森鴎外
「俳句と云ふもの」
○父は医書の外は何も読まない流儀の人であつた。詩や歌や俳句の本が偶有つたのは、皆祖父の遺物である。祖父は歌を一番好いてゐた。始て江戸に上る途中で、
おもひきやさしも名高き富士のねも
麓を雲の上に見んとは 綱浄
と云ふ歌をよんだ。それを福羽子爵が半折に書いて、
いと高きしらべなりけりふじのねに
これもおとらぬ君がことのは
と書き添へて贈られた掛物が残つてゐる。
「伊沢蘭軒」
茶山は其後九月中江戸にゐて、十月十三日に帰途に上つた。帰るに先(さきだ)つて諸家に招かれた中に古賀精里の新に賜つた屋敷へ、富士を見に往つたなどが、最も記念すべき佳会であつただらう。精里の此邸宅は今の麹町富士見町で、陸軍軍医学校のある処である。地名かへる原を取つて、精里は其楼を復原(ふくげん)と名づけた。茶山は江戸にゐた間、梅雨を中に挾んで、曇勝な日にのみ逢つてゐたので、此日に始て富士の全景を看た。
茶山は岡山、伊部、舞子、尼崎、石場、勢田、石部、桜川、大野、関、木曾川、万場、油井、薩陀峠、箱根山、六郷、大森等に鴻爪(かうさう)の痕を留めて東する。伊部を過ぎては「白髪満頭非故我、記不当日旧牛医」と云ひ、尼崎を過ぎては「輦下故人零落尽、蘭交唯有旧青山」と云ひ、又富士を望んでは「但為奇雲群在側、使人頻拭老眸看」と云ふ。到処今昔の感に堪へぬのであつた。
「大塩平八郎」
己は隠居してから心を著述に専(もつぱら)にして、古本大学刮目(こほんだいがくくわつもく)、洗心洞剳記(せんしんどうさつき)、同附録抄、儒門空虚聚語(じゆもんくうきよしゆうご)、孝経彙註(かうきやうゐちゆう)の刻本が次第に完成し、剳記(さつき)を富士山の石室(せきしつ)に蔵し、又足代権太夫弘訓(あじろごんたいふひろのり)の勧(すゝめ)によつて、宮崎、林崎の両文庫に納めて、学者としての志をも遂げたのだが、連年の飢饉、賤民の困窮を、目を塞いで見ずにはをられなかつた。
四年癸巳 平八郎四十一歳。四月洗心洞剳記(せんしんどうさつき)に自序し、これを刻す。頼余一に一本を貽(おく)る。又一本を佐藤坦(たひら)に寄せ、手書して志を言ふ。七月十七日富士山に登り、剳記を石室に蔵す。八月足代弘訓の勧(すゝめ)により、剳記を宮崎、林崎の両文庫に納(おさ)む。九月奉納書籍聚跋(ほうなふしよじやくしゆうばつ)に序す。十二月儒門空虚聚語(じゆもんくうきよしゆうご)に自序す。是年柏岡伝七、塩屋喜代蔵入門す。