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2006年05月19日

紫式部

「源氏物語」(大島本・若紫)
「絵にいとよくも似たるかな。かかる所に住む人、心に思ひ残すことはあらじかし」とのたまへば、
「これは、いと浅くはべり。人の国などにはべる海、山のありさまなどを御覧ぜさせてはべらば、いかに、御絵いみじうまさらせたまはむ。富士の山、なにがしの嶽」
など、語りきこゆるもあり。


「源氏物語」(大島本・鈴虫)
火取りどもあまたして、煙たきまで扇ぎ散らせば、さし寄りたまひて、
 「空に焚くは、いづくの煙ぞと思ひ分かれぬこそよけれ。富士の峰よりもけに、くゆり満ち出でたるは、本意なきわざなり。講説の折は、おほかたの鳴りを静めて、のどかにものの心も聞き分くべきことなれば、憚りなき衣の音なひ、人のけはひ、静めてなむよかるべき」
など、例の、もの深からぬ若人どもの用意教へたまふ。


「源氏物語」若紫 (與謝野晶子訳)
「絵によく似ている。こんな所に住めば人間の穢(きたな)い感情などは起こしようがないだろう」
と源氏が言うと、
「この山などはまだ浅いものでございます。地方の海岸の風景や山の景色をお目にかけましたら、その自然からお得(え)になるところがあって、絵がずいぶん御上達なさいますでしょうと思います。富士、それから何々山」
こんな話をする者があった。また西のほうの国々のすぐれた風景を言って、浦々の名をたくさん並べ立てる者もあったりして、だれも皆病への関心から源氏を放そうと努めているのである。


「源氏物語」鈴虫 (與謝野晶子訳)
火入れがたくさん出されてあって、薫香(たきもの)をけむいほど女房たちが煽(あお)ぎ散らしているそばへ院はお寄りになって、
「空(そら)だきというものは、どこで焚いているかわからないほうが感じのいいものだよ。富士の山頂よりももっとひどく煙の立っているのなどはよろしくない。説教の間は物音をさせずに静かに細かく話を聞かなければならないものだから、無遠慮に衣擦れや起(た)ち居の音はなるべくたてぬようにするがいい」
などと、例の軽率な若い女房などをお教えになった。

2006年03月27日

「御伽草子」より

「音なし草紙」
さて在原の中将も、鬼一口の辛き目に、都の中に住みわびて、東の方に旅衣、遥々行きて宇都の山、思ひをいとゞ駿河なる、富士の煙とかこちつゝ、なほ行末は武蔵野の、はてしもあらぬ恋路ゆゑ、身は徒らに業平の、男に今の世の、我も何かはかはらまし、幾程あらぬ夢の世に、はかなく思ひ消えぬべき、あはれを知らせ給ひなば、露の情をかけ給へ。


「文正ざうし」
冬は雪間に根をませば、やがてか人を見るべき、富士のけぶりの空に消ゆる身のゆくへこそあはれなれ。風のたよりのことづてもがな、心のうちの苦しさも、せめてはかくと知らせばやと、色おりたるもめしたくや候。


「辨の草紙」
  恋しくば上りても見よ辨の石われはごんしやの神とこそなれ
黒髪山の頂に、辨の石と云ふ霊石あり。富士の獄の望夫石の古語を思へば、事あひたる心地して、あらたなりける事どもなり。斯かる不思議ともに人みな見いて、あるは語り、あるは歎き、よしさらば、人の唱ふべきものは、弥陀の名号、願ふべきわざは安養の浄刹なるぺしと、一慶に不惜の阿弥陀仏を両三返申して、目を閉ぢ塞ぎ、袖を濡らさぬはなかりけり。


「美人くらべ」
  あふと見る夢うれしくてさめぬれば逢はぬうつゝのうらめしきかな
と有りければ、姫君の御夢にもこの如く見え給へり。又少将殿富士の高嶺を見給ひて、
  年をへむ逢ひみぬ恋をするがなる富士のたかねをなきとほるかな
さて斯様に尋ね来り給ふとは、姫君知らせ給はず、都の事を思ひて、花の一本、鳥の音までも、都に変らざりければ、かくなむ、
  鳥のねも花も霞もかはらねば春やみやこのかたちなりける


富士の人穴草子」
抑承治元年四月三日と申すに、頼家のかうのとの、和田の平太を召して仰せけるは、「如何に平太、承れ、昔より音に聞く富士の人穴と申せども、未だ聞きたるばかりにて、見る者更になし。さればこの穴に如何なる不思議なる事のあるらむ、汝入りて見て参れ。」と仰せければ、畏まつて申す様、「これは思ひもよらぬ一大事の御事を仰せけるものかな。天を翔くる翼、地を走る獣を獲りて進らせよとの仰せにて候はば、いと易き御事にて候へども、之は如何候べきやらむ、如何にして人穴へ入りて、又二度とも立返る道ならばこそ。」と申上げければ、頼家重ねて是非共と仰せありければ、御意を背き難くて、二つなき命をぱ、君に参らせむとりやうしやう申し、御まへをこそ立たれける。義盛の宿所に参り「聞召せ、平太こそ君の御望みを承りて、富士の人穴へ入り申し候。」と申す。

斯かりける所に、和泉の国の住人、新田の四郎忠綱と申す者、此の事を承り、心の内に思ふ様、「所領千六百町持ちたるなり、今四百町賜はりて、まつはうますわか二人の子供に千町づゝとらせばやと思ひ、鎌倉殿へ参り、御前に畏まりて申しけるは、「忠綱こそ御判をなして、富士の人穴へ入りて見申し候はむ。」と申す。鎌倉殿聞召され、御悦びは限りなし。忠綱宿所に帰りて、女房に語りけるは「頼家の敕を蒙り、富士の人穴に入り申すべく候、岩屋の内にて死したるとも所領二人の子供に、千町づゝとらすべし、松杉を植ゑしも、子供を思ふ習ひなる。

此の草紙を聞く人は、富士の権現に、一度詣りたるに当るなり。能く/\心をかけて疑ひなく、後生を願ふべし。少しも疑ひあれば、大菩薩の御罰も蒙るなり。いかにも後生一大事なりと思ふべし。御富士南無大権現と八遍唱へべし。


「ふくろふ」
上は梵天帝釈、四大天王、閻魔法王、五道の冥官、王城の鎮守八幡大菩薩、春日、住吉、北野天満大自在天神、伊勢天照大神、山には山の神、木には木魂の神、地にはたうろう神、河には水神、熊野は三つの御山、本宮薬師、新宮は阿弥陀、那智はひれう権現、滝本は千手観音、熱田の観音、富士の浅間大菩薩、信濃には諏訪上下の大明神、善光寺の阿弥陀如来、南無三宝の諸仏を請じおどろかし候ぞや。


御伽草子とは

2006年03月17日

中古日本治乱記

「中古日本治乱記」(山中山城守長俊・編)に所載の歌

足利義満
 時しらぬ冨士とは兼て聞触し水無月の雪を目に見つる哉

今川上総介恭範
 はるばると君がきまさんもてなしに鹿の子まだらに降冨士の雪
 君か見ん今日のためにや昔より積りは初し冨士の白雪
 紅の雪を高峯に顕して冨士より出る朝日影哉
 月雪も光りを添て冨士の根のうこきなき世の程を見せつつ
 吹冴る秋の嵐に急れて空より降す冨士の白雲
 我ならす今朝は駿河の冨士の根の綿帽子ともなれる雪哉
 仰き見る君にひかれて冨士の根もいとと名高き山と成らん

法印尭孝
 思ひ立冨士の根遠き面影を近く三上の山の端の雲
 冨士の根に待えん影そ急るる今宵名高き月をめてても
 君そ猶万代遠くをほゆへき冨士の余外目の今日の面影
 言の葉も実にぞをよばぬ塩見坂聞しに越る富士の高根
 契りあれや今日の行手の二子塚ここより冨士を相見初ぬる
 秋の雨も晴間はかりの言葉を冨士の根よりも高こそ見れ
 雨雲の余外に隔し冨士の根はさやにも見へすさやの中山
 白雲のかさなる山も麓にてまかはぬ冨士の空に冴けき
 我君の高き恵に譬てそ猶仰見る富士の柴山
 雲はこふ富士の根下風吹や唯秋の朝気の身には染共

足利義教
 今そはや願満ぬる塩見坂心挽し富士を詠て
 立帰幾年浪か忍まし塩見坂にて富士を見し世を
 たくひなき冨士を見初る里の名を二子塚とはいかていはまし
 名にしをへは昼越てたに冨士も見ず秋雨闇小夜の中山
 見すはいかに思ひしるへき言の葉もをよはぬ冨士と兼て聞しも
 朝日影さすより冨士の高峯なる雪もひとしほ色増る哉
 月雪のひとかたならぬ詠ゆへ冨士に短き秋の夜半哉
 朝あけの冨士の根下風身に染も忘果つつ詠ける哉
 跡垂て君守るてふ神そ今名高き冨士をともに逢ふ哉
 こと山は月になるまて夕日影猶こそ残れ冨士の高根
 今そはや願ひ満ぬる塩見坂心ひかれし冨士を詠て
 冨士の根にする山もかな都にてたくへてたにも人に語ん

三条宰相実雅
 我君の曇ぬ御代に出る日の光に匂ふ冨士の白雲

飛鳥井中納言雅世
 冨士根も雲そいたたく万代の万代つまん綿帽子哉

山名持豊入道綱真宗全
 雲や我雲をいたたく冨士の根かともに老せぬ綿帽子哉

細川下野守持春
 冨士の根も雲こそ及へ我君の高き御影そ猶たくひなき
 あきらけき君か時代を白雲も光添らし冨士の高根に

山名中務大輔熈貴
 露の間もめかれし物を冨士の根の雲の往来に見ゆる白雲

太田資長
 我庵は松原遠海近冨士の高根を軒端にそ見る

2006年03月15日

増鏡

「増鏡」
一番づつの御引出物、伊勢物語の心とぞ聞こえし。かねの地盤に、銀の伏篭に、たき物くゆらかして、「山は富士の嶺いつと無く」と、又、銀の船に麝香の臍にて、蓑着たる男つくりて、「いざ言問はむ都鳥」など、様々いとなまめかしくをかしくせられけり。わざとことごとしき様には有らざりけり。

増鏡について

平治物語

「平治物語」
かくて近江の国をもすぎゆけば、いかになるみの塩ひがた、二むら山・宮路山・高師山・濱名の橋をうちわたり、さやの中山・うつの山をもみてゆけば、都にて名にのみきゝし物をと、それに心をなぐさめて、富士の高根をうちながめ、足柄山をも越ぬれば、いづくかぎりともしらぬ武蔵野や、ほりかねの井も尋みてゆけば、下野の国府につきて、我すむべか(ん)なる室の八嶋とて見やり給へば、けぶり心ぼそくのぼりて、おりから感涙留めがたく思はれしかば、なくなくかうぞきこえける。

平治物語について

義経記(ぎけいき)

「義経記」(大町桂月校訂)
さてこそ常盤は三人の子供をば所々にて成人させ給ひけり。今若八歳と申す春の頃より観音寺にのぼせ学問させて、十八の年受戒、禅師の君とぞ申しける。後には駿河国富士の裾野におはしけるが悪襌師と申しけり。八条におはしけるは、そしにておはしけれども、腹あしく恐ろしき人にて、賀茂、春日、稲荷、祇園の御祭ごとに平家を狙ふ。

2006年02月27日

吾妻鏡

一番 山城三郎左衛門尉 早河次郎太郎
二番 澁谷新左衛門尉 横地左衛門次郎
三番 伊東與一 富士三郎五郎
四番 松岳左衛門四郎 平嶋彌五郎
五番 伊東新左衛門尉 小沼五郎兵衛尉

廿日戊寅。富士御領済物京進綿無皆済儀之旨云云。甘苔夫者。必今明中可令進発之由云云。
(二十日戊辰。富士ノ御領ノ済物ノ京進ノ綿、皆済儀無キノ旨ト云云。甘苔夫ハ、必ズ今明中ニ進発セシムベキノ由ト云云。)

廿六日辛酉。駿州下着彼国給。是為富士浅間宮以下神拝也。去正月廿二日。雖任守給。国郡怱劇連続之間。于今延引云云。
(二十六日辛酉。駿州彼ノ国ニ下着シ給フ。是レ富士浅間ノ宮以下ニ神拝ノ為ナリ。去ヌル正月二十二日、守ニ任ジ給フト雖モ、国郡ノ怱劇連続スルノ間、今ニ延引スト云云。)

廿三日戊寅。晴。平三郎兵衛尉盛綱。尾藤左近将監景綱等為前奥州御使。下向駿河国。依 富士新宮等回禄事也。
(二十三日戊寅。晴。平ノ三郎兵衛ノ尉盛綱、尾藤ノ左近将監景綱等、前奥州ノ御使トシテ、駿河ノ国ニ下向ス。富士ノ新宮等ノ回禄ノ事ニ依テナリ。)


吾妻鏡について

2006年02月01日

万葉集

天地の別れし時ゆ 神さびて 高く貴き駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放け見れば渡る日の 影も隠らひ照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺

田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける

なまよみの甲斐の国 うち寄する駿河の国と こちごちの国のみ中ゆ 出で立てる 富士の高嶺は 天雲もい行きはばかり 飛ぶ鳥も飛びも上らず 燃ゆる火を雪もち消ち 降る雪を火もち消ちつつ 言ひも得ず 名付けも知らず くすしくも います神かも せの海と名付けてあるも その山のつつめる海ぞ 富士川と人の渡るも その山の水のたぎちぞ 日の本の 大和の国の鎮めとも います神かも 宝ともなれる山かも 駿河なる富士の高嶺は 見れど飽かぬかも

富士の嶺に 降り置く雪は 六月の 十五日に消ぬれば その夜降りけり

富士の嶺を 高み畏み 天雲も い行きはばかり たなびくものを

我妹子に 逢ふよしをなみ 駿河なる 富士の高嶺の 燃えつつかあらむ

妹が名も 我が名も立たば 惜しみこそ 富士の高嶺の 燃えつつわたれ

天の原 富士の柴山 この暗の 時ゆつりなば 逢はずかもあらむ

富士の嶺の いや遠長き 山道をも 妹がりとへば けによばず来ぬ

霞居る 富士の山びに 我が来なば いづち向きてか 妹が嘆かむ

さ寝らくは 玉の緒ばかり 恋ふらくは 富士の高嶺の 鳴沢のごと