原民喜
「秋日記」
……弥生も末の七日(なぬか)明ほのゝ空朧々として月は在明(ありあけ)にて光をさまれる物から不二の峯幽(かすか)にみえて上野谷中の花の梢又いつかはと心ほそしむつましきかきりは宵よりつとひて舟に乗て送る千しゆと云所(いふところ)にて船をあかれは前途三千里のおもひ胸にふさかりて幻のちまたに離別の泪(なみだ)をそゝく
彼は歩きながら『奥の細道』の一節を暗誦していた。これは妻のかたわらで暗誦してきかせたこともあるのだが、弱い己(おの)れの心を支えようとする祈りでもあった。
「壊滅の序曲」
正三の眼には、いつも見馴れてゐる日本地図が浮んだ。広袤はてしない太平洋のはてに、はじめ日本列島は小さな点々として映る。マリアナ基地を飛立つたB29の編隊が、雲の裏を縫つて星のやうに流れてゆく。日本列島がぐんとこちらに引寄せられる。八丈島の上で二つに岐れた編隊の一つは、まつすぐ富士山の方に向かひ、他は、熊野灘に添つて紀伊水道の方へ進む。