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2007年07月19日

式亭三馬

「人間万事虚誕計(にんげんばんじうそばっかり)」
関と関との取組。イヤめざましいことであつた。そばで見ては顔がわからぬから。三里ばかりもあとへさがつて見てゐた。イヤすさまじい事よ。そこで両方がはねたはねた。ヤ。はねたのなんのとこそいへ。その地ひゞきが長崎の果まできこえて。唐人が目をまはしたといふはなしだ。しばらくもんでゐた所が。どこをどうしたか。蹴半弥をぐつとひつつかんで。目より。イヤ富士の山よりたかくさしあげて。曳と云てなげ出したが。きゝなさい。爰ががうせいだ。箱根山。富士川。天竜。大井川をはるかになげこして。京の六条数珠屋町へ。ずでんどうとぶつつけたが。大地へおよそ八万余旬。めりめりめりとめりこんだから。

あれもぜんたい大きなものさ。むかしは十八丈あつたけれど。大きくては流行におくれると云て。のちにちいさくしたのさ。その証拠は富士の山だ。おらが小児じぶんまでは。山の絶頂を見たものがなかつた。なんの事はない。雲の中からすぐに裾野さ。それが今では山のてつぺんが。どこからも見えるやうになつた。イヤ。事もたいさうなちがひさ。しかしこゝにはなしがあるテ。おれが血気さかんなころには。着物の丈も七尺八寸を着たから。ちよつと拵るものも一疋買ねば間にあはなんだが。今としがよつたら。きゝなさい。タツタ三尺二寸を着るから。一反で丈物だと。まへだれほどの裁がとれるやつさ。して見れば。富士の山もかんのんさまも。としがよつてちいさくなつたもしれねへ。

2007年07月04日

四賀光子

不二を正座に八と甲斐駒侍立志て雲乃どん帳志つ可に下りくる

2007年06月26日

白鳥省吾

生れ故郷の栗駒山はふじのやまよりなつかしや

2007年06月17日

白石昴

富士ヶ嶺は駿河の国のただ中に大地の力もりあがり立つ

2007年05月20日

島津久基

「国文学の新考察」の「竹取物語小論」から
無論中には、上品とは言へないのもあるし、又かなり苦しい牽強(こじつけ)もあるが、燕の子安貝を採らうとして大失敗を演じた上に、生命まで賭けてしまふ結果になつたのを、
   思ふに違ふ事をばかひなしとは言ひける。
又、それを憐んで、流石に姫の心も少し動いたのを、
   それよりなむ少し嬉しき事をば、かひありとは言ひける。
などは、先づ自然で上出來の部であらう。結尾の「不死」「富士」の結びつけ工合も、あれ位なら許されてよからう。少くとも氣分に於て嫌味が無いから。

(五)富士と不死の通俗語源論的解釋から發生した傳説が此の物語の結末に材料を與へたとなす高木敏雄氏の説(比較神話學)は採りたくない。前に言及したやうに、他の各小段の終に附した滑稽な言語の遊戯の一と看るだけで十分であらう。富士神仙説は別に在つたとしても、不死の藥と若し結合して來たとすれば、寧ろ本書からの事であらう。


「国文学の新考察」の「御伽草子論考」から
更に、文政十三年(天保元年)から十七年(天保八年からは十年)後の弘化四年に成つた山東京山の歴世女裝考(卷二、〔十五〕髪筋をかんざしといひし事) の文中に引いてあ・る「富士人穴草子」の説明として、その下に東山殿比のお伽さうし、寛永九年板全二冊」と割註してあるから、これこそは二十三篇以外―――そして亦四十三篇以外にも當る―――でも御伽草子と呼び、而も室町期の小論を然く呼んだ事實に關する的確な資料を提供するものである。

2007年02月05日

柴田流星

「残されたる江戸」の「木やり唄」より
「めでためでた」の本唄はさらなり、「不二の白雪や旭で解ける――」の木やりくずしまで、唄の数は二十幾つにも及ぶが節は元よりたった一つ、多少の崩れは三味線に合わすとてのそれ者が振舞い、そこにいずれはないでもないが、吾儕の心を誘(そそ)りゆいて、趣味の巷にこれ三昧の他事なきに至らしむる、また以て忘機の具となすに足るべきではあるまいか。

2007年01月01日

島木赤彦

土肥の海漕出てゝ見れは白雲を天に懸けたり不二の高根

富士が根はさはるものなし久方の天(あめ)ゆ傾きて海に至るまで


「諏訪湖畔冬の生活」
富士火山脈が信濃に入つて、八ヶ岳となり、蓼科山(たてしなやま)となり、霧ヶ峰となり、その末端が大小の丘陵となつて諏訪湖へ落ちる。その傾斜の最も低い所に私の村落がある。傾斜地であるから、家々石垣を築き、僅かに地を平(な)らして宅地とする。最高所の家は丘陵の上にあり、最底所の家は湖水に沿ひ、其の間の勾配に、百戸足らずの民家が散在してゐるのである。家は茅葺か板葺である。日用品小売店が今年まで二戸あつたが、最近三戸に殖えた。その他は皆純粋の農家である。

2006年11月19日

十返舎一九

「東海道中膝栗毛」
借金は富士の山ほどあるゆゑにそこで夜逃げを駿河ものかな

2006年08月16日

白木南栖

赤富士に河童忌の雲帆のごとし

2006年08月15日

白井爽風

長月の富嶽のせゐる波がしら

2006年08月05日

嶋田摩耶子

授かりしもの全容の五月富士

2006年08月04日

嶋田一歩

富士見えぬ方が裏口年木積む

赤富士に青くなりゆく空ありし

夕富士となつてをりけり昼寝ざめ

2006年08月03日

島田末吉

桃狩のくるりと剥けて遠い富士

2006年07月25日

椎本才麿

炉開きの里初富士おもふあしたかな

富士ぞ雪魯盤か掛けし日本橋

五月雨や富士の高根のもえて居る

2006年07月16日

下村牛伴

瓜の花小き富士の見ゆるなり

北に見る富士やゝ寒くなりにけり

2006年05月30日

下村湖人

「次郎物語」(第五部)
第三日目は人間的交渉をさけて、ひたすら自然に親しもうという計画だった。未明に鉄舟寺を辞すると、まず竜華寺(りゅうげじ)の日の出の富士を仰ぎ、三保の松原で海気を吸い、清水駅から汽車で御殿場(ごてんば)に出て、富士の裾野を山中湖畔までバスを走らせた。

次郎はほうっと深い息をした。それは安堵の吐息ともつかず、これまで以上の深い苦悶の吐息ともつかないものだった。
二人はやがて立ちあがって、言い合わしたように富士を仰いだ。どちらからも口をきかなかった。富士は、三保で見たすらりとした姿とはまるでちがった、重々しい沈黙と孤独の姿を、青空の下に横たえていた。

2006年05月12日

渋谷松月

描きかけてありし画板の皐月富士

2006年05月07日

柴田白葉女

日の讃歌富士はつ秋の山容ち

柴田奈美

讃岐富士聳え晴天高うする

篠田悌二郎

初富士の玲瓏巨き創あをし

篠原梵

富士の孤の秋空ふかく円を蔵す

富士暮れしそば金縁の雲うかぶ

松の間に真白き富士のどこかが見ゆ

富士茜真紅の冬日しづみければ

赤き富士朝霧の上の山の上に

富士の肩棚雲よりも夕焼濃し

富士を見に芽ぶきし木々をぬけてゆく

2006年05月06日

篠原武雄

裏富士の引けば翳おくとりかぶと

七田千代子

夏蜜柑剥く大富士を前にして

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2006年04月22日

清水義範

「日本文学全集第一集」の「小倉百人一首」から
「親父(おやじ)富士」  呑度鈍(どんどどん)・歌
○田子のヨー 田子のヨー
 おれが育った田子の浦にはヨー
 あとにひかえた親父の富士がある
 雪をいただく偉大(おおき)な姿が
 いつもおれを見守っている
 おれはヨー 心のなかで親父の 親父の富士をヨー
 いつも頼りにしているんだヨー

2006年04月20日

斯波園女

雪に思へ富士に向はば故郷の絵

霜やけを不二の光にこころ儘

しら糸に霜かく杖や橋の不二

不二見えてさるほどに寒き木間かな

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2006年04月13日

白幡千草

蝦夷富士にマ−ガレットに雨晴るる

白根栄一

裏富士の紫紺となりて秋晴るる

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白井常雄

雪襞の濃淡もまた師走富士

笠曇を脱がぬ裏富士梅日和

2006年04月12日

島村正

登山路に灼けゐし富士の火山弾

宝永の火口に憩ふ登山隊

登山隊宝永山の窪歩く

2006年04月01日

柴田竜王

寒椿富士は駿河へ雲とばし

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志村曳馬

夕映を背に薄墨の冬の富士

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志村ささを

初冨士の肩に生れ消ゆ雲のあり

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2006年03月25日

下村非文

富士隠す雨となりたり炉を開く

下間ノリ

富士薊高原の風ほしいまま

2006年03月12日

塩川秀子

富士新雪托鉢僧の列ゆけり

2006年03月11日

下鉢清子

野分晴富士五合目を馬歩き

塩田丸男

春富士を真っ正面に野糞かな

塩川雄三

富士山を閉づ火祭の火を連ね

2006年03月04日

下村莢

「月下懐郷」
○照らすか月影 三国一の
 富士より落ち来る 清水のながれ
 清水に米(よね)とぐ わがふるさとを
○恋しやふるさと 思へば今も
 かすかにひびくよ やさしき母の
 みひざに眠りし むかしの歌の
○針の手休めて 同じき月に
 この身やおぼさん 老いたる母は
 みそばにはべりて 糸くる姉と
○照らすか月影 父ます塚を
 思えば身にしむ おさなきなれが
 行く末いかにの いまはのみこと
○打ちつれ 鳴きつれ 雁こそ渡れ
 いずこの山越え 里越え来しか
 はや影かすかに 月ただふけぬ

※下村莢作詞/ドイツ民謡
※明治の唱歌

2006年02月18日

下河辺長流

富士の嶺に 登りて見れば 天地(あめつち)は
  まだいくほども わかれざりけり

下河辺長流

2006年02月04日

清水紫琴

「したゆく水」
なに暗からぬ御身をば、はや、いつしかにほの暗き、障子の方に押向けて、墨磨りたまふ勿体なさ。硯の海より、山よりも、深いお情け、おし載く、富士の額は火に燃えて。有難しとも、冥加とも、いふべきお礼の数々は、口まで出ても、ついさうと、いひ尽くされぬ、主従の、隔ては、たつた、一ツの敷居が、千言万語の心の関。

2006年02月02日

島崎藤村

「落梅集」に収録
「寂寥」より
あした炎をたゝかはし
ゆうべ煙をきそひてし
駿河にたてる富士の根も
今はさびしき日の影に
白く輝く墓のごと
はるかに沈む雲の外
これは信濃の空高く
今も烈しき火の柱
雨なす石を降らしては
みそらを焦す灰けぶり
神夢さめし天地の
ひらけそめにし昔より
常世につもる白雪は
今も無間の谷の底
湧きてあふるゝ紅の
血潮の池を目にみては
布引に住むはやぶさも
翼をかへす浅間山


「若菜集」に収録
「天馬」より
あゝ朝鳥の音をきゝて
富士の高根の雪に鳴き
夕つけわたる鳥の音に
木曾の御嶽の巌を越え
かの青雲に嘶きて
天より天の電影の
光の末に隠るべき
雄馬の身にてありながら
なさけもあつくなつかしき


「千曲川のスケッチ」
山荘は二階建で、池を前にして、静かな沢の入口にあった。左に浅い谷を囲んだ松林の方は曇って空もよく見えなかった。快晴の日は、富士の山巓(さんてん)も望まれるという。池の辺(ほとり)に咲乱れた花あやめは楽しい感じを与えた。

間もなく私達は甲州の方に向いた八つが岳の側面が望まれるところへ出た。私達は樹木の少い大傾斜、深い谷々なぞを眼の下にして立った。
「富士!」
と学生は互に呼びかわして、そこから高い峻(けわ)しい坂道を甲州の方へ下りた。


「夜明け前」(第二部)
伊那(いな)の谷あたりを中心にして民間に起こって来ている実行教(富士講)の信徒が、この際、何か特殊な勤倹力行と困苦に堪(た)えることをもって天地の恩に報いねばならないということを言い出し、一家全員こぞって種々(さまざま)な難行事を選び、ちいさな子供にまで、早起き、はいはい、掃除(そうじ)、母三拝、その他飴菓子(あめがし)を買わぬなどの難行事を与えているようなあの異常な信心ぶりを考えて見ることもある。これにも驚かずにはいられなかった。


「家」
「裏の叔父さんがなし、面白いことを言ったデ――『ああ、ああ、峯公(女教師の子息)も独りで富士登山が出来るように成ったか、して見ると私が年の寄るのも……』どうだとか、こうだとか――笑って了(しま)ったに」


「芽生」
こういう私の家の光景(ありさま)は酷く植木屋の人達を驚かした。この家族を始め、旧くから大久保に住む農夫の間には、富士講の信者というものが多かった。翌日のこと、切下髪(きりさげがみ)にした女が突然私の家へやって来た。この女は、講中の先達とかで、植木屋の老爺(じい)さんの弟の連合(つれあい)にあたる人だが、こう私の家に不幸の起るのは――第一引越して来た方角が悪かったこと、それから私の家内の信心に乏しいことなどを言って、しきりに祈祷(きとう)を勧めて帰って行った。

私の家に復たこのような不幸が起ったということは、いよいよ祈祷の必要を富士講の連中に思わせた。女の先達は復た私の家へ訪ねて来て、それ見たかと言わぬばかりの口調で、散々家内の不心得を責めた。「度し難い家族」――これが先達の後へ残して行った意味だった。