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梶井基次郎

「闇への書」
すると知識と視覺との間にはあんなにも美しい神祕が存在するのか。
私は以前に芭蕉の
   霧時雨不二を見ぬ日ぞ面白き
の句に非常に胸を打たれたことを思ひ出した。さうかも知れない。


「路上」
ある日曜、訪ねて来た友人と市中へ出るのでいつもの阪(さか)を登った。
「ここを登りつめた空地ね、あすこから富士がよく見えたんだよ」と自分は言った。
 富士がよく見えたのも立春までであった。午前は雪に被われ陽に輝いた姿が丹沢山の上に見えていた。夕方になって陽がかなたへ傾くと、富士も丹沢山も一様の影絵を、茜の空に写すのであった。
 ――吾々は「扇を倒(さかさ)にした形」だとか「摺鉢(すりばち)を伏せたような形」だとかあまり富士の形ばかりを見過ぎている。あの広い裾野を持ち、あの高さを持った富士の容積、高まりが想像でき、その実感が持てるようになったら、どうだろう――そんなことを念じながら日に何度も富士を見たがった、冬の頃の自分の、自然に対して持った情熱の激しさを、今は振り返るような気持であった。