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吉江喬松

「霧の旅」
妙高は稍々右の方に當つて、峯が重り合つて奇怪な姿を見せてゐる黒姫は眞正面に雄大な壓倒するやうな勢で、上から見下してゐる。飯繩は左へよつて右肩からおろして來る一線を裾長く曳いてゐる。
高原地といふ感じをこの三山の連立してゐる地くらゐ、明かに與へる場所は他にない。富士の裾野でも、私達は廣い平野の中へ立つてゐるやうな感じはするが、自分等のゐる處が高い場所であるとは感じない。

幾度見ても黒姫は、いつも同じやうで、しかも面目を改めて、私の前に嚴しく聳えてゐる。連嶺(れんれい)の亙り續いてゐる頂にばかり目を馳せてゐた私達が、初めて一山の美しき姿を仰ぐことの出來たのもこの山であつた。そして越後の海を初めて見て泣きたいばかりに心の締つた記憶と共に、何年たつても忘られないのはこの山の美しい姿であつた。しかもこの山は富士山のやうに全く轉(まろ)び出たやうに孤立してゐるのではない。妙高、戸隱、飯綱の諸山は相呼應して、嚴として高原の奧に空を劃して立つてゐる。