにくめり云ふもあれど、おのづから捨てがたき折ともよろづに興をそふるともをかしく、罪ゆるさるる物とも嬉しとも、いきいきしともいへり。この物つくれる事のひろこりゆけば、いづこにすめるも濁れるもあれど、過し慶長四年とや、伊丹なる鴻池の醸を下しそめけるより、この大江戸にわたれるは、ことところ異りて味も薫もになくにぞ、世にもて賞するある。その頃は馬にておくりたるを、いつよりか舟にてあまた積もてくだせる事にはなれる。その国にさへ一二樽残してもてかへり、富士見となん賞しけるとぞ(下略)。
 蜀山人の就牘(しゅうとく)には、
 当地は池田伊丹近くて、酒の性猛烈に候。乍去宿酔なし、地酒は調合ものにてあしく候。此間江戸より酒一樽船廻しにて富士を二度見候ゆへ二望嶽と名付置申候。本名は白雪と申候。至って和らかにて宜敷聯句馬生に対酌――などとある。これは昔、酒樽を灘から船で積み出し、遠州灘や相模灘で富士の姿をながめながら江戸へ着き、その積んで行った樽のうち二、三本をさらに灘へ積み返し、上方の酒仙たちの愛用に供したから、富士見酒と言ったものであろう。
 柳多留四十二篇に、
   男山舟で見逢のさくや姫
 という川柳があるが、これは長唄の春昔由縁英(はるはむかしゆかりのはなぶさ)のうちの白酒売りの文句に『お腰の物は船宿の戸棚の内に霧酒、笹の一夜を呉竹の、くねには癖の男山』とある銘酒。この男山と富士の女神かぐや姫が舟で見逢いをする、としゃれて詠んだのかも知れない。


「わが童心」
それは、赤城と榛名の姿を探し求めたのである。しかしながら、わが求むる赤城と榛名は、いつも秋霞の奥の奥に低く塗りこめられて、つれなくも私の視界に映らない。ただ近く秩父の山々が重畳と紫紺の色に連なり、山脈が尽きるあたりの野の果てに頂をちょんぼり白く染めた富士山が立っていた。
大根畑の傍らへ、朝も夕も通ったが、とうとう故郷の山を望み得なかった。もう堪らない。

私は、五月から六月上旬へかけての赤城が一番好きだ。十里にも余るあの長い広い裾を引いた趣は、富士山か甲州の八ヶ岳にも比べられよう。麓の前橋あたりに春が徂(ゆ)くと赤城の裾は下の方から、一日ごとに上の方へ、少しばかりずつ、淡緑の彩が拡がってゆく。

榛名は赤城に比べると、全体の姿といい、肌のこまやかさ、線の細さなど、女性的といえるかも知れない。東から船尾、二つ岳、相馬山、榛名、富士と西へ順序よく並んで聳えるが、どの峰もやわらかな調和を失わない。そして、それぞれが天空に美しく彫りつけたような特色を持っているけれど、敢て奇嬌ではない。
まず、榛名は麗峰と呼んで日本全国に数多くはあるまいと思う。

2007年02月11日

野中千代子

頂きは人しなければニはしら降りし御世の心地こそすれ

夏山は何れの人か踏初(ふみそめ)し雪の高ねはわれぞ分ぬる

うた人の眺めのみせしふじのねを御代の光りとなさましものを

国々の海山かけし大庭をわがもの顔に眺めあかしつ

富士のねの雪にかばねは埋むとも留め置まし日本(やまと)だましひ

露茶にも味が出るうへふえはするお客も室も共によろ昆布(こぶ)

観測のランプピカ/\よもすがらうろつくわれは蛍なりけり

夜日とも眠りもやらでゐるわれはいたるにあらで蛍なりけり

たとへ身は増荒(ますら)おの子にあらずとも尽す心はをとらじものを

姫神のいます御山に登りしはいかなるえにしありてなるらむ

姫神と聞もなつかし皇国(すめらぎ)に尽すわれをば守りたまへや

さなぎだに白露しげき裾野にて人のなさけに袖しぼるらん