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2007年01月31日

芥川龍之介

「日本の女」
サア・オルコツクは、徳川幕府の末年(まつねん)に日本に駐剳(ちうさつ)した、イギリスの特命全権公使である。その日本駐剳中には、井伊大老も桜田門外で刺客(せきかく)の手に斃(たふ)れてゐる。西洋人も何人か浪人のために殺されてゐる。
 といふと人事(ひとごと)のやうに聞えるが、サア・オルコツクの住んでゐた品川の東禅寺にも浪士が斬り込んで、何人かの死傷を生じた事件もある。その上、サア・オルコツクは、富士山へ登つたり、熱海の温泉へはひつたり、可なり旅行も試みてゐる。かういふ風に、内外共多事の幕末の日本に住み、且つまた、江戸にばかりゐずに方々歩き廻つたのであるから、サア・オルコツクの日本紀行の興味の多いのは偶然ではない。


「樗牛の事」
一山(いっさん)の蝉の声の中に埋れながら、自分は昔、春雨にぬれているこの墓を見て、感に堪えたということがなんだかうそのような心もちがした。と同時にまた、なんだか地下の樗牛に対してきのどくなような心もちがした。不二山と、大蘇鉄(だいそてつ)と、そうしてこの大理石の墓と――自分は十年ぶりで「わが袖の記」を読んだのとは、全く反対な索漠(さくばく)さを感じて、匆々(そうそう)竜華寺の門をあとにした。爾来(じらい)今日に至っても、二度とあのきのどくな墓に詣でようという気は樗牛に対しても起す勇気がない。


「不思議な島」
僕は大いに感心しながら、市街(まち)の上へ望遠鏡を移した。と同時に僕の口はあっと云う声を洩らしそうになった。
鏡面には雲一つ見えない空に不二に似た山が聳えている。それは不思議でも何でもない。けれどもその山は見上げる限り、一面に野菜に蔽われている。玉菜(たまな)、赤茄子、葱、玉葱、大根、蕪、人参、牛蒡(ごぼう)、南瓜(かぼちゃ)、冬瓜(とうがん)、胡瓜(きゅうり)、馬鈴薯、蓮根(れんこん)、慈姑(くわい)、生姜、三つ葉――あらゆる野菜に蔽われている。蔽われている? 蔽わ――そうではない。これは野菜を積み上げたのである。驚くべき野菜のピラミッドである。


「本所両国」
富士の峯白くかりがね池の面(おもて)に下(くだ)り、空仰げば月麗(うるは)しく、余が影法師黒し。」――これは僕の作文ではない。二三年前(まへ)に故人になつた僕の小学時代の友だちの一人(ひとり)、――清水昌彦(しみづまさひこ)君の作文である。

2007年01月29日

中里介山

「大菩薩峠」 (一)甲源一刀流の巻
両人首座の方へ挨拶して神前に一礼すると、この時の審判すなわち行司役は中村一心斎という老人です。
この老人は富士浅間(せんげん)流という一派を開いた人で、試合の見分(けんぶん)には熟練家の誉れを得ている人でありました。
一心斎は麻の裃(かみしも)に鉄扇(てっせん)を持って首座の少し前のところへ歩み出る。

竜之助は冷やかな微笑を浮べて、
富士浅間流の本家、中村一心斎殿とあらば相手にとって不足はあるまい、いざ一太刀の御教導を願う」
「心得たり、年は老いたれど高慢を挫(くじ)く太刀筋は衰え申さぬ」


「大菩薩峠」(四)三輪の神杉の巻
式上郡から宇陀郡へ越ゆるところを西峠という。西峠の北は赤瀬の大和富士(やまとふじ)まで蓬々(ぼうぼう)たる野原で、古歌に謡(うた)われた「小野の榛原(はいばら)」はここであります。


「大菩薩峠」(七)東海道の巻
同じく百文ばかりの金を投げ出してこの男が出たのは、七兵衛がもうさった峠の上りにかかろうとする時分でありました。
幸いに晴れていて、富士も見えれば愛鷹も見える。伊豆の岬、三保の松原、手に取るようでありますが、七兵衛は海道第一の景色にも頓着なく、例の早足で、すっすと風を切って上って行く。

右の方へは三保の松原が海の中へ伸びている、左の方はさった峠から甲州の方へ山が続いている。前は清水港、檣柱(ほばしら)の先から興津(おきつ)、蒲原(かんばら)、田子の浦々(うらうら)。その正面には富士山が雪の衣をかぶって立っています。
「まあ、なんという眺めのよいところでしょう」
お君は立って風景に見とれていました。


「大菩薩峠」(八)白根山の巻
その翌朝、山駕籠(やまかご)に身を揺られて行く机竜之助。庵原(いおはら)から出て少し左へ廻りかげんに山をわけて行く。駕籠わきにはがんりきが附添うて、少し後(おく)れてお絹の駕籠。
 山の秋は既に老いたけれども、谷の紅葉はまだ見られる。右へいっぱいに富士の山、頭のところに雲を被っているだけで、夜来の雨はよく霽(は)れたから天気にはまず懸念がありません。

「なんだか道が後戻りをするような気がしますねえ」
「峠へ出るまでは少し廻りになりますから、富士の山に押されるようなあんばいになります、その代り峠へ出てしまえば、それからは富士の根へ頭を突込んで行くと同じことで、爪先下(つまさきさが)りに富士川まで出てしまうんでございますから楽なもので」

昨夜の雨がまだ降り足りないで、富士の頭へ残して行った一片の雨雲がようやく拡がって来ると、白根山脈の方からも、それと呼びかわすように雨雲が出て来る。それで、天気が曇ってくると富士颪(ふじおろし)が音を立てて、梢(こずえ)の枯葉を一時に鳴らすのでありました。


「大菩薩峠」(一一)駒井能登守の巻
「そうだ、猿橋と甲斐絹の名は知らぬ者はあるまい、その猿橋ももう近くなったはず」
「これから、ほんの僅かでございます、そんなに大きな橋ではございませんが、組立てが変っておりますから、日本の三奇橋の一つだなんぞと言われておりまする。猿橋から大月、大月には岩殿山(いわとのさん)の城あとがございまして、富士へおいでになるにはそこからわかれる道がございます。それから初狩(はつかり)、黒野田を通って笹子峠」


「大菩薩峠」(一三)如法闇夜の巻
でえだらぼっちというのはそもそも何者であろうかというに、これは伝説の怪物であります。素敵もない大きな男で、常に山を背負って歩いて、足を田の中へ踏み込んで沼をこしらえたり、富士山を崩して相模灘を埋めようとしたり、そんなことばかりしているのであります。
でえだらぼっちという字には何を当箝(あては)めたらよいか、時によっては大多法師と書きます。ところによってはレイラボッチとも言います。そんなばかばかしい巨人があるわけのものではないけれど、諸国を旅行したものは、どこへ行ってもその伝説を聞くことができます。今でも土地によってはその実在をさえ信じているところもあるのであります。でえだらぼっちが八幡様へ喧嘩を売りに来るという伝説の迷信が取払われないから、米友は今夜も燈籠へ火を入れなければなりませんでした。

彼等の間の話題は、近いうちおたがいに結束して山登りをしようということの相談でありました。その山登りをすべき山は、どこにきめたらよかろうかということにまで相談が進んでいたのであります。甲斐の国のことですから、山に不足はありません。多過ぎる山のうちのそのどれを択(えら)んでよいかという評議であります。
富士山に限る」
と言って大手を拡げたのがありました。それと同時に、富士山は甲斐のものである、それは古(いにし)えの記録を見てもよくわかることである、しかるに中世以来、駿河の富士、駿河の富士と言って、富士を駿河に取られてしまったことは心外千万である、甲斐の者は奮ってその名前を取戻さねばならぬ、なんどと主張しているものもありました。


「大菩薩峠」(一四)お銀様の巻
甲斐の国、甲府の土地は、大古(おおむかし)は一面の湖水であったということです。冷たい水が漫々と張り切って鏡のようになっていると、そこへ富士の山が面(かお)を出しては朝な夕なの水鏡をするのでありました。富士の山の水鏡のためには恰好でありましょうとも、水さえなければ人間も住まわれよう、畑も出来ようものをと、例の地蔵菩薩がお慈悲心からある時、二人の神様をお呼びになって、
「どうしたものじゃ、この水をどこへか落して、人間たちを住まわしてやりたいものではないか」

東へ向いても笹子や大菩薩の峰を見ることができません。西へ向って白根連山の形も眼には入りません。南は富士の山、北は金峰山、名にし負う甲斐の国の四方を囲む山また山の姿を一つも見ることはできないので、ただ霏々(ひひ)として降り、繽紛(ひんぷん)として舞う雪花(せっか)を見るのみであります。

いま、主膳が坐っている二階の一間は、雪見には誂向(あつらえむ)きの一間で、前に言った躑躅ケ崎の出鼻から左は高山につづき、右は甲府へ開けて、常ならば富士の山が呼べば答えるほどに見えるところであります。


「大菩薩峠」(一五)慢心和尚の巻
そこから眺めると目の下に、笛吹川沿岸の峡東(こうとう)の村々が手に取るように見えます。その笛吹川沿岸の村々を隔てて、甲武信(こぶし)ケ岳(たけ)から例の大菩薩嶺、小金沢、笹子、御坂、富士の方までが、前面に大屏風(おおびょうぶ)をめぐらしたように重なっています。それらの山々は雲を被(かぶ)っているのもあれば、雪をいただいているのもあります。
お銀様は、その山岳の重畳と風景の展望に、心を躍らせて眺め入りました。


「大菩薩峠」(一八)安房の国の巻
そうして番小屋の炉の傍で、お角の給仕で夕飯を食べながら話をしました。清吉のことは、もう諦めてしまっているようです。その話のうちに、甲州話がありました。けれども、その甲州話も、政治向のことや勤番諸士の噂などは、おくびにも出ないで、甲州では魚を食べられないとか、富士の山がよく見えるとか、甲斐絹(かいき)が安く買えるとか、そんな他愛のないことばかりでしたからお角は、この殿様がどうしてかの立派な御身分から今のように、おなりあそばしたかということを尋ねてみる隙がありませんでした。


「大菩薩峠」(二〇)禹門三級の巻
詮方(せんかた)なく米友は、代々木の原を立ち出でました。林のはずれを見ると、天気がいいものだから丹沢や秩父あたりの山々が見えるし、富士の山は、くっきり姿をあらわしていました。米友も久しく見なかった広い原と、高い山の景色に触れると、胸膈(きょうかく)がすっと開くようにいい心持になりました。

ここに立って東を望むと、高尾の本山の頂をかすめて、遠く武蔵野の平野であります。東に向ってやや右へ寄ると、武蔵野の平野から相模野がつづいて、相模川の岸から徐々として丹沢の山脈が起りはじめます。それをなおずっと右へとって行けば甲州に連なる山また山で、その山々の上には富士の根が高くのぞいているのを、晴れた時は鮮かに見ることができます。それを元へ返して丹沢の山つづきを見ると、その尽くるところに突兀(とっこつ)として高きが大山の阿夫利山(あふりさん)です。更に相模野を遠く雲煙縹渺(ひょうびょう)の間(かん)にながめる時には、海上微(かす)かに江の島が黒く浮んでいるのを見ることができます。

人跡(じんせき)の容易に到らない道志谷(どうしだに)を上って行くと、丹沢から焼山を経て赤石連山になって、その裏に鳥も通わぬ白根(しらね)の峰つづきが見える。富士の現われるのは、その赤石連山と焼山岳の間であります。空気のかげんによっては、道志谷の山のひだが驚くばかりハッキリして、そこを這う蟻の群までが見えるような心持がする。

小仏の背後に高いのが景信山(かげのぶやま)で、小仏と景信の間に、遠くその額を現わしているのが大菩薩峠の嶺であります。転じて景信の背後には金刀羅山(こんぴらやま)、大岳山(おおたけさん)、御岳山(みたけさん)の山々が続きます。それから山は再び武蔵野の平野へと崩れて行くのだが、小仏の肩を辷(すべ)って真一文字に甲州路をながめると、またしても山また山で、街道第一の難所、笹子の嶺を貫いて、その奥に甲信の境なる八ケ岳の雄姿を認める。富士をのぞいてすべての山がまだ黒い時分に、まず雪をかぶるのは八ケ岳です。


「大菩薩峠」(二一)無明の巻
まもなく庭を隔てた一間の障子にうつる影法師は、今の南条力。
   秀でては不二の岳(たけ)となり
   巍々(ぎぎ)千秋に聳え
   注いでは大瀛(たいえい)の水となり
   洋々八州をめぐる……
案(つくえ)によって微吟し、そぞろに鬱懐(うっかい)をやるの体(てい)。
興に乗じて微吟が朗吟に変ってゆく。

今宵、寺の縁側へ出て見ると、周囲をめぐる山巒(さんらん)、前面を圧する道志脈の右へ寄ったところに、富士が半身を現わしている。月はそれより左、青根の山の上へ高く鏡をかけているのであります。


「大菩薩峠」(二二)白骨の巻
その日の天気模様は朝から曇っていたものですから、肝腎の峠の上から諏訪湖をへだてた富士の姿が見えず、あたら絶景の半ばを損じたもののようで、ことに寒気が思いのほか強く、風こそないけれども、海抜一千メートルのここは、今にも雪を催してくるかとばかりです。


「大菩薩峠」(二三)他生の巻
こうして二人は社前を辞して大宮原にかかる。ここは三十町の原、この真中に立つと、富士、浅間、甲斐(かい)、武蔵、日光、伊香保などの山があざやかに見える。


「大菩薩峠」(二五)みちりやの巻
次にその夜の物語。大菩薩峠伝説のうちの一つ――
富士の山と、八ヶ岳とが、大昔、競争をはじめたことがある。
富士は、八ヶ岳よりも高いと言い、八ヶ岳は、富士に負けないと言う。
きょう、富士が一尺伸びると、あすは八ヶ岳が一尺伸びている。
この両個(ふたつ)は毎日、頭から湯気を出して――これは形容ではない、文字通り、その時は湯気を出していたのでしょう――高さにおいての競争で際限がない。
そうして、下界の人に向って、両者は同じように言う、
「どうだ、おれの方が高かろう」
けれども、当時の下界の人には、どちらがどのくらい高いのかわからない。わからせようとしても、その日その日に伸びてゆく背丈(せいたけ)の問題だから、手のつけようがない。
そこで、下界の人は、両者の、無制限の競争を見て笑い出した。
「毎日毎日、あんなに伸びていって、しまいにはどうするつもりだろう」
富士も、八ヶ岳も、その競争に力瘤(ちからこぶ)を入れながら、同時に、無制限が無意味を意味することを悟りかけている。さりとて、競争の中止は、まず中止した者に劣敗の名が来(きた)る怖れから、かれらは無意味と悟り、愚劣と知りながら、その無制限の競争をつづけている。
ある時のこと、毎日晨朝諸々(じんちょうもろもろ)の定(じょう)に入(い)り、六道に遊化(ゆうげ)するという大菩薩(だいぼさつ)が、この峰――今でいう大菩薩の峰――の上に一休みしたことがある。
その姿を見かけると、富士と、八ヶ岳とが、諸声(もろごえ)で大菩薩に呼びかけて言うことには、
「のう大菩薩、下界の人にはわからないが、あなたにはおわかりでしょう、見て下さい、わたしたちの身の丈を……どちらが高いと思召(おぼしめ)す」
かれらは、その日の力で、有らん限りの背のびをして、大菩薩の方へ向いた。
「おお、お前たち、何をむくむくと動いているのだ。何、背くらべをしている!」
大菩薩は半空に腰をかがめて、まだ半ば混沌たる地上の雲を掻き分けると、二ツの山は躍起となって、
「見て下さい、わたしたちの身の丈を……どちらが高いと思召す」
「左様――」
大菩薩は、稚気(ちき)溢れたる両山の競争を見て、莞爾(かんじ)として笑った。
「わたしの方が高いでしょう、少なくとも首から上は……」
八ヶ岳が言う。
御冗談でしょう――わたしの姿は東海の海にうつるが、八ヶ岳なんて、どこにも影がないじゃないか」
富士が言う。
「よしよし」
大菩薩は、事実の証明によってのほか、かれらの稚気満々たる競争を、思い止まらせる手段はないと考えた。
そこで、しゅ杖(しゅじょう)を取って、両者の頭の上にかけ渡して言う、
「さあ、お前たち、じっとしておれ」
そこで東海の水を取って、しゅ杖の上に注ぐと、水はするするとしゅ杖を走って、富士の頭に落ちた。
富士、お前の頭はつめたいだろう」
「ええ、それがどうしたのです」
「日は冷やかなるべく、月は熱かるべくとも、水は上へ向っては流れない」
「それでは、わたしが負けたのですか、八ヶ岳よりも、わたしの背が低いのですか」
「その通り」
大菩薩はそのまま雲に乗って、天上の世界へ向けてお立ちになる。
その後ろ姿を見送って、富士は歯がみをしたが及ばない。八ヶ岳が勝ち誇って乱舞しているのを見ると、カッとしてのぼせ上り、
「コン畜生!」
といって、足をあげて八ヶ岳の頭を蹴飛ばすと、不意を喰った八ヶ岳の、首から上がケシ飛んでしまった。
「占(し)めた! これでおれが日本一!」
その時から、富士と覇を争う山がなくなったという話。

近頃、山々へ登る人が、よく山々を征服したという。征服の文字がおかしいという者がある。おかしくはない、古来人跡の未(いま)だ至らなかったところへ、はじめて人間が足跡をしるすのだから痛快である、征服の文字はいっこうさしつかえがない、という者がある。
ハハハハと高笑いをして、富士山を征服したというから、おらあはあ、富士の山を押削(おっけず)って地ならしをして、坪幾らかの宅地にでも売りこかしてしまったのか、そりゃはあ、惜しいこんだと思っていたら、何のことだ、富士の山へ登って来たのが征服だということだから笑わせる……上へたかったのが征服なら、蠅はとうから人間様を征服している……と山の案内者が言いました。
山の案内者は、近頃の征服連の堕落をなげき、高山植物などの、年々少なくなることをも怖れているらしい。

弁信さん
お前は知らない
あたしが
どこにいるか
お前には
わからないだろう
海は広く
山は遠い
向うにぼんやりと
山と山の上に
かすんで見えるのは
富士の山
甲州の上野原でも
あの塔の上では
富士の山
見えたのに
弁信さん
お前の姿が見えない


「大菩薩峠」(二六)めいろの巻
「どうかして、ここへ、弁信さんを呼んで来ることはできないか知ら」
「ところさえわかれば、できないことはないでしょう」
「それがわからないのです。さっきは、富士山の後ろの方から面(かお)を出したから、たしか、あの辺にいるのかも知れません」
富士山の後ろって、お前……そんなお前、広いことを言っても、わかりゃしないじゃないの」
「ああ、弁信さんに羽が生えて、この海を渡って、飛んで来てくれるといいなあ」
「弁信さんて、そんなにいい人なの、憎らしい、弁信坊主――」
といって兵部の娘は、海を隔てて罪もない富士山を睨(にら)みました。

千九百六十米突(メートル)の白岩山がある。二千十八米突の雲取山がある。それから武州御岳との間に、甲斐の飛竜、前飛竜がある。御前と大岳(おおたけ)を前立てにして、例の大菩薩連嶺が悠久に横たわる。
天狗棚山があり、小金沢山があり、黒岳があり、雁ヶ腹摺山がある――ずっと下って景信(かげのぶ)があり、小仏があり、高尾がある。
いったん脈が切れて、そうして丹沢山塊が起る。蛭ヶ岳があり、塔ヶ岳があって、それからまたいったん絶えたるが如くして、大山阿夫利山(おおやまあふりさん)が突兀(とっこつ)として、東海と平野の前哨(ぜんしょう)の地位に、孤風をさらして立つ。富士は、大群山(おおむれやま)と丹沢山の間に、超絶的の温顔を見せている――


「大菩薩峠」(二七)鈴慕の巻
「山という山はたいてい歩きましたね、日本国中の有名な山という山には、たいてい一度はお見舞を致しましたが、なんにしても山といっては、この信州に限ったものです。富士は一つ山ですから、上って下ってしまえば、それっきりですが、信濃から飛騨、越中、加賀へかけての山ときては、山の奥底がわかりませんからな。尤(もっと)も毛唐人(けとうじん)にいわせると――毛唐人といっては穏かでないが、西洋の人ですな、長崎で西洋の山好きに逢いましてな、その男に聞きますとな、感心なもので、あの西洋人の山好きは、日本人の歩かない山を歩いていましたよ、この辺の山のことでもなんでもよく知っているには驚かされましたよ。ウエストとかなんとかいう名の男でしてね、それが、あんた、日本人がまだ名も知らねえ、この信濃の奥の山のことなんぞをくわしく話し出されるものだから、若い時分のことですから、すっかり面食(めんくら)ってしまいましたね。その西洋の山好きの男が言うことには、日本はさすがに山岳国だけあって、山の風景はたいしたものには相違ないが、それでも、高さからいっても、規模からいっても、西洋の国々に類の無いというほどのものではない、世界中にはまだまだ高いのや、変ったのがいくらもあるが、そのうちでも、ちょっと類の無いのは、肥後の国の阿蘇山だってこう言いましたよ」

「駒ヶ岳が、お見えになりましょう」
「どれ?」
富士山と、赤石と、八ヶ岳とが、遠くかすんでおりまするそのこちらに」
「うむ、なるほど」

一様に黒くはなったけれども、少しもその個性を失うのではない。槍は槍のように、穂高は穂高のように、乗鞍は乗鞍のように、駒ヶ岳は駒ヶ岳のように、焼ヶ岳は焼ヶ岳のように、赤石の連脈は赤石の連脈のように、八ヶ岳の一族は八ヶ岳の一族のように、富士は問題の外であるが、越中の立山は立山のように、加賀の白山は加賀の白山のように――展望において、やや縦覧を惜しまれている東南部、針木、夜立、鹿島槍、大黒の山々、峠でさえも、東北の方、戸隠、妙高、黒姫等の諸山までも、おのおのその個性を備えて、呼べば答えんばかりにではない、呼ばないのに、千山轡(くつわ)を並べ、万峰肩を連ねて、盛んなる堂々めぐりをはじめました。

「ああ、山という山が、みんな集まって来るではないか」
「山がみんな集まって、何をするのでしょう」
「何をしでかすかわからない」
「あれ、富士山が――大群山(おおむれやま)が、丹沢山が、蛭(ひる)ヶ峰(みね)が、塔ヶ岳が、相模の大山――あれで山は無くなりますのに――まあ、イヤじゃありませんか、大菩薩峠までが出て来ましたよ」
「大菩薩峠が……」


「大菩薩峠」(二九)年魚市の巻
――私の今の感覚によって想像してみますと、茂太郎は海の方へ出ていますね、多分、房州の故郷の方へ連れ戻されているかも知れません、時々、あちらからあの子の声が聞えます。弁信さん――いま富士山の頭から面(かお)を出したのはお前だろう、なんて――あの子が海岸を馳せめぐって、夕雲の棚曳(たなび)く空の間に、私の面を見出して、飛びついたりなぞしている光景が、私の頭の中へ、絶えずひらめいて参ります。

そこで、お銀様は、甲府盆地に見ゆる限りの山河をながめます。後ろは峨々(がが)たる地蔵、鳳凰、白根の連脈、それを背にして、お銀様の視線のじっと向うところは、富士でもなく、釜無でもなく、おのずから金峯(きんぽう)の尖端が、もう雪をいただいて、銀の置物のようにかがやくあたりでありました。

「できるだけ高く、とおっしゃっても、高いには際限がありませんでございますから……」
「それはわかっていますよ、富士や白根より高くなんて言いやしません、お前たちの力で、このくらいの円さのうちへ、頂上へ四坪ほどの平地を置いて、それでどのくらい高く出来るか、やれるだけやってみてごらん」

「梅は、ずっと昔、支那から渡って来たものだということになっているが、それもしかとはわからぬ、九州の梅谷(うめがや)というところ、甲州の富士の麓なんぞには、たしかに野生の梅があるのだからな。どうも、わしの頭では、やっぱり日本に、最初から存在したもののように思われてならぬ、樹ぶりから枝ぶり、趣味好尚に至るまで、全く日本にふさわしいものだ」


「大菩薩峠」(三〇)畜生谷の巻
「それは教えて上げない限りもございませんが、白川郷へ行く道は、並大抵の道ではありませんよ、まあ、あの白山をごらんなさい」
「はい」
富士の雪は消える時がありましても、白山の雪は消えることがございません、あの高い峻(けわ)しいところを、ずっとなぞいに左の方をごらんなさい、滝が見えましょう」
「え、え」


「大菩薩峠」(三一)勿来の巻
「関東では、山として高い方では日本一の富士、低いけれども名に於て、このもかのもの筑波がある。高さにして富士は一万五千尺、山も高いが、名も高いことこの上なし。筑波は僅かに数千尺――山は高くないが名が高い。米沢の吾妻山なんて、山も高くない、名も高くない……いったい、その吾妻山なるものの高さは、何尺あるのだ」

「そりゃあ、議論をすれば際限がないが、そう聞かれて、左様に出て来るのは豊臣秀吉さ――秀吉が日本に於ける古今第一の英雄だということは、まあ、富士が第一の高山だというのと同じように、相場になっている」
「その通り。そこで、拙者は、もう少し深く突込んだ意味で、端的に、日本第一の画家を狩野永徳だと答えるのだ」

「異人は、何でもすることが大きいのね」
「うむ……あいつらの船を見ただけでもわかる、いまいましい奴等だ」
「そうしてまた、いちばん高いところへ登ると、上総、房州から、富士でも、足柄でも、目通りに見えるんですとさ」

「大菩薩峠」(三二)弁信の巻
幸いにして海はいくら見てもいやだとは言わない、見たければまだまだ奥があります、際限なくごらん下さい、とお銀様をさえ軽くあしらっている。山はそうではない、我が故郷の国をめぐる山々、富士を除いた山々は、みんな、こんなとぼけた面をしてわたしを見ることはない。奥白根でも、蔵王、鳳凰、地蔵岳、金峯山の山々でも、時により、ところによって、おのおの峻峭(しゅんしょう)な表情をして見せるのに比べると、海というものはさっぱり張合いがない――

「それとこれとは違いますよ、硫黄岳、焼ヶ岳もずいぶん、噴火の歴史を持っているにはいますが、何しろ土地がこの通りかけ離れた土地ですから、人間に近い浅間山や、富士山、肥前の温泉(うんぜん)、肥後の阿蘇といったように世間が注意しません」
「神主さん、我々は噴火の歴史と地理を聞いているのじゃありません、この震動が安全ならば、何故に安全であるか、という理由を説明してもらいたいのです」


「大菩薩峠」(三五)胆吹の巻
臥竜山(がりゅうさん)の山上にもう一つ秀吉の横山城――それから佐々木六角氏の観音寺の城、鏡山、和歌で有名な……鏡の山はありとても、涙にくもりて見えわかず、と太平記にもある、あれだ。それから三上山(みかみやま)、近江富士ともいう、田原藤太が百足(むかで)を退治したところ――浅井長政の小谷(おだに)の城、七本槍で有名な賤(しず)ヶ岳たけ。うしろへ廻って見給え、これが胆吹の大岳であることは申すまでもあるまい。


「大菩薩峠」(三七)恐山の巻
右のお婆さんの語るところによると、鳩ヶ谷の三志様という人は、武州足立郡鳩ヶ谷の生れの人であって、不二講という教に入って、富士山に上り、さまざまの難行苦行をしたそうです。
ところが、そのうち、お釈迦様と同じように、こういう難行苦行だけが本当の人を救う道ではござるまい、誰かもう少し本当の道を教えてくれる人はないか――それから師を求め、道をとぶろうて修行して、まさにその道を大成したということです。

それがもう、一度や二度のことじゃございませんよ、何百回となるか数えきれないほどでござんしてね。それから、富士のお山へ登りまして天下泰平五穀豊年のお祈りをすることが百六十一度でございました。が、天保十二年の九月に七十七歳でお亡くなりになりました。

「中興の食行様(じきぎょうさま)は、江戸の巣鴨に住んで、油屋を営んでおいでになりました。富士のお山の麓には、食行様が立行(りつぎょう)というのをなさった石がございます、その石の上へ立ったままで御修行をなさいましたので、石へ足の指のあとがちゃんと凹(くぼ)んでついているのでございますよ。食行様は御一生の間に、富士のお山へ八十八回御登山をなさいました、そうしていつも、自分の家業は少しも怠らず、常に人に教えて『半日は家業に精出せ、半日は神様におつとめをするように』と申されました、そこで信徒たちにも『信心のあまりにも、家業を怠けるようなことがあってはならぬ』と教えて、御自分も教主の御身でありながら、油売りをおやめになりません、その油を売る時も、桝の底から周囲(まわり)まで竹箆(たけべら)で油をこすり落して、一滴たりとも買い手の利益になるように商売をなさいますので、人々がみな尊敬いたしました。こうして食行様は、享保十八年に富士の烏帽子岩にお籠りになって、そこでこの世を終りなさいました」

十八の時、お家をお出になりまして、あまねく名山、大川、神社仏閣の霊場めぐりをなさいまして、最後に富士のお山へおいでになりました。ここぞ御自分の畢生(ひっせい)の御修行場と思召して、お頂上、中道(ちゅうどう)、人穴、八湖、到るところであらゆる難行苦行をなさいました、それからいったんお国許へお帰りになりまして、また再び富士のお山の人穴に籠って大行をなさいました。

それをはじめて知って、角行様は大願成就とお喜びになりました。それが御縁で角行様は、この富士のお山こそ御国のしるし、御国はまた万国のしるし、取りも直さず富士のお山は、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高産霊神(たかみむすびのかみ)、神産霊神(かみむすびのかみ)の御三体の神様の分魂(わけみたま)のみましどころであるということを、御霊感によって確然とお悟りになり、そこで、この富士のお山こそ天地の魂の集まり所であると、こうお開きになり、天地の始め、国土の柱、天下国治、大行の本也(もとなり)、とお遺言なさって、正保の三年に、富士の人穴で御帰幽なさいました

そこで富士の霊山こそは、日本の国の秀霊であって、それと同じように、日本の国は万国の秀霊であるということの信仰。富士山こそは天下泰平国土安穏の霊山であるから、この霊山を信じ、祈ることによって、国家安穏の大願が成就する。

与八は、いちいちそれを頷いて聞いている。それからお婆さんは、自分の今度の旅行も、この故に富士山へ登山参詣をして来たその戻り道であるということを聞かされて、与八もこれには実際的に多少の驚異を感じたようです。というのは、七十以上のお婆さんの身で、真夏でもあれば知らぬこと、もう晩秋といってもよい時分に、単身で富士登山をしての戻り道だということを聞かされてみると、与八も鈍感な頭をめぐらして、このお婆さんの、皺(しわ)くちゃな身体を見直さないわけにはゆきませんでした。

それから右のお婆さんは、与八にお礼を言って、自分は信州飯田の者である、右のような次第でお富士さんへ参詣して来たが、これから故郷の信州飯田へ帰る、お前さんもどうか、そのうち都合して、ぜひ飯田まで遊びに来て下さい、飯田へ来て松下のお千代婆さんと言えば、直ぐわかる。

お婆さんは、自分のかぶっていた菅笠(すげがさ)を、与八のためにと言って残した。その笠には、富士のお山のおしるしもあれば、お婆さんの故郷、信州飯田――池田町――松下千代と書いてある。

「あっ!」
 二人の目を射たものは、真上に仰ぐ富士の高嶺の姿でありました。雪を被(かぶ)って、不意に前面から圧倒的に、しかも温顔をもって現われた富士の姿を見ると、お婆さんは真先にへたへたとそこに跪(ひざまず)いて、伏し拝んでしまいました。与八は土下座こそしなかったが、思わず両手を胸に合わせ拝む気になりました。
甲斐の国にいて富士を眺めることは、座敷にいて床の間の掛物を見るのと同じようなものですが、大竹藪を突抜けて来て、思いがけない時にその姿を前面から圧倒的に仰がせられたために、二人が打たれてしまったのでしょう。
お婆さんが山岳の感激から醒(さ)めて立ち上った時に、程近い藪の中から、真白い煙が起り、そこで人声がしましたものですから、とりあえずそちらの方へ行ってみることにしながら、お婆さんは、富士の姿を振仰いでは拝み、振仰いでは拝みして行くうちに、与八は早くもその白い煙の起ったところと、人の声のしたところへ行き着いて見ると、そこには数人の人があって、ていねいにお墓の前を掃除をし、その指図しているところの、極めて人品のよろしい老人が一人立っている。

富士を拝み拝み、たどり着いたお婆さんは、この人品のよい老人を見ると、恭(うやうや)しく頭を下げ、
「これはこれは徳大寺様――」

「では、知らねえ人だね」
「はい、信州の飯田というところのお婆さんで、お富士さんを信仰なさるのだということだけは聞きましたが」

松下千代女(すなわちお婆さんの本名)は信州飯田の池田町に住んでいる。鳩ヶ谷の三志様、すなわち富士講でいう小谷禄行(おたにろくぎょう)の教えを聞いてから、熱烈なる不二教の信者となり、既に四十年間、毎朝冷水を浴びて身を浄め、朝食のお菜(かず)としては素塩一匙(さじ)に限り、祁寒暑雨(きかんしょう)を厭わず、この教のために働き、夫が歿してから後は――真一文字にこの教のために一身を捧げて東奔西走している。その間に京都へ上って皇居を拝し、御所御礼をして宝祚万歳(ほうそばんざい)を祈ること二十一回、富士のお山に登って、頂上に御来光を拝して、天下泰平を祈願すること八度――五畿東海東山、武総常野の間、やすみなく往来して同志を結びつけ、忠孝節義を説き、放蕩無頼の徒を諭(さと)しては正道に向わしめ、波風の立つ一家を見ては、その不和合を解き、家々の子弟や召使を懇々(こんこん)と教え導き、また、台所生活にまで入って、薪炭の節約を教えたり、諸国遊説(ゆうぜい)の間に、各地の産業を視察して来て、農事の改良方法を伝えたりなどするものですから、「女高山」という異名を以て知られるようになっている。

してまた、一方の徳大寺様というのはいかに、これこそ、まことに貴い公家様でござって、女高山の婆さんは、エライといっても身分としては、信州飯田の一商家の女に過ぎないが、徳大寺様ときた日には、畏多(おそれおお)くも天子様の御親類筋で、身分の高いお公卿様でいらっしゃる。今は富士教に入って、教主の第九世をついでおいでになる。
ということを富作さんが、与八と、もう一人のお百姓にくわしく語って聞かせたところから、与八は、では、この山県大弐様もやっぱり富士講の仲間でいらっしゃるのか、とたずねると、富作さんが首を烈しく左右に振り、
「違う、全く違う――山県大弐様という人はな……」

山県大弐というのは、富士講の信者じゃねえです、あれは武田信玄公の身内で、有名な山県三郎兵衛の子孫でごいす、先祖の山県三郎兵衛は武田方で聞えた勇士だけれど、山県大弐はずっと後(おく)れて世に出たもんだから、戦争もなし、勇武で手柄を現わしたわけじゃねえのです、学問の方で大した人物でごいした、勤王方でしてね。


「大菩薩峠」(四〇)山科の巻
与八は、この土地に居ついた心持になりました。このところ、甲州有野村、富士と白根にかこまれた別天地――ここに於て、わが生涯が居ついたという感じが出ると共に、安定の心が備わりました。そこで、居る時は即ち安心、出づる時は即ち平和であります。

2007年01月27日

木下尚江

「火の柱」
篠田はやがて学生の群と別れて、独り沈思の歩(あゆみ)を築山の彼方(あなた)、紅葉麗はしき所に運びぬ、会衆の笑ひ興ずる声々も、いと遠く隔りて、梢に来鳴く雀の歌も閑(のど)かに、目を挙ぐれば雪の不二峰(ふじがね)、近く松林の上に其頂を見せて、掬(すく)はば手にも取り得んばかりなり、心の塵吹き起す風もあらぬ静邃閑寂(せいすゐかんじやく)の天地に、又た何事の憂きか残らん、時にふさはしき古人の詩歌など思ひ浮ぶるまに/\微吟しつ、岸の紅葉、空の白雲、映して織れる錦の水の池に沿うて、やゝ東屋(あづまや)に近きぬ、見れば誰やらん、我より先きに人の在り、聞ゆる足音に此方(こなた)を振り向きつ、思ひも掛けず、ソは山木の令嬢梅子なり、

夕ばえの富士の雪とも見るべき神々しき姉の面(おもて)を仰ぎて、剛一は、腕拱(こまぬ)きぬ、
 鳥の群、空高く歌うて過ぐ、

「ふウむ」と侯爵は葉巻(シガー)の煙(けむ)よりも淡々しき鼻挨拶(はなあしらひ)、心は遠き坑夫より、直ぐ目の前の浜子の後姿にぞ傾くめり、
 浜子は彼方(あちら)向いて、遙か窓外の雪の富士をや詮方(せんかた)なしに眺むらん、

2007年01月25日

原民喜

「秋日記」
……弥生も末の七日(なぬか)明ほのゝ空朧々として月は在明(ありあけ)にて光をさまれる物から不二の峯幽(かすか)にみえて上野谷中の花の梢又いつかはと心ほそしむつましきかきりは宵よりつとひて舟に乗て送る千しゆと云所(いふところ)にて船をあかれは前途三千里のおもひ胸にふさかりて幻のちまたに離別の泪(なみだ)をそゝく
 彼は歩きながら『奥の細道』の一節を暗誦していた。これは妻のかたわらで暗誦してきかせたこともあるのだが、弱い己(おの)れの心を支えようとする祈りでもあった。


「壊滅の序曲」
正三の眼には、いつも見馴れてゐる日本地図が浮んだ。広袤はてしない太平洋のはてに、はじめ日本列島は小さな点々として映る。マリアナ基地を飛立つたB29の編隊が、雲の裏を縫つて星のやうに流れてゆく。日本列島がぐんとこちらに引寄せられる。八丈島の上で二つに岐れた編隊の一つは、まつすぐ富士山の方に向かひ、他は、熊野灘に添つて紀伊水道の方へ進む。

2007年01月23日

正岡子規

一日一日富士細り行く日永哉

永き日に富士のふくれる思ひあり

佐保姫は裾のすがるや富士の山

春風や吹のこしたる富士の雪

春風の吹き残したり富士の雪

春風の高さくらべん富士筑波

鼻先の富士も箱根も霞みけり

其中に富士ぼつかりと霞哉

富士薄く雲より上に霞みけり

富士の根の霞みて青き夕哉

日本は霞んで富士もなかりけり

富士は雲に隠れて春の山許り

富士筑波西には花よあすか山

若草や富士の裾野をせり上る

鶏鳴くや小冨士の麓桃の花

ぼんやりと大きく出たり春の不二

衣更着や稍なまぬるき不二颪

此頃はひらたくなりぬ弥生不二

春風の脊丈みしかし不二のやま

春風やごみ吹きよせて不二の影

春風や不二を見こみの木賃宿

雪ながら霞もたつや不二の山

薄黒う見えよ朧夜朧不二

不二の山笑はねばこそ二千年

炉塞や椽へ出て見る不二の山

汲鮎や釣瓶の中の不二の山

五六尺不二を離るゝひはりかな

雲雀野や眼障りになる不二の山

越路から不二を見返せ帰る雁

吹きわける柳の風や不二筑波

青柳のしだれかゝるや不二の山

苗代やところところに不二のきれ

ふじよりも立つ陽炎や春の空

畑打やふじの裾野に人一人

薄紙のやうなふじあり桃の花

初秋の富士に雪なし和歌の嘘

秋風や片手に富士の川とめん

月高し窓より下に近江富士

雪の富士花の芳野もけふの月

朝霧の富士を尊とく見する哉

舞鶴の富士はなれけり秋の空

富士は曇り筑波は秋の彼岸哉

箱根路や薄に富士の六合目

霜月や雲もかゝらぬ晝の富士

此頃の富士大きなる寒さかな

森の上に富士見つけたる寒さかな

はつきりと富士の見えたる寒さ哉

寒けれど富士見る旅は羨まし

雪の無き富士見て寒し江戸の町

旭のさすや紅うかぶ霜の富士

帆まばらに富士高し朝の霜かすむ

朝霜の藁屋の上や富士の雪

木枯や富士をめかけて舟一つ

富士を出て箱根をつたふ時雨哉

積みあまる富士の雪降る都かな

大雪やあちらこちらに富士いくつ

富士ひとりめづらしからず雪の中

富士ひとりめづらしからず雪の朝

雪の富士五重の塔のさはりけり

赤いこと冬野の西の富士の山

冬籠り人富士石に向ひ坐す

庵の窓富士に開きて藥喰

富士山を箸にのせてや藥喰

富士へはつと散りかゝりけり磯千鳥

其奥に富士見ゆるなり冬木立

冬木立遙かに富士の見ゆる哉

冬枯や何山彼山富士の山

茶の花の中行く旅や左富士

明け易き夜頃や富士の鼠色

富士の影崩れて涼し冷し汁

秋近き窓のながめや小富士松

雪の間に小富士の風の薫りけり

炎天の中にほつちり富士の雪

不二垢離にゆふべの夢を洗ひけり

富士垢離は倶利迦羅紋の男哉

雲の峰いくつこえきて富士詣

ありあけの白帆を見たり富士詣

富士に寝て巨燵こひしき夜もあり

富士登る外国人の噂かな

雪くひに行くとて人の富士詣

富士行者白衣に雲の匂ひあり

見渡せば富士迄つゞく田植哉

初松魚生れ変らば富士の龍

日本橋や曙の富士初松魚

富士も見え塔も見えたる茂り哉

富士山は毎日見えつ初茄子

初空や烏は黒く富士白し
※烏でなく鳥という資料もある。

一の矢は富士を目かけて年始

西行の顏も見えけり富士の山

煩惱の梦の寐さめや富士の雪

富士の山雲より下の廣さかな

海晴れて小冨士に秋の日くれたり

見直せは冨士ひとり白し初月夜

冨士はまた暮れぬ内より高燈籠

小男鹿の冨士よちかゝる月よ哉

冨士隱す山のうらてや蕎麥の花

一家や冨士を見越の雁來紅

冨士ひとりいよいよ白き卯月哉

筆とつて冨士や画かん白重

冨士の雪見なからくふや夏氷

氷室守冨士をしらすと申しけり

初空や裾野も冨士と成りにけり

冨士といふ名に仰き見つつくり山

灘のくれ日本は冨士斗り也

冨士の根を眼當に昇る旭かな

秋たつやけふより不二は庵の物
※庵?俺?

朝寒の風が吹くなり雪の不二

秋晴て物見に近し秋の不二

名月や不二を目かけて鳥一羽

名月や不二をめくつて虫の聲

いざよひの闇とゞかずよ不二の山

破れ窓や霧吹き入るゝ不二颪

旅籠屋や霧晴て窓に不二近し

初嵐小不二ゆがんて見ゆる哉

吹き返す不二の裾野の野分哉

面白やどの橋からも秋の不二

身ふるひのつく程清し秋の不二

夕やけや星きらきらと秋の不二

秋不二や異人仰向く馬の上

山はにしき不二獨り雪の朝日かな

めづらしや始めて見たる月の不二

不二こえたくたびれ顔や隅田の雁

鴫黒く不二紫のゆふべ哉

桐一葉一葉やついに不二の山

不二一つおさえて高き銀杏哉

風拂ふ尾花か雲や不二の山

武蔵野の不二は尾花に紛れけり

蔓かれてへちまぶらりと不二の山

菊さくやきせ綿匂ふ不二の雪

蕣の不二を脊にして咲きにけり

大方はうち捨られつ師走不二

不二を背に筑波見下す小春哉

大極にものあり除夜の不二の山

寒けれど不二見て居るや阪の上

雲もなき不二見て寒し江戸の町

諏訪の海不二の影より氷りけり

薄赤う旭のあたりけり霜の不二

朝霜や江戸をはなれて空の不二

朝霜や不二を見に出る廊下口

凩や木立の奥の不二の山

空合や隅田の時雨不二の雪

薄暗し不二の裏行初しくれ

世の中の誠を不二に時雨けり

武藏野や夕日の筑波しくれ不二

汽車此夜不二足柄としぐれけり

初雪のはらりと降りし小不二

すじかへに不二の山から雪吹哉

裏不二の小さく見ゆる氷哉

達磨忌や混沌として時雨不二

不二のぞくすきまの風や冬籠

不二へ行く一筋道や冬木立

冬枯のうしろに高し不二の山

冬枯のうしろに立つや不二の山

はかなしや不二をかさして歸り花

茶の花や横に見て行朝の不二

とかくして不二かき出すや落は掻

十二層楼五層あたりに夏の不二

渾沌の中にものあり五月不二

短夜の上に日のさす不二の山

夏の夜や日暮れながらに明る不二

たそがれやながめなくして不二涼し

蟻一つ居ぬ下界と見えて不二涼し

夏不二の雪見て居れは風薫る

雲か山か不二かあらぬか五月雨

五月雨や天にひつゝく不二の山

不二山にくづれかゝるや雲の峯

夕立の又やふりけす不二の雪

夏の月不二は模様に似たりけり

不二垢離にゆふべの夢を洗ひけり

甲斐の雲駿河の雲や不二詣

飛び下りた夢も見る也不二詣

うたゝねの夢に攀ぢけり額の不二

紅の朝日すゞしや不二詣

月も日も夢の下なり不二詣

不二詣烏の鳴かぬ朝清し

不二詣水無月の雪に鰒もかな

短夜の限りを見たり不二詣

門を出て見ながら行や不二詣

雲置くや朝飯冷ゆる不二の室

団扇もて我に吹き送れ不二の風

夏痩の名にも立ちけり裸不二

不二見えて火の見櫓の涼み哉

見ぬ友や幾人涼む不二の陰

足伸へて不二をつゝくや涼み舟

不二は朝裾野は暗のともし哉

夏氷かむにあそこに不二の雪

我庵に不二を吐き出す蟇の口

時鳥不二の雪まだ六合目

一吹や羽蟻くづるゝ不二颪

卯の花に不二ゆりこぼす峠哉

遠不二の姿かりるや夏木立

ほのほのと茜の中や今朝の不二

元日や日も出ぬさきの不二の山

元日や鶴も飛ばざる不二の山

元朝や虚空暗く但不二許り

まだ夜なり西のはてには今朝の不二

けさの春琵琶湖緑に不二白し

まゝにならば宇治の若水不二の齒朶

一の矢は不二へそれけりゆみはしめ

初鴉不二か筑波かそれかあらぬ

あると見た色は空なり不二の雪

間違はし初めて不二を見てさへも

不二がねや雲絶えず起る八合目

肌寒やふじをまきこむ波の音

西行のふじにものいふ秋のくれ

秋晴てふじのうしろに入日哉

ふじ一つくれ殘りけり三日の月

ふじは雲露にあけ行く裾野哉

角力取の猪首はつらしふじの山

餘りうたば砧にくえんふじの雪

ふじ見えて物うき晝の花火哉

月見んとふじに近よる一日つゝ

粟の穂にふじはかくれて鶉啼く

いつしかにふじも暮けり夕紅葉

刈稻もふじも一つに日暮れけり

箱根來てふじに竝びし寒さ哉

ふじ山の横顏寒き別れかな

凩やちぎつてすつるふじの雪

面白やふじにとりつく幾時雨

初雪やふじの山よりたゞの山

白きもの又常盤なりふじの雪

母樣に見よとて晴れしふじの雪

冬の月一夜はふじにうせにけり

眞直にふじまでゆかん冬田哉

煤拂のほこりの中やふじの山

ふじのせた添水動かす枯尾花

蜘蛛の巣やふじ引かゝる五月晴

梅雨晴やかびにならずふじの雪

梅雨晴やふじひつかゝる蜘の網

夕立や雲もみださぬふじの山

松原に雪投げつけんふじ詣

卯の花にふじを結ひこむ垣根哉

元日や見直すふじの去年の雪

元日やふじ見る國はとことこぞ

ふじのねの矢先に霞む弓始

ふじのねや麓は三保の松飾り

餘の山は皆うつぶきつふじの山

灘の夕日本はふじ許り也

あし高は家にかくれてふじの山

雲いくへふじと裾野の遠きかな

秋風やつるりとしたる不盡の山

月と不盡一目一目のこよひ哉

三日月の悲しく消る不盡の山

見る内に不盡のはれけり朝の霧

見る内に不盡ははれけり朝の霧

右も三井左も三井秋の不盡

鶺鴒や飛び失ふて殘る不盡

不盡の山雪盛り上げし姿哉

吉原や眼にあまりたる雪の不盡

寒からん不盡の隣の一吹雪

不盡山をひねもすめくる吹雪哉

不盡の山白くて冬の月夜哉

西行の頭巾もめさず雪の不盡

不盡見ゆる北窓さして冬籠

不盡赤し筑波を見れは初日の出

秋のくれ見ゆる迄見るふしの山

扇見てふし思ひ出す夜寒哉

龍田姫ふしは女人の禁制そ

ふしの根に行あたりたる天の川

松折れてふしあらはなり初嵐

さりげなき野分の跡やふしの山

吹き付けてふしに消行野分哉

山山の錦きたなしふしの山

鵙なくやふしを見下す松のさき

鵲や橋杭になるふしの山

ふしの雪春ともしらぬ姿哉

はる風の吹きちゞめたりふしの雪

日本の花見下さんふしの山

ふしの影ふんて啼出す蛙哉

白梅やほつと朝日のふしの山

桃さくや紙のやうなるふしの山

日の本の桜にふしの夜明かな

梨子の花ふしは月夜に粉れけり

木枯やしかみ付たるふしの雲

時雨來る雲の上なりふしの雪

ふし見ゆる軒端をつゝる氷柱哉

冬の月一夜はふしの失にけり

冬枯の今をはれとやふしの山

茶の花や霜に明行ふしの山

熱い日は思ひ出だせよふしの山

ふしつくは都ふきこす青嵐

九合目へ来て気のせくやふし詣

空に入る身は軽げなりふし詣

松原へ雪投げつけんふし詣

ふしさへも一と夜に出来つ扇折

ふしか根の雪汁煮てや一夜酒

蝙蝠や薄墨にしむふしの山

並松へふし見に来たか閑古鳥

蚊柱やほつれほつれてふしの山

若竹や稍薄青きふしの山

元日やふしへものほる人心

目をやれば惠方にたてりふしの山

遣羽子の下にかすむやふしの山

いつそ皆子供にやれやふしの山

西行も笠ぬいで見るふしの山

日の本の俳諧見せふふしの山

天と地の支へ柱やふしの山


「筆まかせ」より「謎句」
左の二句を判じ給へ 尤(もっとも)後の方は非凡氏の立案にて余の句作なり
   埃及(えじぷと)が寒国ならば富士の山
   西形の顔も見えけりふじの山
此(この)後の句を解釈する人の説種〃あり 「富士の事を思へば連感にて西行の顔を見る如く思ふなり」「西行の顔がふじの雪に写るか 又は川にうつるものならん」「富士と西行の間へ我身をおけば可なり」などいふ説は皆あたらず


「筆まかせ」の「道中の佳景」から
併し此辺のけしきは(東京よりの下り列車ならば)右側をよしとす(尤(もっとも)自分も気車のむきに座するとして)、此他(このほか)ふじの見ゆる処は皆面白く 裾野をかけまわるも愉快なるが、尤其景色の絵画的(ピクチュアルスキュ)なるは興津、江尻近傍より後をふりむき、富士をながめたる時也 余は世界中斯(かく)の如き景はまたなきものと思ふ也


「筆まかせ」より
○三重まわる帯が二重もまわりかね
 一ッのものが二ッとぞなる
○化学者が水を分析してみれば
 一ッのものが二つとぞなる
○たいらなる富士のいたヾき近づけば
 一ッのものが三ッとなりけり

※盗花の名前(号)で書いてある
※九ッまである


わざとさへ見に行く旅をふじの雪

日本は霞んで富士も無かりけり

永き日に富士のふくれる思ひあり

梅雨晴や最う雲助の裸富士

※以上四句は、早稲田文学明治29年(1896)収録の子規子「俳句十二句」より。


「高尾紀行」
旅は二日道連は二人旅行道具は足二本ときめて十二月七日朝例の翁を本郷に訪ふて小春のうかれありきを促せば風邪の鼻すゝりながら俳道修行に出でん事本望なりとて共に新宿さしてぞ急ぎける。
  きぬ/″\に馬叱りたる寒さかな  鳴雪
暫くは汽車に膝栗毛を休め小春日のさしこむ窓に顏さしつけて富士の姿を眺めつゝ
  荻窪や野は枯れはてゝ牛の聲  鳴雪
  堀割の土崩れけり枯薄  同
  雪の脚寶永山へかゝりけり

2007年01月21日

加藤道夫

「なよたけ」
衛門 今時分でも頂上には雪が積っているのだそうですね?
綾麻呂 積っている。……儂(わし)がここへ赴任して来た当時は半分から上は純白の雪に蔽(おお)われていた。……この長雨で、あるいは幾らか溶けてしまったかもしれんが、……ま、いずれ雲が晴れてみれば分る。……玲瓏と云うか崇厳と云うか、とにかく、あれは日の本の秋津島の魂の象徴だ。……儂はもう文麻呂の奴に早くみせてやりたくてな。
衛門 手前だって早く見とうござります。
綾麻呂 いや何も別にお前には見せないと云うわけではない。ただあの不甲斐ない息子が一時も早く迷いの夢から覚めてくれれば、と思っているのだ。あの崇厳な不尽ヶ嶺の姿をみれば、少しは気持が落着いてくれるだろう。……全く、あいつは不甲斐のない男になってしまったものだ。

急に、雨雲が晴れ渡って、太陽が燦々と輝きはじめた。
衛門 おう! 旦那様! あれは不尽山ではございませんか! あれは不尽山ではございませんか! (前方右手を指さしている)
綾麻呂 うむ! そうだ! あれが不尽の山だ! あれが不尽の山だよ! (空を仰いで)おお、それにしても何と云う不思議だ! つい今しがたまで、あのように鬱陶(うっとう)しく立ちこめていた雨雲が、いつの間にやら、まるで嘘のように跡方もなく晴れ渡ってしまったではないか?……それに、どうだ! 衛門! 今日の不尽は嘗(かつ)て見たこともない神々しさだぞ! こんな荘厳な不尽を見るのは儂も初めてだ! 見ろ! あの白銀(しろがね)に燦(きら)めく頂きの美しさを!……おう! 後光だ! あれはまるで神の後光だ!
いつの間にか、文麻呂が向う側から丘の中腹に姿を現わして、輝やかしい瞳でじっと不尽山をみつめながら、立っている。丘の上の二人は気が付かない。舞台右手奥の方にも遠い連山が見え始める。

綾麻呂 (遠く不尽を望みながら、朗々と朗誦し始める)……
天地(あめつち)の 分れし時ゆ 神(かん)さびて
高く貴き 駿河なる 布士(ふじ)の高嶺
天の原 ふり放(さ)け見れば 渡る日の
影も隠ろい 照る月の 光も見えず
白雲も い行き憚(はばか)り 時じくぞ
雪は降りける 語り継ぎ 言い継ぎ行かむ
不尽の高嶺は……

文麻呂 (不尽を仰ぎながら)あの時代には国中の人達が美しい調和の中に生きていたのですね。……お父さん! 僕はしあわせです。(うっとりとして)万葉を生んだ国土。うつくしい国土。僕はこの国に生れたことを心の底からしあわせに思っています。

2007年01月19日

会津八一(會津八一)

武蔵野の霞める中にしろ妙の富士の高根に入日さす見ゆ

若くさや富士をうしろにひとりゆく

小便をするとて富士も笑ふらむ

草も木もわすれてしろし富士の山

2007年01月17日

高村光太郎

「晴天に酔ふ」
四方八方こんなによく晴れわたつてしまつては
あんまりまぶしいやうで気まりが悪いやうだ。
十国峠の頂上にいま裸で立たされてゐるやうだ。
頭のまうへにのしかかる巨大な富士
まるで呼吸をしてゐるやうに岩肌がひかるし、
右と左に二つの海が金銀の切箔をまきちらしてゐるし、
天城の向うに眼さへきいたら唐人お吉の町も見えさうだ。
どこからどこまで秋晴の午前八時だ。
天地一刻の防音装置に
展望はしんとして遠近無視の極彩色。
枯芝の匂の中に身を倒すと
ゆらゆらあたり一面の空気がゆらめき、
白ペンキ鮮かな航空燈台も四十五度にかたむき、
青ダイヤの龍胆がぱつちりと四五輪
富士の五合目あたりに咲いてゐる。
あんまり明るいので太陽の居るのさへ忘れてしまひ
何もかも忘れて此の存在が妙に仮象じみても来るし、
永遠の胎内のやうに温かでもあるし、
たうとうお天気に酔つぱらつて欠伸をすると、
急に耳の孔があいて森羅万象
一度に透明無比な音楽をはじめた。


「智恵子抄」の「噴霧的な夢」より
ほそい竹筒のやうな望遠鏡の先からは
ガスの火が噴射機(ジエツトプレイン)のやうに吹き出てゐた。
その望遠鏡で見ると富士山がみえた。
お鉢の底に何か面白いことがあるやうで
お鉢のまはりのスタンドに人が一ぱいゐた。
智恵子は富士山麓の秋の七草の花束を
ヴエズヴイオの噴火口にふかく投げた。
智恵子はほのぼのと美しく清浄で
しかもかぎりなき惑溺(わくでき)にみちてゐた。

2007年01月13日

道興法准后親王

よそに見し不二の志ら雪けふ分けぬ心の道を神にまかせて

2007年01月10日

冨士玉産(大正玉山)

垢離とりて洗い流せば身も清し心も清し富士の御手洗

荒沢の不動の滝を祈りせよにこり禊の身をぞ清むる

心中の真の道に叶わねば日夜月光わが名心月

月も日も富士は一仏一躰に皆三国を照らす御鏡

鳴沢の不動の縄に縛られて悪魔は直に立ちすくみける

※丸岩講「不二山大行御中道傅書」より
※冨士玉産の作か確認要

2007年01月07日

富士山の歴史年表

※追加中です(最新追加2007年7月)。
※コメントで追加・修正項目をいただけると幸いです。

約70万年前 小御岳火山の誕生。(C)
約10万年前 この頃までには小御岳火山の活動が終了。(D)
約8万年前 古富士火山が活動開始、激しい爆発型噴火。(C)(約10万年前,D)
約1万1千年前 多量の溶岩を噴出するタイプに変化。(C)(新富士火山の誕生:ステージ1,D)
約9千年前 静穏な時代に入る。(C)
約8千年前 この頃から山頂火口から小規模な降下テフラが断続的に噴出:ステージ2。(D)
約5千年前 噴火活動の再開、新富士火山誕生。(C)
約4500年前 この頃から山頂や北西〜南東山腹から小・中規模の降下テフラが断続的に噴出:ステージ3。(D)
約3200年前 この頃から山頂から比較的大規模の降下テフラが断続的に噴出:ステージ4。(D)
紀元前286(孝霊5)? 一夜で琵琶湖ができ、富士山が誕生した伝説。(C)
紀元前約200年 山頂での最後の噴火。この頃から山腹から小規模の降下テフラや溶岩が断続的に噴出:ステージ5。(D)
紀元前27 浅間大神が山足の地に祀られ(浅間大社の起源)、山霊が鎮められた(という伝説)。(J)
110頃 皇子日本武尊が蝦夷征伐のときこの地を訪れ、現在の須山浅間神社を創起した(と伝えられる)。(M)
552(欽明13) 蘇我稲目が現在の須山浅間神社を再興。(M)
699 富士山での開創伝説がある役行者(役小角)が伊豆に流される。(「続日本紀」,D)
700頃 「柿本集」に噴煙の記述(C)
720頃 噴火?(「万葉集」,C)
781 噴火による降灰で植生に被害の記録(続日本紀,D)
788(延暦7) 北口本宮冨士浅間神社が現在地に遷座される。(M)
800(延暦19) 延暦の噴火(=富士山の3大噴火、C)。平安末期の「日本紀略」の中に抄録。(D)
802(延暦21) 噴火。砕石により塞がれた足柄路が捨てられ、代わって箱根路が開かれる。(D)
803 足柄路が復旧。(D)
806 坂上田村麻呂が山宮から移し、現在地の富士山本宮浅間大社となった(と伝えられる)。
807(大同2) 802年の噴火の鎮火祈願を行った須走の斎場跡(現在の須走浅間神社の地)に、社殿が造営された(と伝えられる)。(M)
826 噴火(C)
864(貞観6) 866年にかけ貞観の噴火(=富士山の3大噴火、C)。青木ヶ原溶岩の噴出し、現在の西湖と精進湖が誕生。「日本三代実録」に記載。(D)
865(貞観7) 河口浅間神社が富士山噴火を鎮めるために創建された(とされる)。(M)
870 山頂で小噴火。(C)
877 この頃に都良香が「富士山記」を著す。(D)
907(延喜7) 駿河富士明神が従二位を授かる。(L)
932 噴火、浅間神社消失。(C)
937(承平7) 噴火。「日本紀略」に記録。(C,D)
937(承平7) 小御岳神社(小御岳石尊大権現)創建と伝えられる。(H)
952 噴火。(C)
958(天徳2) 吉田口登山道二合目の冨士御室浅間神社の里宮が河口湖畔の現在地に建立される。(M)
981(天元4) 平兼盛が須山浅間神社を修理。(M)
993 噴火。(C)
999 噴火。神祗官及び陰陽寮に噴火について占わせる。(C,D,L)
1017 噴火。(C)
1020 「更級日記」に火山活動の記述。(D)
1033 噴火。(C,D)
1069(延久元) 現存する最古の富士山の絵とされる「聖徳太子絵伝」が製作される。(G)
1083 噴火。「扶桑略記」に記録。(C,D)
1149? 駿河の末代上人により、山頂に仏閣が建てられる。(C)
1223(貞応2) 北条義時が駿河富士浅間社を造替、遷宮の儀を行う。(L)
1223(貞応2) 北口本宮浅間神社に北条義時が東宮本殿(浅間本社、冨士権現とも)を浅間本社として創建。(M)
1251(建長3) 幕府は富士山の雪を貢進させることを止める。(L)
1331(元徳3or元弘元) 地震で山頂崩れる。(C)
1333(元弘3) 富士浅間社に下島郷地頭職が寄附される。(L)
1334(建武元) 富士浅間社に駿河富士郡上方が寄附される。(L)
1435 噴火。「妙法寺記」に記録。(D)
室町時代 式部輝忠が「富士八景図」を描く。(G)
1500(明應9) 関東の乱により、富士登山は須走口が使われる。(L)
1511 噴火。「王代記」に記録。(C,D)
1561(永禄4) 北口本宮浅間神社の東宮本殿について、現在の社殿が武田信玄の川中島の戦い戦勝祈願のために、浅間本社として新たに造営。
1560 噴火。(C)
1594(文禄3) 北口本宮浅間神社の西宮本殿(重文)が建立される。(M)
1604(慶長9) 徳川家康が浅間大社の本殿造営に着手、2年後に完成(といわれる)。(M)
1606(慶長11) 河口浅間神社本殿消失、翌年再建。(M)
1612(慶長17) 冨士御室浅間神社の現在の本殿(重文)が吉田口登山道二合目に建立される。昭和48年に里宮に移築。(M)
札から明らかになっており、里宮である現在地へは昭
和48 年に移築された。
1615(元和元) 北口本宮浅間神社の本殿(重文)が建立される。(M)
1646(正保3) 富士講の基礎をつくった長谷川角行が106歳で人穴(富士宮市)において死去(と伝えられる)。
1697(元禄10) 河口浅間神社の鳥居が再建され、現在に伝わる。(M)
1700 噴火。(C)
1703 元禄関東地震。4年後の宝永東海・南海地震とともに、宝永噴火に関連があるという説。(D)
1707 宝永の噴火(=富士山の3大噴火、C)。宝永東海・南海地震の49日後に始まる。(D)
1708 全国に救済・復興費用を賦課。駿河・相模の被災地の一部を幕府直轄化。(D)
1718(享保3) 宝永噴火でで崩壊した須走浅間神社の社殿が再建され、現在まで続く。(M)
1727(享保12) 最初の測量記録。福田(姓のみ記録あり)氏が吉原から実施したもので、3895m相当。
1733(享保18) 食行身禄(伊藤伊兵衛)が7合5勺の烏帽子岩で入定。
1742(寛保2) 「御水」(富士の加持水=山頂金明水・銀明水)の流通が禁止となる。
1743 荘田子謙 「芙蓉之図」出版。(K)
1760(宝暦10) 池大雅が登山し、白山・立山を含む「三岳紀行図」を製作。彼の登山は1748・1761にも。(G)
1767 河村岷雪の絵「百富士」が出版される。(G)
1775(安永4) 大宮口(現在の富士宮口)と須走口が山頂の権利争いをする。(I)
1779(安永8) 幕府が各登山口の代表を呼び、8合以上は浅間神社の社有との裁決を出す。(I)
1780(安永9) 宝永噴火で廃道となった須山口が復興。(H)
1781−1786 この間に、狩野養川惟信が「富嶽十二ヶ月図巻」を描く。(G)
1790 加茂季鷹 「富士日記」出版。(K)
1795(寛政7) 水戸藩士の小泉壇山が「富士山真状」を描く。初の頂上図か。(G)
1795(寛政7) 富士講と号して奉納物を建立したり、行衣や数珠を用いたり護符を出したりすることを禁止とする触書がでる。
1799 契沖 「富士百首」出版。(K)
1803 和久田叔宮 「富士雪譜」出版。(K)
1803? 伊能忠敬が標高を測量推定。3928m相当。
1805 林呂亮 「富士山記」出版。(K)
1817 高田与清 「富士根源記」出版。(K)
1821(文政4) 野呂介石が「紅玉芙蓉峰図」を描く。赤富士を描いた最初の絵か。(G)
1822(文政5) 十返舎一九 「大山廻り富士詣」出版。(K)
1822(文政5) 大石周我 「山王真杉」出版。(K)
1823(文政6) 須山浅間神社の本社が再建される。(M)
1826 シーボルトが富士川で山頂高度角を測定。8度44分。
1827 羽倉簡堂 「陞山麩拭彌佝如(K)
1828 原義胤 「富士詣行李之友」出版。(K)
1828 二宮敬作が頂上で気圧観測により富士山頂標高を3794.5mと推定。
1828 山田貞実 「芙蓉奇観」出版。(K)
1831−33(天保2−4) 葛飾北斎の「富嶽三十六景」が発売される。(G)
1831 大森快庵 「不二紀行詩」出版。(K)
1832 高山たつが女性による最初の登頂。
1834 内田恭(五親)が標高測定。3475.7m。
1843 桑門在融 「快玆日記」出版。(K)
1845 小泉檀山 「富嶽写真」出版。(K)
1846 栗本鋤雲 「登嶽日記」出版。(K)
1847(弘化4) 月三講の長島泰行が「富士山真景之図」を製作。本人の画や信者の文書などをまとめたもの。山頂の表現「心字富士」が描かれたのはこれが最初かも。(G)
1852 狩野永岳が「富嶽登龍図」を描く。(G)
1854 安政の東海大地震 噴火口内が主体だった地熱地帯が、火口東縁の荒巻(伊豆ヶ嶽・成就ヶ嶽の間)に移動したきっかけになったという説。
1857(安政4) 浮世絵師歌川貞秀が錦絵「大日本富士絶頂図」を製作。(G)
1860 西欧人の登山 ラザフォード・オールコック英公使一行8名が、9月11(旧暦7月26?)日に登頂。ペリーの来航から7年にして、西欧人の最初の登山者。当時のイギリス公使。同行の印度海軍ロビンソン大尉(中尉?)が山頂で測量。高度4322m。植物学者のウィリアム・フッカー、園芸商ジョン・グールド・ヴィーチなども同行しシラビソなどを採取、本国に送る。
1860 幕府による裁許 8合目より上が浅間大社の境内と認められる。
1860 仮名垣魯文 「滑稽富士詣」出版。(K)
1867 西欧人女性の最初の登頂。パークス夫人。当時のイギリス公使夫人。
1868(明治元) 明治改元で神仏分離令施行。外輪山の名称変更や、大日堂(?)の建物が浅間大社奥宮に変わる。山頂の仏像・仏具類が一掃される。富士講は神道化。同年、アーネスト・サトウ(Sir Ernest Maison Satow)が村山口から登頂。
1871(明治4) 政府は御師制度を廃止する。(I)
1872(明治5) 政府は女人の富士登山を解禁する。(I)
1872(明治5) 政府は修験道廃止令を施行。山麓の浅間神社などに影響。
1873(明治6) 山頂で高度を測定(その2) 米国人クラークによる。
1873(明治6) お中道の大沢休泊所はが官許を得る。(H)
1874(明治7) 小御岳神社が火災で焼失。(H)
1875(明治8) ドイツ人植物学者デーニッツが山頂で植物採集。同年、英人教師モンタギュー・フェントンが、田中館愛橘などを引率して登頂。
1876(明治9) 山本長五郎(清水の次郎長)が南麓で開墾を始めるが、水もなく離脱者が多く頓挫。
1876(明治9) 小御岳神社の本殿・拝殿が再建される。(H)
1877(明治10) 土屋勝太郎が「富士之栞」を著す。(H)
1880(明治13) 荒巻地熱の記述 木野戸勝隆が「富士山頂独(ひとり)案内」を執筆。荒巻における地熱を最初に記した文献とされる。
1880(明治13) 初めての本格的な気象観測 "東大物理学科の米国人、トマス・メンデンホール(Thomas Carwin Mendenhall 1841-1924)が、田中館愛橘、東京気象台中村精男らとともに山頂に3日(4日?)間滞在。気象観測(隈本有尚が担当)や重力測定、天体観測や測量など、各種実験。このとき、標高3778mと算出。 (E)
1880(明治13) メンデンホールとW.S.チャプリンが理科大学紀要にそれぞれ「東京と富士山頂における重力測定」、「富士山の高さについて」を著す。(E)
1883(明治16) 御殿場口の原型完成。東海道線開通を見越して「富士山東表口」が地元によって拓かれる。
1887(明治20) 9月、ドイツ人エルヴィン・クニッピングが中央気象台の正戸豹之助と須走口頂上で気象観測。 (E)
1889(明治22) 富士山頂久須志岳の石室で中村精男ほか2名が、山中湖畔では近藤久治朗が38日間、初めて正式な気象観測を開始。
1889(明治22) 東海道線開通で御殿場駅や佐野駅(現在の裾野駅)開業 。東表口(現在の御殿場口)の起点が御殿場駅となる。佐野駅には須山口の案内看板が設置される。(I)
1890(明治23) ウォルター・ウェストンの登山 日本アルプスの父といわれる英国人。翌年12月、厳冬期の登山も。
1895(明治28) 中央気象台が久須志岳で夏季富士山頂気象観測を続ける。 定期的な夏季気象観測の開始。
1895(明治28) 野中至は山頂剣が峰に観測所用建物を建設し、10月から初の冬季気象観測を開始。しかし、至、千代子夫人共に病気となり、越冬ならず12月にやむなく下山。東京地学協会の「地学雑誌」(Journal of Geography)に「寒中の富士登山」掲載。
1896(明治29) 野中氏の報文発表 「地学雑誌」8〜10月号に、「富士山気象観測報文」を連続執筆。
1898(明治31) ラフカディオ・ハーンの登山 小泉八雲(ギリシャ生まれ?の)アメリカ人。
1898(明治31) 富岡鉄斎が屏風「富士山図」を製作。
1899(明治32) 富士・愛鷹両火山についての、最初の地学的調査の報告(震災予防調査報告第24号,平山武)。(C)
1900(明治33) 観測事業の提言 野中至が「地学雑誌」5・7月号に「富士観象事業に付て」を執筆。
1901(明治34) 筑波山 (筑波山頂に気象観測所が建設される。初代所長は佐藤順一)
1907(明治40) 佐藤順一、気象集誌に論文「日本の高山観測」を発表。
1909(明治42) 陸軍滝ヶ原廠舎設置に伴う軍用道路開設で、御殿場駅から山頂に至る現在の御殿場口登山道ルートとなる。
1909(明治42)? 日本初スキー? オーストリア人商社員クラッツェルが山腹太郎坊でスキーを行う。御殿場口駐車場に看板あり。
1911(明治44) 日本スキーの父といわれるオーストリア人、テオドール・フォン・レルヒが御殿場口8合目付近までスキー登山。(K)
1912 レルヒが初めての山頂よりスキー滑降。
1916(大正5) 須走口登山道が改修され、馬上での登山が可能となる。(M)
1922(大正11) 伊豆ヶ嶽に噴気 関東大震災後にいち早く沼津測候所の技手が登山、石室の大きな被害と新たな噴気を記録。
1923(大正12) 山頂で天気予報 摂政宮の登山。中央気象台技師の国富信一が山頂で天気予報を行う。
1924(大正13) Frederick Starrが、富士山を総合的にまとめた初の洋書"FUJIYAMA:The Sacred Mountain of Japan"を出版。(G)
1925(大正14) 7月、油屋熊八の考案した別府温泉のキャッチコピー「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」の標柱が山頂に設置される。
1926 標高3776mに 最初の測量記録は享保12(1727)年に福田(姓のみ記録あり)氏が吉原から実施したもので、3895m。
1927(昭和2) 佐藤順一が東京自動車学校鈴木靖二校長の寄付を得て観測小屋(佐藤小屋)を山頂東安河原に完成。設立者鈴木の「富士気候観測所」と中央気象台の「臨時富士山観測所」の2枚の看板が掲げられる。8月1日観測開始、9月末まで。(E) 気象観測は昭和6年(1931)まで続いた。
1927 富士山の山雲を研究する阿部正直が、御殿場市に私設の研究所として「阿部雲気流研究所」を開設。
1928(昭和3) 佐藤順一は7月1日から9月末まで山頂気象観測。(E)
1928−29 浅間神社編纂の「富士の研究」全6巻が刊行される。(H)
1929(昭和4) 鈴木靖二が中央気象台に山頂の観測小屋を寄付、富士気候観測所の看板は下ろされる。
1929(昭和4) 山頂では7〜9月に気象観測。7月11日〜8月28日に、山頂から警察の有線電話を介して中央気象台・沼津測候所に気象通報。NHKの気象通報に乗せ、関東各駅前には10時の気象状況を掲示。沼津では山頂の気象予報を実施。中央気象台では雷雨予報への利用を試行。(E)
1930(昭和5) 富士岳麓鉄道(現在の富士急行)が大月〜富士吉田間に鉄道を開業。
1930(昭和5) 1月から2月にかけ強力梶房吉の協力を得て佐藤順一が冬季山頂滞在観測。
1932(昭和7) 第二極年国際協同観測の一つとして山頂東安河原に「中央気象台臨時気象観測所」を設立、通年観測を開始。
1934(昭和9) 富士山頂での気象観測の原案を日本学術振興会で議論。第二極年観測後の観測を三井報恩会の援助で継続。
1935(昭和10) 剣が峰への観測所移築費が国会で認められ、国家予算として山頂の気象観測の経常費がつく。
1935(昭和10) 元貴族院議員の山崎亀吉によるケーブルカー計画。内務省により却下。昭和35・38年にも別のケーブルカー計画。
1936(昭和11) 「中央気象台富士山頂観測所」が山頂観測所の正式名称となり、山頂剣が峰に新庁舎を建設し移転。
1936(昭和11) 富士箱根伊豆国立公園の指定。
1937(昭和12) 東安河原の旧庁舎を剣が峰に移設し、観測所の3号庁舎とした。
1940(昭和15) 山頂庁舎の4号庁舎を庁舎南側に増設。
1941(昭和16) 観測所の御殿場基地事務所が開所。
1942(昭和17) 太郎坊避難所設置 御殿場口太郎坊に山頂勤務支援のための避難所を設置。
1944(昭和19) 観測所職員今村一郎が殉職 4月、交替登山中に吹雪のため道を失い、4合目付近で殉職。享年19。
1944(昭和19) 12月3日に山頂空襲。翌年の7月30日(3名軽傷)、8月13日にも。
1944(昭和19) 逓信院は東安河原の観測所避難所を東京―八丈島間の無線中継所として送電線を布設。観測所にも分電した。
1946(昭和21) 観測所職員小出六郎が殉職 12月、登山中の交代班員を迎えに行き、9合目付近で滑落。享年28。
1948(昭和23) 山頂観測所の所掌が三島測候所から分離・独立。
1948(昭和23) 第1回「富士山登山競争」が開催される。
1949(昭和24) 山頂観測所の名称変更で「富士山観測所」に改名。
1949(昭和24) 12月21日、富士宮口8合で雪崩、2名負傷。(B)
1950(昭和25) 3月7日、御殿場口4合目で雪崩、山小屋流出。(B)
1950(昭和25) 観測所が「富士山測候所」に昇格。
1951(昭和26) トヨタ「ジープBJ」(ランドクルーザーの原型)が6合目まで登坂テスト。(Q)
1952(昭和27) 吉田口中ノ茶屋周辺のレンゲツツジとフジザクラの群落に対して天然記念物指定。
1953(昭和28) 3月11日、吉田口7合で雪崩、山小屋数軒が全壊。(B)
1954(昭和29) 2月27日、御殿場口4合で雪崩。山小屋流出。(B)
1954(昭和29) 11月28日、吉田大沢9合下(7合?)で新雪表層雪崩。東大・日大・慶大などの雪上訓練者40名を巻き込み15名死亡、16名負傷。(A,B)
1957(昭和32) 3月、「富士山頂超短波放送実用化試験局」の免許申請書が東海大学理事長の松前重義名義で提出される。(O)
1957(昭和32) 浅間大社が訴訟 明治維新で強制的に国有地化されていた8合目より上の、国に対する返還訴訟。
1958(昭和33) 2月26日、測候所職員長田輝雄が殉職。御殿場口7合目付近で勤務登山中に突風に飛ばされる。享年59。
1958(昭和33) 地下水利用のため、富士綜合開発が大宮口1合付近に全長2017mの横穴を掘削開始する。しかし水は出ず、昭和36(1961)年に中止。後に東大地震研が利用。
1958(昭和33) 12月22日、吉田口本八合目付近で千葉水道局・三菱銀行員の2名が滑落死。(N)
1959(昭和34) 4月23日、北海道の高橋一夫氏が吉田口頂上鳥居直下で滑落死。(N)
1959(昭和34) 1月30日、御殿場口3合で雪崩。山小屋流出。(B)
1959(昭和34) 伊勢湾台風来襲 9月。富士山レーダー設置の契機となる。
1960(昭和35) 北アルプス白馬岳で捕獲したライチョウを富士宮5合目付近に放鳥するが、1971年に絶滅を確認。
1960(昭和35) 長田尾根安全柵建設 寄付により御殿場口上部の長田尾根に安全柵建設が始まる。
1960(昭和35) 11月19日、吉田大沢で新雪雪崩。早大・理科大山岳部など55名流され10名死亡、29名重傷。(A,B)
1961(昭和36) 5月4日、吉田口7合鎌岩付近で雪崩。日立川崎工場山岳部が巻き込まれ、2名負傷。(B)
1961(昭和36) 12月3日、吉田大沢8合屏風岩付近で雪崩。2名負傷。(B)
1963(昭和38) 予算がつき、富士山レーダーの設置が決定、機器の製作、レーダー塔の建設、庁舎の改装を開始。
1964(昭和39) 富士スバルライン開通。観光登山客の急激な増加をもたらす。
1964(昭和39) 富士山レーダー完成。実用化試験局として運用開始。 気象観測の通報は気象テレメーター装置による通報となり、大半の観測が自動化。
1965(昭和40) 富士山レーダーが陸上標定局の正式承認を受け正式運用開始。東京で式典、10円の記念切手発行。
1966(昭和41) 羽田発香港行きBOAC機が御殿場口太郎坊に墜落。124名全員死亡。
1966(昭和41) 表富士周遊道路全面開通 2月。
1966(昭和41) 阿部正直 没。(F)
1967(昭和42) 1957年に提訴された山頂の土地所有権訴訟において、最高裁で大社側勝訴。
1967(昭和42) 11月3日、吉田口9合付近で雪崩。2名負傷。(B)
1967(昭和42) 11月23日、吉田大沢7〜8合及びツバクロ沢の大雪崩。富士全体の積雪量は少なかった。(A)
1967(昭和42) 大沢崩れ対策の始動 参院予算委で大沢崩れ下流の土石流の問題が指摘され、国が砂防対策へ動き出す。
1967(昭和42) 測候所が雪上車導入。交替登山職員の負担軽減に大きく寄与。
1970(昭和45) 測候所山頂庁舎改築工事開始 レーダー塔及び電源室である4号庁舎以外すべて取り壊して新築。
1970(昭和45) この頃まで山頂や一部山麓では地熱活動が活発であった。(D)
1970(昭和45) 映画「富士山頂」公開。
1972(昭和47) 3月20日、御殿場口2.5合で大雪崩。清水労山・清水頂山岳会など巻き込まれ24名死亡。(B)
1973(昭和48) 測候所山頂新庁舎完成 2号・3号の新庁舎が完成。2階建てのかまぼこ型で、外壁はアルミニウム合金製となった。日本で数少ないアルミ建築。
1973(昭和48) 山頂の電力使用量増大に伴う測候所送電線更新。工事完成後、6.6kV高圧送電の火入れ式挙行。
1976(昭和51) 9月、擬似衛星用実験無線局が山頂に開設され、東京−名古屋間で通信実験。(P)
1977(昭和52) この年からお中道の大沢は通行禁止。(G)
1977(昭和52) 5月11〜12日にお中道大沢で中原万次郎氏が遭難。14日遺体で発見。この後、大沢にてお中道が通行禁止となる。(H)
1978(昭和53) 富士山レーダー更新 デジタル処理を採用、地形エコー除去機能の追加。
1978(昭和53) 測候所気象テレメータ更新
1980(昭和55) 測候所職員福田和彦殉職 4月、観測勤務中に火口に滑落。享年26。
1980(昭和55) 5月2日、吉田口8合屏風岩付近で雪崩、横須賀山岳会の2名負傷。(B)
1980(昭和55) 8月14日、久須志岳直下の岩が崩落し岩屑なだれ、吉田大沢で死者12名、負傷者31名。事故後に下山道のルート変更。
1981(昭和56) 11月2日、吉田口9合付近で雪崩。電気代・埼玉大山岳部を巻き込み4名負傷。(B)
1984(昭和59) 富士山レーダーのデジタル化本運用 カラー画像やデジタルデータの伝達など。
1987(昭和62) 有感地震 山頂では稀な有感地震を4回記録。
1988(昭和63) 最高齢登頂記録 五十嵐貞一が103歳で登頂。浅間大社が記録する最高齢記録。
1992(平成4) セスナ機が火口に墜落 6月6日、小型セスナ機が山頂火口に墜落。3人全員死亡。
1993(平成5) 標高の変更 山頂2等3角点の標高が、従来の計測より66cm低いことが判明。メートル単位での3776に変更無し。
1993(平成5) 風穴の汚損 天然記念物の風穴内で、フジテレビの番組収録中に発泡スチロールで汚損。翌年発覚。
1997(平成9) レーダー廃止決定 。
1999(平成11) 平成11年11月1日にレーダー廃止。前日にスノーボーダーが火口内に滑落、職員により救助。
2000(平成12) 2001年にかけ、深部低周波地震をの増加現象。(D)
2001(平成13) 三島測候所無人化 初冠雪の通報業務廃止。
2003(平成15) 無人化の発表 平成16年夏季をもって富士山測候所を(夏期以外)無人化すると気象庁が発表。
2003(平成15) 河口湖測候所無人化で、山梨側の初冠雪観測は甲府地方気象台からのみとなる。

参考資料:
(A)日本登山学校編,「気象ハンドブックシリーズ 山の気象と観天望気」,1970,日本文芸社
(B)新田隆三,「改定増補版 雪崩の世界から」,1986,古今書院
(C)諏訪彰編「富士山 その自然のすべて」,1992,同文書院
(D)内閣府中央防災会議「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書」,2006
(E)気象百年史及びその資料編,気象庁,1975
(F)富士山測候所−日本の気象観測を支えた人々−
(G)富士信仰研究会,「富士信仰研究第2巻」,2001,岩田書院
(H)富士信仰研究会,「富士信仰研究第3巻」,2002,岩田書院
(I)富士信仰研究会,「富士信仰研究第4巻」,2003,岩田書院
(J)浅間大社HP
(K)安川茂雄,「近代日本登山史(増補版)」,1976,四季書館
(L)東大編年史料綱文データベース,東大史料編纂所
(M)富士山世界文化遺産暫定リスト提案書,静岡県,2006
(N)山本三郎,富士山の気流と登山ルート,天気,1962
(O)Wikipedia, 「FM東海」
(P)JARL年表
(Q)トヨタHP

2007年01月05日

前田慶次

すみの山の ひかしなるらし富士の雪

※上記は、「前田慶次道中日記」から

2007年01月03日

大村由己

在陣をするがのふじの山よりも たかねにかうは馬のまめかな

※秀吉の右筆、大村由己が読んだ歌といわれる。

2007年01月01日

島木赤彦

土肥の海漕出てゝ見れは白雲を天に懸けたり不二の高根

富士が根はさはるものなし久方の天(あめ)ゆ傾きて海に至るまで


「諏訪湖畔冬の生活」
富士火山脈が信濃に入つて、八ヶ岳となり、蓼科山(たてしなやま)となり、霧ヶ峰となり、その末端が大小の丘陵となつて諏訪湖へ落ちる。その傾斜の最も低い所に私の村落がある。傾斜地であるから、家々石垣を築き、僅かに地を平(な)らして宅地とする。最高所の家は丘陵の上にあり、最底所の家は湖水に沿ひ、其の間の勾配に、百戸足らずの民家が散在してゐるのである。家は茅葺か板葺である。日用品小売店が今年まで二戸あつたが、最近三戸に殖えた。その他は皆純粋の農家である。