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2007年12月15日

森繁夫

「人物百談」の「三 西行法師終焉地の話」より
假りに、ら今、富士山の繪があつて、そこに旅裝した一人の僧が休息してゐる、傍に笠と杖と笈がある、としますると、それは子供でも直ぐに西行法師だといひます。

西行に就て、其事蹟を劇化したるもの、文學化したるものは、たとへば富士見西行・時雨西行・墨染櫻など十數種を算へ、又其歌集山家集についてのものなどは、徳川期に於ても若干刊行されてをりまするものの、其正傳−實傳といふやうなものは殆ど見ることがありませんでした、が、明治時代に入つてからは、中々研究者が多く、彼を專門に書いた書物だけでも、おほかた十種以上にも上りませう、洵に嬉しいことであります。

似雲が雲水の身といひながら、よく緒國を遍歴したことは、其歌集などにても知られ、故郷廣島から東へ、須磨・明石から京阪地方は勿論橋立・諏訪州更科などの、北寄りから、南、牛瀧・和歌浦・那智に及び、大和・河内・近江・美濃・富士を中心とする東海道、.果ては陸前松島にまで足を仲ばしてゐる點、歌に巧みであつた迄、西行に私淑した點などで、時人呼んで今西行といひましたが、彼は、
   西行に姿ばかりは似たれども心は雪と墨染の袖
と、謙遜してゐました。


「人物百談」の「六七  中島棕隱と雪百首」より
一題百首と云ふ事は、昔から多く歌はれ、富士百首・酒百首・蹴鞠・鷹・庵・楓・時鳥・心・月・牽牛花・馬・遊女・鶴・櫻・菊・梅・鶏・鶯などそれ/\詠まれ川井立牧の五井蘭洲に次いだ春曙及新題百首があり、僧立綱は小倉百首の第一句を採て雪百首を、第三句を採て月百首を、第五句を採て花百首を詠み、新井守村の雁・紅葉等十種に渉り各百首を詠じたるなど、其例乏しからす、既にして棕隱亦水鷄五十首の詠ありと聞けば、今叙上短冊の雪百首も、敢て珍とするには足るまいが、當時その百首の歌を知るべくもなかつた。

2007年05月31日

百井塘雨

「笈埃随筆」の「温泉」から
世に温泉の説多くて未だ理を尽さず。俗には硫黄の気伏して温泉をなすといふは惣論なり。それ地下に温泉あるがゆへに、薫蒸して硫黄有とはいふべし。地下に水脉有。火脉有其二脉一所に会して、近く融通するあれば、必ず水泉温沸す。
されば水脉と云ものに引れて、山上に出る湖有り。我邦にても奥の塩の井、甲州の塩の山など是なり。
又火脉の渤興せる富士、浅間(信濃)、阿蘇(肥後)、温泉山(肥前)、宇曾利山(南部)、霧島山(日向)等なり。平地は室八島(下野)、越後地火(蒲原郡)。或は海中にも硫黄島(薩州)、八丈島(伊豆)あり。
必火脉有れば温泉と成る。桜島(薩州)、又松前の辺なる島にも有。故に海中といへども真水有。

2007年05月18日

森六蔵

「麻布中学・高等学校 校歌」
○千代田の南 麻布の丘に
 筑波のみどり 富士の白雪
 朝な夕なに 窓より仰ぎ
 学びにいそしむ わかきますらを

※2番のうちの1番
※作詞森六蔵 他/作曲池譲

2006年12月24日

森鴎外

「俳句と云ふもの」
○父は医書の外は何も読まない流儀の人であつた。詩や歌や俳句の本が偶有つたのは、皆祖父の遺物である。祖父は歌を一番好いてゐた。始て江戸に上る途中で、
   おもひきやさしも名高き富士のね
     麓を雲の上に見んとは   綱浄
と云ふ歌をよんだ。それを福羽子爵が半折に書いて、
   いと高きしらべなりけりふじのねに
     これもおとらぬ君がことのは
と書き添へて贈られた掛物が残つてゐる。


「伊沢蘭軒」
茶山は其後九月中江戸にゐて、十月十三日に帰途に上つた。帰るに先(さきだ)つて諸家に招かれた中に古賀精里の新に賜つた屋敷へ、富士を見に往つたなどが、最も記念すべき佳会であつただらう。精里の此邸宅は今の麹町富士見町で、陸軍軍医学校のある処である。地名かへる原を取つて、精里は其楼を復原(ふくげん)と名づけた。茶山は江戸にゐた間、梅雨を中に挾んで、曇勝な日にのみ逢つてゐたので、此日に始て富士の全景を看た。

茶山は岡山、伊部、舞子、尼崎、石場、勢田、石部、桜川、大野、関、木曾川、万場、油井、薩陀峠、箱根山、六郷、大森等に鴻爪(かうさう)の痕を留めて東する。伊部を過ぎては「白髪満頭非故我、記不当日旧牛医」と云ひ、尼崎を過ぎては「輦下故人零落尽、蘭交唯有旧青山」と云ひ、又富士を望んでは「但為奇雲群在側、使人頻拭老眸看」と云ふ。到処今昔の感に堪へぬのであつた。


「大塩平八郎」
己は隠居してから心を著述に専(もつぱら)にして、古本大学刮目(こほんだいがくくわつもく)、洗心洞剳記(せんしんどうさつき)、同附録抄、儒門空虚聚語(じゆもんくうきよしゆうご)、孝経彙註(かうきやうゐちゆう)の刻本が次第に完成し、剳記(さつき)を富士山の石室(せきしつ)に蔵し、又足代権太夫弘訓(あじろごんたいふひろのり)の勧(すゝめ)によつて、宮崎、林崎の両文庫に納めて、学者としての志をも遂げたのだが、連年の飢饉、賤民の困窮を、目を塞いで見ずにはをられなかつた。

四年癸巳 平八郎四十一歳。四月洗心洞剳記(せんしんどうさつき)に自序し、これを刻す。頼余一に一本を貽(おく)る。又一本を佐藤坦(たひら)に寄せ、手書して志を言ふ。七月十七日富士山に登り、剳記を石室に蔵す。八月足代弘訓の勧(すゝめ)により、剳記を宮崎、林崎の両文庫に納(おさ)む。九月奉納書籍聚跋(ほうなふしよじやくしゆうばつ)に序す。十二月儒門空虚聚語(じゆもんくうきよしゆうご)に自序す。是年柏岡伝七、塩屋喜代蔵入門す。

2006年11月25日

望月千之

風になびく富士や絵に書紙幟

2006年05月21日

森田游水

直ぐ消えし富士の初雪空の紺

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2006年05月20日

森玲子

赤富士やちやぷちやぷ波の寄り来たり

富士山の殺げしド−ムに垂氷かな

富士山を放れ湾に向ひし鷲一羽

遥かより水湧き来たる富士の冷

森田峠

雲を脱ぐ富士が見えそめ避暑放歩

見えねども富士へ向けたる避暑の椅子

2006年05月19日

森岡正作

春疾風富士に深手のありにけり

大根を抜くたび富士と目が遇ひぬ

森下草城子

朝のガラスに富士がきており暗し

2006年05月18日

森澄雄

蒼茫と春のはやてに富士かすむ

湖より裾をしぼりて春の富士

2006年04月05日

森島久志

植ゑ終し田ごとに伊豆の逆さ富士

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森川許六

木枯らしやあとにひかゆるふじの山

2006年03月28日

森口住子

帰りには富士の初雪車窓にす

2006年03月07日

森川幸雄

「愛国行進曲」より
○見よ東海の空開けて
 旭日高く輝けば
 天地の正気溌溂と
 希望は躍る大八洲
 おお晴朗の朝雲に
 聳ゆる富士の姿こそ
 金甌無欠揺ぎなき
 わが日本の誇りなれ

※森川幸雄作詞/瀬戸口藤吉作曲
※3番あるうちの1番