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2007年11月10日

東條義門

「活語餘論」
尚いはゞ ゐ ゑ を は喉唇音なるが故に、い え お のただ喉音なるは■からで、此三音いづれも是を云んとする時、初微隱にウ音を帶べるは、たとへば だ で の二はもとあぎを打て舌用に關る事の深きに彙へて ぢ づ を呼び、ざ ぜ の二は舌用いと/\ 淺くかすかにて、だ で の如く腭をうつには非るに准へて、じ ず を|唱へこゝろみれば、藤(フヂノ)花 富士(フジノ)山 などおのづからによく分れて有べきにもよそへて、いはゆる お を それに随ひては い ゐ え ゑ のけぢめをも辨ふべき事なりとぞ思はるゝ。

2007年05月21日

豊口陽子

黒富士のぎいと傾ぐやご来光

2007年04月21日

土岐善麿(土岐哀果)

たちまち正面より近づき近づく富士の雪の光の全體


「静岡県伊豆市立修善寺中学校 校歌」
○希望の空に 富士は高く
 学べば狩野川 岸ひろし
 天城よ近く 雲晴れたり
 輝く緑の 世界に立ちて
 新たに時代を 開くべし

※2番あるうちの1番
※土岐善麿作詞/信時潔作曲


「東京都足立区立千寿小学校 旧校歌」
○正しく踏み行く道のみなみ
 隅田の川の流れ豊かに
 北には深し放水路
 遥かに仰ぐ雲の彼方
 秩父あり 富士もそびゆ
 新たに学ぶ楽しさよ
 あヽ共に知る喜びよ

※土岐善麿作詞/信時潔作曲
 

「帝京高等学校 校歌」
○希望にかがやく 若葉の朝風
 仰げば富士あり 理想も高かれ
 真理を求めてゆく 野は広く
 石神井の流れの 清きに立ちて
 帝京われらの 相寄るところ
 社会の人たる ほこりに生きん

※2番あるうちの1番
※作詞土岐善麿/作曲信時潔


「東京電機大学中学校・高等学校 校歌(旧校歌)」
○都心の天地は高くひろく
 輝き集まる時代の文化
 科学と技術の上に立ちて
 真理を仰げば富士に雲なく
 勤労の道に希望あり

※作詞土岐善麿/作曲信時潔
※3番あるうちの1番。


「静岡県沼津市立第四小学校 校歌」
○霞に雪に そびえる富士
 あおげば深い 松の緑よ
 香貫の空は 高く晴れて
 桜はにおい もみじは照る
 ああ 第四 ここに学ぶ
 春秋(はるあき)我らは 楽しや

※2番あるうちうちの1番
※作詞土岐善麿/作曲信時潔


「東京都立日本橋高等学校 校歌」
○隅田の流は ゆたに満ちて
 かもめ舞い連れ 浪輝く
 望めば甍に 富士の氣高さ
 吾らがあぐる 正義の声は
 大地揺がし 擧りて高し

※3番のうちの2番
※作詞土岐善麿/作曲信時潔


「不平なく」の「機廚茲
めづらしく、げにめづらしく、あるきて、
三月の富士を見たり、
 日本橋のうへに。

2007年02月15日

豊島与志雄

「女心の強ければ」
千代乃は座に戻ってきて、まだ硝子戸の方へ眼をやりながら言った。
「お酒は、もうよしましょうよ。霧がはれかかってきたようなの。裏山にでも登ってみましょうか。霧の上から富士山が見えてくるところは、きれいですよ。」
何を言ってることやら、気まぐれにも程がある、と長谷川は思った。裏山の頂からは富士山がよく見えたが、それももう彼には面白くなかった。


「ヒロシマの声」
理想の実現には長年月を要するだろう。だが地の利は得ている。太田川の七つに分岐してる清流が市街地を六つのデルタに区分し、北方は青山にかこまれ南方へ扇形をなして海に打ち開け、海上一里ほどの正面に安芸の小富士と呼ばるる似ノ島の優姿が峙ち、片方に宇品の港を抱き、その彼方は、大小の島々を浮べてる瀬戸内海である。ここに建設される平和都市の予見は楽しい。


「野ざらし」
「君は富士の裾野を旅したことがあるかい?」
「ありません。」と昌作はぼんやり答えた。
「僕は富士の裾野を旅してる所を夢に見たよ。そして実際に行ってみたくなった。富士の……幾つだったかね……五湖、七湖、八湖……あの幾つかの湖水めぐりって奴ね、素敵だよ、君。鈴をつけた馬に乗って、尾花の野原をしゃんしゃんしゃんとやるんだ。……河口湖ってのがあるだろう。その湖畔のホテルに大層な美人が居てね、或る西洋人と……多分フランス人と、夢のような而も熱烈な恋に落ちたなんてロマンスもあるそうだよ。

で、要するに、その頃僕の心は、可なり妻から離れて、或るやさしい魂を求めていたことだけは、君にもお分りでしょう。
 そういう心で僕は妻を眺めてみて――今迄よく見なかったものを初めてしみじみと眺める、といった風な心地で眺めてみて、喫驚したのです。何という老衰でしょう! 髪の毛は薄くなって、おまけに黒い艶がなくなっています。昔はくっきりとした富士額だったその生え際が、一本々々毛の数を数えられるほどになっています。顎全体がとげとげと骨張っていて、眼の縁や口の隅に無数の小皺が寄っています。


「「草野心平詩集」解説」
知性と感性との渾然たる融合、鮮明なるイメージ、豊潤奔放なる韻律など、心平さんの詩の特長は、そうやたらに存在し得るものではない。
 それからまた、心平さんのこれまでの詩業を通覧しても、特殊なものがある。たいていの詩人には、その詩集を以て名づけられる何時代というのがあるものだが、心平さんにはそのようなものは一向ない。例えば、その詩集を取ってきて、「母岩」時代とか、「大白道」時代とか、「日本沙漠」時代とか、そういうことを言ったならば、おかしいだろう。ばかりでなく、「蛙」の詩や「富士山」の詩は、十数年に亘って幾つとなく書き続けられたものである。恐らく今後もまだ続けられるだろう。

然し、天をじかの対象とせずとも、それを背景として、いろいろな表現が為され得る。その時、天の比重はさまざまになる。心平さんの近著「天」の後記の一節を見よう。
「数年前、私の天に就いての或る人のエッセイが詩の雑誌にのったことがあった。私はそれまで天というものを殊更に考えたことはなかったのだが、ふと……従来の詩集をひらいて天のでてくる作品に眼をとおした。あるあるあるある。私のいままで書いた作品の約七十パアセントに天がでてくる。」
富士山の詩を私は永いあいだ書いてきたように思うが、もともと富士山などというものは天を背景にしなければ存在しない。」

漸く「富士山」に辿りついた。
 心平さんは富士山の詩人とも言われる。十数年来、富士山の詩を幾つも書き続けてきたからだ。今後も続くことだろう。
 ところが、心平さんは富士山そのものだけを歌ってるのではない。存在を超えた無限なもの、日本の屋根、民族精神の無量の糧、として歌っているのだ。そして殊に、前に引用しておいた文章が示す通り、もともと富士山などというものは天を背景にして存在するのだ。
 斯くて、富士山はもはや象徴である。現実の富士山の姿態などは問題でない。けれども、象徴は具象を離れては存在しない。心平さんの富士山はやはり美しい。その美しさが、平面的でなく、掘り下げられ深められてるのを見るべきである。
 これらの作品に於て、知性と感性との比重がどうなっているか。比重の差は多少ともある。その差の少いもの程、すぐれた作品となすべきであろう。

心平さんは、富士山の詩人であるよりも、より多く「蛙」の詩人である。そしてここに於て、最も独特である。

富士山が象徴であるように、心平さんにとっては、蛙も一種の象徴である。一種の、と言うのは、富士山の場合と少しく意味合が異るからだ。心平さんは先ず蛙を、あくまでも蛙として追求する。時によっては客観的にさえ追求する。追求してるうちに、しぜんと、他のものが付加されてゆく。何が付加されるか。それは、蛙自体の成長そのものだ。よそから、持って来られたものではない。蛙自体が成長して、やがて、人間と肩を並べる。蛙の本質的脱皮だ。蛙はあくまでも蛙だが、もはや昔日の蛙ではない。そこに、一つの世界が創造される。


「風俗時評」
箱根、日光、富士山麓、軽井沢など、自然の美と交通の便宜とに恵まれた土地の、安易なホテルのホールなんかでは、よく、家族か親しい仲間かの数人の、午後のお茶の集りが見受けられる。その中で、欧米の白人の連中は、いろんな意味で人目を惹く。大抵、彼等の体躯は逞ましく、色艶もよい。眼は生々と輝き、挙措動作は軽快で、溌剌たる会話が際限もなく続く。心身ともに、精力の充溢があるようである。之に比較すると、日本人のそうした集りには、あらゆる点に活気が乏しい。見ようによっては病身らしく思える身体を、椅子にぎごちなくもたせて、動作は鈍く、黙りがちにぼんやりしている。精力の発露などはあまり見られない。

2007年01月13日

道興法准后親王

よそに見し不二の志ら雪けふ分けぬ心の道を神にまかせて

2006年08月11日

徳永山冬子

窓の富士いときはやかや初句会

春暁や紫焔紅焔富士の頂

2006年08月02日

土橋いさむ

初富士や常の日課の犬連れて

2006年07月28日

殿村菟絲子

子が子負ふねんねこ富士は風の神

九年母や大家族制に富士立てり

五月富士四方より雲の来て留る

2006年07月25日

鳥居美智子

青野より富士に近づく一歩かな

客山は富士と秋草丈競ふ

2006年04月13日

富安風生(とみやすふうせい)

露涼し朝富士の縞豪放に

大空に雪解富士たゞあるのみなり

富士の霧圧倒し来る月見草

一片雲もて秋富士を荘厳す

葉月なる竪縞あらし男富士

初富士の大きかりける汀かな

赤富士に露滂沱たる四辺かな

熔岩原(らばはら)の野分の荒き男富士

赤富士やぬうっと近き面構え

赤富士に露の満天満地かな

あはあはと富士容(かたち)あり炎天下

秋富士に孤鶴のごとき雲をおく

初冨士や茶山の上にかくれなし

片雲を扇かざしに秋の富士

一痕の雪渓肩に男富士

萬緑の中富士とわが一対一

秋富士を拾う湖辺の撩


※富安風生は、自筆の句集「富士百句」をまとめている。

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2006年04月12日

徳山暁美

冬霞む遠富士肩の力抜く

2006年04月11日

鳥井保和

富士に触れ雪雲富士に雪降らす

鳥居ひろし

強力の一歩一歩や富士薊

2006年03月10日

東條耕子藏

「先哲叢談續編」

<松浦霞沼>から
芳洲が橘窗茶話に云く、霞沼余と同じく雉塾に寓す、我より少きこと八歳なり、最も成翠虚が富士山を賦する、空に浮ぶ積翠煙鬟を開く(浮空積翠開煙鬟)の句を喜び、吟賞して已まず、

<田中邱愚>から
相の酒匂川は、百川を會同し、東海に入る、富士・箱根其南に鎭し、大岳舟山其北に連なる、實に關中の襟帶、海東の咽喉なり、寶暦己亥の冬、富士山東南の隅、土中火を發し、砂礫數百里に飛ぶ、蓋し硫黄の氣の釀す所なり、其災傷の及ぶ所、關東八州の地、青草を見ざる者數百里、深き者は驤丈、淺き者は盈尺、武相の間、焦土最も甚だし、酒匂川遂に壅く、其後比年大水、○防悉く決す、故を以て居民流亡する者、此に二十年、朝廷方に水を治むる者を求め、以て生民の爲に利を興し害を除かんと欲す、

<高芙蓉(大島芙蓉)>から
芙蓉は富士山に登ること、前後三次、幽を探り勝を窮めて、自ら山嶽の眞景を寫し、百芙蓉圖と曰ふ、是より先き、未だ此擧をなす者あらず、後人富士を畫く者、多く皆之に據る、此より後、別に中嶽畫史と號す、

2006年02月18日

徳田秋声

「あらくれ」
おゆうは、浮気ものだということを、お島は姉から聞いていたが、逢ってみると、芸事の稽古などをした故(せい)か、嫻(しとや)かな落着いた女で、生際(はえぎわ)の富士形になった額が狭く、切(きれ)の長い目が細くて、口もやや大きい方であったが、薄皮出の細やかな膚の、くっきりした色白で、小作(こづくり)な体の様子がいかにも好いと思った。


「縮図」
この裏通りに巣喰(すく)っている花柳界も、時に時代の波を被(かぶ)って、ある時は彼らの洗錬された風俗や日本髪が、世界戦以後のモダアニズムの横溢(おういつ)につれて圧倒的に流行しはじめた洋装やパーマネントに押されて、昼間の銀座では、時代錯誤(アナクロニズム)の可笑(おか)しさ身すぼらしさをさえ感じさせたこともあったが、明治時代の政権と金権とに、楽々と育(はぐく)まれて来たさすが時代の寵児(ちょうじ)であっただけに、その存在は根強いものであり、ある時は富士や桜や歌舞伎などとともに日本の矜(ほこ)りとして、異国人にまで讃美されたほどなので、今日本趣味の勃興の蔭(かげ)、時局的な統制の下に、軍需景気の煽りを受けつつ、上層階級の宴席に持て囃(はや)され、たとい一時的にもあれ、かつての勢いを盛り返して来たのも、この国情と社会組織と何か抜き差しならぬ因縁関係があるからだとも思えるのであった。

2006年02月17日

徳冨蘆花

「不如帰(ほととぎす)」
「しかし相馬が嶽のながめはよかったよ。浪さんに見せたいくらいだ。一方は茫々(ぼうぼう)たる平原さ、利根がはるかに流れてね。一方はいわゆる山また山さ、その上から富士がちょっぽりのぞいてるなんぞはすこぶる妙だ。歌でも詠めたら、ひとつ人麿と腕っ比べをしてやるところだった。あはははは。そらもひとつお代わりだ」
「そんなに景色がようございますの。行って見とうございましたこと!」


「熊の足跡」
九月九日から十二日まで、奧州淺蟲(あさむし)温泉滯留。
背後(うしろ)を青森行の汽車が通る。枕の下で、陸奧灣(むつわん)の緑玉潮(りよくぎよくてう)がぴた/\言(ものい)ふ。西には青森の人煙指(ゆびさ)す可く、其背(うしろ)に津輕富士の岩木山が小さく見えて居る。

「眼に立つや海青々と北の秋」左の窓から見ると、津輕海峽の青々とした一帶の秋潮を隔てゝ、遙に津輕の地方が水平線上に浮いて居る。本郷へ來ると、彼醉僧(すゐそう)は汽車を下りて、富士形の黒帽子を冠り、小形の緑絨氈(みどりじうたん)のカバンを提げて、蹣跚(まんさん)と改札口を出て行くのが見えた。江刺へ十五里、と停車場の案内札に書いてある。

蝦夷富士…と心がけた蝦夷富士を、蘭越驛(らんこしえき)で仰ぐを得た。形容端正、絶頂まで樹木を纏うて、秀潤(しうじゆん)の黛色(たいしよく)滴(したゝ)るばかり。頻(しきり)に登つて見たくなつた。

徳冨健次郎

「みみずのたはこと」
粕谷田圃に出る頃、大きな夕日が富士の方に入りかゝって、武蔵野一円金色(こんじき)の光明を浴びた。都落ちの一行三人は、長い影を曳いて新しい住家の方へ田圃を歩いた。遙向うの青山街道に車の軋(きし)る響(おと)がするのを見れば、先発の荷馬車が今まさに来つゝあるのであった。

臼田君の家は下祖師ヶ谷で、小学校に遠からず、両(りょう)角田君(つのだくん)は大分離れて上祖師ヶ谷に二軒隣り合い、石山氏の家と彼自身の家は粕谷にあった。何れも千歳村の内ながら、水の流るゝ田圃(たんぼ)に下りたり、富士大山から甲武連山(こうぶれんざん)を色々に見る原に上ったり、霜解(しもどけ)の里道を往っては江戸みちと彫った古い路しるべの石の立つ街道を横ぎり、樫(かし)欅(けやき)の村から麦畑、寺の門から村役場前と、廻れば一里もあるかと思われた。

そも此洋服は、明治三十六年日蔭町で七円で買った白っぽい綿セルの背広で、北海道にも此れで行き、富士で死にかけた時も此れで上り、パレスチナから露西亜(ろしあ)へも此れで往って、トルストイの家でも持参の袷(あわせ)と此洋服を更代(こうたい)に着たものだ。西伯利亜鉄道(シベリアてつどう)の汽車の中で、此一張羅の洋服を脱いだり着たりするたびに、流石無頓着な同室の露西亜の大尉も技師も、眼を円(まる)く鼻の下を長くして見て居た歴史つきの代物(しろもの)である。

彼等が東京から越して来た時、麦はまだ六七寸、雲雀の歌も渋りがちで、赤裸な雑木林の梢から真白な富士を見て居た武蔵野は、裸から若葉、若葉から青葉、青葉から五彩美しい秋の錦となり、移り変る自然の面影は、其日々其月々の趣を、初めて落着いて田舎に住む彼等の眼の前に巻物の如くのべて見せた。

六月になった。麦秋(むぎあき)である。「富士一つ埋(うづ)み残して青葉(あをば)かな」其青葉の青闇(あおぐら)い間々を、熟れた麦が一面日の出の様に明るくする。

夏蚕(なつご)を飼う家はないが、秋蚕を飼う家は沢山ある。秋蚕を飼えば、八月はまだ忙(せわ)しい月だ。然し秋蚕のまだ忙しくならぬ隙(すき)を狙って、富士詣(ふじまいり)、大山詣、江の島鎌倉の見物をして来る者も少くない。大山へは、夜立ちして十三里日着(ひづ)きする。五円持て夜徹(よどお)し歩るき、眠たくなれば堂宮(どうみや)に寝て、唯一人富士に上って来る元気な若者もある。

十月だ。稲の秋。地は再び黄金の穂波が明るく照り渡る。早稲から米になって行く。性急に百舌鳥(もず)が鳴く。日が短くなる。赤蜻蛉(あかとんぼ)が夕日の空に数限りもなく乱れる。柿が好い色に照って来る。ある寒い朝、不図(ふと)見ると富士の北の一角(いっかく)に白いものが見える。雨でも降ったあとの冷たい朝には、水霜がある。

霜は霽(はれ)に伴う。霜の十一月は、日本晴(にっぽんばれ)の明るい明るい月である。富士は真白。武蔵野の空は高く、たゝけばカン/\しそうな、碧瑠璃(へきるり)になる。朝日夕日が美しい。月や星が冴える。田は黄色から白茶(しらちゃ)になって行く。

斯く打吟(うちぎん)じつゝ西の方を見た。高尾、小仏や甲斐の諸山は、一風呂浴びて、濃淡の碧(みどり)鮮(あざ)やかに、富士も一筋白い竪縞(たてじま)の入った浅葱(あさぎ)の浴衣を着て、すがすがしく笑(え)んで居る。

此山の鏈を伝うて南東へ行けば、富士を冠した相州連山の御国山(みくにやま)から南端の鋭い頭をした大山まで唯一目に見られる筈だが、此辺で所謂富士南に豪農の防風林の高い杉の森があって、正に富士を隠して居る。少し杉を伐ったので、冬は白いものが人を焦らす様にちら/\透(す)いて見えるのが、却て懊悩(おうのう)の種になった。あの杉の森がなかったら、と彼は幾度思うたかも知れぬ。然し此頃では唯其杉の伐られんことを是れ恐るゝ様になった。下枝(したえだ)を払った百尺もある杉の八九十本、欝然(うつぜん)として風景を締めて居る。斯杉の森がなかったら、富士は見えても、如何に浅薄の景色になってしまったであろう。

宝永四年と云えば、富士が大暴れに暴れて、宝永山が一夜に富士の横腹を蹴破って跳(おど)り出た年である。富士から八王子在の高尾までは、直径にして十里足らず。荒れ山が噴き飛ばす灰を定めて地蔵様は被(かぶ)られたことであろう。如何(いかが)でした、其時の御感想は? 滅却心頭火亦涼と澄ましてお出でしたか?

やがて別荘に来た。其は街道の近くにある田圃の中の孤丘(こきゅう)を削って其上に建てられた別荘で、質素な然し堅牢なものであった。西には富士も望まれた。南には九十九里の海――太平洋の一片が浅黄(あさぎ)リボンの様に見える。

  死後希望 死出(しで)の山越えて後にぞ楽まん
         富士の高根を目の下に見て 八十三老白里
と書いてあった。

一度日本橋で、著者の家族三人、電車満員で困って居ると、折から自転車で来かゝった彼が見かけて、自転車を知辺(しるべ)の店に預け、女児を負って新橋まで来てくれた。去年の夏の休には富士山頂から画はがきをよこしたりした。

三月十八日。彼岸の入り。
風はまだ冷たいが、雲雀の歌にも心なしか力がついて、富士も鉛色に淡く霞む。

午後は田圃伝いに船橋(ふなばし)の方に出かける。門を出ると、墓地で蛇を見た。田圃の小川のいびの下では、子供が鮒を釣って居る。十丁そこら往って見かえると、吾家も香爐(こうろ)の家程に小さく霞んで居る。
今日は夕日の富士が、画にかいた「理想」の様に遠くて美しかった。

少し西北には、青梅(あおめ)から多摩川上流の山々が淡く見える。西南の方は、富士山も大山も曇った空に潜(ひそ)んで見えない。唯藍色(あいいろ)の雲の間から、弱い弱い日脚(ひあし)が唯一筋斜(はす)に落ちて居る。

九月九日から十二日まで、奥州浅虫温泉滞留。
背後(うしろ)を青森行の汽車が通る。枕の下で、陸奥湾の緑玉潮(りょくぎょくちょう)がぴた/\言(ものい)う。西には青森の人煙指(ゆびさ)す可く、其背(うしろ)に津軽富士の岩木山が小さく見えて居る。

「眼に立つや海青々と北の秋」左の窓から見ると、津軽海峡の青々とした一帯の秋潮(しゅうちょう)を隔てゝ、遙に津軽の地方が水平線上に浮いて居る。本郷へ来ると、彼酔僧(すいそう)は汽車を下りて、富士形の黒帽子を冠(かぶ)り、小形の緑絨氈(みどりじゅうたん)のカバンを提げて、蹣跚(まんさん)と改札口を出て行くのが見えた。

湾をはなれて山路にかゝり、黒松内(くろまつない)で停車(ていしゃ)蕎麦を食う。蕎麦の風味が好い。蝦夷富士…と心がけた蝦夷富士を、蘭越(らんごえ)駅で仰ぐを得た。形容端正、絶頂まで樹木を纏(まと)うて、秀潤(しゅうじゅん)の黛色(たいしょく)滴(したた)るばかり。頻(しきり)に登って見たくなった。

2006年02月12日

戸川秋骨

「道學先生の旅」
私共は大月驛から自動車で目指す河口湖畔へ向つた。自動車は猛烈な、亂暴な奴で、抛り出されさうである。顛覆しさうでもある。一臺はパンクした。私達の乘つて居るのは、ガソリンがなくなつて運轉不能になつた。同乘したN夫人はまだ日本の間に合せの文化になれない人だから、定めし驚いた事であらうと察しられる。併し左に右に、また正面に、いつも行手にあたつて、富士がその堂々たる姿を見せて居た事は、私共に取つてさへ快い事であつたから、此外來の方には興のない事でもなかつたらう。私共は湖畔についた、鹿爪らしくも何々ホテルといふ名の家についた。うしろは富士、前には湖畔の山々、目の下には湖水と鎔岩、素より快い天地である。話は東西の旅の事、風景の事に及んだ。