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2007年08月05日

水谷まさる

「白いマント」
○富士山が
 富士山が
 白いマントを
 ぬいぢやつた。おや、ぬいぢやつた。
○今日見りや白い
 帽子だけ
 横つちよかぶりに
 かぶつてた。おや、かぶつてた。
○富士山の
 富士山の
 白いマントは
 どうしたろ、おや、どうしたろ。
○おてんとさんと
 春風が
 どつかへ隱して
 知らぬ顏、おや、知らぬ顏。

※「歌時計」(童謠集)より

2007年07月29日

南信一

「静岡県富士市立須津小学校 校歌」
○富士の嶺に 雪晴れて
 行かよう 雲は白し
 朝鳥の 朝かけるごと
 はつらつと あふるるちから
 友よ明るく 誇りもて
 身も魂も 鍛えん
 ああ われら 須津小学校

※3番あるうちの2番
※作詞南信一/作曲栗田国彦

2007年07月02日

密門令子

祭神は女神赤富士紅の濃き

赤富士に色失へる名残月

2007年06月12日

三浦勲

赤富士の病む身を浄む刻一刻

2007年05月28日

都乃錦(都の錦)

「元禄曾我物語」(東海道敵討)
上は錦の玉だれの中 下は鍛冶屋の三蔵までこふした紋は能ッく御存の事。其源は伊東が邪水よりをこつて 河津が相撲の手に流れ 末は富士野ゝ雪ときえにし貧乏神のむかし語り。

2007年05月08日

水野節子

赤富士の幸先のよし明の春

2007年04月08日

源実朝

富士の嶺の煙も空に立つものをなどか思ひの下に燃ゆらむ

2007年04月04日

源頼朝(前右大将頼朝)

道すから富士の煙も分かさりきはるゝまもなき空の気色に
※新古今和歌集975

2006年11月24日

宮川正由

編笠の雪やさながら富士の山

2006年08月12日

南俊郎

五月富士出窓の多き子の新居

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2006年08月11日

道川虹洋

午後よりは磯波荒し富士薊

2006年05月28日

水原春郎

八月の富士のくろがね敗戦日

ことごとく枯れ恭順の富士薊

2006年05月27日

水原秋桜子

獅子舞は入日の富士に手をかざす

眠る山或日は富士を重ねけり

初不二を枯草山の肩に見つ

初冨士の海より立てり峠越

初冨士の浦曲をわたる雲

初富士の見出でし岨の氷柱かな

富士つつみ立つは大寒の入日雲

風ひびき立冬の不二痩せて立つ

富士しろし百舌鳥が呼びたる空の青

鯊釣や不二暮れそめて手を洗ふ

朝霧に岩場削ぎ立つ富士薊

碧天や雪煙たつ弥生富士

黄塵の野面の隅に雪の富士

重陽の山里にして不二立てり

獅子舞は入日の富士に手をかざす

朝の蝉富士のくれなゐ褪せゆけり

波郷忌や富士玲瓏の道行きて

百舌鳥鳴けり小さき富士がまぶしくて

秋耕や富士をさへぎる山もなく

雪の富士立てり嘆きの夜ぞ明くる

風呂吹や曾て練馬の雪の不二

2006年04月29日

三橋敏雄

裏富士は鴎を知らず魂まつり

海風や次第に雪の表富士

三橋敏雄について

三木十柿

秋夕焼不二の黒さを残しけり

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三上良朗

蕎麦刈つて富士は根雪となりにけり

三好達治

艸木瓜や山火事ちかく富士とほし

2006年04月22日

溝俣炬火

纏ひゆく三保の松影富士雪解

2006年04月21日

明空

「宴曲抄」より
望月の駒牽(ひき)かくる布引の
山の違(そがひ)に見ゆるは 
海野白鳥(しろとり)飛鳥(とぶとり)の 
飛鳥(あすか)の川にあらねども 
岩下かはる落合や 
淵は瀬になるたぐひならん 
富士の根の姿に似たるか塩尻
赤池坂木柏崎 
同(おなじ)雲居の月なれど 
何の里もかくばかり

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2006年04月18日

宮原勉

雪の野の上に見えつつ富士ヶ嶺はくろずむ雲とともに黒ずむ

2006年04月17日

宮下翠舟

奔放に雲をぬぎすて葉月富士

星ぞらに下田富士あり梅匂ふ

邯鄲の闇もて富士を塗りつぶす

2006年04月13日

南沢よね子

冬の湖波立ち逆さ富士見せず

2006年04月01日

三谷貞雄

練馬野や家あれば梅富士を遠く

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三角和夫

待宵やいつしか黒き富士となる

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2006年03月25日

皆吉爽雨

一本の襞初富士を支えたる

富士浮沈しつつ大寒林をゆく

遅月に富士ありキャンプ寝しづまり

富士雪解せり宝永は終んぬる

狐火のそのとき富士も空に顕つ

富士あざみより絮ひとつ小春空

着ぶくれて見かへる時の富士かしぐ

初富士の秀をたまゆらに山路ゆく

2006年03月17日

宮津昭彦

滝に森に人あそばしめ雪解富士

山椒の棘やはらかし雪解富士

2006年02月24日

三角錫子

「七里ケ浜の哀歌」(真白き富士の根
真白き富士の根 緑の江の島
仰ぎ見るも 今は涙
帰らぬ十二の 雄々しきみたまに
捧げまつる 胸と心

ボートは沈みぬ 千尋の海原
風も浪も 小さき腕に
力もつきはて 呼ぶ名は父母
恨(うらみ)は深し 七里が浜辺

み雪は咽(むせ)びぬ 風さえ騒ぎて
月も星も 影をひそめ
みたまよ何処(いずこ)に 迷いておわすか
帰れ早く 母の胸に

みそらにかがやく 朝日のみ光り
暗(やみ)にしずむ 親の心
黄金(こがね)も宝も 何しに集めん
神よ早く 我も召せよ

雲間に昇りし 昨日の月影
今は見えぬ 人の姿
悲しさ余りて 寝られぬ枕に
響く波の おとも高し

帰らぬ浪路(なみじ)に 友よぶ千鳥に
我もこいし 失せし人よ
尽きせぬ恨(うらみ)に 泣くねは共々
今日もあすも 斯(か)くてとわに

※三角錫子作詞・Jeremiah Ingalls作曲
解説

水上瀧太郎

「山を想ふ」
  富士の嶺はをみなも登り水無月の氷のなかに尿垂るとふ
與謝野寛氏の歌だ。近頃の山登の流行は素晴しい。斷髮洋裝で舞踏場に出入し、西洋人に身を任せる事を競ふ女と共に、新興國の産物である。一國の文化に古びがついて來ると、人々は無闇に流行を追はなくなるが、國を擧げてモダアンといふ言葉に不當の値打をつけてゐる心根のはびこる限り、生理的に山などへ登つてはいけない時期にある娘もいつしよになつて神域を汚す事は、活動寫眞じこみの身振と共にすたらないであらう。高きに登りて小便をする程壯快な事は無いと云つた人があるが、女もその快感を味ははんが爲めに、汗臭くなつて健脚をほこり、土踏まずの無い足で富士の嶺を踏つけ、日本アルプスを蹴飛ばすのか。

年齡の關係か、年々海よりも山の姿に心が向くやうになつた。むかし富士山に登つた時、砂走で轉んで擦(すり)むいた膝子(ひざつこ)の傷痕を撫でながら、日本晴の空にそそり立つ此の國の山々の姿を想ひ描くのである。
山といふと、私は第一に淺間山をなつかしく思ふ。燒土ばかりの富士の山は、遙かに下界から仰ぎ見るをよしとする。空氣の固く冷たい信濃の高原の落葉松(からまつ)の林の向うに烟を吐く淺間は生きて居る。詩がある。私はまだ、山の彼方に幸ひの國があると夢見てゐた少年の日に登つた。

雲を破つて日が登つた。もくもくと湧く白雲の海の向うに、はつきりと富士山が見えた。岩のかげから、拍手が起つた。吾々より後から小屋に來て、先に出た連中だつた。

宮沢賢治

「文語詩稿 一百篇」
浮世絵
ましろなる塔の地階に、 さくらばなけむりかざせば、
やるせなみプジェー神父は、 とりいでぬにせの赤富士
青瓊(ぬ)玉かゞやく天に、 れいろうの瞳をこらし、
これはこれ悪業(あく)乎(か)栄光(さかえ)乎(か)、 かぎすます北斎の雪。


「春と修羅」
雲は白いし農夫はわたしをまつてゐる
またあるきだす(縮れてぎらぎらの雲)
トツパースの雨の高みから
けらを着た女の子がふたりくる
シベリヤ風に赤いきれをかぶり
まつすぐにいそいでやつてくる
(Miss Robin)働きにきてゐるのだ
農夫は富士見の飛脚のやうに
笠をかしげて立つて待ち
白い手甲さへはめてゐる もう二十米だから
しばらくあるきださないでくれ
じぶんだけせつかく待つてゐても
用がなくてはこまるとおもつて
あんなにぐらぐらゆれるのだ

宮本百合子

「なつかしい仲間」
マア、おけいちゃん! 手をつかまえて、玄関のわきの自分の小部屋へ入って、膝をつきつけて、どうしたのよ、手紙もよこさないで、と云うと、おけいちゃんは富士額の生えぎわを傾けて、やはりおとなしく御免なさいね、とあやまるのであった。そして、ゆっくりした口調で、私神戸の方へ行っていたの、と云った。


「二つの庭」
けれども、佐々の家には一軒の貸家も、収入となる一ヵ所の地所もなかった。それがあれば、ひとりでに儲かってゆくというような家とか地面とかをためていなかった。そういう点で泰造の生活態度は仕事に自信のある技術家らしい淡白さだった。多計代がむしろそういう点に用心ぶかさと積極性をもっていた。それにしろ十何年も昔、多計代がひどく意気込んで雪の日に見に行って買った北多摩の地面は、四季を通じてそこから富士が素晴らしくよく見えるというのがとりえなばかりで、地価さえろくにあがらず、今だに麦畑のままであった。


「国際観光局の映画試写会」
五月十九日の朝。日比谷映画劇場へ、国際観光局の映画の試写を見に行った。「富士山」、「日本の女性」。
そのとき挨拶をしたのは観光局の役人で、スマートなダブルの左右のポケットへ両手の先を入れた姿勢でラウドスピイカアの前へ立ち、この二つの作品では特別音楽に力を注いだということの説明があった。


「実感への求め」
先月、日比谷映画劇場で、国際観光局が海外宣伝映画試写会をもよおした。「富士山」と「日本の女性」という二つの作品で、其映画のはじまる前に、映画製作に直接関係した課の長にあたる人の挨拶があった。これまでの日本の映画音楽がよくなかったので、この二つには特に新進の作曲家たちの労作を得た。


「小祝の一家」
祖父ちゃんとミツ子を紐でおんぶった祖母ちゃんとが、火葬場からアヤのお骨をひろってかえって来た。
祖母ちゃんは、戸棚の奥へ風呂敷包みをつみかえ、前の方だけあけ、そこへ水色の富士絹の風呂敷をひろげてアヤのお骨壺をのせた。


「山峡新春」
なるほど天城街道は歩くによい道だ。右は冬枯れの喬木に埋った深い谷。小さい告知板がところどころに建っていて、第×林区、広田兵治など書いてある。その、炭焼きか山番かであろう男が一人いる処は、向う山か、遙かな天城山の奥か。
或る角で振返ったら、いつか背後に眺望が展け、連山の彼方に富士が見えた。頂の雪は白皚々、それ故晴れた空は一きわ碧く濃やかに眺められ、爽やかに冷たい正月の風は悉くそこから流れて来るように思えた。


「播州平野」
東京を立つ前、ひろ子は土産ものをさがして銀座の三越へ入った。がらん洞に焼けた地階のほんの一部分だけを、ベニヤ板や間に合わせのショウ・ケースで区切って、当座の売場にしてあった。紙につつんだ丈の口紅や、紙袋入りの白粉が並べられたりしている。一方の隅に、アメリカのどんな避暑地にある日本土産品店よりも貧弱な日本品陳列場が出来ていた。白樺のへぎに、粗悪な絵具で京舞妓や富士山を描いた壁飾。けばけばしい色どりで胡魔化した大扇。ショウ・ケースに納められているのは、焼けのこったどこからか集めて来た観光客向の縮緬(ちりめん)紙に印刷された広重の画や三つ目小僧がつづらから首を出している舌切雀のお伽草子類である。


「村の三代」
三春富士と安達太郎山などの見えるところに昔大きい草地があった。そして、その草地で時々鎌戦さが行われた。あっち側からとこっち側からと草刈りに来る村人たちは大方領主がそれぞれちがっていて、地境にある草地の草を、どっちが先に刈るかというような争いから、丁髷を振り立てて鎌戦さになることがあったのだろう。

まだ荒漠としている開墾の遙か彼方の山並の上に三春富士を眺め、その下に連る古い町々の人煙を見ながら、松林の中へ三層楼の役場を建てた当時の人々の感情のなかには、明治というものがどんなに明るく、広く、真直な美しさをもってうちひらけ、描かれていたかが実に髣髴とするようである。


「正義の花の環――一九四八年のメーデー――」
去年十二月下旬日本銀行の紙幣発行高は、凡そ二〇〇〇億円であった。この二千億という紙幣を百円札で八割、十円札二割とすると、面積六六万平方キロ。長さ八二万キロで地球のまわりの長さの二十倍。高さ富士山の百二十倍。この二千億を日本の総人口七千万と仮定すると一人が三千円ずつもっていられるはずである。ところが、実際にはどこへ金が吸いこまれてしまっているのだろう。正業にしたがっているものは、税、税の苦しみで、片山首相が「間借り」で都民税一二〇円ですましていられたことを羨んだ。


「獄中への手紙」一九三七年(昭和十二年)
この家は、同じ方角できっといい月が眺められるでしょう。きのうあたり夕月がきれいでした。晴天だと、遠く西日のさす頃、富士も見えます。

正月早く、あなたには突然のように私が引越したのは、Nが正月頃傾向がわるく家をあけ(飲んで)そういうときは私が煙ったく、煙ったいと猶グレるので、Kのやりかたがむずかしいこともありありと分って一層早くうつったのでした。この目白の家が割合よかったこともあって。ここは、先の家の一つ先の横丁を右に入った右の角のところで、小さい家です。でも、夕刻晴天だと富士が見えます。交通費がやすくすむので何より助かります。バスで裁判所や市ヶ谷へゆけるの。

八月二十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(国立公園富士箱根大涌谷の絵はがき)〕

十月十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(琴平名所の金比羅高台より讚岐富士を望む絵はがき)〕


「獄中への手紙」一九四〇年(昭和十五年)
二月九日  第十三信
うちの時計が十三分ばかり進んでいるらしいけれども、午後の四時すこしすぎ。
きょうは西の方に真白い富士がよく見えました。とけのこった雪が家々の北側の屋根瓦や軒に僅ずつのこっていて、そこをわたって来る風はつめたいけれども日光は暖い、いかにも早春のような日和です。

おや多賀ちゃんがかえって来た、困った、富士もサクラもないらしい。今夕わかりますが。では又ね、呉々お大切に。

けさのこの小散歩でやっと田舎に来たらしい気になりました。多賀子はこれから広島へゆきます、例のお話していたたか子の友達ね、あのひとにあって、大体の意中をきくために。ついでにみやげのレモンを買い、東京迄の寝台券を買うために。十三日の寝台で十四日朝ついて、すぐそちらに行くしかないことになりましたから。サクラ、富士、どっちも駄目ですから。東京からの汽車はまだいくらかましですが、こちらから東京へは全くひどいこみようです、寝台もあるかしら。これさえあやしいのです。全くお話の外です。

八月三十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(国立公園富士・三保松原の写真絵はがき)〕

九月七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(○満州国民衆風俗「路傍の肉屋」、○国立公園富士・鈴川より「橋畔に立ちて」、○国立公園富士・清水港より「港から」の写真絵はがき)〕


「獄中への手紙」一九四三年(昭和十八年)
一月三日 〔豊島区西巣鴨一ノ三二七七巣鴨拘置所の宮本顕治宛 本郷区林町二十一より(代筆 牧野虎雄筆「春の富士」の絵はがき)〕

藤田嗣治の絵は、変にアジア人の特徴を出して、泥色の皮膚をした芸者なんか描いていていやでしたが、国男さんが十七年版の美術年鑑を買ったのを見たらば、そこに戦争絵がアリ、原野の戦車戦、ある山嶽の攻略戦等の絵がありました。目をひかれたのは、藤田が昔の日本人の合戦絵巻、土佐派の合戦絵図の筆法を研究して、構成を或る意味で装飾的に扱っていることです。更に気がついたのは、その構成にある大きさ、ゆとり、充実感が、こういう絵の求めるわが方の威力というものを表現する上に実に効果をあげています。山嶽攻略なんか、北斎の富士からヒントでも得たかと思うほど、むこうの山を押し出して、山の圧力が逆作用でこちらの圧力を転化する構成です。


「獄中への手紙」一九四五年(昭和二十年)
さて、きょうは三十一日になりました。朝八時すぎにこうした手紙をかきはじめるというようなことは珍しゅうございます。けさ八時に国が富士というところへゆくために出発したのでこんな時間が出来ました。

けさは七時すぎサイレンで起きましたが、ありがたいことに来ず。又午後かしら。午後はBだからいやね。動坂の家の先に富士神社があったでしょう、きのう以来、あのあたりもあったところということになりました。うちのすぐ前の交番の横通り。こんどはあすこよ。なかなかでしょう? 昨夜は、ローソク生活でした。今夜つくかしら。水道・ガスなしです。そちらは灯つきましたろうか。


「禰宜様宮田」
ところどころ崩れ落ちて、水に浸っている堤の後からは、ズーとなだらかな丘陵が彼方の山並みまで続いて、ちょうど指で摘み上げたような低い山々の上には、見事な吾妻富士の一帯が他に抽(ぬきん)でて聳(そび)えている。
色彩に乏しい北国の天地に、今雪解にかかっているこの山の姿ばかりは、まったく素晴らしい美しさをもって、あらゆるものの歎美の的となっているのである。


「舗道」
エスペラントの講習会はそこの一室である。
ミサ子が富士絹の風呂敷づつみを抱え、ソッとドアをあけて入って行くと、荒板を打ちつけて拵えたベンチにかたまって板をしわらせながらかけている連中の中から菅が、
「ヤア……ちょうどいいところだ、早く来なさい。みんな食っちまうヨ!」
と大きな晴ればれした声で呼びかけた。


「道標」
「ああいう連中はね」
川瀬勇が、云った。
「下宿の神さんや娘や、その他おなじみの女たちに、せいぜい刺繍したハンカチーフだの何だのやっちゃ、大いに国威を発揚していたのさ。富士山(フジヤマ)だの桜だのってね。そこへ、『シャッテン・デス・ヨシワラ』に出られちゃ、顔がつぶれるっていうわけさ、被害甚大ってわけさ。まさか見るな、とも云えまいしね。御婦人連は、おあいそのつもりで、わいわい云うんだろうし……」


「金色の秋の暮」
帰途、富士を見た。薄藍のやや低い富士、小さい焔のような夕焼け雲一つ二つ。


「長寿恥あり」
アメリカへ行くとのぼせて、日本人に向っておかしなことをいう日本人は、冬のさなかにサン・グラスをつけて、フジヤマ・スプレンディッド(素晴らしい富士山)と叫んだ田中絹代ばかりではない。池田蔵相もだいぶおかしくなったらしい。尾崎行雄は年甲斐もなく亢奮して、日本の国語が英語になってしまわなければ、日本で民主精神なんか分りっこないと放言しているのには、日本のすべての人がおどろいた。元来民主主義は英語の国から来たものだからだそうだ。

2006年02月23日

三木鶏郎

「僕は特急の機関士で」(東海道の巻)から抜粋
右に見えるは 富士の山
左に見えるは 駿河湾
仲をとりもつ 展望車
沼津食わずの 三等車
東京 京都 大阪
ウ ウウウウ ウウウ ポポ

※三木鶏郎作詞・作曲