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島津久基

「国文学の新考察」の「竹取物語小論」から
無論中には、上品とは言へないのもあるし、又かなり苦しい牽強(こじつけ)もあるが、燕の子安貝を採らうとして大失敗を演じた上に、生命まで賭けてしまふ結果になつたのを、
   思ふに違ふ事をばかひなしとは言ひける。
又、それを憐んで、流石に姫の心も少し動いたのを、
   それよりなむ少し嬉しき事をば、かひありとは言ひける。
などは、先づ自然で上出來の部であらう。結尾の「不死」「富士」の結びつけ工合も、あれ位なら許されてよからう。少くとも氣分に於て嫌味が無いから。

(五)富士と不死の通俗語源論的解釋から發生した傳説が此の物語の結末に材料を與へたとなす高木敏雄氏の説(比較神話學)は採りたくない。前に言及したやうに、他の各小段の終に附した滑稽な言語の遊戯の一と看るだけで十分であらう。富士神仙説は別に在つたとしても、不死の藥と若し結合して來たとすれば、寧ろ本書からの事であらう。


「国文学の新考察」の「御伽草子論考」から
更に、文政十三年(天保元年)から十七年(天保八年からは十年)後の弘化四年に成つた山東京山の歴世女裝考(卷二、〔十五〕髪筋をかんざしといひし事) の文中に引いてあ・る「富士人穴草子」の説明として、その下に東山殿比のお伽さうし、寛永九年板全二冊」と割註してあるから、これこそは二十三篇以外―――そして亦四十三篇以外にも當る―――でも御伽草子と呼び、而も室町期の小論を然く呼んだ事實に關する的確な資料を提供するものである。