宮本百合子
「なつかしい仲間」
マア、おけいちゃん! 手をつかまえて、玄関のわきの自分の小部屋へ入って、膝をつきつけて、どうしたのよ、手紙もよこさないで、と云うと、おけいちゃんは富士額の生えぎわを傾けて、やはりおとなしく御免なさいね、とあやまるのであった。そして、ゆっくりした口調で、私神戸の方へ行っていたの、と云った。
「二つの庭」
けれども、佐々の家には一軒の貸家も、収入となる一ヵ所の地所もなかった。それがあれば、ひとりでに儲かってゆくというような家とか地面とかをためていなかった。そういう点で泰造の生活態度は仕事に自信のある技術家らしい淡白さだった。多計代がむしろそういう点に用心ぶかさと積極性をもっていた。それにしろ十何年も昔、多計代がひどく意気込んで雪の日に見に行って買った北多摩の地面は、四季を通じてそこから富士が素晴らしくよく見えるというのがとりえなばかりで、地価さえろくにあがらず、今だに麦畑のままであった。
「国際観光局の映画試写会」
五月十九日の朝。日比谷映画劇場へ、国際観光局の映画の試写を見に行った。「富士山」、「日本の女性」。
そのとき挨拶をしたのは観光局の役人で、スマートなダブルの左右のポケットへ両手の先を入れた姿勢でラウドスピイカアの前へ立ち、この二つの作品では特別音楽に力を注いだということの説明があった。
「実感への求め」
先月、日比谷映画劇場で、国際観光局が海外宣伝映画試写会をもよおした。「富士山」と「日本の女性」という二つの作品で、其映画のはじまる前に、映画製作に直接関係した課の長にあたる人の挨拶があった。これまでの日本の映画音楽がよくなかったので、この二つには特に新進の作曲家たちの労作を得た。
「小祝の一家」
祖父ちゃんとミツ子を紐でおんぶった祖母ちゃんとが、火葬場からアヤのお骨をひろってかえって来た。
祖母ちゃんは、戸棚の奥へ風呂敷包みをつみかえ、前の方だけあけ、そこへ水色の富士絹の風呂敷をひろげてアヤのお骨壺をのせた。
「山峡新春」
なるほど天城街道は歩くによい道だ。右は冬枯れの喬木に埋った深い谷。小さい告知板がところどころに建っていて、第×林区、広田兵治など書いてある。その、炭焼きか山番かであろう男が一人いる処は、向う山か、遙かな天城山の奥か。
或る角で振返ったら、いつか背後に眺望が展け、連山の彼方に富士が見えた。頂の雪は白皚々、それ故晴れた空は一きわ碧く濃やかに眺められ、爽やかに冷たい正月の風は悉くそこから流れて来るように思えた。
「播州平野」
東京を立つ前、ひろ子は土産ものをさがして銀座の三越へ入った。がらん洞に焼けた地階のほんの一部分だけを、ベニヤ板や間に合わせのショウ・ケースで区切って、当座の売場にしてあった。紙につつんだ丈の口紅や、紙袋入りの白粉が並べられたりしている。一方の隅に、アメリカのどんな避暑地にある日本土産品店よりも貧弱な日本品陳列場が出来ていた。白樺のへぎに、粗悪な絵具で京舞妓や富士山を描いた壁飾。けばけばしい色どりで胡魔化した大扇。ショウ・ケースに納められているのは、焼けのこったどこからか集めて来た観光客向の縮緬(ちりめん)紙に印刷された広重の画や三つ目小僧がつづらから首を出している舌切雀のお伽草子類である。
「村の三代」
三春富士と安達太郎山などの見えるところに昔大きい草地があった。そして、その草地で時々鎌戦さが行われた。あっち側からとこっち側からと草刈りに来る村人たちは大方領主がそれぞれちがっていて、地境にある草地の草を、どっちが先に刈るかというような争いから、丁髷を振り立てて鎌戦さになることがあったのだろう。
まだ荒漠としている開墾の遙か彼方の山並の上に三春富士を眺め、その下に連る古い町々の人煙を見ながら、松林の中へ三層楼の役場を建てた当時の人々の感情のなかには、明治というものがどんなに明るく、広く、真直な美しさをもってうちひらけ、描かれていたかが実に髣髴とするようである。
「正義の花の環――一九四八年のメーデー――」
去年十二月下旬日本銀行の紙幣発行高は、凡そ二〇〇〇億円であった。この二千億という紙幣を百円札で八割、十円札二割とすると、面積六六万平方キロ。長さ八二万キロで地球のまわりの長さの二十倍。高さ富士山の百二十倍。この二千億を日本の総人口七千万と仮定すると一人が三千円ずつもっていられるはずである。ところが、実際にはどこへ金が吸いこまれてしまっているのだろう。正業にしたがっているものは、税、税の苦しみで、片山首相が「間借り」で都民税一二〇円ですましていられたことを羨んだ。
「獄中への手紙」一九三七年(昭和十二年)
この家は、同じ方角できっといい月が眺められるでしょう。きのうあたり夕月がきれいでした。晴天だと、遠く西日のさす頃、富士も見えます。
正月早く、あなたには突然のように私が引越したのは、Nが正月頃傾向がわるく家をあけ(飲んで)そういうときは私が煙ったく、煙ったいと猶グレるので、Kのやりかたがむずかしいこともありありと分って一層早くうつったのでした。この目白の家が割合よかったこともあって。ここは、先の家の一つ先の横丁を右に入った右の角のところで、小さい家です。でも、夕刻晴天だと富士が見えます。交通費がやすくすむので何より助かります。バスで裁判所や市ヶ谷へゆけるの。
八月二十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(国立公園富士箱根大涌谷の絵はがき)〕
十月十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(琴平名所の金比羅高台より讚岐富士を望む絵はがき)〕
「獄中への手紙」一九四〇年(昭和十五年)
二月九日 第十三信
うちの時計が十三分ばかり進んでいるらしいけれども、午後の四時すこしすぎ。
きょうは西の方に真白い富士がよく見えました。とけのこった雪が家々の北側の屋根瓦や軒に僅ずつのこっていて、そこをわたって来る風はつめたいけれども日光は暖い、いかにも早春のような日和です。
おや多賀ちゃんがかえって来た、困った、富士もサクラもないらしい。今夕わかりますが。では又ね、呉々お大切に。
けさのこの小散歩でやっと田舎に来たらしい気になりました。多賀子はこれから広島へゆきます、例のお話していたたか子の友達ね、あのひとにあって、大体の意中をきくために。ついでにみやげのレモンを買い、東京迄の寝台券を買うために。十三日の寝台で十四日朝ついて、すぐそちらに行くしかないことになりましたから。サクラ、富士、どっちも駄目ですから。東京からの汽車はまだいくらかましですが、こちらから東京へは全くひどいこみようです、寝台もあるかしら。これさえあやしいのです。全くお話の外です。
八月三十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(国立公園富士・三保松原の写真絵はがき)〕
九月七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(○満州国民衆風俗「路傍の肉屋」、○国立公園富士・鈴川より「橋畔に立ちて」、○国立公園富士・清水港より「港から」の写真絵はがき)〕
「獄中への手紙」一九四三年(昭和十八年)
一月三日 〔豊島区西巣鴨一ノ三二七七巣鴨拘置所の宮本顕治宛 本郷区林町二十一より(代筆 牧野虎雄筆「春の富士」の絵はがき)〕
藤田嗣治の絵は、変にアジア人の特徴を出して、泥色の皮膚をした芸者なんか描いていていやでしたが、国男さんが十七年版の美術年鑑を買ったのを見たらば、そこに戦争絵がアリ、原野の戦車戦、ある山嶽の攻略戦等の絵がありました。目をひかれたのは、藤田が昔の日本人の合戦絵巻、土佐派の合戦絵図の筆法を研究して、構成を或る意味で装飾的に扱っていることです。更に気がついたのは、その構成にある大きさ、ゆとり、充実感が、こういう絵の求めるわが方の威力というものを表現する上に実に効果をあげています。山嶽攻略なんか、北斎の富士からヒントでも得たかと思うほど、むこうの山を押し出して、山の圧力が逆作用でこちらの圧力を転化する構成です。
「獄中への手紙」一九四五年(昭和二十年)
さて、きょうは三十一日になりました。朝八時すぎにこうした手紙をかきはじめるというようなことは珍しゅうございます。けさ八時に国が富士というところへゆくために出発したのでこんな時間が出来ました。
けさは七時すぎサイレンで起きましたが、ありがたいことに来ず。又午後かしら。午後はBだからいやね。動坂の家の先に富士神社があったでしょう、きのう以来、あのあたりもあったところということになりました。うちのすぐ前の交番の横通り。こんどはあすこよ。なかなかでしょう? 昨夜は、ローソク生活でした。今夜つくかしら。水道・ガスなしです。そちらは灯つきましたろうか。
「禰宜様宮田」
ところどころ崩れ落ちて、水に浸っている堤の後からは、ズーとなだらかな丘陵が彼方の山並みまで続いて、ちょうど指で摘み上げたような低い山々の上には、見事な吾妻富士の一帯が他に抽(ぬきん)でて聳(そび)えている。
色彩に乏しい北国の天地に、今雪解にかかっているこの山の姿ばかりは、まったく素晴らしい美しさをもって、あらゆるものの歎美の的となっているのである。
「舗道」
エスペラントの講習会はそこの一室である。
ミサ子が富士絹の風呂敷づつみを抱え、ソッとドアをあけて入って行くと、荒板を打ちつけて拵えたベンチにかたまって板をしわらせながらかけている連中の中から菅が、
「ヤア……ちょうどいいところだ、早く来なさい。みんな食っちまうヨ!」
と大きな晴ればれした声で呼びかけた。
「道標」
「ああいう連中はね」
川瀬勇が、云った。
「下宿の神さんや娘や、その他おなじみの女たちに、せいぜい刺繍したハンカチーフだの何だのやっちゃ、大いに国威を発揚していたのさ。富士山(フジヤマ)だの桜だのってね。そこへ、『シャッテン・デス・ヨシワラ』に出られちゃ、顔がつぶれるっていうわけさ、被害甚大ってわけさ。まさか見るな、とも云えまいしね。御婦人連は、おあいそのつもりで、わいわい云うんだろうし……」
「金色の秋の暮」
帰途、富士を見た。薄藍のやや低い富士、小さい焔のような夕焼け雲一つ二つ。
「長寿恥あり」
アメリカへ行くとのぼせて、日本人に向っておかしなことをいう日本人は、冬のさなかにサン・グラスをつけて、フジヤマ・スプレンディッド(素晴らしい富士山)と叫んだ田中絹代ばかりではない。池田蔵相もだいぶおかしくなったらしい。尾崎行雄は年甲斐もなく亢奮して、日本の国語が英語になってしまわなければ、日本で民主精神なんか分りっこないと放言しているのには、日本のすべての人がおどろいた。元来民主主義は英語の国から来たものだからだそうだ。