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2007年11月20日

九鬼周造

「日本詩の押韻」より「地中海の落日」
○銀色の橄欖の林から
 匂やかに南國の風が吹く
 ユッカの花の向ふは青い海原
○アペニンの山脈も影がうすく
 夕霧の中に溶けたまま
 眞赤な日が地中海へ落ちて行く
○想ひ起すのは房州の濱
 入陽を映して薔薇色に顫(わな)なく浪
 海のかなたに紫に浮く富士の山
○あのとき私をおそうた魂の痛み
 生(いのち)ににじむ愁ひのきざし
 わけもなく取留もない幽かな惱み
○あれはまだ少年の日の私
 やうやく戀を知りそめた頃
 いつの間にかもう二十年の昔
○いまも丁度あの瞬聞のこころ
 そつくりあの通りの氣もちだ
 違つてゐるのはただ時と處

○私は矢張のもとの私だ

2007年11月15日

車田寿

「山梨県富士吉田市立下吉田東小学校 校歌」
○富士の裾野に  聳え立つ
 白亜の学び舎  わが母校
 窓辺にゆれる  鈴懸の
 大地に深く  根をおろせ
 伸びる伸びる  下吉田東小

※作詞車田寿/作曲堀内秀治
※3番あるうちの3番


「山梨県富士吉田市立吉田小学校 校歌」
○高くそびゆる 富士の山
 すそ野の岩に 根をおろす
 気高くかおる 富士桜
 かたく手をとり 励み合う
 伸びる 吉田小学校

※作詞車田寿/作曲渡辺晋一郎
※3番あるうちの3番

2007年08月25日

九条武子

「夕波」より
汐けむりもやごもる磯に夕富士は紺の色してたかくしありけり


「伏見丸にて」より
伊豆も遠江(とほたふみ)もまた富士も、雲多くして見えずときゝながら、船すこし動くに部屋にのみこもる。


「北海道の旅」より
蝦夷富士といはれてゐる羊蹄山(しりべしさん)が、をぐらくなつて行く空に、けれどもはつきりと重々しい姿して、大地のおごそかな威力をもつて座してゐるのが近くに見えて、六時頃倶知安駅(くちあんえき)に着いた。駅員のなまりの多い呼び声に、旅の人らはドツとみな笑つた。

2007年05月07日

草野心平

「東京電機大学 校歌」
○日輪は 天にかがやき
 白雲は 富士に沸きたつ
 朋がらよ 眉あげよ
 大いなる 歴史のなかで
 われら新しい 真理を創る
 東京電大 われらが母校
 ああ讃えん哉
 その伝統

※作詞 草野 心平/作曲平岡照章
※2番あるうちの2番。


富士山 作品第参」
劫初からの。
何億のひるや黒い夜。
大きな時間のガランドウに重たく坐る大肉体。
 ああ自分は。
 幾度も幾度もの対陣から。
 ささやかながら小さな歌を歌ってきた。
 しかもその讃嘆の遙かとほくに。
遥かとほくに。
ギーンたる。
不尽(ふじん)の肉体。
劼靴で鬚ぢ臉鎖澄


富士山 作品第肆」より
少女たちはうまごやしの花を摘んでは巧みな手さばきで花環を作る。それをなはにして縄跳びをする。花環が円を描くとそのなかに富士がはひる。その度に富士は近づき。とほくに坐る。

2007年03月23日

久保天随

「山水美論」の中の一章、「旅行特に登山に就いて」から
もし真正なる登山の快観をなさむとせば、五六千尺より以上の者にあらざれば不可なり。之を本邦に見るに、此の如き者固より少からず、駿河の富士や、台湾が我国の版図に入りたる後こそ、新高山の次席として第二に下落したれ、高さ一万二千尺、東都を距ること僅かに数十里、実に好位置にあり、若し汽車の便を借り、最も敏活に立ちまはれば、二日にして帰来すること難に非ず。且つ登攀最も容易にして、天下の山、実に此の如き者少しといふべき程なり。経路六条、十里と称すれども、実は少しく其半を超過せし位のみ、石室処々にあり、宿泊休憩随意なり。且つ斯山の如きは海汀より直に隆起して、臍攀の途上、常に絶頂を仰ぎつつあり、信飛の境上の諸山の如き、重畳せる峰嶂をいくつとなく越えて、目的の所、何処にあるやを判知するに苦しむものとは大に同じからず。

2007年03月07日

来嶋靖生

扇山頂に立てばしろがねの大いなる富士わが前にあり

2007年02月03日

国枝史郎

「剣侠」
「おや、ありゃア源女じゃアないか」
驚いて浪之助は口の中で叫んだ。
娘太夫は源女のお組、それに相違ないからであった。
瓜実顔、富士額、薄い受口、切長の眼、源女に相違ないのであった。ただ思いなしか一年前より、痩せて衰えているようであった。

人形ではなく生ける人間で、しかもそれは澄江であった。
富士額、地蔵眉、墨を塗ったのではあるまいかと、疑われるほどに濃い睫毛で、下眼瞼を色づけたまま、閉ざされている切長の眼、延々とした高い鼻、蒼褪め窶れてはいたけれど、なお処女としての美しさを持った、そういう顔が猿轡で、口を蔽われているのであった。


「北斎と幽霊」
これが江戸中の評判となり彼は一朝にして有名となった。彼は初めて自信を得た。続々名作を発表した。「富士百景」「狐の嫁入り」「百人一首絵物語」「北斎漫画」「朝鮮征伐」「庭訓往来」「北斎画譜」――いずれも充分芸術的でそうして非常に独創的であった。


「十二神貝十郎手柄話」
こんなことを思いながら、貝十郎は見送った。と、その時、「あづま」の門へ、姿を現わした女があった。へへり頤、二重瞼、富士額、豊かな頬、肉厚の高い鼻。……そういう顔をした女であって、肉感的の存在であったが、心はそれと反対なのであろう。全体はかえって精神的であった。
(ここの娘のお品だな、相いも変らず美しいものだ)

いつの間にそこへ来ていたものか、山深い木曽の土地などでは、とうてい見ることの出来ないような、洗い上げた婀娜(あだ)な二十五、六の女が、銚子を持って坐っていた。三白眼だけは傷であったが、富士額の細面、それでいて頬肉の豊かの顔、唇など艶があってとけそうである。坐っている腰から股のあたりへかけて、ねばっこい蜒(うね)りが蜒っていて、それだけでも男を恍惚(うっとり)させた。


「南蛮秘話森右近丸」
こう云ったのは女である。二十八九か三十か、ざっとその辺りの年格好、いやらしく仇(あだ)っぽい美人である。柄小さく、痩せぎすである。で顔なども細長い。棘のように険しくて高い鼻、小柄の刃先とでも云いたげな、鋭い光ある切長の眼、唇は薄く病的に赤く、髪を束ねて頸(うなじ)へ落とし、キュッと簪(かんざし)で止めてある。額は狭く富士形である。その顔色に至っては白さを通り越して寧ろ蒼く、これも広袖を纏っている。一見香具師の女親方、膝を崩してベッタリと、男の前に坐っている。


「怪しの館」
葉末という娘の風采が、ボッと眼の前へ浮かんで来た。月の光で見たのだから、門前ではハッキリ判らなかったが、燈火の明るい家の中へはいり、旗二郎を父親へひきあわせ、スルリと奥へひっ込んだまでに、見て取った彼女の顔形は、全く美しいものであった。キッパリとした富士額、生え際の濃さは珍らしいほどで、鬘を冠っているのかもしれない、そんなように思われたほどである。


「戯作者」
「へえ、こいつア驚いた。いやどうも早手廻しで。ぜっぴ江戸ッ子はこうなくちゃならねえ。こいつア大きに気に入りやした。ははあ題して『壬生(みぶ)狂言』……ようごす、一つ拝見しやしょう。五六日経っておいでなせえ」
 で、武士は帰って行ったが、この武士こそ他ならぬ後年の曲亭馬琴であった。
「来て見れば左程でもなし富士の山。江戸で名高い山東庵京伝も思ったより薄っぺらな男ではあった」
 これが馬琴の眼にうつった山東京伝の印象であった。


「甲州鎮撫隊」
「近藤殿の命(めい)でのう」
「何時(いつ)?」
「江戸への帰途。……紀州沖で……富士山艦で、書面(ふみ)に認(したた)め……」
「左様ならって……」
「うん」
「可哀そうに」
「大丈夫たる者が、一婦人の色香に迷ったでは、将来、大事を誤ると、近藤殿に云われたので」

「まア、甲府の方へ! それでは、沖田様も! 沖田総司様も!」
 悲痛といってもよいような、然ういう娘の声を聞いて、お力は改めて、相手をつくづくと見た、娘は十八九で、面長の富士額の初々しい顔の持主で、長旅でもつづけて来たのか、甲斐絹(かいき)の脚袢には、塵埃(ほこり)が滲(にじ)んでいた。


「鵞湖仙人」
意外! 歌声が湧き起った。
   武士のあわれなる
   あわれなる武士の将
   霊こそは悲しけれ
   うずもれしその柩
   在りし頃たたかいぬ
   いまは無し古骨の地
   下ざまの愚なる
   つつしめよ。おお必ず
   不二の山しらたえや
   きよらとも、あわれ浄(きよ)し
   不二の山しらたえや
   しらたえや、むべも可
   建てしいさおし。
訳のわからない歌であった。しかし其節は悲し気であった。くり返しくり返し歌う声がした。そうして歌い振りに抑揚があった。或所は力を入れ或所は力を抜いた。

周囲四里とは現代のこと、慶安年間の諏訪の湖水は、もっと広かったに違いない。
  信濃なる衣ヶ崎に来てみれば
      富士の上漕ぐあまの釣船
西行法師の歌だというが、決して決してそんな事は無い。歌聖西行法師たるもの、こんなつまらない類型的の歌を、なんで臆面も無く読むものか。
が、併し、衣ヶ崎は諏訪湖中での絶景である。富士が逆さにうつるのである。その上を釣船が漕ぐのである。その衣ヶ崎が正面に見えた。

2006年06月23日

倉内法子

からつ風吹きて黒富士くつきりと

倉田素香

初富士に牝馬は四肢を揃へけり

2006年05月07日

車谷弘

富士みえる筈のあたりの朝曇

2006年04月25日

久保田万太郎

夕富士のいろの寒さとなりにけり

ゆく秋の不二に雲なき日なりけり

かまくらの不二つまらなき二日かな

ゆく年の不二みよと也瑞泉寺

不二に雲かゝりて霜の消えにけり

ゆく春や客にみせたき不二みえず

夕みぞれいつもは不二のみゆるみち

桑畑へ不二の尾きゆる寒さかな

雲かぶる不二におどろく二月かな

はや梅雨の曇りの不二をかくしけり

日ざかりや不二をみせじと雲の波

黒木野雨

初不二やいまに変らぬ駿河台

2006年04月24日

黒川憲三

黒富士を稲妻が刺す大地かな

黒坂紫陽子

富士登山うしろに迫る馬の息

2006年04月19日

熊田鹿石

鴨の群下り来て乱すさかさ富士

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轡田進

林泉は富士の伏流榛咲ける

繍線菊や富士を纏く道やはらかし

2006年04月17日

葛原繁

富士の秀(ほ)を吹き越ゆる雲冬空の
   真洞(まほら)に流れ止むときもなし

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久保田泉

鮠釣の正面晴るる近江富士

久保田重之

寒夕焼富士一日の力抜く

2006年04月16日

久米三汀(久米正雄)

雲四散して初富士の夕眺め

茶の花に富士の雪翳青きかな

茜富士かな/\杉に収まりぬ

秋かやを出て赤富士を目のあたり

硝子絵のよな初富士の浮く浦輪

薄雲の中に初富士ありにけり

泳ぎ出でゝ日本遠し不二の山

2006年04月07日

倉田晴生

青富士や渺々風の夏雲雀

2006年03月25日

久米牡年

ふじ垢離(ごり)の声高になるさむさかな

久米牡年

ふじ垢離(ごり)の声高になるさむさかな

2006年03月19日

熊谷清子

蝦夷富士を右に左に秋の旅

2006年03月17日

久保田鈴子

夏富士の裾野町の灯散りばめて

2006年03月02日

久保田宵二

「京人形」
○赤いかのこの お振袖
 京人形の 見る夢は
 加茂の河原の さざれ石
 買われたあの日の 飾り窓
○春のひながに うとうとと
 京人形の 見る夢は
 月の銀閣 東山
 別れたあの日の お友達
○ここはお江戸の 日本橋
 京人形の 見る夢は
 汽車に揺られて 東海道
 眺めたあの日の 富士の山

※久保田宵二作詞/佐々木すぐる作曲


「昭和の子供」
○昭和 昭和 昭和の子供よ 僕たちは
 姿もきりり 心もきりり
 山 山 山なら 富士の山
 行こうよ 行こうよ 足並み揃え
 タラララ タララ タララララ
○昭和 昭和 昭和の子供よ 僕たちは
 大きな望み 明るい心
 空 空 空なら 日本晴
 行こうよ 行こうよ 足並み揃え
 タラララ タララ タララララ
○昭和 昭和 昭和の子供よ 僕たちは
 元気なからだ みなぎる力
 鳥 鳥 鳥なら 鷹の鳥
 行こうよ 行こうよ 足並みそろえ
 タラララ タララ タララララ

※久保田宵二作詞/佐々木すぐる作曲

2006年02月24日

葛原しげる

「中野学園(明治大学付属中野中学校・高等学校) 校歌」
○日に幾度か麗はしく
 色こそかはれ 芙蓉峰
 霞に雲に はた雪に
 千古の容姿 動き無く
 質実剛毅 さとすなり

※3番あるうちの2番
※作詞葛原しげる/作曲納所辨次郎


「羽衣」
あれ天人(てんにん)は 羽衣(はごろも)の
舞を舞い舞い 帰り行(ゆ)く
風に袂(たもと)が ヒラヒラと
羽根に朝日が キラキラと
松原こえて 大空の
霞に消えて 昇り行く

あれかくれ行く 松原は
三保の浜辺か なつかしや
浜の漁師は 安らかに
栄え栄えよ いつまでも
日本一の 富士山も
霞の下に 消えてゆく

※葛原しげる作詞・梁田貞作曲

2006年01月28日

黒島伝治

「名勝地帯」
そこは、南に富士山を背負い、北に湖水をひかえた名勝地帯だった。海抜、二千六百尺。湖の中に島があった。
見物客が、ドライブしてやって来る。何とか男爵別荘、何々の宮家別邸、缶詰に石ころを入れた有名な奴の別荘などが湖畔に建っていた。

国木田独歩

「武蔵野」
十一月四日――「天高く気澄む、夕暮に独り風吹く野に立てば、天外の富士近く、国境をめぐる連山地平線上に黒し。星光一点、暮色ようやく到り、林影ようやく遠し」

同二十七日――「昨夜の風雨は今朝なごりなく晴れ、日うららかに昇りぬ。屋後の丘に立ちて望めば富士山真白ろに連山の上に聳(そび)ゆ。風清く気澄めり。
げに初冬の朝なるかな。
田面(たおも)に水あふれ、林影倒(さかしま)に映れり」

同じ路を引きかえして帰るは愚である。迷ったところが今の武蔵野にすぎない、まさかに行暮れて困ることもあるまい。帰りもやはりおよその方角をきめて、べつな路を当てもなく歩くが妙。そうすると思わず落日の美観をうることがある。日は富士の背に落ちんとしていまだまったく落ちず、富士の中腹に群(むら)がる雲は黄金色に染まって、見るがうちにさまざまの形に変ずる。連山の頂は白銀の鎖のような雪がしだいに遠く北に走って、終は暗憺(あんたん)たる雲のうちに没してしまう。

また武蔵野の味を知るにはその野から富士山、秩父山脈国府台等を眺めた考えのみでなく、またその中央に包まれている首府東京をふり顧(かえ)った考えで眺めねばならぬ。そこで三里五里の外に出で平原を描くことの必要がある。

また東のほうの平面を考えられよ。これはあまりに開けて水田が多くて地平線がすこし低いゆえ、除外せられそうなれどやはり武蔵野に相違ない。亀井戸(かめいど)の金糸堀(きんしぼり)のあたりから木下川辺(きねがわへん)へかけて、水田と立木と茅屋(ぼうおく)とが趣をなしているぐあいは武蔵野の一領分である。ことに富士でわかる。富士を高く見せてあだかも我々が逗子の「あぶずり」で眺むるように見せるのはこの辺にかぎる。また筑波でわかる。筑波の影が低く遥かなるを見ると我々は関(かん)八州の一隅に武蔵野が呼吸している意味を感ずる。