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2006年02月28日

大串章

赤人の 富士を仰ぎて 耕せり


大串章について

2006年02月27日

吾妻鏡

一番 山城三郎左衛門尉 早河次郎太郎
二番 澁谷新左衛門尉 横地左衛門次郎
三番 伊東與一 富士三郎五郎
四番 松岳左衛門四郎 平嶋彌五郎
五番 伊東新左衛門尉 小沼五郎兵衛尉

廿日戊寅。富士御領済物京進綿無皆済儀之旨云云。甘苔夫者。必今明中可令進発之由云云。
(二十日戊辰。富士ノ御領ノ済物ノ京進ノ綿、皆済儀無キノ旨ト云云。甘苔夫ハ、必ズ今明中ニ進発セシムベキノ由ト云云。)

廿六日辛酉。駿州下着彼国給。是為富士浅間宮以下神拝也。去正月廿二日。雖任守給。国郡怱劇連続之間。于今延引云云。
(二十六日辛酉。駿州彼ノ国ニ下着シ給フ。是レ富士浅間ノ宮以下ニ神拝ノ為ナリ。去ヌル正月二十二日、守ニ任ジ給フト雖モ、国郡ノ怱劇連続スルノ間、今ニ延引スト云云。)

廿三日戊寅。晴。平三郎兵衛尉盛綱。尾藤左近将監景綱等為前奥州御使。下向駿河国。依 富士新宮等回禄事也。
(二十三日戊寅。晴。平ノ三郎兵衛ノ尉盛綱、尾藤ノ左近将監景綱等、前奥州ノ御使トシテ、駿河ノ国ニ下向ス。富士ノ新宮等ノ回禄ノ事ニ依テナリ。)


吾妻鏡について

2006年02月26日

吉行エイスケ

「バルザックの寝巻姿」
数ヶ月後、妾達の東洋曲芸団の一行は、巴里のゲエテ街にいました。モンマルトルは相も変わらず放縦(ほうじゅう)な展覧会が開催されて、黒い山高帽の群とメランコリックな造花の女が、右往左往していました。妾達の小屋はセエヌ左岸のアルマの橋を渡ったところに、日本画の万灯に飾られて、富士山や田園の書割(かきわり)にかこまれて、賑かにメリンスの友禅の魅力を場末の巴里(パリ)人に挨拶していたのです。

吉江喬松

「霧の旅」
妙高は稍々右の方に當つて、峯が重り合つて奇怪な姿を見せてゐる黒姫は眞正面に雄大な壓倒するやうな勢で、上から見下してゐる。飯繩は左へよつて右肩からおろして來る一線を裾長く曳いてゐる。
高原地といふ感じをこの三山の連立してゐる地くらゐ、明かに與へる場所は他にない。富士の裾野でも、私達は廣い平野の中へ立つてゐるやうな感じはするが、自分等のゐる處が高い場所であるとは感じない。

幾度見ても黒姫は、いつも同じやうで、しかも面目を改めて、私の前に嚴しく聳えてゐる。連嶺(れんれい)の亙り續いてゐる頂にばかり目を馳せてゐた私達が、初めて一山の美しき姿を仰ぐことの出來たのもこの山であつた。そして越後の海を初めて見て泣きたいばかりに心の締つた記憶と共に、何年たつても忘られないのはこの山の美しい姿であつた。しかもこの山は富士山のやうに全く轉(まろ)び出たやうに孤立してゐるのではない。妙高、戸隱、飯綱の諸山は相呼應して、嚴として高原の奧に空を劃して立つてゐる。

与謝野晶子(與謝野晶子)

「日記のうち」
十一月十三日
きゆうきゆうと云ふ音が彼方でも此方でもして、何処の寝台ももう畳まれて居るらしいので、わたしも起きないでは悪いやうな気がして蒲団の上に坐つた。けれどまだ実際窓の外は薄暗さうである。富士が見えるかも知れぬと思ふが窓掛を引く気にもならない。身繕ひをして下駄を穿きながら、ボーイに心附けを遣らないでおけば物を云ふ世話がなからうなどと考へて居た。洗面所に入つて髪を結つて来た間に上の寝台もしまはれて、大阪の商人は黄八丈の寝間着の儘で隣に腰掛けて楊枝を使つて居た。日が当つて富士が一体に赤銅色をして居る。


「元朝の富士」より
人人(ひとびと)よ、戦後の第一年に、
わたしと同じ不思議が見たくば、
いざ仰(あふ)げ、共に、
朱に染まる今朝の富士を。


「日本新女性の歌」より
○東の国に美くしく
 天の恵める海と山、
 比べよ、其れに適はしき
 我等日本の女子あるを。
○中にも特にすぐれたる
 瀬戸の内海、富士の雪
 その優しさと気高さは
 やがて我等の理想なり。


「冬晴」より
裸の木の上には青空、
それがまろく野のはてにまで
お納戸いろを垂れてゐる。
二階へ上がつたら
富士もまつ白に光つてゐよう。


「霧氷」
富士山の上の霧氷、
それを写真で見て喜んでゐる。
美くしいことは解る、
それがどんなに寒い世界の消息かは
登山者以外には解らない。
あなたにわたしの歌が解りますつて、
さうでせうか、さうでせうか。


〔無題〕
○今日わしれども、わしれども、
 武蔵の路の長くして、
 われの車の窓に入る、
 盛り上がりたる白き富士
○竜胆(りんだう)いろに、冬の空、
 晴れわたりつつ、雲飛ばず。
 見て行く萩の上にあり、
 河原より吹く風のおと。


===以下、句集から===

(明治時代)

佐保姫
青き富士うすきが下に雲ばかりある野の朝の風に吹かるる

毒草
ゆるされて水ふみわたる春の野やあらぬを富士と君もまどひし

常夏
しろ銀の魚鱗の上に富士ありぬ相模の春の月のぼる時

舞姫
遠つあふみ大河ながるる国なかば菜の花さきぬ富士をあなたに
春の潮遠音ひびきて奈古の海の富士赤らかに夜明けぬるかな
富士の山浜名の海の葦原の夜明の水はむらさきにして

夢之華
春の海潮時こしと来し波のうへに富士ありほのむらさきに

(大正時代)

晶子新集
富士の嶺のいみじき雪になぞらへぬ子を思ふこと君恋ふること
富士白し及ばずとしてみどりなる磯草に消ゆ茅が崎の雪

草の夢
夕月と富士の雪より射る光霧にみだるる田方の郡
伊豆の山すべて愁ひて潤むなり富士より早く春は知れども
しら玉の富士を仄かにうつしたる足柄山の頂の雪
わが前へ浮漂ひて富士の来ぬうす黄を雲の染むる夕ぐれ
真白なる富士を削りてわれに媚ぶ春の畑毛の温泉の靄

瑠璃光
八月の富士の雪解の水湛へ甲斐の谷村を走る川かな
末遠き桂の川も富士の嶺の雪解の水の行く道にして
本栖湖をかこめる山は静かにて烏帽子が岳に富士おろし吹く
空破れ富士燃ゆるとも本栖湖の青犯されず静かならまし
富士川の白き腕は舞ふ雲と千草の底におぼれはててき
日落つるとともに不思議はかき消えて富士むら山の一つとなりぬ
雲うごく富士ゆゑ心おちゐねば松籟山をいでて眺むる
白雲は富士の珊瑚の頂を少しくだれるきはに臥床す
ほの赤き小舟ばかりの影となり富士のうつれる暮方の水
去る雲も枕さだめて寝る雲もあてに振舞ふ富士の夕ぐれ
富士の嶺の裾野の雲に北海の猟虎の群もまじりてぞ行く
ほととぎすホテルの裏の花畑に臨める富士は紫にして
われいたく異ることを思はずて富士の麓の湖畔にいねん
限りなく富士より雲のひろごりて人ははかなき物思ひする
二三人うすごろも著て遊ぶなり富士に対する赤松の台
赤松が七つの条を引きたれば七間ほどの富士と云はまし
富士にある雲のひかりと赤松の精進の山の相てらす昼
さながらの形に富士をつつみたる真白き雲のをかしき夕
うぐひすや富士の西湖の青くして百歳の人わが船を漕ぐ
船にさすからかさ重し湖へ富士の雲皆おちんとすらん
富士の雲つねに流れて束の間も心おちゐぬ山中の湖
桂川富士よりいでて濁流に終るとな見そ雨降るものを
日の三時雨に引かれて川浪のわりなくまさり富士おろし吹く
東京の廃墟を裾に引きたれば愁ひに氷る富士の山かな
富士の山代代木が原の仮小屋のつらなる上に愁ひつゝ立つ

流星の道
女かと富士あはれなり重げなる雲に胸をば巻かれたるゆゑ
富士おろし及ばぬきはの足柄の岩角に居てその駿河見る
わが馬車は富士の左の緑金の線をかしこみ退きて行く
羅をば脱ぐサロメの舞にならふ富士馬車の口より見て動く富士
富士の嶺も海も不思議のふくろより出でつるものの心地する朝

太陽と薔薇
われも云ふ正月の富士高きかな真白きかなと子等に混りて

梅花集
何れとも白雲台を云ひがたし梅の占むると富士の座なると
暁の富士の朱壁のもとに咲く伊豆の山辺のしら梅の花

霧嶋の歌
王朝の世の富士の嶺の煙ほどくゆるなりけり高千穂の山

心の遠景
新潟の富士が樽をば打つ音のをかしけれども富士貴に過ぐ
足柄と青根の中に富士を見ぬ日もなつかしき尾花山荘
富士小くその頂の見ゆるゆゑ信濃をおもふ配所のやうに
白蘭のごとつややかに富士の見え三浦の霞その下に引く
忽ちに湧き上りたるものなれば富士散りはてんここちこそすれ
姥子の湯古城のごとし九つの藁屋つながり富士と向へる

采菊別集
菊の花富士の尾上の雪のごと一つぞ咲けるゆたかなる葉に


『定本與謝野晶子全集』未収録
つつましく守屋の嶽の裾山に見なせと並ぶ東海の富士
信濃路のあけぼのの雲その中に富士も靡けり一月にして
雪の止み姥子の林ほのかなる富士を上にす岩湯出づれば


秋の雨精進の船の上を打ち富士ほのぼのと浮かぶ空かな
朝の富士晴れて雲無し何者か大いなる手に掃へるごとし

2006年02月25日

松濤明

「山想う心」
華麗、陰惨、明快、幽邃(ゆうすい)、重厚、深遠、平和、兇猛……、山の美は選ぶ人の心により各様である。或る人は富士を佳い山といい、或る人は穂高ほど素晴らしい山はないと言う。高尾山など頼まれても嫌だと言う人もあれば、そのふくよかな谷間をこよなく愛する人もある。しかし、それぞれ評価のすべてを貫いて流れるものは美への好尚であり、押しなべて山想う心である。

別所梅之助

「石を積む」
大きい石の上に石を積むのみか、洞穴などの廻りにも積む。現に蘇峰先生の名となつた阿蘇の火口のほとりに、参詣者たちは岩やら石やらを積み重ねる。これが讚岐に残つてゐる古墳、積石塚などとどういふ関係があるか、私は知らぬ。なにせよ小石をつむやうな所は、里遠からぬ地では、坂路などに多い。従つて之を賽の神に縁ありとする柳田国男氏の説もうなづける。「丘山は卑きを積んで高きをなす」(荘子)だの、「泰山は土石を辞せず、故によくその高きをなす」(管子)だのいふおもひの背景は、何であつたらう。それはすぐ断定もしがたいけれど、山や丘は、その低くなるのを忌む。それで富士などのやうに、山から落ちる砂が夜の間に山にのぼりゆくといふ想もあつたり、石巻山などのやうに、参詣の者は小石を山上に運ぶといふならはしもある。

馬名

中央競馬データベースによる、「フジ」を含む馬名を無条件で列挙する。(2006年2月現在)
※「富士」の意を有するとは限らない。(「藤」などかもしれない)
※「キフジン」のようなものも除外せず残してある。

アドマイヤフジ
イチノフジヒメ
イチフジダイアン
エイシンフジサン
ケージーフジキセキ
シャトルフジ
ジョウショーフジ
セキサンフジ
ターフジェニック
チドリフジ
テンセイフジ
トチノミネフジ
ナリタフジヒメ
ニシノフジムスメ
ハクリュウタケフジ
ハヤノキフジン
ビューテーフジエス
フジアンバーワン
フジエスミリオーネ
フジキセキ
フジクロカミ
フジサイレンス
フジサクラオー
フジシンボリ
フジダイシン
フジノカズサオー
フジノサウスポー
フジノショウブ
フジノストーリー
フジノタカネ
フジノダイヒット
フジノチャーリー
フジノテンビー
フジノハイメリット
フジノハゴロモ
フジノプライアム
フジノマッケンオー
フジノムテキ
フジノモンスター
フジノヤマザクラ
フジノヤマノオー
フジヒカル
フジミケアンズ
フジミハミルトン
フジミパルテノン
フジヤマケンザン
フジヤマゲンスイ
フジヤマシンゲキ
フジヤマスウィープ
フジヤマデュラブ
フジヤマハギタケ
フジヤマビザン
フジヤマビュティー
フジヤマボーイ
フジヤマワイルド
フジラッキーボーイ
フジラピド
フジレインボー
フジワンマンクロス
ボタンフジ
ミフジシーワン
ユウキフジ
アグネスキフジン
イケフジ
イチフジイサミ
ケイエフジュビリー
スズカノフジアロー
チーフジャスティス
チョウチョウフジン
ツキフジレディ
フジエイワン
フジカツラ
フジキガン
フジサンデーズサン
フジゼファー
フジタカリュウエン
フジタカローズ
フジダイヤ
フジノオー
フジノクロフネ
フジノコンドル
フジノシアター
フジノスラッガー
フジノセイガイハ
フジノセンバツ
フジノテンホー
フジノビーム
フジノプロテクター
フジファレノプシス
フジプラウド
フジベル
フジマサミラクル
フジマサリーダー
フジマドンナ
フジヤマエンゼル
フジヤマキセキ
フジヤマグラス
フジヤマグリーン
フジヤマシャープ
フジヤマハクザン
フジヤマヘイザン
フジヤマワカギミ
ヘイローフジ
アサフジ
アシヤフジ
フジオンワード
フジキセキ
フジノパーシア
フジノフウウン
ミネフジ
アイビイフジエス
アサカフジ
アサマフジ
エムエスフジノ
オーフジ
カツフジクイン
カツラフジ
カネフジ
クリフジ
ケンフジ
シガラキフジ
スピードキヨフジ
ターフジェイド
ターフジョイ
タイガーフジ
チヨダフジ
ツカサフジ
ツルフジ
トーヨーフジ
トサハートフジ
トシフジ
ニシノフジエス
ハヤテフジコ
ハヤノキフジン
パーソフジ
ヒガシフジ
フジアザミ
フジアナ
フジアナリッジ
フジイーグル
フジウイン
フジエスコトブキ
フジカマダ
フジカワ
フジコウ
フジサカエ
フジシャーク
フジタカジョウ
フジタカナイス
フジタカレディ
フジチヨ
フジトモエ
フジネバー
フジノアイドル
フジノイチリン
フジノイブキ
フジノサンコー
フジノシャーク
フジノシュンプー
フジノジンライ
フジノスミレ
フジノセビリア
フジノタカ
フジノタカコトブキ
フジノタカコマチ
フジノタチカゼ
フジノダンサー
フジノトップエース
フジノハヤカゼ
フジノバンナ
フジノビート
フジノホーショー
フジノムーリン
フジノリニアー
フジノルージュ
フジノルーラー
フジベンチャ
フジミマドリード
フジャブ
フジランディ
フジリュウ
ブゼンタカフジ
マシフジ
マルフジクイン
ヤマフジビゼン

2006年02月24日

三角錫子

「七里ケ浜の哀歌」(真白き富士の根
真白き富士の根 緑の江の島
仰ぎ見るも 今は涙
帰らぬ十二の 雄々しきみたまに
捧げまつる 胸と心

ボートは沈みぬ 千尋の海原
風も浪も 小さき腕に
力もつきはて 呼ぶ名は父母
恨(うらみ)は深し 七里が浜辺

み雪は咽(むせ)びぬ 風さえ騒ぎて
月も星も 影をひそめ
みたまよ何処(いずこ)に 迷いておわすか
帰れ早く 母の胸に

みそらにかがやく 朝日のみ光り
暗(やみ)にしずむ 親の心
黄金(こがね)も宝も 何しに集めん
神よ早く 我も召せよ

雲間に昇りし 昨日の月影
今は見えぬ 人の姿
悲しさ余りて 寝られぬ枕に
響く波の おとも高し

帰らぬ浪路(なみじ)に 友よぶ千鳥に
我もこいし 失せし人よ
尽きせぬ恨(うらみ)に 泣くねは共々
今日もあすも 斯(か)くてとわに

※三角錫子作詞・Jeremiah Ingalls作曲
解説

平野萬里

「晶子鑑賞」
  雪厚し長浜村の船大工槌打つほどの赤石が岳
これも三津浜で作つたものの一つ、しかしこの歌はほんとうには私によくわからない。それをここへ出したのは、その取り合せが如何にも面白いからである。三津から見た富士は天下第一と云はれる美観だが、あの辺りからはまた低く赤石山脈も見える。浜は桜が満開なのに山は雪で真白だ。

十二年の晩秋、当時唯一軒よりなかつた網代の湯宿佐野家に滞在中の作。座敷の前は直ぐ海で、今日は波が高い。余り音がひどいので硝子戸を立てて見ると急に音が弱つてまるで人なら疲れたもののやうに聞こえる。それも少しさびしいので、また明けると、まるで私を引き裂く様な勢でとび込んでくるといふわけである。この時の歌には 櫨紅葉燃殻のごと残りたる上に富士ある磯山の台 三方に涙の溜る海を見て伊豆の網代の松山に立つ 故なくば見もさびしまじ下の多賀和田木の道の水神の橋 などが数へられる。

  ほのじろくお会式桜枝に咲き時雨降るなる三島宿かな
御会式桜とは池上の御会式の頃即ち柿の実の熟する頃に返り咲く種類の桜のことでもあらうか。旅の帰りに三島明神のほとりを通ると葉の落ちた枝に御会式桜が返り咲いてゐて珍しい、そこへ時雨が降り出した。それは富士の雪溶の水の美しく流れる三島宿に相応はしい光景である。この歌の調子の中にはさういふ心持も響いてゐる。

  遠つあふみ大河流るる国半ば菜の花咲きぬ富士をあなたに
大河は天竜で作者が親しく汽車から見た遠州の大きな景色を詠出したものである。あの頃はまだ春は菜の花が一面に咲いてゐた、その黄一色に塗りつぶされた世界をあらはす為に大河流るるといひ国半ばといふ強い表現法を用ゐたのである。世の中にはをかしいこともあるもので、誰であつたか忘れたが、その昔この歌を取り上げて歌はかう詠むものだといつて直した男があつた。自己の愚と劣とを臆面もなくさらけ出して天才を批判したその勇気には実際感心させられた。

  天地の春の初めを統べて立つ富士の高嶺と思ひけるかな
久能の日本平で晴れ渡つた早春の富士山を見て真正面から堂々と詠出した作。私はそこへ登つたことはないが、ある正月のこれも晴れた日に清水税関長の菅沼宗四郎君と共に三保の松原に遊んでそこから富士を見たことがある。その大きなすばらしい光景を富士皇帝といふ字面であらはし駿河湾の大波小波がその前に臣礼を取る形の歌を作つたことがあるが、この歌ではそんなわざとらしい言葉も使はず、正しく叙しただけで私の言はうとしたと同じ心持がよくあらはれてゐる。私はこの歌によつても私と晶子さんとの距離のいかに大きいかを思つた。ことにその調子の高いこと類がない。又この歌に続く次の二首があつて遺憾なくその日の大観が再現されてゐる。曰く 類ひなき富士ぞ起れる清見潟駿河の海は紫にして 大いなる駿河の上を春の日が緩く行くこそめでたかりけれ

  薄曇り立花屋など声かけん人もあるべき富士の出でざま
やはり鉄舟寺で作つた歌の一つ、その日は薄曇りであつたのに突然雲がきれて富士が顔を出した。それはどうしても羽左衛門といふ形である。大向うから立花屋といふ声がかからないではゐないといふわけである。私は若い時吉井勇君にそのよさを教へられて以来羽左がたまらなく好きになつて、よそながら死ぬまで傾倒したものだから、私にはこの歌の感じが特によく分る。ぱつたり雲を分けて出て来たのはどうあつても羽左でなければならない。

  浜ごうが沙をおほえる上に撤き鰯乾さるる三保の浦かな
三保の松原は昔からの名所であり、羽衣伝説の舞台であり、その富士に対するや今日も天下の絶景である。その三保の松原と鰯の干物とを対照させた所がこの歌の狙ひである。今日の様に一尾一円もする時代では鰯の干物の値打ちも昔日の比でなく、この歌の対照の面白味も少しく減るわけだが、この歌の出来た頃の干鰯の値段は一尾一銭もしなかつただらう。而して最下等の副食物としてその栄養価値の如きは全く無視され化学者達の憤りを買つてゐた時代の話だ。三保の松原の海に面した沙地一面に這ひ拡つた浜ごうの上に又一面に鰯が干されて生臭い匂ひを放つてゐる。その真正面には天下の富士が空高く聳えて駿河湾に君臨してゐる。さうしてそれが少しも不自然でなくよく調和してゐる。普通の観光客なら聖地を冒涜でもするやうに怒り出す所かも知れない、そこを反つて興じたわけなのであらう。

  比が根山秋風吹けど富士晴れず拠なく靡く草かな
十国峠を通るに相当強い秋風が海の方から吹いて来る、けれども中天の雲を吹き飛ばすだけの力はなく富士は曇つた儘姿を現はさない。而してそれに失望するのは自分だけではない、それより富士を拠として日々その生を続けてゐるこの比加根山の草の方が可哀さうだ、頼りなささうに秋風に靡いて居るその姿。十国峠の草山の物足らぬ心持が淋しい位よく出てゐる。

  秋寒し旅の女は炉になづみ甲斐の渓にて水晶の痩せ
秋寒しは、文章なら水晶の痩せて秋寒しと最後に来る言葉である。これは昭和七年十月富士の精進湖畔の精進ホテルに山の秋を尋ねた時の作。富士山麓の十月は相当寒い。旅の女は炉辺が放れられない。しかし寒いのは旅の女許りではない、この甲州の寒さでは、水晶さへ鉱区の穴の中で痩せ細ることだらう。

  鴬や富士の西湖の青くして百歳の人わが船を漕ぐ
大正十二年七月夫妻は富士五湖に遊んだ。精進ホテルはあつたが外人の為に出来てゐたので、日本人の遊ぶものまだ極めて少い時代であつた。西湖なども小舟で渡つたのでこの歌がある。西湖の色は特に青くもあり、環境は一しほ幽邃で仙骨を帯びてゐる許りでなく少しく気味のわるい様相をさへ呈してゐる。そこで舟を漕ぐ船頭迄百歳の人のやうな気がするといふのであらう。

平出修

「計畫」
途が頂上に達する處に一本の松が立つて居る。その木の下まで行けば、向うは眼界がひろくなつて、富士山がすぐ眼近に見える。村の人は富士見の松と云ひならはして居る。二人はそこまで行つて草を藉いて腰を下した。五月の日盛りの空はぼうとして、起伏する駿州の丘陵が霞の中から、初夏の姿をあらはして居る。風が温かく吹いて、二人の少し汗した肌を心持よくさました。

水上瀧太郎

「山を想ふ」
  富士の嶺はをみなも登り水無月の氷のなかに尿垂るとふ
與謝野寛氏の歌だ。近頃の山登の流行は素晴しい。斷髮洋裝で舞踏場に出入し、西洋人に身を任せる事を競ふ女と共に、新興國の産物である。一國の文化に古びがついて來ると、人々は無闇に流行を追はなくなるが、國を擧げてモダアンといふ言葉に不當の値打をつけてゐる心根のはびこる限り、生理的に山などへ登つてはいけない時期にある娘もいつしよになつて神域を汚す事は、活動寫眞じこみの身振と共にすたらないであらう。高きに登りて小便をする程壯快な事は無いと云つた人があるが、女もその快感を味ははんが爲めに、汗臭くなつて健脚をほこり、土踏まずの無い足で富士の嶺を踏つけ、日本アルプスを蹴飛ばすのか。

年齡の關係か、年々海よりも山の姿に心が向くやうになつた。むかし富士山に登つた時、砂走で轉んで擦(すり)むいた膝子(ひざつこ)の傷痕を撫でながら、日本晴の空にそそり立つ此の國の山々の姿を想ひ描くのである。
山といふと、私は第一に淺間山をなつかしく思ふ。燒土ばかりの富士の山は、遙かに下界から仰ぎ見るをよしとする。空氣の固く冷たい信濃の高原の落葉松(からまつ)の林の向うに烟を吐く淺間は生きて居る。詩がある。私はまだ、山の彼方に幸ひの國があると夢見てゐた少年の日に登つた。

雲を破つて日が登つた。もくもくと湧く白雲の海の向うに、はつきりと富士山が見えた。岩のかげから、拍手が起つた。吾々より後から小屋に來て、先に出た連中だつた。

林柳波

「羽衣」
白い浜辺の 松原に
波が寄せたり かえしたり

あまの羽衣 ひらひらと
天女の舞の 美しさ

いつか霞に つつまれて
空にほんのり 富士の山

※林柳波作詞・橋本国彦作曲
※文部省唱歌、昭和16年

海野厚

「背くらべ(せいくらべ)」
柱のきずは おととしの
 五月五日の 背くらべ
粽(ちまき)たべたべ 兄さんが
 計ってくれた 背のたけ
きのうくらべりゃ 何のこと
 やっと羽織の 紐(ひも)のたけ

柱に凭(もた)れりゃ すぐ見える
 遠いお山も 背くらべ
雲の上まで 顔だして
 てんでに背伸(せのび) していても
雪の帽子を ぬいでさえ
 一はやっぱり 富士の山

※海野厚作詞・中山晋平作曲

謡曲 富士太鼓

「富士太鼓」
富士浅間いづれも面白き名なり。さりながら古き歌に、信濃なる浅間の嶽も燃ゆるといへば。
富士の煙のかひや無からんと聞く時は。名こそ上なき富士なりとも。

雲の上なほ遥なる。富士の行方をたづねん。

さしも名高き富士はなど、煙とはなりぬらん。今は歎くに其かひもなき跡に残る思子を。見るからのいとゞ猶すゝむ涙はせきあへず。

持ちたる撥をば剣と定め、瞋恚の焔は太鼓の烽火の、天にあがれば雲の上人。誠に富士颪に絶えず揉まれて裾野の桜。四方へばつと散るかと見えて。花衣さす手も引く手も。

日も既に傾きぬ。/\。山の端をながめやりて招きかへす舞の手の。うれしや今こそは。思ふ敵は打ちたれ。打たれて音をや出すらん。我には晴るゝ胸の煙。富士が恨を晴らせば涙こそ上なかりけれ。

※登場人物に富士、富士の妻、富士の女などあるが、富士山に関連する部分など適当に抜粋。

沢村専太郎(沢村胡夷)

「紅萌ゆる丘の花(三高逍遥の歌)」

紅萌ゆる丘の花 早緑(さみどり)匂う岸の色
 都の花に嘯(うそぶ)けば 月こそかかれ吉田山
緑の夏の芝露(しばつゆ)に 残れる星を仰ぐ時
 希望は高く溢れつつ 我等が胸に湧返る
千載(せんざい)秋の水清く 銀漢(ぎんかん)空にさゆる時
 通える夢は崑崙(こんろん)の 高嶺の此方(こなた)ゴビの原
ラインの城やアルペンの 谷間の氷雨なだれ雪
 夕べは辿る北溟(ほくめい)の 日の影暗き冬の波
嗚呼故里よ野よ花よ ここにも萌ゆる六百の
 光も胸も春の戸に 嘯き見ずや古都の月
それ京洛(けいらく)の岸に散る 三年(みとせ)の秋の初紅葉
 それ京洛の山に咲く 三年の春の花嵐
左手(ゆんで)の書(ふみ)にうなずきつ 夕(ゆうべ)の風に吟ずれば
 砕けて飛べる白雲(はくうん)の 空には高し如意ケ嶽
神楽ケ岡の初時雨 老樹の梢伝う時
 檠燈(けいとう)かかげ口誦(くちずさ)む 先哲至理の教(おしえ)にも
嗚呼又遠き二千年 血潮の史(ふみ)や西の子の
 栄枯の跡を思うにも 胸こそ躍れ若き身に
希望は照れり東海の み富士の裾の山桜
 歴史を誇る二千載(にせんざい) 神武の子等が立てる今
見よ洛陽の花霞 桜の下(もと)の男の子等が
 今逍遥に月白く 静かに照れり吉田山

※沢村専太郎作詞・K.Y.作曲

まど・みちお

「一年生になったら」から抜粋

一年生になったら
一年生になったら
ともだち100人 できるかな
100人で 食べたいな
富士山の上で おにぎりを
パックン パックン パックンと

※まど・みちお作詞・山本直純作曲

宮沢賢治

「文語詩稿 一百篇」
浮世絵
ましろなる塔の地階に、 さくらばなけむりかざせば、
やるせなみプジェー神父は、 とりいでぬにせの赤富士
青瓊(ぬ)玉かゞやく天に、 れいろうの瞳をこらし、
これはこれ悪業(あく)乎(か)栄光(さかえ)乎(か)、 かぎすます北斎の雪。


「春と修羅」
雲は白いし農夫はわたしをまつてゐる
またあるきだす(縮れてぎらぎらの雲)
トツパースの雨の高みから
けらを着た女の子がふたりくる
シベリヤ風に赤いきれをかぶり
まつすぐにいそいでやつてくる
(Miss Robin)働きにきてゐるのだ
農夫は富士見の飛脚のやうに
笠をかしげて立つて待ち
白い手甲さへはめてゐる もう二十米だから
しばらくあるきださないでくれ
じぶんだけせつかく待つてゐても
用がなくてはこまるとおもつて
あんなにぐらぐらゆれるのだ

宮本百合子

「なつかしい仲間」
マア、おけいちゃん! 手をつかまえて、玄関のわきの自分の小部屋へ入って、膝をつきつけて、どうしたのよ、手紙もよこさないで、と云うと、おけいちゃんは富士額の生えぎわを傾けて、やはりおとなしく御免なさいね、とあやまるのであった。そして、ゆっくりした口調で、私神戸の方へ行っていたの、と云った。


「二つの庭」
けれども、佐々の家には一軒の貸家も、収入となる一ヵ所の地所もなかった。それがあれば、ひとりでに儲かってゆくというような家とか地面とかをためていなかった。そういう点で泰造の生活態度は仕事に自信のある技術家らしい淡白さだった。多計代がむしろそういう点に用心ぶかさと積極性をもっていた。それにしろ十何年も昔、多計代がひどく意気込んで雪の日に見に行って買った北多摩の地面は、四季を通じてそこから富士が素晴らしくよく見えるというのがとりえなばかりで、地価さえろくにあがらず、今だに麦畑のままであった。


「国際観光局の映画試写会」
五月十九日の朝。日比谷映画劇場へ、国際観光局の映画の試写を見に行った。「富士山」、「日本の女性」。
そのとき挨拶をしたのは観光局の役人で、スマートなダブルの左右のポケットへ両手の先を入れた姿勢でラウドスピイカアの前へ立ち、この二つの作品では特別音楽に力を注いだということの説明があった。


「実感への求め」
先月、日比谷映画劇場で、国際観光局が海外宣伝映画試写会をもよおした。「富士山」と「日本の女性」という二つの作品で、其映画のはじまる前に、映画製作に直接関係した課の長にあたる人の挨拶があった。これまでの日本の映画音楽がよくなかったので、この二つには特に新進の作曲家たちの労作を得た。


「小祝の一家」
祖父ちゃんとミツ子を紐でおんぶった祖母ちゃんとが、火葬場からアヤのお骨をひろってかえって来た。
祖母ちゃんは、戸棚の奥へ風呂敷包みをつみかえ、前の方だけあけ、そこへ水色の富士絹の風呂敷をひろげてアヤのお骨壺をのせた。


「山峡新春」
なるほど天城街道は歩くによい道だ。右は冬枯れの喬木に埋った深い谷。小さい告知板がところどころに建っていて、第×林区、広田兵治など書いてある。その、炭焼きか山番かであろう男が一人いる処は、向う山か、遙かな天城山の奥か。
或る角で振返ったら、いつか背後に眺望が展け、連山の彼方に富士が見えた。頂の雪は白皚々、それ故晴れた空は一きわ碧く濃やかに眺められ、爽やかに冷たい正月の風は悉くそこから流れて来るように思えた。


「播州平野」
東京を立つ前、ひろ子は土産ものをさがして銀座の三越へ入った。がらん洞に焼けた地階のほんの一部分だけを、ベニヤ板や間に合わせのショウ・ケースで区切って、当座の売場にしてあった。紙につつんだ丈の口紅や、紙袋入りの白粉が並べられたりしている。一方の隅に、アメリカのどんな避暑地にある日本土産品店よりも貧弱な日本品陳列場が出来ていた。白樺のへぎに、粗悪な絵具で京舞妓や富士山を描いた壁飾。けばけばしい色どりで胡魔化した大扇。ショウ・ケースに納められているのは、焼けのこったどこからか集めて来た観光客向の縮緬(ちりめん)紙に印刷された広重の画や三つ目小僧がつづらから首を出している舌切雀のお伽草子類である。


「村の三代」
三春富士と安達太郎山などの見えるところに昔大きい草地があった。そして、その草地で時々鎌戦さが行われた。あっち側からとこっち側からと草刈りに来る村人たちは大方領主がそれぞれちがっていて、地境にある草地の草を、どっちが先に刈るかというような争いから、丁髷を振り立てて鎌戦さになることがあったのだろう。

まだ荒漠としている開墾の遙か彼方の山並の上に三春富士を眺め、その下に連る古い町々の人煙を見ながら、松林の中へ三層楼の役場を建てた当時の人々の感情のなかには、明治というものがどんなに明るく、広く、真直な美しさをもってうちひらけ、描かれていたかが実に髣髴とするようである。


「正義の花の環――一九四八年のメーデー――」
去年十二月下旬日本銀行の紙幣発行高は、凡そ二〇〇〇億円であった。この二千億という紙幣を百円札で八割、十円札二割とすると、面積六六万平方キロ。長さ八二万キロで地球のまわりの長さの二十倍。高さ富士山の百二十倍。この二千億を日本の総人口七千万と仮定すると一人が三千円ずつもっていられるはずである。ところが、実際にはどこへ金が吸いこまれてしまっているのだろう。正業にしたがっているものは、税、税の苦しみで、片山首相が「間借り」で都民税一二〇円ですましていられたことを羨んだ。


「獄中への手紙」一九三七年(昭和十二年)
この家は、同じ方角できっといい月が眺められるでしょう。きのうあたり夕月がきれいでした。晴天だと、遠く西日のさす頃、富士も見えます。

正月早く、あなたには突然のように私が引越したのは、Nが正月頃傾向がわるく家をあけ(飲んで)そういうときは私が煙ったく、煙ったいと猶グレるので、Kのやりかたがむずかしいこともありありと分って一層早くうつったのでした。この目白の家が割合よかったこともあって。ここは、先の家の一つ先の横丁を右に入った右の角のところで、小さい家です。でも、夕刻晴天だと富士が見えます。交通費がやすくすむので何より助かります。バスで裁判所や市ヶ谷へゆけるの。

八月二十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(国立公園富士箱根大涌谷の絵はがき)〕

十月十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(琴平名所の金比羅高台より讚岐富士を望む絵はがき)〕


「獄中への手紙」一九四〇年(昭和十五年)
二月九日  第十三信
うちの時計が十三分ばかり進んでいるらしいけれども、午後の四時すこしすぎ。
きょうは西の方に真白い富士がよく見えました。とけのこった雪が家々の北側の屋根瓦や軒に僅ずつのこっていて、そこをわたって来る風はつめたいけれども日光は暖い、いかにも早春のような日和です。

おや多賀ちゃんがかえって来た、困った、富士もサクラもないらしい。今夕わかりますが。では又ね、呉々お大切に。

けさのこの小散歩でやっと田舎に来たらしい気になりました。多賀子はこれから広島へゆきます、例のお話していたたか子の友達ね、あのひとにあって、大体の意中をきくために。ついでにみやげのレモンを買い、東京迄の寝台券を買うために。十三日の寝台で十四日朝ついて、すぐそちらに行くしかないことになりましたから。サクラ、富士、どっちも駄目ですから。東京からの汽車はまだいくらかましですが、こちらから東京へは全くひどいこみようです、寝台もあるかしら。これさえあやしいのです。全くお話の外です。

八月三十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(国立公園富士・三保松原の写真絵はがき)〕

九月七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(○満州国民衆風俗「路傍の肉屋」、○国立公園富士・鈴川より「橋畔に立ちて」、○国立公園富士・清水港より「港から」の写真絵はがき)〕


「獄中への手紙」一九四三年(昭和十八年)
一月三日 〔豊島区西巣鴨一ノ三二七七巣鴨拘置所の宮本顕治宛 本郷区林町二十一より(代筆 牧野虎雄筆「春の富士」の絵はがき)〕

藤田嗣治の絵は、変にアジア人の特徴を出して、泥色の皮膚をした芸者なんか描いていていやでしたが、国男さんが十七年版の美術年鑑を買ったのを見たらば、そこに戦争絵がアリ、原野の戦車戦、ある山嶽の攻略戦等の絵がありました。目をひかれたのは、藤田が昔の日本人の合戦絵巻、土佐派の合戦絵図の筆法を研究して、構成を或る意味で装飾的に扱っていることです。更に気がついたのは、その構成にある大きさ、ゆとり、充実感が、こういう絵の求めるわが方の威力というものを表現する上に実に効果をあげています。山嶽攻略なんか、北斎の富士からヒントでも得たかと思うほど、むこうの山を押し出して、山の圧力が逆作用でこちらの圧力を転化する構成です。


「獄中への手紙」一九四五年(昭和二十年)
さて、きょうは三十一日になりました。朝八時すぎにこうした手紙をかきはじめるというようなことは珍しゅうございます。けさ八時に国が富士というところへゆくために出発したのでこんな時間が出来ました。

けさは七時すぎサイレンで起きましたが、ありがたいことに来ず。又午後かしら。午後はBだからいやね。動坂の家の先に富士神社があったでしょう、きのう以来、あのあたりもあったところということになりました。うちのすぐ前の交番の横通り。こんどはあすこよ。なかなかでしょう? 昨夜は、ローソク生活でした。今夜つくかしら。水道・ガスなしです。そちらは灯つきましたろうか。


「禰宜様宮田」
ところどころ崩れ落ちて、水に浸っている堤の後からは、ズーとなだらかな丘陵が彼方の山並みまで続いて、ちょうど指で摘み上げたような低い山々の上には、見事な吾妻富士の一帯が他に抽(ぬきん)でて聳(そび)えている。
色彩に乏しい北国の天地に、今雪解にかかっているこの山の姿ばかりは、まったく素晴らしい美しさをもって、あらゆるものの歎美の的となっているのである。


「舗道」
エスペラントの講習会はそこの一室である。
ミサ子が富士絹の風呂敷づつみを抱え、ソッとドアをあけて入って行くと、荒板を打ちつけて拵えたベンチにかたまって板をしわらせながらかけている連中の中から菅が、
「ヤア……ちょうどいいところだ、早く来なさい。みんな食っちまうヨ!」
と大きな晴ればれした声で呼びかけた。


「道標」
「ああいう連中はね」
川瀬勇が、云った。
「下宿の神さんや娘や、その他おなじみの女たちに、せいぜい刺繍したハンカチーフだの何だのやっちゃ、大いに国威を発揚していたのさ。富士山(フジヤマ)だの桜だのってね。そこへ、『シャッテン・デス・ヨシワラ』に出られちゃ、顔がつぶれるっていうわけさ、被害甚大ってわけさ。まさか見るな、とも云えまいしね。御婦人連は、おあいそのつもりで、わいわい云うんだろうし……」


「金色の秋の暮」
帰途、富士を見た。薄藍のやや低い富士、小さい焔のような夕焼け雲一つ二つ。


「長寿恥あり」
アメリカへ行くとのぼせて、日本人に向っておかしなことをいう日本人は、冬のさなかにサン・グラスをつけて、フジヤマ・スプレンディッド(素晴らしい富士山)と叫んだ田中絹代ばかりではない。池田蔵相もだいぶおかしくなったらしい。尾崎行雄は年甲斐もなく亢奮して、日本の国語が英語になってしまわなければ、日本で民主精神なんか分りっこないと放言しているのには、日本のすべての人がおどろいた。元来民主主義は英語の国から来たものだからだそうだ。

葛原しげる

「中野学園(明治大学付属中野中学校・高等学校) 校歌」
○日に幾度か麗はしく
 色こそかはれ 芙蓉峰
 霞に雲に はた雪に
 千古の容姿 動き無く
 質実剛毅 さとすなり

※3番あるうちの2番
※作詞葛原しげる/作曲納所辨次郎


「羽衣」
あれ天人(てんにん)は 羽衣(はごろも)の
舞を舞い舞い 帰り行(ゆ)く
風に袂(たもと)が ヒラヒラと
羽根に朝日が キラキラと
松原こえて 大空の
霞に消えて 昇り行く

あれかくれ行く 松原は
三保の浜辺か なつかしや
浜の漁師は 安らかに
栄え栄えよ いつまでも
日本一の 富士山も
霞の下に 消えてゆく

※葛原しげる作詞・梁田貞作曲

2006年02月23日

三木鶏郎

「僕は特急の機関士で」(東海道の巻)から抜粋
右に見えるは 富士の山
左に見えるは 駿河湾
仲をとりもつ 展望車
沼津食わずの 三等車
東京 京都 大阪
ウ ウウウウ ウウウ ポポ

※三木鶏郎作詞・作曲

林不忘

「丹下左膳」日光の巻
大は、まず小より始める。
富士の山も、ふもとの一歩から登りはじめる……という言葉がある。
日本の世直しのためには、まずこの江戸の人心から改めねばならぬ。
それには、第一に、この身辺のとんがり長屋の人気を、美しいものにしなければならない。
と、そう思いたった泰軒先生。

沼津名物、伊賀越え道中双六の平作と、どじょう汁。
品川から十三番目の宿場ですな。
三島からくだり道で、沼津の町へはいりますと、
「どうだい、右に見えるのが三国一の富士の山、左は田子の浦だ。絶景だなア!」
お壺の駕龍が千本松原へ通りかかると、お壺休み。つきしたがう侍たちは、松の根方や石の上に腰をかけて、あたりの景色にあかず見入っています。

作詞不詳

「アルプス1万尺」

アルプス1万尺 小槍の上で
アルペン踊りを 踊りましょう
ランラララ ララララ
ランラララ ラララ
ランラララ ララララ
ラララララ

きのうみた夢 でっかい小さい夢だよ
蚤(のみ)がリュックしょって 富士登山
ランラララ ララララ
ランラララ ラララ
ランラララ ララララ
ラララララ

1万尺に テントを張れば
星のランプに 手が届く
ランラララ ララララ
ランラララ ラララ
ランラララ ララララ
ラララララ

※作詞不詳・アメリカ民謡
※多数の替え歌がある

樋口一葉

「ゆく雲」
我が養家は大藤村の中萩原とて、見わたす限りは天目山大菩薩峠の山々峯々垣をつくりて、西南にそびゆる白妙の富士の嶺は、をしみて面かげを示めさねども冬の雪おろしは遠慮なく身をきる寒さ、魚といひては甲府まで五里の道を取りにやりて、やう/\まぐろの刺身が口に入る位、あなたは御存じなけれどお親父(とつ)さんに聞て見給へ、それは隨分不便利にて不潔にて、東京より歸りたる夏分などは我まんのなりがたき事もあり、そんな處に我れは括(くく)られて、面白くもない仕事に追はれて、逢ひたい人には逢はれず、見たい土地はふみ難く、兀々(こつ/\)として月日を送らねばならぬかと思に、氣のふさぐも道理とせめては貴孃(あなた)でもあはれんでくれ給へ、可愛さうなものでは無きかと言ふに、あなたは左樣仰しやれど母などはお浦山しき御身分と申て居りまする。

原勝郎

「東山時代における一縉紳の生活」
そもそも連歌師の常とはいいながら、宗祇の旅行は、その回数においても、はたまたその範囲においても、共にすこぶる驚くに足るものであり、関東には七年も遍歴し、十一箇国それぞれの場所から富士山を眺めて、なかんずく筑波山から見るが最もよいと断定したほどの大旅行家で、したがって方言にも精通し、かつて実隆に『京ニ筑紫ヘ坂東サ』などの物語をしたこともある。

林芙美子

「放浪記」(初出)
十一月×日
○富士を見た
 富士山を見た
 赤い雪でも降らねば
 富士をいゝ山だと賞めるに当らない。
 あんな山なんかに負けてなるものか
 汽車の窓から何度も思った徊想
 尖った山の心は
 私の破れた生活を脅かし
 私の瞳を寒々と見降ろす。
○富士を見た
 富士山を見た
 烏よ!
 あの山の尾根から頂上へと飛び越えて行け!
 真紅な口でカラアとひとつ嘲笑ってやれ
○風よ!
 富士はヒワヒワとした大悲殿だ
 ビュン、ビュン吹きまくれ
 富士山は日本のイメージーだ
 スフィンクスだ
 夢の濃いノスタルジヤだ
 魔の住む大悲殿だ。
○富士を見ろ!
 富士山を見ろ!
 北斎の描いたかつてのお前の姿の中に
 若々しいお前の火花を見たが…………
○今は老い朽ちた土まんじゅう
 ギロギロした瞳をいつも空にむけているお前――
 なぜやくざな
 不透明な雲の中に逃避しているのだ!
○烏よ! 風よ!
 あの白々とさえかえった
 富士山の肩を叩いてやれ
 あれは銀の城ではない
 不幸のひそむ大悲殿だ
○富士山よ!
 お前に頭をさげない女がこゝに一人立っている
 お前を嘲笑している女がここにいる
○富士山よ
 富士よ!
 颯々としたお前の火のような情熱が
 ビュンビュン唸って
 ゴウジョウな此女の首を叩き返えすまで
 私はユカイに口笛を吹いて待っていよう。
私はまた元のおゆみさん、胸にエプロンをかけながら、二階の窓をあけに行くと、ほんのひとなめの、薄い富士山が見える。


「夜福」
昨夜はまんじりともしなかつたけれども、兎に角、一晩たつたといふことは、福へ對しての怒りを、ほどよく冷ますのに十分であつた。
今、眼の前に見る福といふ女は、久江にはきれいに見えた。赤ん坊もよくふとつて、清治に生うつしである。
富士山のやうに盛りあがつた小さい唇に、蟹のやうにつばきをためながら、青く澄んだ眼を久江へ呆んやり向けた。久江が思はず手を出すと、赤ん坊は思ひがけないあどけさで兩の手を久江の方へのばして來るのである。


「谷間からの手紙」
「これ‥‥」
さう言つて、富士山の模様の風呂敷から、萄葡と固パンを出して私の膝に載つけましたので、私はチヨコレートの犬の尻つぽをお返しにしました。すると、兵隊さんは、その犬の尻つぽをひと口に頬ばつて、私の足をきつと踏みました。
「痛いわ!」
さう小さい声で言つたんですけど、兵隊さんはまるで赤い地図のやうに首筋から血を上せて、顔をあかくしました。

長谷川時雨

「明治美人伝」
とはいえ、徳川三百年の時世にも、美人は必ずしも同じ型とはいえない。浮世絵の名手が描き残したのを見てもその推移は知れる。春信、春章(しゅんしょう)、歌麿、国貞と、豊満な肉体、丸顔から、すらりとした姿、脚と腕の肉附きから腰の丸味――富士額――触覚からいえば柔らかい慈味のしたたる味から、幕末へ来ては歯あたりのある苦みを含んだものになっている。

ぽんたは貞節の名高く、当時大阪の人にいわせると、日本には、富士山と、鴈次郎(大阪俳優中村)と、八千代があるといった。富田屋八千代は菅(すが)画伯の良妻となり、一万円とよばれた赤坂春本の万竜も淑雅(しゅくが)な学士夫人となっている。祇園の歌蝶は憲政芸妓として知られ、選挙違反ですこしの間罪(つみ)せられ、禅門に参堂し、富菊は本願寺句仏上人(くぶつしょうにん)を得度して美女の名が高い。


「柳原子(白蓮)」
だが、わたしは、そのおりの印象を、ふらんすの貴婦人のように、細(ほそ)やかに美しい、凛としているといっている。そして、泉鏡花さんに、『踏絵』の和歌(うた)から想像した、火のような情を、涙のように美しく冷たい体で包んでしまった、この玲瓏たる貴女(きじょ)を、貴下(あなた)の筆で活(いか)してくださいと古い美人伝では、いっている。貴下のお書きになる種々な人物のなかで、わたくしの一番好きな、気高い、いつも白と紫の衣(きぬ)を重ねて着ているような、なんとなく霊気といったものが、その女をとりまいている。譬えていえば、玲瓏たる富士の峰が紫に透(す)いて見えるような型の、貴女をといっている。これはだいぶ歌集『踏絵』に魅せられていた。


「一世お鯉」
お鯉さんは朝のままで、髪も結いたてではなかった。別段おめかしもしていなかった。無地の、藍紫(あいむらさき)を加味したちりめんの半襟に、縞のふだん着らしいお召と、小紋に染めたような、去年から今年の春へかけて流行(はや)ったお召の羽織で、いったいに黒ずんだ地味なつくりであった。
かわらないのは眉から額、富士額の生際(はえぎわ)へかけて、あの人の持つ麗々しい気品のある、そして横顔の可愛らしさ、わたしは訪ねて来て、近々と見ることの甲斐のあったのをよろこんだ。


「最初の外国保険詐欺」
後に金瓶大黒は娼妓(しょうぎ)も二、三人になり、しがなくなって止めたそうだが、浅草観世音仁王門わきの弁天山の弁天様の池を埋めたり、仲見世を造ったり、六区に大がかりな富士山の模型をつくったりした。公園事務所長は初代が福地桜痴(ふくちおうち)居士、二代目が若い方の金兵衛さんだときいた。


「木魚の配偶」
「でも水で大変だろう。」
「うん、床が高いけれど、座ってる胸のところへ来ている。」
「硫黄をみんな二階へあげてあげるといっておくれ。」
「こっちへ連れて来たいが、老人(としより)だから流されるだろう、とても甚(ひど)いや、僕でもあぶない。」
私は突嗟(とっさ)に富士登山の杖が浮いてるのをとって、窓の外の弟にわたした。
水が引いたあと、ヘドロを掻くのと、濡れた衣物(きもの)や書籍が洗いきれずに腐って、夜になると川へ流して捨てた。

「イヨウ、綺麗になりやがあったな、弁天様だぞ。」
酒をもひとつというように口をあけた。そして露を吸うように、垂らされる雫が舌のさきに辷(すべ)ると、
――富士の、白さけ……
と幽(かすか)な幽な声で転がすように唄った。正(まさ)しく生ているおりなら、笑みくずれるほどに笑ったのであろう。唇をパクリとした。


「神田附木店」
おしょさんは、その部屋の、真中の柱に、長い柱鏡のかかっている前に、緋(ひ)の毛せんを敷いて二面の二絃琴にむかって座っている。すべての小道具は、燦然(さんぜん)とみな磨かれて艶々(つやつや)している。座ぶとんの傍に紫檀(したん)の煙草盆があって、炉扇(ろせん)でよせられた富士山形の灰の上に香(こう)がくゆっている。

2006年02月22日

萩原朔太郎

「蝶を夢む」より

榛名富士

その絶頂(いただき)を光らしめ
とがれる松を光らしめ
峰に粉雪けぶる日も
松に花鳥をつけしめよ
ふるさとの山遠遠(とほどほ)に
くろずむごとく凍る日に
天景をさへぬきんでて
利根川の上(へ)に光らしめ
祈るがごとく光らしめ。

野上豐一郎(野上豊一郎)

「吹雪のユンクフラウ」
私たちの立ってるすぐ上の軒庇から黒い鳥が二羽三羽と吹雪の中を飛び下りて来てはまた飛び上って行く。烏に似て烏よりは小さく、鳩よりは大きい。名前を聞いたらベルクドーレ(山がらす)というのだそうだ。私たちはすぐ目の前にユンクフラウの本体を仰ぎながら、富士より三九〇米高く、新高より二一六米高いその俊峰を卍(まんじ)巴の雪花の中に見失い、しばらく償われない気持で立ちつくした。


「エトナ」
エトナの遠望は孤立したところは富士に似て居り、その高さ(三三〇〇米)も富士に近いが、富士よりも大きく根を張って、裾野が直接海の中へ走り込んでるのと、残雪の間から噴煙を立てているのがちがう。登って見ると幾つも峰があったり、熔岩流が無数にあったりするけれども、直径二五キロを距てたタオルミーナから眺めると、山容はなだらかな線となって、海の紺碧との調和が譬えようもなく美しい。


「日本文學と外來思潮との交渉(四)西洋文學」
例へば明治十三年刊行の橘顯三譯「春風情話」(スコットの「ラマムアの花嫁」)の人物が讀本(よみほん)や草双紙の如き日本風俗の男女に描かれたり、明治十九年刊行の「天路歴程」が、口繪には西洋風な原作者の銅版肖像が入れてありながら、中にはちよん髷の老人や、ざんぎり頭に羽織を着て下駄をはいた紳士が出たり、從道と名乘るクリスチャンが新田義貞の如き甲冑に身を固め日本刀を拔いて、蝙蝠の如き翼を張つて毒矢をかざした惡魔アポリオンと格鬪して居ると、その背景に富士山が見えてゐたりする。斯くの如き適應性が果して當時尚ほ必要であつただらうか。疑なきを得ない。


「湖水めぐり」
吉田から先は少し歩かうと云ふことであつたけれども、わぎわざ歩くほどの價値もなささうな所だから、それに、歩くとなると槇村君の提げて來た大きなカバンのために人夫を一人傭はねばならぬので、矢張り鐵道馬車で出かける事にした。桑と黍と小松の間の下り道をのろのろと一頭の馬が首を振り振り曳いて行くのである。富士は曇つて裾野だけが明るく展けてゐた。

私と青楓君は浴衣に着替へて湖水を眺めたり雲に蔽はれた富士を見たりしてゐたが、まだ日が高くて二階には相當のほてりがあり、外へ出て見たところで大してしようもなささうだから、(實際、河口湖は平凡である、)やがて歸つて來た兩君と一緒になつて寢ころびながら、例の大カバンの中から罐詰のソオセイジを取り出したり、ミルクココアをこさへたりして雜談に耽つた。

九時半。富士は昨日よりよく見えたが、それでも顏だけはヴェイルを取らなかつた。六合目か七合目かの石室が肉眼でもよく見えた。馬返しの附近にはもう登山の群が見える頃だといふので、舟の中から頻りに望遠鏡をのぞいたけれども、なんにも見えなかつた。

長濱に上るとすぐ道は上りになり、照りつける日は熱かつたけれども、三十分の後には私達は鳥坂峠の頂上に立つてゐた。其處から今渡つて來た河口湖を後に見下し、これから横ぎらうとする西湖を目の下に見やつた眺めは、恐らくいつまでも忘れられないであらう。更に、西湖の向に青木ヶ原の樹海を見渡し、それに續く丘陵の先に龍ヶ嶽(その頭は富士と同じやうにまだ雲の中に隱れてゐた)を見た景色は、たとへば、此處から引返すとしても私たちは此の旅行を後悔しないだらうと思はれる程度のものであつた。

西湖は周りにすぐ山が迫つて、河口湖よりは暗いけれども、それだけ靜寂の氣に多く充ちて、私には高く値ぶみされる。けれども舟で渡るよりも、鳥坂峠から見下した景色の方が遙かによい。舟で行くと、その間に富士が斷えず見えてゐるのがうれしい。

私たちの集まつてゐた窓の前にはまつすぐな赤松が何本も立つて、その間から、肩を稍〃そばめ加減にして端坐した富士孃の、全身に夕日を浴びてまぶしさうにしてゐる姿が、時間の進むにつれてだんだんと近くなつて來るやうに見えた。

さうしてまた窓ぎはに椅子を寄せて明日の旅程についてさつきのつづきを話し合つた。馬で大宮方面へ出ることだけはきまつてゐるが上井出から先は鐵道馬車があるさうだから、馬は上井出まで(六里半とも七里ともいふ)にして、大宮に泊るか、身延へ(輕便鐵道で)出るか、それとも吉原へ行つて泊るか、或ひは富士驛に出て終列車で東京へ歸るか、と云つた風に、皆んなが別別の意見を持つてゐるだけならまだよいが、一人で幾つもの意見を持つてゐる者があるので、小田原評定に終つてしまつた。

私は輕井澤から追分へかけての高原を歩いたこともあり、妙高山の高原を歩いたこともあるけれども、これほどの雄大な高原はまだ見たことがなかつた。富士は半分以上雲の中に隱れてゐたが、右の方にすぐ龍ヶ岳が聳えて、その山と富士の中間の臺地が私たちの前に限りなく遠くまで起伏してゐるのである。皆んな口口に、いいね、いいね、と叫んだ。どこを見ても一面の草原で、その間に秋草が咲いて、なでしこの色が湖水の縁のよりも一きは濃く、ところどころに菖蒲の咲いてゐるのも珍らしかつた。

結局、大宮には登山客が雜沓するだらうから泊らないといふことだけをきめて、大宮から富士驛までの切符を買つた。
富士身延の輕便鐵道は思つたより乘心地がよかつた。大宮町の停車場で、休刊してゐた東京の新聞が出てゐたことと、敷島が十五錢になつたことを知つて、なんだか二三日の間に世間から遠くなつてゐたやうに思はれた。汽車の中で梨子をむいて食べながら、とにかく今夜は海道の何處かへ泊まり、明日東京へ歸ることにしようと一決した。それで、切符は東京までのを買つたけれども、富士驛で乘り換へ、沼津で下りた。

2006年02月21日

民謡

「デカンショ節」から抜粋
丹波篠山 山家の猿が
ア ヨイヨイ
花のお江戸で 芝居する
ヨーイヨーイ デッカンショ

酒は飲め飲め 茶釜でわかせ
ア ヨイヨイ
お神酒あがらぬ 神はない
ヨーイヨーイ デッカンショ

霧の海から 丹波の富士
ア ヨイヨイ
ぼかし絵のように 浮び出る
ヨーイヨーイ デッカンショ

※兵庫篠山地方

画像埋め込みテスト

1961年の日別気象グラフです。見にくい?

1961.gif

2006年02月18日

「梅」の句

臘梅や不二にも重き空の青 三田逃水

ロウバイは蝋梅と書いたり臘梅と書いたりします。このパソコンのFEPでは「蝋燭」「蜜蝋」などと「蝋」に変換されてしまいます。
この花は江戸初期に渡来したものだとか。蜜臘でできたような外観、という説と、臘月(12月の異名)に咲くから、という説があるようです。工芸品のような花弁、香りが印象的です。


梅の上に聳ゆ富嶽も相模ぶり 吉田素抱


星ぞらに下田富士あり梅匂ふ 宮下翠舟

下田富士は下田にある高さ200m弱の富士山に形状が似た山。浅間神社をもあり、民話(「姉妹富士」)では、駿河富士(富士山=コノハナサクヤヒメ)、八丈富士(八丈島にある)と3姉妹の関係にあります。


暮るるまで富士に雲なし探梅行 福田蓼汀

「探梅」は、ほころび始めた梅を見に出かけることで、晩冬に使われやすい季語です。「探桜」という言葉が使われないことを思えば、その趣はそのときだけの大切なものですね。百田宗治の「どこかで春が」をふと思ってしまいましたが、それより探梅はずっと積極的な行為ですね。

どこかで春が 生まれてる
  どこかで水が 流れ出す
どこかで雲雀が 啼いている
  どこかで芽の出る 音がする
山の三月 東風吹いて
  どこかで春が 生まれてる
(百田宗治「どこかで春が」、大正12年)

下河辺長流

富士の嶺に 登りて見れば 天地(あめつち)は
  まだいくほども わかれざりけり

下河辺長流

鯛屋貞柳

富士の山 夢に見るこそ 果報なれ
  路銀もいらず くたびれもせず

鯛屋貞柳

村田清風

来てみれば 聞くより低し 富士の山 釈迦も孔子も かくやあるらん

村田清風(wikipedia)

中桐雅夫

「一九四五年秋供廖 腹部分引用)
夕焼けのなかの
一枚の紙幣のようなくろい富士
その麓まで
あかく錆びた草が一面に繁茂し
たがいに絡みあって、風に身をよじらせている
みにくい無数の虫が
無数のちいさい穴を掘って、必死にかくれようとしている
だが、風はなにものをも見逃しはしない

内藤湖南

「日本文化とは何ぞや」(其一)
最近富士山の何處かで、神代の記録を發見し、神武以前幾十代かの事蹟が記してあるとて宣傳する者があり、又それを信ずる者もあつて、歴史を假裝したものと、眞の歴史との區別を判斷し得ない多數の人々があるやうである。東京に於ても何某の行者といふやうなものに、所謂上流社會に餘程の勢力を有するものもあり、古事記等を非學術的に解釋して官吏、軍人其他の信仰を集めたものもある。此等が現代日本の民衆の歴史なり、道徳なりに關する智識なりとすれば、明治の初年以來、五十年間、日本文化の基礎たる民衆の智識が進歩せるや否やを疑はざるを得ない。

徳田秋声

「あらくれ」
おゆうは、浮気ものだということを、お島は姉から聞いていたが、逢ってみると、芸事の稽古などをした故(せい)か、嫻(しとや)かな落着いた女で、生際(はえぎわ)の富士形になった額が狭く、切(きれ)の長い目が細くて、口もやや大きい方であったが、薄皮出の細やかな膚の、くっきりした色白で、小作(こづくり)な体の様子がいかにも好いと思った。


「縮図」
この裏通りに巣喰(すく)っている花柳界も、時に時代の波を被(かぶ)って、ある時は彼らの洗錬された風俗や日本髪が、世界戦以後のモダアニズムの横溢(おういつ)につれて圧倒的に流行しはじめた洋装やパーマネントに押されて、昼間の銀座では、時代錯誤(アナクロニズム)の可笑(おか)しさ身すぼらしさをさえ感じさせたこともあったが、明治時代の政権と金権とに、楽々と育(はぐく)まれて来たさすが時代の寵児(ちょうじ)であっただけに、その存在は根強いものであり、ある時は富士や桜や歌舞伎などとともに日本の矜(ほこ)りとして、異国人にまで讃美されたほどなので、今日本趣味の勃興の蔭(かげ)、時局的な統制の下に、軍需景気の煽りを受けつつ、上層階級の宴席に持て囃(はや)され、たとい一時的にもあれ、かつての勢いを盛り返して来たのも、この国情と社会組織と何か抜き差しならぬ因縁関係があるからだとも思えるのであった。

西行(藤原憲清)

風になびく富士の煙の空に消えて行方も知らぬわが思ひかな
※新古今和歌集1615


清見潟月すむ空の浮雲は富士の高嶺の煙なりけり
けぶり立つ富士に思ひのあらそひてよだけき恋をするがへぞ行く
いつとなき思ひは富士の烟にておきふす床やうき島が原
※以上2首、山家集

2006年02月17日

徳冨蘆花

「不如帰(ほととぎす)」
「しかし相馬が嶽のながめはよかったよ。浪さんに見せたいくらいだ。一方は茫々(ぼうぼう)たる平原さ、利根がはるかに流れてね。一方はいわゆる山また山さ、その上から富士がちょっぽりのぞいてるなんぞはすこぶる妙だ。歌でも詠めたら、ひとつ人麿と腕っ比べをしてやるところだった。あはははは。そらもひとつお代わりだ」
「そんなに景色がようございますの。行って見とうございましたこと!」


「熊の足跡」
九月九日から十二日まで、奧州淺蟲(あさむし)温泉滯留。
背後(うしろ)を青森行の汽車が通る。枕の下で、陸奧灣(むつわん)の緑玉潮(りよくぎよくてう)がぴた/\言(ものい)ふ。西には青森の人煙指(ゆびさ)す可く、其背(うしろ)に津輕富士の岩木山が小さく見えて居る。

「眼に立つや海青々と北の秋」左の窓から見ると、津輕海峽の青々とした一帶の秋潮を隔てゝ、遙に津輕の地方が水平線上に浮いて居る。本郷へ來ると、彼醉僧(すゐそう)は汽車を下りて、富士形の黒帽子を冠り、小形の緑絨氈(みどりじうたん)のカバンを提げて、蹣跚(まんさん)と改札口を出て行くのが見えた。江刺へ十五里、と停車場の案内札に書いてある。

蝦夷富士…と心がけた蝦夷富士を、蘭越驛(らんこしえき)で仰ぐを得た。形容端正、絶頂まで樹木を纏うて、秀潤(しうじゆん)の黛色(たいしよく)滴(したゝ)るばかり。頻(しきり)に登つて見たくなつた。

徳冨健次郎

「みみずのたはこと」
粕谷田圃に出る頃、大きな夕日が富士の方に入りかゝって、武蔵野一円金色(こんじき)の光明を浴びた。都落ちの一行三人は、長い影を曳いて新しい住家の方へ田圃を歩いた。遙向うの青山街道に車の軋(きし)る響(おと)がするのを見れば、先発の荷馬車が今まさに来つゝあるのであった。

臼田君の家は下祖師ヶ谷で、小学校に遠からず、両(りょう)角田君(つのだくん)は大分離れて上祖師ヶ谷に二軒隣り合い、石山氏の家と彼自身の家は粕谷にあった。何れも千歳村の内ながら、水の流るゝ田圃(たんぼ)に下りたり、富士大山から甲武連山(こうぶれんざん)を色々に見る原に上ったり、霜解(しもどけ)の里道を往っては江戸みちと彫った古い路しるべの石の立つ街道を横ぎり、樫(かし)欅(けやき)の村から麦畑、寺の門から村役場前と、廻れば一里もあるかと思われた。

そも此洋服は、明治三十六年日蔭町で七円で買った白っぽい綿セルの背広で、北海道にも此れで行き、富士で死にかけた時も此れで上り、パレスチナから露西亜(ろしあ)へも此れで往って、トルストイの家でも持参の袷(あわせ)と此洋服を更代(こうたい)に着たものだ。西伯利亜鉄道(シベリアてつどう)の汽車の中で、此一張羅の洋服を脱いだり着たりするたびに、流石無頓着な同室の露西亜の大尉も技師も、眼を円(まる)く鼻の下を長くして見て居た歴史つきの代物(しろもの)である。

彼等が東京から越して来た時、麦はまだ六七寸、雲雀の歌も渋りがちで、赤裸な雑木林の梢から真白な富士を見て居た武蔵野は、裸から若葉、若葉から青葉、青葉から五彩美しい秋の錦となり、移り変る自然の面影は、其日々其月々の趣を、初めて落着いて田舎に住む彼等の眼の前に巻物の如くのべて見せた。

六月になった。麦秋(むぎあき)である。「富士一つ埋(うづ)み残して青葉(あをば)かな」其青葉の青闇(あおぐら)い間々を、熟れた麦が一面日の出の様に明るくする。

夏蚕(なつご)を飼う家はないが、秋蚕を飼う家は沢山ある。秋蚕を飼えば、八月はまだ忙(せわ)しい月だ。然し秋蚕のまだ忙しくならぬ隙(すき)を狙って、富士詣(ふじまいり)、大山詣、江の島鎌倉の見物をして来る者も少くない。大山へは、夜立ちして十三里日着(ひづ)きする。五円持て夜徹(よどお)し歩るき、眠たくなれば堂宮(どうみや)に寝て、唯一人富士に上って来る元気な若者もある。

十月だ。稲の秋。地は再び黄金の穂波が明るく照り渡る。早稲から米になって行く。性急に百舌鳥(もず)が鳴く。日が短くなる。赤蜻蛉(あかとんぼ)が夕日の空に数限りもなく乱れる。柿が好い色に照って来る。ある寒い朝、不図(ふと)見ると富士の北の一角(いっかく)に白いものが見える。雨でも降ったあとの冷たい朝には、水霜がある。

霜は霽(はれ)に伴う。霜の十一月は、日本晴(にっぽんばれ)の明るい明るい月である。富士は真白。武蔵野の空は高く、たゝけばカン/\しそうな、碧瑠璃(へきるり)になる。朝日夕日が美しい。月や星が冴える。田は黄色から白茶(しらちゃ)になって行く。

斯く打吟(うちぎん)じつゝ西の方を見た。高尾、小仏や甲斐の諸山は、一風呂浴びて、濃淡の碧(みどり)鮮(あざ)やかに、富士も一筋白い竪縞(たてじま)の入った浅葱(あさぎ)の浴衣を着て、すがすがしく笑(え)んで居る。

此山の鏈を伝うて南東へ行けば、富士を冠した相州連山の御国山(みくにやま)から南端の鋭い頭をした大山まで唯一目に見られる筈だが、此辺で所謂富士南に豪農の防風林の高い杉の森があって、正に富士を隠して居る。少し杉を伐ったので、冬は白いものが人を焦らす様にちら/\透(す)いて見えるのが、却て懊悩(おうのう)の種になった。あの杉の森がなかったら、と彼は幾度思うたかも知れぬ。然し此頃では唯其杉の伐られんことを是れ恐るゝ様になった。下枝(したえだ)を払った百尺もある杉の八九十本、欝然(うつぜん)として風景を締めて居る。斯杉の森がなかったら、富士は見えても、如何に浅薄の景色になってしまったであろう。

宝永四年と云えば、富士が大暴れに暴れて、宝永山が一夜に富士の横腹を蹴破って跳(おど)り出た年である。富士から八王子在の高尾までは、直径にして十里足らず。荒れ山が噴き飛ばす灰を定めて地蔵様は被(かぶ)られたことであろう。如何(いかが)でした、其時の御感想は? 滅却心頭火亦涼と澄ましてお出でしたか?

やがて別荘に来た。其は街道の近くにある田圃の中の孤丘(こきゅう)を削って其上に建てられた別荘で、質素な然し堅牢なものであった。西には富士も望まれた。南には九十九里の海――太平洋の一片が浅黄(あさぎ)リボンの様に見える。

  死後希望 死出(しで)の山越えて後にぞ楽まん
         富士の高根を目の下に見て 八十三老白里
と書いてあった。

一度日本橋で、著者の家族三人、電車満員で困って居ると、折から自転車で来かゝった彼が見かけて、自転車を知辺(しるべ)の店に預け、女児を負って新橋まで来てくれた。去年の夏の休には富士山頂から画はがきをよこしたりした。

三月十八日。彼岸の入り。
風はまだ冷たいが、雲雀の歌にも心なしか力がついて、富士も鉛色に淡く霞む。

午後は田圃伝いに船橋(ふなばし)の方に出かける。門を出ると、墓地で蛇を見た。田圃の小川のいびの下では、子供が鮒を釣って居る。十丁そこら往って見かえると、吾家も香爐(こうろ)の家程に小さく霞んで居る。
今日は夕日の富士が、画にかいた「理想」の様に遠くて美しかった。

少し西北には、青梅(あおめ)から多摩川上流の山々が淡く見える。西南の方は、富士山も大山も曇った空に潜(ひそ)んで見えない。唯藍色(あいいろ)の雲の間から、弱い弱い日脚(ひあし)が唯一筋斜(はす)に落ちて居る。

九月九日から十二日まで、奥州浅虫温泉滞留。
背後(うしろ)を青森行の汽車が通る。枕の下で、陸奥湾の緑玉潮(りょくぎょくちょう)がぴた/\言(ものい)う。西には青森の人煙指(ゆびさ)す可く、其背(うしろ)に津軽富士の岩木山が小さく見えて居る。

「眼に立つや海青々と北の秋」左の窓から見ると、津軽海峡の青々とした一帯の秋潮(しゅうちょう)を隔てゝ、遙に津軽の地方が水平線上に浮いて居る。本郷へ来ると、彼酔僧(すいそう)は汽車を下りて、富士形の黒帽子を冠(かぶ)り、小形の緑絨氈(みどりじゅうたん)のカバンを提げて、蹣跚(まんさん)と改札口を出て行くのが見えた。

湾をはなれて山路にかゝり、黒松内(くろまつない)で停車(ていしゃ)蕎麦を食う。蕎麦の風味が好い。蝦夷富士…と心がけた蝦夷富士を、蘭越(らんごえ)駅で仰ぐを得た。形容端正、絶頂まで樹木を纏(まと)うて、秀潤(しゅうじゅん)の黛色(たいしょく)滴(したた)るばかり。頻(しきり)に登って見たくなった。

松浦静山

お富士さん 霞の衣 ぬぎなんし
  雪のはだへを 見たうおざんす

松浦静山

落首

あさましや 富士より高き 米値段
  火の降る江戸へ 灰の降るとは

2006年02月12日

戸川秋骨

「道學先生の旅」
私共は大月驛から自動車で目指す河口湖畔へ向つた。自動車は猛烈な、亂暴な奴で、抛り出されさうである。顛覆しさうでもある。一臺はパンクした。私達の乘つて居るのは、ガソリンがなくなつて運轉不能になつた。同乘したN夫人はまだ日本の間に合せの文化になれない人だから、定めし驚いた事であらうと察しられる。併し左に右に、また正面に、いつも行手にあたつて、富士がその堂々たる姿を見せて居た事は、私共に取つてさへ快い事であつたから、此外來の方には興のない事でもなかつたらう。私共は湖畔についた、鹿爪らしくも何々ホテルといふ名の家についた。うしろは富士、前には湖畔の山々、目の下には湖水と鎔岩、素より快い天地である。話は東西の旅の事、風景の事に及んだ。

2006年02月05日

近松秋江

「箱根の山々」
蘆の湯から頂上まで一里半。婦人や子供でも午前中に行つて來られる。少しの危險のない、優しい山である。そこに登ると展望は更に大きい。富士山は手に取るやうにすぐ西北の空に聳つてゐる。眼の下には蘆の湖の水が碧く湛へてゐる。が、駒ヶ岳は東に向いた方を小涌谷から登つて來る道から眺めたよりも、蘆の湯から双子山の裾をめぐつて蘆の湖の方におりてゆくその途上より仰ぐのが最も優れてゐる。

「いつていらつしやいまし。それは方々がよく見えて、いゝ景色でございますよ。昨日の朝は富士山がよく見えました。あんなに富士山のよく見えることはめづらしいつて番頭さんがさういつてゐました。それは面白うございましたよ。皆で勝手にいろんな面白いことをいひながら。」

太宰治

「お伽草紙」より

カチカチ山の物語に於ける兎は少女、さうしてあの惨めな敗北を喫する狸は、その兎の少女を恋してゐる醜男。これはもう疑ひを容れぬ儼然たる事実のやうに私には思はれる。これは甲州、富士五湖の一つの河口湖畔、いまの船津の裏山あたりで行はれた事件であるといふ。

「カチカチ山? ここがかい?」
「ええ、知らなかつたの?」
「うん。知らなかつた。この山に、そんな名前があるとは今日まで知らなかつたね。しかし、へんな名前だ。嘘ぢやないか?」
「あら、だつて、山にはみんな名前があるものでせう? あれが富士山だし、あれが長尾山だし、あれが大室山だし、みんなに名前があるぢやないの。だから、この山はカチカチ山つていふ名前なのよ。ね、ほら、カチ、カチつて音が聞える。」

「それやその筈よ。ここは、パチパチのボウボウ山だもの。」
「嘘つけ。お前は、ついさつき、ここはカチカチ山だつて言つた癖に。」
「さうよ、同じ山でも、場所に依つて名前が違ふのよ。富士山の中腹にも小富士といふ山があるし、それから大室山だつて長尾山だつて、みんな富士山と続いてゐる山ぢやないの。知らなかつたの?」


「みみずく通信」
「僕は富士山に登った時、朝日の昇るところを見ました。」ひとりの生徒が答えました。
「その時、どうだったね。やっぱり、こんなに大きかったかね。こんな工合いに、ぶるぶる煮えたぎって、血のような感じがあったかね。」
「いいえ、どこか違うようです。こんなに悲しくありませんでした。」
「そうかね、やっぱり、ちがうかね。朝日は、やっぱり偉いんだね。新鮮なんだね。夕日は、どうも、少しなまぐさいね。疲れた魚の匂いがあるね。」


「もの思う葦──当りまえのことを当りまえに語る」
絵はがき
この点では、私と山岸外史とは異るところがある。私、深山のお花畑、初雪の富士の霊峰。白砂に這(は)い、ひろがれる千本松原、または紅葉に見えかくれする清姫滝、そのような絵はがきよりも浅草仲店の絵はがきを好むのだ。


「パンドラの匣」
いろんな流行歌も知っているらしいが、それよりも都々逸というものが一ばんお得意のようである。僕は既に、五つ六つ聞かされた。松右衛門殿は眼をつぶって黙って聞いているが、僕は落ちつかない気持である。富士の山ほどお金をためて毎日五十銭ずつ使うつもりだとか、馬鹿々々(ばかばか)しい、なんの意味もないような唄(うた)ばかりなので、全く閉口のほかは無い。

あの時にも、僕は胆(きも)をつぶした。学校と家庭と、まるっきり違った遠い世界にわかれて住んでいるお二人が、僕の枕元で、お互い旧知の間柄みたいに話合っているのが実に不思議で、十和田湖で富士を見つけたみたいな、ひどく混乱したお伽噺のような幸福感で胸が躍った。


「ロマネスク」
次郎兵衛は三島のまちのほとんどどこの曲りかどにでもある水車へ眼をつけた。富士の麓の雪が溶けて数十条の水量のたっぷりな澄んだ小川となり、三島の家々の土台下や縁先や庭の中をとおって流れていて苔の生えた水車がそのたくさんの小川の要処要処でゆっくりゆっくり廻っていた。

その翌(あく)る年の二月のよい日に、次郎兵衛は宿場のはずれに新居をかまえた。六畳と四畳半と三畳と三間あるほかに八畳の裏二階がありそこから富士がまっすぐに眺められた。


「九月十月十一月」(中 御坂退却のこと)
そのとき一緒に、やさしい模樣のスリツパも買つて來た。廊下を歩くのに足の裏が冷たからうといふ思ひやりの樣であつた。私はそのスリツパをはいて、二階の廊下を懷手して、ぶらぶら歩き、ときどき富士を不機嫌さうに眺めて、やがて部屋へはひつて、こたつにもぐつて、何もしない。娘さんも呆れたらしく、私の部屋を拭き掃除しながら、お客さん、馴れたら惡くなつたわね、としんから不機嫌さうに呟いた。


「八十八夜」
そろそろ八が岳の全容が、列車の北側に、八つの峯をずらりとならべて、あらわれる。笠井さんは、瞳をかがやかしてそれを見上げる。やはり、よい山である。もはや日没ちかく、残光を浴びて山の峯々が幽(かす)かに明るく、線の起伏も、こだわらずゆったり流れて、人生的にやさしく、富士山の、人も無げなる秀抜(しゅうばつ)と較べて、相まさること数倍である、と笠井さんは考えた。


「古典風」
床の間の、見事な石の置き物は、富士山の形であって、人は、ただ遠くから讃歎の声を掛けてくださるだけで、どうやら、これは、たべるものでも、触(さわ)るものでもないようでございます。富士山の置き物は、ひとり、どんなに寒くて苦しいか、誰もごぞんじないのです。滑稽の極致でございます。文化の果(はて)には、いつも大笑いのナンセンスが出現するようでございます。教養の、あらゆる道は、目的のない抱腹絶倒に通じて在るような気さえ致します。


「富士に就いて」
 甲州の御坂峠の頂上に、天下茶屋という、ささやかな茶店がある。私は、九月の十三日から、この茶店の二階を借りて少しずつ、まずしい仕事をすすめている。この茶店の人たちは、親切である。私は、当分、ここにいて、仕事にはげむつもりである。
 天下茶屋、正しくは、天下一茶屋というのだそうである。すぐちかくのトンネルの入口にも「天下第一」という大文字が彫り込まれていて、安達謙蔵、と署名されてある。この辺のながめは、天下第一である、という意味なのであろう。ここへ茶店を建てるときにも、ずいぶん烈(はげ)しい競争があったと聞いている。東京からの遊覧の客も、必ずここで一休みする。バスから降りて、まず崖の上から立小便して、それから、ああいいながめだ、と讃嘆の声を放つのである。
 遊覧客たちの、そんな嘆声に接して、私は二階で仕事がくるしく、ごろり寝ころんだまま、その天下第一のながめを、横目で見るのだ。富士が、手に取るように近く見えて、河口湖が、その足下に冷く白くひろがっている。なんということもない。私は、かぶりを振って溜息を吐く。これも私の、無風流のせいであろうか。
 私は、この風景を、拒否している。近景の秋の山々が両袖からせまって、その奥に湖水、そうして、蒼空に富士の秀峰、この風景の切りかたには、何か仕様のない恥かしさがありはしないか。これでは、まるで、風呂屋のペンキ画である。芝居の書きわりである。あまりにも註文とおりである。富士があって、その下に白く湖、なにが天下第一だ、と言いたくなる。巧(たくみ)すぎた落ちがある。完成され切ったいやらしさ。そう感ずるのも、これも、私の若さのせいであろうか。
 所謂「天下第一」の風景にはつねに驚きが伴わなければならぬ。私は、その意味で、華厳の滝を推す。「華厳」とは、よくつけた、と思った。いたずらに、烈しさ、強さを求めているのでは、無い。私は、東北の生れであるが、咫尺(しせき)を弁ぜぬ吹雪の荒野を、まさか絶景とは言わぬ。人間に無関心な自然の精神、自然の宗教、そのようなものが、美しい風景にもやはり絶対に必要である、と思っているだけである。
 富士を、白扇さかしまなど形容して、まるでお座敷芸にまるめてしまっているのが、不服なのである。富士は、熔岩の山である。あかつきの富士を見るがいい。こぶだらけの山肌が朝日を受けて、あかがね色に光っている。私は、かえって、そのような富士の姿に、崇高を覚え、天下第一を感ずる。茶店で羊羹(ようかん)食いながら、白扇さかしまなど、気の毒に思うのである。なお、この一文、茶屋の人たちには、読ませたくないものだ。私が、ずいぶん親切に、世話を受けているのだから。


「富嶽百景」
※多数「富士」が出てくるので略。青空文庫等を参照のこと。


「律子と貞子」
あたし夢を見たの、兄ちゃんが、とっても派手な絣(かすり)の着物を着て、そうして死ぬんだってあたしに言って、富士山の絵を何枚も何枚も書くのよ、それが書き置きなんだってさ、おかしいでしょう?


「思ひ出」
私にくらべて學校の成績がよくないのを絶えず苦にしてゐて、私がなぐさめでもするとかへつて不氣嫌になつた。また、自分の額の生えぎはが富士のかたちに三角になつて女みたいなのをいまいましがつてゐた。額がせまいから頭がこんなに惡いのだと固く信じてゐたのである。

みんなでその温泉場を引きあげ、私たちの世話になつてゐる呉服商へひとまづ落ちつき、それから母と姉と三人で故郷へ向つた。列車がプラツトフオムを離れるとき、見送りに來てゐた弟が、列車の窓から青い富士額を覗かせて、がんばれ、とひとこと言つた。私はそれをうつかり素直に受けいれて、よしよし、と氣嫌よくうなづいた。


「惜別」
春になれば、上野公園の桜が万朶(ばんだ)の花をひらいて、確かにくれないの軽雲の如く見えたが、しかし花の下には、きまってその選ばれた秀才たちの一団が寝そべって談笑しているので、自分はその桜花爛漫(らんまん)を落ちついた気持で鑑賞することが出来なくなってしまうのである。その秀才たちは、辮髪(べんぱつ)を頭のてっぺんにぐるぐる巻にして、その上に制帽をかぶっているので、制帽が異様にもりあがって富士山の如き形になっていて、甚だ滑稽と申し上げるより他は無かった。

自分はまず、日本に於いて医学を修め、帰国して自分の父のように医者にあざむかれてただ死を待つばかりのような病人を片端から全治させて、科学の威力を知らせ、愚な迷信から一日も早く覚醒させるよう民衆の教化に全力を尽し、そうして、もし支那が外国と干戈(かんか)を交えた時には軍医として出征し、新しい支那の建設のため骨身を惜しまず働こう、とここに自分の生涯の進路がはじめて具体的に確定せられたわけであったが、ひるがえって、自分の周囲を見渡すと、富士山の形に尖(とが)った制帽であり、市街鉄道の中の過度の礼譲の美徳であり、石鹸製造であり、大乱闘の如きダンスの練習である。

旅順の要塞(ようさい)が陥落すると、日本の国内は、もったいないたとえだが、天の岩戸がひらいたように一段とまぶしいくらい明くなり、そのお正月の歌御会始の御製は、
  富士の根ににほふ朝日も霞(かす)むまで
     としたつ空ののどかなるかな


「故郷」
その時の私には故郷を誇りたい気持も起らなかった。ひどく、ただ、くるしい。去年の夏は、こうではなかった。それこそ胸をおどらせて十年振りの故郷の風物を眺めたものだが。
「あれは、岩木山だ。富士山に似ているっていうので、津軽富士。」私は苦笑しながら説明していた。なんの情熱も無い。


「新樹の言葉」
「ああ、むかい側もおんなじだ。久留島さんだ。そのおとなりが、糸屋さん。そのまた隣が、秤(はか)り屋さん。ちっとも変っていないんだなあ。や、富士が見える。」私のほうを振りかえって、
「まっすぐに見える。ごらんなさい。昔とおんなじだ。」

夜中の二時すぎに、けたたましく半鐘が鳴って、あまりにその打ちかたが烈しいので、私は立って硝子(ガラス)障子をあけて見た。炎々と燃えている。宿からは、よほど離れている。けれども、今夜は全くの無風なので、焔は思うさま伸び伸びと天に舞いあがり立ちのぼり、めらめら燃える焔のけはいが、ここまではっきり聞えるようで、ふるえるほどに壮観であった。ふと見ると、月夜で、富士がほのかに見えて、気のせいか、富士も焔に照らされて薄紅色になっている。四辺の山々の姿も、やはりなんだか汗ばんで、紅潮しているように見えるのである。


「新釈諸国噺」
私は、もうここの里人から、すっかり馬鹿にされて、どしどしお金を捲(ま)き上げられ、犬の毛皮を熊の毛皮だと言って買わされたり、また先日は、すりばちをさかさにして持って来て、これは富士山の置き物で、御出家の床の間にふさわしい、安くします、と言い、あまりに人をなめた仕打ち故(ゆえ)、私はくやし涙にむせかえりました。


「服装に就いて」
吉田に着いてからも篠(しの)つく雨は、いよいよさかんで、私は駅まで迎えに来てくれていた友人と共に、ころげこむようにして駅の近くの料亭に飛び込んだ。友人は私に対して気の毒がっていたが、私は、この豪雨の原因が、私の銘仙の着物に在るということを知っていたので、かえって友人にすまない気持で、けれどもそれは、あまりに恐ろしい罪なので、私は告白できなかった。火祭りも何も、滅茶滅茶になった様子であった。毎年、富士の山仕舞いの日に木花咲耶姫(このはなさくやひめ)へお礼のために、家々の門口に、丈余の高さに薪(まき)を積み上げ、それに火を点じて、おのおの負けず劣らず火焔(かえん)の猛烈を競うのだそうであるが、私は、未だ一度も見ていない。ことしは見れると思って来たのだが、この豪雨のためにお流れになってしまったらしいのである。


「津軽」
弟は大きくなるにつれて無口で内気になつてゐた。私たちの同人雑誌にもときどき小品文を出してゐたが、みんな気の弱々した文章であつた。私にくらべて学校の成績がよくないのを絶えず苦にしてゐて、私がなぐさめでもするとかへつて不気嫌になつた。また、自分の額の生えぎはが富士のかたちになつて女みたいなのをいまいましがつてゐた。額がせまいから頭がこんなに悪いのだと固く信じてゐたのである。

「や! 富士。いいなあ。」と私は叫んだ。富士ではなかつた。津軽富士と呼ばれてゐる一千六百二十五メートルの岩木山が、満目の水田の尽きるところに、ふはりと浮んでゐる。実際、軽く浮んでゐる感じなのである。したたるほど真蒼で、富士山よりもつと女らしく、十二単衣の裾を、銀杏(いてふ)の葉をさかさに立てたやうにぱらりとひらいて左右の均斉も正しく、静かに青空に浮んでゐる。決して高い山ではないが、けれども、なかなか、透きとほるくらゐに嬋娟たる美女ではある。
「金木も、どうも、わるくないぢやないか。」私は、あわてたやうな口調で言つた。「わるくないよ。」口をとがらせて言つてゐる。
「いいですな。」お婿さんは落ちついて言つた。
 私はこの旅行で、さまざまの方面からこの津軽富士を眺めたが、弘前から見るといかにも重くどつしりして、岩木山はやはり弘前のものかも知れないと思ふ一方、また津軽平野の金木、五所川原、木造あたりから眺めた岩木山の端正で華奢な姿も忘れられなかつた。

二百メートルにも足りない小山であるが、見晴しはなかなかよい。津軽平野全部、隅から隅まで見渡す事が出来ると言ひたいくらゐのものであつた。私たちは立ちどまつて、平野を見下し、アヤから説明を聞いて、また少し歩いて立ちどまり、津軽富士を眺めてほめて、いつのまにやら、小山の頂上に到達した。

さうして、私はその遠足の時には、奇妙に服装に凝つて、鍔のひろい麦藁帽に兄が富士登山の時に使つた神社の焼印の綺麗に幾つも押されてある白木の杖、先生から出来るだけ身軽にして草鞋、と言はれたのに私だけ不要の袴を着け、長い靴下に編上の靴をはいて、なよなよと媚を含んで出かけたのだが、一里も歩かぬうちに、もうへたばつて、まづ袴と靴をぬがせられ、草履、といつても片方は赤い緒の草履、片方は藁の緒の草履といふ、片ちんばの、すり切れたみじめな草履をあてがはれ、やがて帽子も取り上げられ、杖もおあづけ、たうとう病人用として学校で傭つて行つた荷車に載せられ、家へ帰つた時の恰好つたら、出て行く時の輝かしさの片影も無く、靴を片手にぶらさげ、杖にすがり、などと私は調子づいて話して皆を笑はせてゐると、
「おうい。」と呼ぶ声。兄だ。

こんど津軽へ来て、私は、ここではじめてポプラを見た。他でもたくさん見たに違ひないのであるが、木造(きづくり)のポプラほど、あざやかに記憶に残つてはゐない。薄みどり色のポプラの若葉が可憐に微風にそよいでゐた。ここから見た津軽富士も、金木から見た姿と少しも違はず、華奢で頗る美人である。


「畜犬談―伊馬鵜平君に与える―」
私は猫背(ねこぜ)になって、のろのろ歩いた。霧が深い。ほんのちかくの山が、ぼんやり黒く見えるだけだ。南アルプス連峰も、富士山も、何も見えない。朝露で、下駄がびしょぬれである。私はいっそうひどい猫背になって、のろのろ帰途についた。


「花燭 燭をともして昼を継がむ。」
とみから手紙が来た。
三日まえから沼津の海へロケーションに来ています。私は、浪のしぶきをじっと見つめて居ると、きっとラムネが飲みたくなります。富士山を見て居ると、きっと羊羹(ようかん)をたべたくなります。心にもない、こんなおどけを言わなければならないほど、私には苦しいことがございます。私も、もう二十六でございます。


「誰も知らぬ」
池があったのですが、それも潰されてしまって、変ったと言えば、まあそれくらいのもので、今でも、やはり二階の縁側からは、真直(まっすぐ)に富士が見えますし、兵隊さんの喇叭(らっぱ)も朝夕聞えてまいります。


「道化の華」
眞野は裏山へ景色を見に葉藏を誘つた。
「とても景色がいいんですのよ。いまならきつと富士が見えます。」
葉藏はまつくろい羊毛の襟卷を首に纏ひ、眞野は看護服のうへに松葉の模樣のある羽織を着込み、赤い毛絲のシヨオルを顏がうづまるほどぐるぐる卷いて、いつしよに療養院の裏庭へ下駄はいて出た。

「駄目。富士が見えないわ。」
 眞野は鼻さきをまつかにして叫んだ。
「この邊に、くつきり見えますのよ。」
 東の曇つた空を指さした。朝日はまだ出てゐないのである。不思議な色をしたきれぎれの雲が、沸きたつては澱み、澱んではまたゆるゆると流れてゐた。
「いや、いいよ。」


「風の便り」
後輩たる者も亦(また)だらしが無く、すっかりおびえてしまって、作品はひたすらに、地味にまずしく、躍る自由の才能を片端から抑制して、なむ誠実なくては叶(かな)うまいと伏眼になって小さく片隅に坐り、先輩の顔色ばかりを伺って、おとなしい素直な、いい子という事になって、せっせとお手本の四君子やら、ほてい様やら、朝日に鶴、田子の浦の富士などを勉強いたし、まだまだ私は駄目ですと殊勝らしく言って溜息をついてみせて、もっぱら大過なからん事を期しているというような状態になったのです。

2006年02月04日

田中貢太郎

「南北の東海道四谷怪談」
庄三郎はそれから富士権現の前へ往った。祠(ほこら)の影から頬冠(ほおかむり)した男がそっと出て来て、庄三郎に覘(ねら)い寄り、手にしている出刃で横腹を刳(えぐ)った。
「与茂七、恋の仇じゃ、思い知ったか」


「日本天変地異記」
要するにわが国は、こういうふうに外側地震帯及び日本海を走っている内側地震帯の幹線に地方的な小地震帯がたくさんの支線を結びつけているうえに、火山脈が網の目のようになっているから、その爆発に因る地震も非常に多く、従って土地の隆起陥没もまた多い。天武天皇の時大地震があって、一夜にして近江の地が陥没して琵琶湖が出来ると共に、駿河に富士山が湧出したという伝説も、その間の消息を語るものである。

貞観六年七月には富士山の噴火に伴うて大地震があって、噴出した鑠石は本栖、■の両湖をはじめ、民家を埋没した。富士山は既に延暦二十年三月にも噴火し、その後長元五年にも噴火したが、この噴火とは比べものにならなかった。

そして元弘元年七月には、紀伊に大地震があって、千里浜の干潟が隆起して陸地となり、その七日には駿河に大地震があって、富士山の絶頂が数百丈崩れた。この七月は藤原俊基が関東を押送せられた月で、「参考太平記」には、「七月七日の酉の刻に地震有りて、富士の絶頂崩ること数百丈なり、卜部宿禰(うらべのすくね)大亀を焼いて卜(うらな)ひ、陰陽博士占文を開いて見るに、国王位を易(か)へ、大臣災に遇ふとあり、勘文の面穏かならず、尤も御慎み有るべしと密奏す」とあって、地震にも心があるように見える。

その大地震の恐怖のまだ生生している十一月に、駿河、甲斐、相模、武蔵に地震が起ると共に、富士山が爆発して噴火口の傍に一つの山を湧出した。これがいわゆる宝永山である。山麓の須走村は熔岩の下に埋没し、降灰は武相駿三箇国の田圃を埋めた。

田中英光

「オリンポスの果実」
夜の食事のときなど、メニュウが、手紙になったり、先の方に絵葉書がついていたりします。ぼくはその上に書く、あなたへの、愛の手紙など空想して、コオルドビイフでも噛んでいるのです。メニュウには、殆(ほとん)ど錦絵が描(えが)かれています。歌麿なぞいやですが、広重の富士と海の色はすばらしい。その藍のなかに、とけこむ、ぼくの文章も青いまでに美しい。

相馬愛蔵

「私の小売商道」
私が青年時代のこと、富士山に登るのに健脚の自信があって、白衣の従者を追い抜き頂の方に素晴しい勢いで登って行った。ところが八合目になると急に疲れて休まねばいられなくなった。休んでいると先ほどの白衣の道者が急がず焦らず悠々とした足取りで通って行く。これではならぬと私も勇を鼓して登って行ったが、頂上に達した時は従者はもう早く着いて休んでいた。世の中のことはすべてこれだなと思って私もその時は考えたが、家康の教えにも、「人生は重き荷を負うて遠き道を往くが如し、急ぐべからず」とあります。実に名言だと思います。
では一歩先んじようとは何であるか、遅れていても結果において早ければよいではないかと言ってしまったのでは話にならない。一歩を先んじよというのは、常に緊張して努力せよというのであって、その結果は必ず他に一歩を進める事となる。すなわちこの一歩一歩は富士の山麓から山頂までつづけられる努力であって、それは決して私がやったように一時人を出し抜く早足ではない。

須川邦彦

「無人島に生きる十六人」
元旦の初日の出を、伊豆近海におがみ、青空に神々しくそびえる富士山を、見かえり見かえり、希望にもえる十六人をのせた龍睡丸(りゅうすいまる)は、追手(おいて)の風を帆にうけて、南へ南へと進んで行った。

また、船底につく海藻は、アオサ、ノリの類(たぐい)が多い。貝では、カキ、カメノテ、エボシ貝、フジツボなどで、フジツボが、ふつういちばんたくさんにつく。フジツボは、富士山のような形をした貝で、直径五センチ、高さ五センチぐらいの大きなものもある。これが、船底いちめんにつくのだ。

明治三十二年十二月二十三日。十六人は、感激のなみだの目で、白雪にかがやく霊峯(れいほう)富士をあおぎ、船は追風(おいて)の風に送られて、ぶじに駿河湾にはいった。そして午後四時、赤い夕日にそめられた女良(めら)の港に静かに入港した。

清水紫琴

「したゆく水」
なに暗からぬ御身をば、はや、いつしかにほの暗き、障子の方に押向けて、墨磨りたまふ勿体なさ。硯の海より、山よりも、深いお情け、おし載く、富士の額は火に燃えて。有難しとも、冥加とも、いふべきお礼の数々は、口まで出ても、ついさうと、いひ尽くされぬ、主従の、隔ては、たつた、一ツの敷居が、千言万語の心の関。

三遊亭圓朝

「業平文治漂流奇談」(鈴木行三校訂編纂)
亥「それで豊島町の八右衞門さんが一人の親だから立派にしろというので、組合(くみえい)の者が皆(みんな)供に立って、富士講の先達だの木魚講(もくぎょこう)だのが出るという騒ぎで、寺を借りて坊主が十二人出るような訳で」

亥「へえ…何(なん)だって豊島町の富士講の先達だの法印が法螺の貝を吹くやら坊主が十二人」

亥「坊主を十二人頼むというので棺台などを二間(けん)にして、無垢も良(い)いのを懸けろというので、富士講に木魚講、法印が法螺の貝を吹く」


「菊模様皿山奇談」(鈴木行三校訂・編纂)
鐵「へえー大変でげすな、御獄さんてえのは滅法けえ高(たけ)え山だってね」
□「高いたって、それは富士より高いと云いますよ、あなた方も信心をなすって二度もお登りになれば、少しは曲った心も直りますが」

竹久夢二

「若き母達へ」
土蔵のまへの椿の下で、淡い春の日ざしを浴びながらきいた紡車の音も、また遠い街の家並のあなたの赤い入日を、子守女の肩に見ながらきいた子守唄や、または、乳の香のふかい母親の懐できいたねんねこ歌も、今の私達には、もはや遠い昔の記憶になつてしまひました。科学実験時代の現代の文化はサムライや紅い提灯や富士ヤマへの憧憬から、お寺の鐘の音から、人形芝居からそして紙と木の家から、鉄と電気の雑音の都会へ私達を追ひやつてしまつた。
私達は、もはや緑の草の上に寝ころんで、青空をゆく白い雲を見送ることはないであらうか。


「新年」
○富士山のうへに
 太陽が出ました
○日本の子供は
 みんな出て
 太陽を拝みませう
○日本の島に
 お正月が来ました
○日本の人は
 みんな出て
 お正月を祝ひませう


「夢二画集 夏の巻」
その他、破風造のシムプルな神社の建築や。客間の床に飾られた木と称する不快な骨董品や。地獄極楽のからくりや。枯枝に烏のとまつた枯淡な風景。木のない富士山や。数え来れば、灰色の背景は到る所にあるではないか。そしてそれ等の画材を、最も有効に最も適切に描表し得る線画を有するのは日本の誇りではあるまいか。


「沼津」
この子の可愛いさ限りしなし。
山で木の数、萱の数、
富士へ上れば星の数、
沼津へ下れば松林、
千本松原、小松原、
松葉の数よりまだ可愛い。


「お正月」
○正月さんが御座つた。
 何処まで御座つた。
 富士のお山の麓まで。
 何に乗つて御座つた。
 お餅のやうな下駄はいて、
 譲葉に乗つて、

 ゆづり/\御座つた。

○お盆のやうな餅ついて、
 割木見たよな魚添へて、
 霰のやうな飯食べて、
 火燵へあたつてねんこ/\。


「お月様」から
○まうし、まうし、お月様、
 猫と鼠が一升さげて
 富士のお山を今越えた。


「砂がき」
ある時、銀座の夜店で、獨逸の「シンビリシズム」といふ雜誌を買つて、複寫のすばらしい繪を手に入れた、その山の畫はよかつた。今おもふとたしか、あれは、イタリアのセガンチニイだつたらしい。これにくらべると、その頃評判だつた「白馬山の雪景」や「曉の富士山」なんか影がうすくてとても見られないと思つたが、これもやつぱり誰にも言はないでゐた。

登山會といふ會はどういふことをするのか私は知らないが、多分、人跡未踏の深山幽谷を踏破する人達の會であらう。自分も山へ登る事は非常に好きだが、敢て、高い山でなくとも、岡でも好い。氣に入つたとなると富士山へ一夏に三度、筑波、那須へも二度づゝ登つたが、いつも東京の街を歩くよりも勞れもせず、靴のまゝで散歩する氣持で登れた。

昔下宿屋の二階でよんだ、紅葉や一葉の作物の中にある東京の春の抒景は、もう古典になつたほど、今の東京の新年は、商取引と年期事務としてあるに過ぎないと、思はるる。
富士山の見える四日市場に、紀州の蜜柑船がつくのさへもう見られまい。


「秘密」
けれど、私は何故に生れたらう? とさうきいて御覧なさい。知つてゐる人は言はないし、知らない人は答はしない。それゆゑにおもしろいのです。富士山が一万三千尺あらうとも、ないやがら瀑布が世界第一であらうとも、そんなことは少しもおもしろくない。私達の知らぬことが世の中には、まだどんなに沢山あることだらう。それからまだこの宇宙には世界の人達が今迄に知つた事よりももつともつと沢山の知らない事があるに違ない、けれどそれは土の世界のことである。

2006年02月03日

佐々木味津三

「右門捕物帖・なぞの八卦見(はっけみ)」
「しました、しました。富士の風穴へでもへえったようですよ。さすがはだんなだけあって、やることにそつがねえや。なるほどな。じゃ、なんですね、きのうからのこの小娘のそぶりをお聞きなすって、ひと事件(あな)あるなっとおにらみなすったんですね」


「右門捕物帖・七七の橙(だいだい)」
「そいつが気に入らねえんだ。ついでのことに日本橋のほうへ向いてりゃいいものを、ちくしょうめ、何を勘ちげえしたか、品川から富士山のほうへ向いていやがるんですよ」
「ウフフ、そうかい。そうするてえと――」


「右門捕物帖・卒塔婆(そとば)を祭った米びつ」
「ウフフフ。なんでえ、なんでえ。来てみればさほどでもなし富士の山っていうやつさ。とんだ板橋のご親類だよ。――のう、ねえや!」


「右門捕物帖・左刺しの匕首(あいくち)」
「アハハ……そうか。なるほど、そうか。来てみればさほどでもなし富士の山、というやつかのう。よしよし。そろそろと根がはえだしやがった」


「右門捕物帖・毒を抱(いだ)く女」
「話したことも、つきあったこともないが、てまえの叔父(おじ)が富士見ご宝蔵の番頭(ばんがしら)をいたしておるゆえ、ちょくちょく出入りいたしてこの顔には見覚えがある。たしかにこれはご宝蔵お二ノ倉の槍(やり)刀剣お手入れ役承っておる中山数馬という男じゃ」

なれども、これには悲しい子細あってのこと、父行徳助宗は、ご存じのように末席ながら上さま御用|鍛冶(かじ)を勤めまするもの、事の起こりは富士見ご宝蔵お二ノ倉のお宝物、八束穂(やつかほ)と申しまするお槍(やり)にどうしたことやら曇りが吹きまして、数ならぬ父に焼き直せとのご下命のありましたがもと、そのお使者に立たれましたのが中山数馬さまでござりました。


「右門捕物帖・達磨を好く遊女」
そのすがすがしさがまたくるわの水でみがきあげたすがすがしさなんだから、普通一般の清楚とかすがすがしさといったすがすがしさではなく、艶(えん)を含んでかつ清楚――といったような美しさのうえに、そったばかりの青まゆはほのぼのとして、その富士額の下に白い、むっちりともり上がった乳をおおっている浜縮緬(ちりめん)の黒色好みは、それゆえにこそいっそう艶なる清楚を引き立てていたものでしたから、同じ遊女のうちでもこんなゆかしい品もあるかと、ややしばらく右門もうち見とれていましたが、かくてはならじと思いつきましたので、こういう女の心を攻めるにはまた攻める方法を知っている右門は、ずばりと、いきなりその急所を突いてやりました。


「右門捕物帖・首つり五人男」
「あれだ、あれだ、この建物アたしかにお富士教ですよ」

近ごろ本所のお蔵前にお富士教ってえのができて、たいそうもなく繁盛するという話だがご存じですかい、とぬかしたんでね。御嶽(おんたけ)教、扶桑(ふそう)教といろいろ聞いちゃおるが、お富士教ってえのはあっしも初耳なんで、今に忘れず覚えていたんですよ。本所のお蔵前といや、ここよりほかにねえんだ。まさしくこれがそのお富士教にちげえねえですぜ」
「どういうお宗旨だかきいてきたか」
「そいつが少々おかしいんだ。お富士教ってえいうからにゃ、富士のお山でも拝むんだろうと思ったのに、心のつかえ、腰の病、気欝(きうつ)にとりつかれている女が参ると、うそをいったようにけろりと直るというんですよ」

「ふふん。とんだお富士教だ。おいらの目玉の光っているのを知らねえかい。おまえにゃ目の毒だが、しかたがねえや。ついてきな」

「何を無礼なことおっしゃるんです! かりそめにも寺社奉行さまからお許しのお富士教、わたしはその教主でござります。神域に押し入って、あらぬ狼藉(ろうぜき)いたされますると、ご神罰が下りまするぞ!」
「笑わしゃがらあ。とんでもねえお富士山を拝みやがって、ご神罰がきいてあきれらあ。四の五のいうなら、一枚化けの皮をはいでやろう! こいつあなんだ!」


「旗本退屈男 第六話 身延に現れた退屈男」
「合点だッ。富士川を下るんですかい」

小林多喜二

「人を殺す犬」
右手に十勝岳が安すッぽいペンキ画の富士山のように、青空にクッキリ見えた。そこは高地だったので、反対の左手一帯はちょうど大きな風呂敷を皺(しわ)にして広げたように、その起伏がズウと遠くまで見られた。

2006年02月02日

小学唱歌集

「初編」(明治14年)より
第二十七 富士山
○ふもとに雲ぞ かゝりける
 高嶺にゆきぞ つもりたる
 はだへは雪 ころもはくも
 そのゆきくもを よそひたる
 ふじてふやまの 見わたしに
 しくものもなし にるもなし
○外国人も あふぐなり
 わがくに人も ほこるなり
 照る日のかげ そらゆくつき
 つきひとともに かがやきて
 冨士てふ山の みわたしに
 しくものもなし にるもなし


第六十三 富士筑波
○駿河なる ふじの高嶺を
 あふぎても 動かぬ御代は
 しられけり
○つくばねの このもかの面も
 てらすなる みよのひかりぞ
 ありがたき

島崎藤村

「落梅集」に収録
「寂寥」より
あした炎をたゝかはし
ゆうべ煙をきそひてし
駿河にたてる富士の根も
今はさびしき日の影に
白く輝く墓のごと
はるかに沈む雲の外
これは信濃の空高く
今も烈しき火の柱
雨なす石を降らしては
みそらを焦す灰けぶり
神夢さめし天地の
ひらけそめにし昔より
常世につもる白雪は
今も無間の谷の底
湧きてあふるゝ紅の
血潮の池を目にみては
布引に住むはやぶさも
翼をかへす浅間山


「若菜集」に収録
「天馬」より
あゝ朝鳥の音をきゝて
富士の高根の雪に鳴き
夕つけわたる鳥の音に
木曾の御嶽の巌を越え
かの青雲に嘶きて
天より天の電影の
光の末に隠るべき
雄馬の身にてありながら
なさけもあつくなつかしき


「千曲川のスケッチ」
山荘は二階建で、池を前にして、静かな沢の入口にあった。左に浅い谷を囲んだ松林の方は曇って空もよく見えなかった。快晴の日は、富士の山巓(さんてん)も望まれるという。池の辺(ほとり)に咲乱れた花あやめは楽しい感じを与えた。

間もなく私達は甲州の方に向いた八つが岳の側面が望まれるところへ出た。私達は樹木の少い大傾斜、深い谷々なぞを眼の下にして立った。
「富士!」
と学生は互に呼びかわして、そこから高い峻(けわ)しい坂道を甲州の方へ下りた。


「夜明け前」(第二部)
伊那(いな)の谷あたりを中心にして民間に起こって来ている実行教(富士講)の信徒が、この際、何か特殊な勤倹力行と困苦に堪(た)えることをもって天地の恩に報いねばならないということを言い出し、一家全員こぞって種々(さまざま)な難行事を選び、ちいさな子供にまで、早起き、はいはい、掃除(そうじ)、母三拝、その他飴菓子(あめがし)を買わぬなどの難行事を与えているようなあの異常な信心ぶりを考えて見ることもある。これにも驚かずにはいられなかった。


「家」
「裏の叔父さんがなし、面白いことを言ったデ――『ああ、ああ、峯公(女教師の子息)も独りで富士登山が出来るように成ったか、して見ると私が年の寄るのも……』どうだとか、こうだとか――笑って了(しま)ったに」


「芽生」
こういう私の家の光景(ありさま)は酷く植木屋の人達を驚かした。この家族を始め、旧くから大久保に住む農夫の間には、富士講の信者というものが多かった。翌日のこと、切下髪(きりさげがみ)にした女が突然私の家へやって来た。この女は、講中の先達とかで、植木屋の老爺(じい)さんの弟の連合(つれあい)にあたる人だが、こう私の家に不幸の起るのは――第一引越して来た方角が悪かったこと、それから私の家内の信心に乏しいことなどを言って、しきりに祈祷(きとう)を勧めて帰って行った。

私の家に復たこのような不幸が起ったということは、いよいよ祈祷の必要を富士講の連中に思わせた。女の先達は復た私の家へ訪ねて来て、それ見たかと言わぬばかりの口調で、散々家内の不心得を責めた。「度し難い家族」――これが先達の後へ残して行った意味だった。

与謝野鉄幹(與謝野、寛)

富士ひとつ雲をかづきて夕映す他はみな黒し甲斐のむら山


「むらさき」に収録
「日本を去る歌」より
ああわが国日本
ああわが父祖の国日本
東太平洋の緑をのぞんで
白き被衣の女富士立てり
顧望して低徊す
山なんぞ麗しき
水なんぞ明媚なる
ああわれ去るに忍ぴんや

増田雅子(増田まさ子、→茅野雅子)

「恋衣」に収録(詩:山川登美子、増田雅子、與謝野晶子)
 「みをつくし」より
ゆく春をひとりしづけき思かな花の木間に淡き富士見ゆ

薄田淳介(薄田泣菫)

 「筑波紫」
夜は明けぬ。二の新代の朝ぼらけ、
国の兄姫の長すがた、富士こそ問へれ、
しろがねの被衣も揺に、『やよ筑波、
八十伴の緒は玉ぶちの冕冠も高に、
天の宮御垣は守るに、いかなれば、
異よそほひの東人と、汝やはひとり、
玉敷の御蔭の庭も見ず久に、
下なる国の暗谷につくばひ居るや。』

※「白羊宮」に収録

2006年02月01日

万葉集

天地の別れし時ゆ 神さびて 高く貴き駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放け見れば渡る日の 影も隠らひ照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺

田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける

なまよみの甲斐の国 うち寄する駿河の国と こちごちの国のみ中ゆ 出で立てる 富士の高嶺は 天雲もい行きはばかり 飛ぶ鳥も飛びも上らず 燃ゆる火を雪もち消ち 降る雪を火もち消ちつつ 言ひも得ず 名付けも知らず くすしくも います神かも せの海と名付けてあるも その山のつつめる海ぞ 富士川と人の渡るも その山の水のたぎちぞ 日の本の 大和の国の鎮めとも います神かも 宝ともなれる山かも 駿河なる富士の高嶺は 見れど飽かぬかも

富士の嶺に 降り置く雪は 六月の 十五日に消ぬれば その夜降りけり

富士の嶺を 高み畏み 天雲も い行きはばかり たなびくものを

我妹子に 逢ふよしをなみ 駿河なる 富士の高嶺の 燃えつつかあらむ

妹が名も 我が名も立たば 惜しみこそ 富士の高嶺の 燃えつつわたれ

天の原 富士の柴山 この暗の 時ゆつりなば 逢はずかもあらむ

富士の嶺の いや遠長き 山道をも 妹がりとへば けによばず来ぬ

霞居る 富士の山びに 我が来なば いづち向きてか 妹が嘆かむ

さ寝らくは 玉の緒ばかり 恋ふらくは 富士の高嶺の 鳴沢のごと

昭憲皇太后(明治天皇の皇后)

二十七年 新年山
新しき年の初日に富士の根の雪さへにほふ朝ぼらけかな

二十七年 海上夕立
富士の根は雲にかくれてくらざはの沖ゆく船にかゝる夕立

四十年 折にふれて
大君のみいつおぼえて日かげさす劔が峯の雪ぞかゞやく

三十七年 眺望
三浦がた富士の高根のみえぬ日も江の島のみはさやけかりけり

四十二年 湖上舟
玉くしげ箱根のうみをゆく船にうつれる富士の影うごくなり

三十八年 
あしたづのは山の里にうちむかふ富士より高き齢かさねよ

三十年 西京にものしける時御殿場あたりにて
見ゆべくも思はざりしを富士の根の雲間さやかにあらはれにけり

四十年 田子の浦にゆきしをり
道すがら心にかけし雲はれて雪さやかなる富士を見るかな

明治天皇

明治十一年以前 述懐
をぐるまのをす巻きあげてみわたせば朝日に匂ふ富士の白雪

明治十七年 晴天鶴
富士のねもはるかに見えてあしたづのたちまふ空ぞのどけかりける

明治二十九年 山霞
あま雲もいゆきははゞかる富士のねをおほふは春の霞なりけり

明治三十五年 薄暮山
あかねさす夕日のかげは入りはてゝ空にのこれる富士のとほ山

明治三十八年 新年山
富士のねに匂ふ朝日も霞むまで年たつ空ののどかなるかな

明治四十一年 富士山
万代の国のしづめと大空にあふぐは富士のたかねなりけり

明治四十三年 海辺雪
波のうへに富士のね見えて呉竹のはやまの浦の雪はれにけり

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・ 以上、大正十一年九月にまとめられた明治天皇御集から「富士」を含む歌。
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