« 2007年01月 | メインページへ | 2007年03月 »

2007年02月27日

野村清

暮夙(くれまだき)三保の浦廻に見のよきはほのに紅さす雪富士の峰

大越一男

山襞のかげをきはだてて雪白く春日の照れる華麗なる富士

2007年02月25日

真鍋美恵子

さやる雲の一ひらもあらず富士の裾はまたく展けたり湖の上に

2007年02月23日

山下陸奥

頂上に庵する人は岩積みて暗きが中に昼もこもれり

2007年02月21日

斎藤茂吉

富士がねに屯(たむろ)する雲はあやしかも甲斐がねうづみうごけるらしも


「三筋町界隈」
私は地図を書いてもらって徒歩で其処に訪ねて行った。二階の六畳一間で其処に中林梧竹翁の額が掛かっていて、そこから富士山が見える。私は富士山をそのときはじめて見た。夏の富士で雲なども一しょであったが、現実に富士山を見たときの少年の眼は一期を画したということになった。この画期ということは何も美麗な女体を見た時ばかりではない。山水といえども同じことである。

2007年02月19日

佐佐木信綱

日くらしに見れともあかすこゝにして富士は望むへし春の日秋の日

富士の雪にとしの初日はかがよへり我らもうけむこの年に幸あれ

神の代に天降りけむ天人のくましゝ水か白金の水

初春の真すみの空にましろなる曙の富士を仰ぎけるかも


「御殿場市歌」より
○大いなるかな 富士の心
 豊かなるかな 富士の姿
 日本の象徴 嶺めの山の
 生命を永遠に 継ぐもの我ら
 集いて成せば いよよ栄えん
 栄えんいよよ わが御殿場市

※佐佐木信綱作詞/信時潔作曲
※3番まであるうちの1番

2007年02月17日

松尾芭蕉

霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き

富士の山蚤が茶臼の覆かな

雲を根に富士は杉形の茂りかな

一尾根はしぐるる雲か富士の雪

富士の風や扇にのせて江戸土産

富士の雪慮生が夢を築かせたり

目にかかる時やことさら五月富士


「奥の細道」
弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から不二の峯幽にみえて、上野谷中の花の梢又いつかはと心ぼそし。
むつまじきかぎりは宵よりつどひて舟に乗て送る。千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて幻のちまたに離別の泪をそゝく。
   行春や鳥啼魚の目は泪

室の八島に詣す。同行曾良が曰、「此神は木の花さくや姫の神と申て富士一躰也」。無戸室に入て焼給ふちかひのみ中に、火々出見のみこと生れ給ひしより室の八島と申。又煙を読習し侍もこの謂也」。将、このしろといふ魚を禁ず。縁起の旨世に伝ふ事も侍し。


「野ざらし紀行」
崑崙は遠く聞き、蓬莱・方丈は仙の地なり。まのあたりに士峰地を抜きて蒼天を支へ、日月のために雲門を開くかと。向かふところ皆表にして、美景千変す。詩人も句を尽くさず、才子・文人も言を絶ち、画工も筆捨てて走る。若し藐姑射の山の神人有りて、其の詩を能くせんや、其の絵をよくせん歟。
  雲霧の暫時百景を尽しけり


「幻住庵の記」
比叡の山、比良の高根より、辛崎の松は霞をこめて、城あり、橋あり、釣たるる舟あり、笠取に通ふ木樵の声、ふもとの小田に早苗とる歌、蛍飛びかふ夕闇の空に水鶏のたたく音、美景物として足らずといふことなし。中にも三上山は士峰の俤に通ひて、武蔵野の古き住みかも思ひ出でられ、田上山に古人をかぞふ。

2007年02月15日

豊島与志雄

「女心の強ければ」
千代乃は座に戻ってきて、まだ硝子戸の方へ眼をやりながら言った。
「お酒は、もうよしましょうよ。霧がはれかかってきたようなの。裏山にでも登ってみましょうか。霧の上から富士山が見えてくるところは、きれいですよ。」
何を言ってることやら、気まぐれにも程がある、と長谷川は思った。裏山の頂からは富士山がよく見えたが、それももう彼には面白くなかった。


「ヒロシマの声」
理想の実現には長年月を要するだろう。だが地の利は得ている。太田川の七つに分岐してる清流が市街地を六つのデルタに区分し、北方は青山にかこまれ南方へ扇形をなして海に打ち開け、海上一里ほどの正面に安芸の小富士と呼ばるる似ノ島の優姿が峙ち、片方に宇品の港を抱き、その彼方は、大小の島々を浮べてる瀬戸内海である。ここに建設される平和都市の予見は楽しい。


「野ざらし」
「君は富士の裾野を旅したことがあるかい?」
「ありません。」と昌作はぼんやり答えた。
「僕は富士の裾野を旅してる所を夢に見たよ。そして実際に行ってみたくなった。富士の……幾つだったかね……五湖、七湖、八湖……あの幾つかの湖水めぐりって奴ね、素敵だよ、君。鈴をつけた馬に乗って、尾花の野原をしゃんしゃんしゃんとやるんだ。……河口湖ってのがあるだろう。その湖畔のホテルに大層な美人が居てね、或る西洋人と……多分フランス人と、夢のような而も熱烈な恋に落ちたなんてロマンスもあるそうだよ。

で、要するに、その頃僕の心は、可なり妻から離れて、或るやさしい魂を求めていたことだけは、君にもお分りでしょう。
 そういう心で僕は妻を眺めてみて――今迄よく見なかったものを初めてしみじみと眺める、といった風な心地で眺めてみて、喫驚したのです。何という老衰でしょう! 髪の毛は薄くなって、おまけに黒い艶がなくなっています。昔はくっきりとした富士額だったその生え際が、一本々々毛の数を数えられるほどになっています。顎全体がとげとげと骨張っていて、眼の縁や口の隅に無数の小皺が寄っています。


「「草野心平詩集」解説」
知性と感性との渾然たる融合、鮮明なるイメージ、豊潤奔放なる韻律など、心平さんの詩の特長は、そうやたらに存在し得るものではない。
 それからまた、心平さんのこれまでの詩業を通覧しても、特殊なものがある。たいていの詩人には、その詩集を以て名づけられる何時代というのがあるものだが、心平さんにはそのようなものは一向ない。例えば、その詩集を取ってきて、「母岩」時代とか、「大白道」時代とか、「日本沙漠」時代とか、そういうことを言ったならば、おかしいだろう。ばかりでなく、「蛙」の詩や「富士山」の詩は、十数年に亘って幾つとなく書き続けられたものである。恐らく今後もまだ続けられるだろう。

然し、天をじかの対象とせずとも、それを背景として、いろいろな表現が為され得る。その時、天の比重はさまざまになる。心平さんの近著「天」の後記の一節を見よう。
「数年前、私の天に就いての或る人のエッセイが詩の雑誌にのったことがあった。私はそれまで天というものを殊更に考えたことはなかったのだが、ふと……従来の詩集をひらいて天のでてくる作品に眼をとおした。あるあるあるある。私のいままで書いた作品の約七十パアセントに天がでてくる。」
富士山の詩を私は永いあいだ書いてきたように思うが、もともと富士山などというものは天を背景にしなければ存在しない。」

漸く「富士山」に辿りついた。
 心平さんは富士山の詩人とも言われる。十数年来、富士山の詩を幾つも書き続けてきたからだ。今後も続くことだろう。
 ところが、心平さんは富士山そのものだけを歌ってるのではない。存在を超えた無限なもの、日本の屋根、民族精神の無量の糧、として歌っているのだ。そして殊に、前に引用しておいた文章が示す通り、もともと富士山などというものは天を背景にして存在するのだ。
 斯くて、富士山はもはや象徴である。現実の富士山の姿態などは問題でない。けれども、象徴は具象を離れては存在しない。心平さんの富士山はやはり美しい。その美しさが、平面的でなく、掘り下げられ深められてるのを見るべきである。
 これらの作品に於て、知性と感性との比重がどうなっているか。比重の差は多少ともある。その差の少いもの程、すぐれた作品となすべきであろう。

心平さんは、富士山の詩人であるよりも、より多く「蛙」の詩人である。そしてここに於て、最も独特である。

富士山が象徴であるように、心平さんにとっては、蛙も一種の象徴である。一種の、と言うのは、富士山の場合と少しく意味合が異るからだ。心平さんは先ず蛙を、あくまでも蛙として追求する。時によっては客観的にさえ追求する。追求してるうちに、しぜんと、他のものが付加されてゆく。何が付加されるか。それは、蛙自体の成長そのものだ。よそから、持って来られたものではない。蛙自体が成長して、やがて、人間と肩を並べる。蛙の本質的脱皮だ。蛙はあくまでも蛙だが、もはや昔日の蛙ではない。そこに、一つの世界が創造される。


「風俗時評」
箱根、日光、富士山麓、軽井沢など、自然の美と交通の便宜とに恵まれた土地の、安易なホテルのホールなんかでは、よく、家族か親しい仲間かの数人の、午後のお茶の集りが見受けられる。その中で、欧米の白人の連中は、いろんな意味で人目を惹く。大抵、彼等の体躯は逞ましく、色艶もよい。眼は生々と輝き、挙措動作は軽快で、溌剌たる会話が際限もなく続く。心身ともに、精力の充溢があるようである。之に比較すると、日本人のそうした集りには、あらゆる点に活気が乏しい。見ようによっては病身らしく思える身体を、椅子にぎごちなくもたせて、動作は鈍く、黙りがちにぼんやりしている。精力の発露などはあまり見られない。

2007年02月13日

佐藤垢石

「榛名湖の公魚釣り」
榛名富士、相馬山、ヤセオネ、天神峠に囲まれた、広いなだらかな火口原の野の末に、描いたような枯れ林を水際に映した美しい榛名湖で、公魚を釣る気分はまことに愉快である。
 しかし氷の穴から釣るよりも、水に舟を浮かべて釣る方が面白い。すべて脈釣りで、ここ独特の仕掛けである。


「香魚の讃」
鮎の多摩川が、東京上水道のために清冽な水を失った近年、関東地方で代表的な釣り場とされているのは相模川である。富士山麓の山中湖から源を発して三、四十里、相州の馬入村で太平洋へ注ぐまで、流れは奔馬(ほんば)のように峡谷を走っている。中にも、甲州地内猿橋から上野原まで、また相州地内の津久井の流水に棲む鮎は、驚くほど形が大きい。

酒匂川も捨て難い。二宮尊徳翁の故郷、栢山村を中心として釣りめぐれば殊のほか足場がよろしいのである。この川もまた震災後はじめての大遡上であると、沿岸の漁師が喜んでいるほど鮎が多い。鬼柳の堰に、メスのように光る若鮎が躍っている。足柄山の尾根をきった空に、富士の白い頂が釣り人を覗いているではないか。


「想い出」
私は、黙ってその場を立って、自分の竿のあるところへ行き、道具をかたして堤防の上へ登った。広々として、果てしのない酒匂の河原を望んだ。足柄村の点々とした家を隔てて、久野の山から道了山の方へ、緑の林が続いている。金時山の肩から片側出した富士の頂は、残雪がまだ厚いのであろう、冴えたように白い。遠く眺める明星ヶ岳や、双子山の山肌を包む草むらは、まだ若葉へもえたったばかりであるかも知れない。やわらかい浅緑が、真昼の陽に輝いている。


「濁酒を恋う」
けれど、現在世の中にあるおいしい酒というのはすべて味わい尽くしたから、この頃では昔上方にあったという『富士見酒』の味を想像して、舌に唾液をからませている。『富士見酒』というのは、糟丘亭が書いた百万塔のひともと草に出ている。百万塔は百家説林のように、各家の随筆を収録したもので文化三年に編粋され、ひともと草はそのうちの一篇であるが、糟丘亭は上条八太郎の筆名だと聞く。
 酒の初まれるや、久方のあめつちにも、その名はいみじき物を、ことごとしくにくめり云ふもあれど、おのづから捨てがたき折ともよろづに興をそふるともをかしく、罪ゆるさるる物とも嬉しとも、いきいきしともいへり。この物つくれる事のひろこりゆけば、いづこにすめるも濁れるもあれど、過し慶長四年とや、伊丹なる鴻池の醸を下しそめけるより、この大江戸にわたれるは、ことところ異りて味も薫もになくにぞ、世にもて賞するある。その頃は馬にておくりたるを、いつよりか舟にてあまた積もてくだせる事にはなれる。その国にさへ一二樽残してもてかへり、富士見となん賞しけるとぞ(下略)。
 蜀山人の就牘(しゅうとく)には、
 当地は池田伊丹近くて、酒の性猛烈に候。乍去宿酔なし、地酒は調合ものにてあしく候。此間江戸より酒一樽船廻しにて富士を二度見候ゆへ二望嶽と名付置申候。本名は白雪と申候。至って和らかにて宜敷聯句馬生に対酌――などとある。これは昔、酒樽を灘から船で積み出し、遠州灘や相模灘で富士の姿をながめながら江戸へ着き、その積んで行った樽のうち二、三本をさらに灘へ積み返し、上方の酒仙たちの愛用に供したから、富士見酒と言ったものであろう。
 柳多留四十二篇に、
   男山舟で見逢のさくや姫
 という川柳があるが、これは長唄の春昔由縁英(はるはむかしゆかりのはなぶさ)のうちの白酒売りの文句に『お腰の物は船宿の戸棚の内に霧酒、笹の一夜を呉竹の、くねには癖の男山』とある銘酒。この男山と富士の女神かぐや姫が舟で見逢いをする、としゃれて詠んだのかも知れない。


「わが童心」
それは、赤城と榛名の姿を探し求めたのである。しかしながら、わが求むる赤城と榛名は、いつも秋霞の奥の奥に低く塗りこめられて、つれなくも私の視界に映らない。ただ近く秩父の山々が重畳と紫紺の色に連なり、山脈が尽きるあたりの野の果てに頂をちょんぼり白く染めた富士山が立っていた。
大根畑の傍らへ、朝も夕も通ったが、とうとう故郷の山を望み得なかった。もう堪らない。

私は、五月から六月上旬へかけての赤城が一番好きだ。十里にも余るあの長い広い裾を引いた趣は、富士山か甲州の八ヶ岳にも比べられよう。麓の前橋あたりに春が徂(ゆ)くと赤城の裾は下の方から、一日ごとに上の方へ、少しばかりずつ、淡緑の彩が拡がってゆく。

榛名は赤城に比べると、全体の姿といい、肌のこまやかさ、線の細さなど、女性的といえるかも知れない。東から船尾、二つ岳、相馬山、榛名、富士と西へ順序よく並んで聳えるが、どの峰もやわらかな調和を失わない。そして、それぞれが天空に美しく彫りつけたような特色を持っているけれど、敢て奇嬌ではない。
まず、榛名は麗峰と呼んで日本全国に数多くはあるまいと思う。

2007年02月11日

野中千代子

頂きは人しなければニはしら降りし御世の心地こそすれ

夏山は何れの人か踏初(ふみそめ)し雪の高ねはわれぞ分ぬる

うた人の眺めのみせしふじのねを御代の光りとなさましものを

国々の海山かけし大庭をわがもの顔に眺めあかしつ

富士のねの雪にかばねは埋むとも留め置まし日本(やまと)だましひ

露茶にも味が出るうへふえはするお客も室も共によろ昆布(こぶ)

観測のランプピカ/\よもすがらうろつくわれは蛍なりけり

夜日とも眠りもやらでゐるわれはいたるにあらで蛍なりけり

たとへ身は増荒(ますら)おの子にあらずとも尽す心はをとらじものを

姫神のいます御山に登りしはいかなるえにしありてなるらむ

姫神と聞もなつかし皇国(すめらぎ)に尽すわれをば守りたまへや

さなぎだに白露しげき裾野にて人のなさけに袖しぼるらん

2007年02月09日

野中到(野中至)

富士の嶺を仰ぎて見れば雲かゝる行手の道も遠くもあるかな

秋寒きふじの裾野の夕暮は行手ながくもおもほゆるかな

しら雪に埋もるゝ不二の頂を今ぞ初めて踏み分けにける

おなじみの風の御神はけふはなど山の神をば吹飛ばしけん

祝ひ日のもちどころでなくやっとかゆすゝりし上に風くらひけり

ふじのねの雪の朝(あし)たの頂きをわれのみしめて住ゐぬるかな

しら雪に埋るゝ富士の頂きをげに心ある人に見せばや

しろがねにつゝみし富士の頂きは此世(このよ)の外の心地こそすれ

あられ飛(とび)風すさまじく降(ふる)雪に埋るゝ今朝の富士の頂き

あらこまを乗しづめたるのちならばうしの背なかは安けからまし

慾ばりてやかんあたまの刷毛おやぢ金に付たら迚(とて)もはなれず

2007年02月07日

梶井基次郎

「闇への書」
すると知識と視覺との間にはあんなにも美しい神祕が存在するのか。
私は以前に芭蕉の
   霧時雨不二を見ぬ日ぞ面白き
の句に非常に胸を打たれたことを思ひ出した。さうかも知れない。


「路上」
ある日曜、訪ねて来た友人と市中へ出るのでいつもの阪(さか)を登った。
「ここを登りつめた空地ね、あすこから富士がよく見えたんだよ」と自分は言った。
 富士がよく見えたのも立春までであった。午前は雪に被われ陽に輝いた姿が丹沢山の上に見えていた。夕方になって陽がかなたへ傾くと、富士も丹沢山も一様の影絵を、茜の空に写すのであった。
 ――吾々は「扇を倒(さかさ)にした形」だとか「摺鉢(すりばち)を伏せたような形」だとかあまり富士の形ばかりを見過ぎている。あの広い裾野を持ち、あの高さを持った富士の容積、高まりが想像でき、その実感が持てるようになったら、どうだろう――そんなことを念じながら日に何度も富士を見たがった、冬の頃の自分の、自然に対して持った情熱の激しさを、今は振り返るような気持であった。

2007年02月05日

柴田流星

「残されたる江戸」の「木やり唄」より
「めでためでた」の本唄はさらなり、「不二の白雪や旭で解ける――」の木やりくずしまで、唄の数は二十幾つにも及ぶが節は元よりたった一つ、多少の崩れは三味線に合わすとてのそれ者が振舞い、そこにいずれはないでもないが、吾儕の心を誘(そそ)りゆいて、趣味の巷にこれ三昧の他事なきに至らしむる、また以て忘機の具となすに足るべきではあるまいか。

2007年02月03日

国枝史郎

「剣侠」
「おや、ありゃア源女じゃアないか」
驚いて浪之助は口の中で叫んだ。
娘太夫は源女のお組、それに相違ないからであった。
瓜実顔、富士額、薄い受口、切長の眼、源女に相違ないのであった。ただ思いなしか一年前より、痩せて衰えているようであった。

人形ではなく生ける人間で、しかもそれは澄江であった。
富士額、地蔵眉、墨を塗ったのではあるまいかと、疑われるほどに濃い睫毛で、下眼瞼を色づけたまま、閉ざされている切長の眼、延々とした高い鼻、蒼褪め窶れてはいたけれど、なお処女としての美しさを持った、そういう顔が猿轡で、口を蔽われているのであった。


「北斎と幽霊」
これが江戸中の評判となり彼は一朝にして有名となった。彼は初めて自信を得た。続々名作を発表した。「富士百景」「狐の嫁入り」「百人一首絵物語」「北斎漫画」「朝鮮征伐」「庭訓往来」「北斎画譜」――いずれも充分芸術的でそうして非常に独創的であった。


「十二神貝十郎手柄話」
こんなことを思いながら、貝十郎は見送った。と、その時、「あづま」の門へ、姿を現わした女があった。へへり頤、二重瞼、富士額、豊かな頬、肉厚の高い鼻。……そういう顔をした女であって、肉感的の存在であったが、心はそれと反対なのであろう。全体はかえって精神的であった。
(ここの娘のお品だな、相いも変らず美しいものだ)

いつの間にそこへ来ていたものか、山深い木曽の土地などでは、とうてい見ることの出来ないような、洗い上げた婀娜(あだ)な二十五、六の女が、銚子を持って坐っていた。三白眼だけは傷であったが、富士額の細面、それでいて頬肉の豊かの顔、唇など艶があってとけそうである。坐っている腰から股のあたりへかけて、ねばっこい蜒(うね)りが蜒っていて、それだけでも男を恍惚(うっとり)させた。


「南蛮秘話森右近丸」
こう云ったのは女である。二十八九か三十か、ざっとその辺りの年格好、いやらしく仇(あだ)っぽい美人である。柄小さく、痩せぎすである。で顔なども細長い。棘のように険しくて高い鼻、小柄の刃先とでも云いたげな、鋭い光ある切長の眼、唇は薄く病的に赤く、髪を束ねて頸(うなじ)へ落とし、キュッと簪(かんざし)で止めてある。額は狭く富士形である。その顔色に至っては白さを通り越して寧ろ蒼く、これも広袖を纏っている。一見香具師の女親方、膝を崩してベッタリと、男の前に坐っている。


「怪しの館」
葉末という娘の風采が、ボッと眼の前へ浮かんで来た。月の光で見たのだから、門前ではハッキリ判らなかったが、燈火の明るい家の中へはいり、旗二郎を父親へひきあわせ、スルリと奥へひっ込んだまでに、見て取った彼女の顔形は、全く美しいものであった。キッパリとした富士額、生え際の濃さは珍らしいほどで、鬘を冠っているのかもしれない、そんなように思われたほどである。


「戯作者」
「へえ、こいつア驚いた。いやどうも早手廻しで。ぜっぴ江戸ッ子はこうなくちゃならねえ。こいつア大きに気に入りやした。ははあ題して『壬生(みぶ)狂言』……ようごす、一つ拝見しやしょう。五六日経っておいでなせえ」
 で、武士は帰って行ったが、この武士こそ他ならぬ後年の曲亭馬琴であった。
「来て見れば左程でもなし富士の山。江戸で名高い山東庵京伝も思ったより薄っぺらな男ではあった」
 これが馬琴の眼にうつった山東京伝の印象であった。


「甲州鎮撫隊」
「近藤殿の命(めい)でのう」
「何時(いつ)?」
「江戸への帰途。……紀州沖で……富士山艦で、書面(ふみ)に認(したた)め……」
「左様ならって……」
「うん」
「可哀そうに」
「大丈夫たる者が、一婦人の色香に迷ったでは、将来、大事を誤ると、近藤殿に云われたので」

「まア、甲府の方へ! それでは、沖田様も! 沖田総司様も!」
 悲痛といってもよいような、然ういう娘の声を聞いて、お力は改めて、相手をつくづくと見た、娘は十八九で、面長の富士額の初々しい顔の持主で、長旅でもつづけて来たのか、甲斐絹(かいき)の脚袢には、塵埃(ほこり)が滲(にじ)んでいた。


「鵞湖仙人」
意外! 歌声が湧き起った。
   武士のあわれなる
   あわれなる武士の将
   霊こそは悲しけれ
   うずもれしその柩
   在りし頃たたかいぬ
   いまは無し古骨の地
   下ざまの愚なる
   つつしめよ。おお必ず
   不二の山しらたえや
   きよらとも、あわれ浄(きよ)し
   不二の山しらたえや
   しらたえや、むべも可
   建てしいさおし。
訳のわからない歌であった。しかし其節は悲し気であった。くり返しくり返し歌う声がした。そうして歌い振りに抑揚があった。或所は力を入れ或所は力を抜いた。

周囲四里とは現代のこと、慶安年間の諏訪の湖水は、もっと広かったに違いない。
  信濃なる衣ヶ崎に来てみれば
      富士の上漕ぐあまの釣船
西行法師の歌だというが、決して決してそんな事は無い。歌聖西行法師たるもの、こんなつまらない類型的の歌を、なんで臆面も無く読むものか。
が、併し、衣ヶ崎は諏訪湖中での絶景である。富士が逆さにうつるのである。その上を釣船が漕ぐのである。その衣ヶ崎が正面に見えた。

2007年02月01日

横瀬夜雨

「春」
山の春の期待に澱みなくふくらんでゐる、裸の木で春早く囀るは四十雀だ。常陸野は明るい。筑波は近く富士は遠く、筑波の煙は紫に、富士の雪は白い。風はあつても、枝々をやんわり撫でて行くに過ぎぬ。


「花守」
小貝川は村端れから一二丁のところです。新川と古川との間に島がある。一面豐腴の畠地でこれから筑波山は手のひらで撫でゝ見たい位、日に七度かはるといふ紫も鮮かに數へられます。夕景に成て空が澄み渡ると、金星のかゞやく下に幻影(まぼろし)のやうな不二が浮びます。

さゝべり淡き富士が根
百里の風に隔てられ
麓に靡く秋篠の
中に暮れ行く葦穗山

富士を仰ぎて
○大野の極み草枯れて
 火は燃え易くなりにけり
 水せゝらがず鳥啼かず
 動くは低き煙のみ
○落日力弱くして
 森の木の間にかゝれども
 靜にうつる空の色
 翠はやゝに淡くして
○八雲うするゝ南に
 漂ふ塵のをさまりて
 雪の冠を戴ける
 富士の高根はあらはれぬ