徳冨健次郎
「みみずのたはこと」
粕谷田圃に出る頃、大きな夕日が富士の方に入りかゝって、武蔵野一円金色(こんじき)の光明を浴びた。都落ちの一行三人は、長い影を曳いて新しい住家の方へ田圃を歩いた。遙向うの青山街道に車の軋(きし)る響(おと)がするのを見れば、先発の荷馬車が今まさに来つゝあるのであった。
臼田君の家は下祖師ヶ谷で、小学校に遠からず、両(りょう)角田君(つのだくん)は大分離れて上祖師ヶ谷に二軒隣り合い、石山氏の家と彼自身の家は粕谷にあった。何れも千歳村の内ながら、水の流るゝ田圃(たんぼ)に下りたり、富士大山から甲武連山(こうぶれんざん)を色々に見る原に上ったり、霜解(しもどけ)の里道を往っては江戸みちと彫った古い路しるべの石の立つ街道を横ぎり、樫(かし)欅(けやき)の村から麦畑、寺の門から村役場前と、廻れば一里もあるかと思われた。
そも此洋服は、明治三十六年日蔭町で七円で買った白っぽい綿セルの背広で、北海道にも此れで行き、富士で死にかけた時も此れで上り、パレスチナから露西亜(ろしあ)へも此れで往って、トルストイの家でも持参の袷(あわせ)と此洋服を更代(こうたい)に着たものだ。西伯利亜鉄道(シベリアてつどう)の汽車の中で、此一張羅の洋服を脱いだり着たりするたびに、流石無頓着な同室の露西亜の大尉も技師も、眼を円(まる)く鼻の下を長くして見て居た歴史つきの代物(しろもの)である。
彼等が東京から越して来た時、麦はまだ六七寸、雲雀の歌も渋りがちで、赤裸な雑木林の梢から真白な富士を見て居た武蔵野は、裸から若葉、若葉から青葉、青葉から五彩美しい秋の錦となり、移り変る自然の面影は、其日々其月々の趣を、初めて落着いて田舎に住む彼等の眼の前に巻物の如くのべて見せた。
六月になった。麦秋(むぎあき)である。「富士一つ埋(うづ)み残して青葉(あをば)かな」其青葉の青闇(あおぐら)い間々を、熟れた麦が一面日の出の様に明るくする。
夏蚕(なつご)を飼う家はないが、秋蚕を飼う家は沢山ある。秋蚕を飼えば、八月はまだ忙(せわ)しい月だ。然し秋蚕のまだ忙しくならぬ隙(すき)を狙って、富士詣(ふじまいり)、大山詣、江の島鎌倉の見物をして来る者も少くない。大山へは、夜立ちして十三里日着(ひづ)きする。五円持て夜徹(よどお)し歩るき、眠たくなれば堂宮(どうみや)に寝て、唯一人富士に上って来る元気な若者もある。
十月だ。稲の秋。地は再び黄金の穂波が明るく照り渡る。早稲から米になって行く。性急に百舌鳥(もず)が鳴く。日が短くなる。赤蜻蛉(あかとんぼ)が夕日の空に数限りもなく乱れる。柿が好い色に照って来る。ある寒い朝、不図(ふと)見ると富士の北の一角(いっかく)に白いものが見える。雨でも降ったあとの冷たい朝には、水霜がある。
霜は霽(はれ)に伴う。霜の十一月は、日本晴(にっぽんばれ)の明るい明るい月である。富士は真白。武蔵野の空は高く、たゝけばカン/\しそうな、碧瑠璃(へきるり)になる。朝日夕日が美しい。月や星が冴える。田は黄色から白茶(しらちゃ)になって行く。
斯く打吟(うちぎん)じつゝ西の方を見た。高尾、小仏や甲斐の諸山は、一風呂浴びて、濃淡の碧(みどり)鮮(あざ)やかに、富士も一筋白い竪縞(たてじま)の入った浅葱(あさぎ)の浴衣を着て、すがすがしく笑(え)んで居る。
此山の鏈を伝うて南東へ行けば、富士を冠した相州連山の御国山(みくにやま)から南端の鋭い頭をした大山まで唯一目に見られる筈だが、此辺で所謂富士南に豪農の防風林の高い杉の森があって、正に富士を隠して居る。少し杉を伐ったので、冬は白いものが人を焦らす様にちら/\透(す)いて見えるのが、却て懊悩(おうのう)の種になった。あの杉の森がなかったら、と彼は幾度思うたかも知れぬ。然し此頃では唯其杉の伐られんことを是れ恐るゝ様になった。下枝(したえだ)を払った百尺もある杉の八九十本、欝然(うつぜん)として風景を締めて居る。斯杉の森がなかったら、富士は見えても、如何に浅薄の景色になってしまったであろう。
宝永四年と云えば、富士が大暴れに暴れて、宝永山が一夜に富士の横腹を蹴破って跳(おど)り出た年である。富士から八王子在の高尾までは、直径にして十里足らず。荒れ山が噴き飛ばす灰を定めて地蔵様は被(かぶ)られたことであろう。如何(いかが)でした、其時の御感想は? 滅却心頭火亦涼と澄ましてお出でしたか?
やがて別荘に来た。其は街道の近くにある田圃の中の孤丘(こきゅう)を削って其上に建てられた別荘で、質素な然し堅牢なものであった。西には富士も望まれた。南には九十九里の海――太平洋の一片が浅黄(あさぎ)リボンの様に見える。
死後希望 死出(しで)の山越えて後にぞ楽まん
富士の高根を目の下に見て 八十三老白里
と書いてあった。
一度日本橋で、著者の家族三人、電車満員で困って居ると、折から自転車で来かゝった彼が見かけて、自転車を知辺(しるべ)の店に預け、女児を負って新橋まで来てくれた。去年の夏の休には富士山頂から画はがきをよこしたりした。
三月十八日。彼岸の入り。
風はまだ冷たいが、雲雀の歌にも心なしか力がついて、富士も鉛色に淡く霞む。
午後は田圃伝いに船橋(ふなばし)の方に出かける。門を出ると、墓地で蛇を見た。田圃の小川のいびの下では、子供が鮒を釣って居る。十丁そこら往って見かえると、吾家も香爐(こうろ)の家程に小さく霞んで居る。
今日は夕日の富士が、画にかいた「理想」の様に遠くて美しかった。
少し西北には、青梅(あおめ)から多摩川上流の山々が淡く見える。西南の方は、富士山も大山も曇った空に潜(ひそ)んで見えない。唯藍色(あいいろ)の雲の間から、弱い弱い日脚(ひあし)が唯一筋斜(はす)に落ちて居る。
九月九日から十二日まで、奥州浅虫温泉滞留。
背後(うしろ)を青森行の汽車が通る。枕の下で、陸奥湾の緑玉潮(りょくぎょくちょう)がぴた/\言(ものい)う。西には青森の人煙指(ゆびさ)す可く、其背(うしろ)に津軽富士の岩木山が小さく見えて居る。
「眼に立つや海青々と北の秋」左の窓から見ると、津軽海峡の青々とした一帯の秋潮(しゅうちょう)を隔てゝ、遙に津軽の地方が水平線上に浮いて居る。本郷へ来ると、彼酔僧(すいそう)は汽車を下りて、富士形の黒帽子を冠(かぶ)り、小形の緑絨氈(みどりじゅうたん)のカバンを提げて、蹣跚(まんさん)と改札口を出て行くのが見えた。
湾をはなれて山路にかゝり、黒松内(くろまつない)で停車(ていしゃ)蕎麦を食う。蕎麦の風味が好い。蝦夷富士…と心がけた蝦夷富士を、蘭越(らんごえ)駅で仰ぐを得た。形容端正、絶頂まで樹木を纏(まと)うて、秀潤(しゅうじゅん)の黛色(たいしょく)滴(したた)るばかり。頻(しきり)に登って見たくなった。