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2007年07月09日

酒井黙禅

夜汽車下りて明日馬たのむ富士詣

2007年05月25日

佐藤金造

メナド富士の空に立舞ふ白花をいつくしと見けむとぶ荒鷲も

※メナド富士=インドネシアにあるKlabat山

2007年05月22日

佐伯孝夫

「千葉県立小金高等学校 校歌」
はるかな富士よ 筑波は間近
 江戸川光り わが窓高し
 照る日 雨の日 雪降る冬も
 学びの道に汗してはげむ
 若人 こゝに小金高校
 讃えよ われらの小金高校

※3番のうち3番
※作詞佐伯孝夫/作曲吉田正


「喧嘩富士」
富士は白雪 この雪化粧
 江戸から見ている 人もあろ
 どうせ一宿 ササ 一飯の
 恩義にあずかる旅鴉
 一肌脱ぐぜ 喧嘩なら
○なにを言やがる しんみりするな
 サイコロ一つの 振り違い
 それを荷物の ササ 喧嘩旅
 俺らはいいから ササ お富士山
 守ってくんな あの娘

※3番のうちの1・3番
※作詞佐伯孝夫/作曲吉田正

2007年03月20日

櫻井博道

数へ日の夕富士ぽつんと力あり

2007年02月21日

斎藤茂吉

富士がねに屯(たむろ)する雲はあやしかも甲斐がねうづみうごけるらしも


「三筋町界隈」
私は地図を書いてもらって徒歩で其処に訪ねて行った。二階の六畳一間で其処に中林梧竹翁の額が掛かっていて、そこから富士山が見える。私は富士山をそのときはじめて見た。夏の富士で雲なども一しょであったが、現実に富士山を見たときの少年の眼は一期を画したということになった。この画期ということは何も美麗な女体を見た時ばかりではない。山水といえども同じことである。

2007年02月19日

佐佐木信綱

日くらしに見れともあかすこゝにして富士は望むへし春の日秋の日

富士の雪にとしの初日はかがよへり我らもうけむこの年に幸あれ

神の代に天降りけむ天人のくましゝ水か白金の水

初春の真すみの空にましろなる曙の富士を仰ぎけるかも


「御殿場市歌」より
○大いなるかな 富士の心
 豊かなるかな 富士の姿
 日本の象徴 嶺めの山の
 生命を永遠に 継ぐもの我ら
 集いて成せば いよよ栄えん
 栄えんいよよ わが御殿場市

※佐佐木信綱作詞/信時潔作曲
※3番まであるうちの1番

2007年02月13日

佐藤垢石

「榛名湖の公魚釣り」
榛名富士、相馬山、ヤセオネ、天神峠に囲まれた、広いなだらかな火口原の野の末に、描いたような枯れ林を水際に映した美しい榛名湖で、公魚を釣る気分はまことに愉快である。
 しかし氷の穴から釣るよりも、水に舟を浮かべて釣る方が面白い。すべて脈釣りで、ここ独特の仕掛けである。


「香魚の讃」
鮎の多摩川が、東京上水道のために清冽な水を失った近年、関東地方で代表的な釣り場とされているのは相模川である。富士山麓の山中湖から源を発して三、四十里、相州の馬入村で太平洋へ注ぐまで、流れは奔馬(ほんば)のように峡谷を走っている。中にも、甲州地内猿橋から上野原まで、また相州地内の津久井の流水に棲む鮎は、驚くほど形が大きい。

酒匂川も捨て難い。二宮尊徳翁の故郷、栢山村を中心として釣りめぐれば殊のほか足場がよろしいのである。この川もまた震災後はじめての大遡上であると、沿岸の漁師が喜んでいるほど鮎が多い。鬼柳の堰に、メスのように光る若鮎が躍っている。足柄山の尾根をきった空に、富士の白い頂が釣り人を覗いているではないか。


「想い出」
私は、黙ってその場を立って、自分の竿のあるところへ行き、道具をかたして堤防の上へ登った。広々として、果てしのない酒匂の河原を望んだ。足柄村の点々とした家を隔てて、久野の山から道了山の方へ、緑の林が続いている。金時山の肩から片側出した富士の頂は、残雪がまだ厚いのであろう、冴えたように白い。遠く眺める明星ヶ岳や、双子山の山肌を包む草むらは、まだ若葉へもえたったばかりであるかも知れない。やわらかい浅緑が、真昼の陽に輝いている。


「濁酒を恋う」
けれど、現在世の中にあるおいしい酒というのはすべて味わい尽くしたから、この頃では昔上方にあったという『富士見酒』の味を想像して、舌に唾液をからませている。『富士見酒』というのは、糟丘亭が書いた百万塔のひともと草に出ている。百万塔は百家説林のように、各家の随筆を収録したもので文化三年に編粋され、ひともと草はそのうちの一篇であるが、糟丘亭は上条八太郎の筆名だと聞く。
 酒の初まれるや、久方のあめつちにも、その名はいみじき物を、ことごとしくにくめり云ふもあれど、おのづから捨てがたき折ともよろづに興をそふるともをかしく、罪ゆるさるる物とも嬉しとも、いきいきしともいへり。この物つくれる事のひろこりゆけば、いづこにすめるも濁れるもあれど、過し慶長四年とや、伊丹なる鴻池の醸を下しそめけるより、この大江戸にわたれるは、ことところ異りて味も薫もになくにぞ、世にもて賞するある。その頃は馬にておくりたるを、いつよりか舟にてあまた積もてくだせる事にはなれる。その国にさへ一二樽残してもてかへり、富士見となん賞しけるとぞ(下略)。
 蜀山人の就牘(しゅうとく)には、
 当地は池田伊丹近くて、酒の性猛烈に候。乍去宿酔なし、地酒は調合ものにてあしく候。此間江戸より酒一樽船廻しにて富士を二度見候ゆへ二望嶽と名付置申候。本名は白雪と申候。至って和らかにて宜敷聯句馬生に対酌――などとある。これは昔、酒樽を灘から船で積み出し、遠州灘や相模灘で富士の姿をながめながら江戸へ着き、その積んで行った樽のうち二、三本をさらに灘へ積み返し、上方の酒仙たちの愛用に供したから、富士見酒と言ったものであろう。
 柳多留四十二篇に、
   男山舟で見逢のさくや姫
 という川柳があるが、これは長唄の春昔由縁英(はるはむかしゆかりのはなぶさ)のうちの白酒売りの文句に『お腰の物は船宿の戸棚の内に霧酒、笹の一夜を呉竹の、くねには癖の男山』とある銘酒。この男山と富士の女神かぐや姫が舟で見逢いをする、としゃれて詠んだのかも知れない。


「わが童心」
それは、赤城と榛名の姿を探し求めたのである。しかしながら、わが求むる赤城と榛名は、いつも秋霞の奥の奥に低く塗りこめられて、つれなくも私の視界に映らない。ただ近く秩父の山々が重畳と紫紺の色に連なり、山脈が尽きるあたりの野の果てに頂をちょんぼり白く染めた富士山が立っていた。
大根畑の傍らへ、朝も夕も通ったが、とうとう故郷の山を望み得なかった。もう堪らない。

私は、五月から六月上旬へかけての赤城が一番好きだ。十里にも余るあの長い広い裾を引いた趣は、富士山か甲州の八ヶ岳にも比べられよう。麓の前橋あたりに春が徂(ゆ)くと赤城の裾は下の方から、一日ごとに上の方へ、少しばかりずつ、淡緑の彩が拡がってゆく。

榛名は赤城に比べると、全体の姿といい、肌のこまやかさ、線の細さなど、女性的といえるかも知れない。東から船尾、二つ岳、相馬山、榛名、富士と西へ順序よく並んで聳えるが、どの峰もやわらかな調和を失わない。そして、それぞれが天空に美しく彫りつけたような特色を持っているけれど、敢て奇嬌ではない。
まず、榛名は麗峰と呼んで日本全国に数多くはあるまいと思う。

2006年12月11日

坂村真民

「日本よ永遠なれ」
富士の高嶺
鎮まり在ます
木花開耶媛
さくら
さくら
日本よ永遠なれ

あなにやし えおとめ
あなにやし えおとこ
国産みの
若い二人の神よ
ああ
日本よ永遠なれ

葦の芽の
萌え出づる
若き国よ
夢よ豊かに
日本よ永遠なれ

海から生命は生まれ
海は命の始まり
海に囲まれ
生きてきた民よ
日本よ永遠なれ

敷島の日本(やまと)の国は言霊の
たすくる国ぞ真幸(まさき)くありこそ
柿本人麻呂よ
来りて導き給へ
ああ
日本よ永遠なれ


「千年後」
千年後の祖国が
どうなっているか
それはわからないが
念ずれば花ひらく
いくつかの碑が
残っていて
呼びかけて
くれるだろう
地球温暖化のため
小さい国が
更に小さくなり
富士山頂
木花開耶媛
淋しがっていられるだろう
わたしが
飛天になりたく
思うのも
そんなことからだ


「桜花迎春 」
日本の乱れが
桜に伝わり
富士山頂に鎮座まします
木花開耶媛(このはなさくやひめ)に 
 御心配かけているのでは
なかろうか
桜が咲いたら
まず一輪を
口に噛み
体を浄化して
喜びを伝えよう
ああ
九十三歳で迎える
桜の花よ


「桜賛歌」
咲いた
咲いた
桜が
咲いた
宇宙和楽の
桜が
咲いた

富士の高嶺
鎮まり居ます
媛を称(たた)えて
乾杯しよう
日本の栄えを
民の奮起を


※2006年12月11日死去。ご冥福をお祈りします。

2006年08月17日

坂口安吾

「明治開化 安吾捕物 その十九 乞食男爵」
当時の女相撲は十五六貫から二十一二貫どまりであるが、女相撲だからデブで腕ッ節の強いのが力まかせに突きとばせば勝つにきまっていると思うのは早計である。斎藤一座は特に四十八手の錬磨にはげませたから、例の遠江灘オタケ二十一歳六ヶ月、五尺二寸四分二十一貫五百匁が歯力ならびに腕力抜群でも、実は西の横綱だった。東の横綱は富士山オヨシ二十六歳八ヶ月、五尺二寸五分、体重はただの十六貫二百である。


「明治開化 安吾捕物 その十二 愚妖」
轢死体のあった場所は、昔の東海道線、国府津と松田の中間。今の下曾我のあたりだ。そのころは下曾我という駅はなかった。今の東海道線小田原、熱海、沼津間ははるか後日に開通したもので、昭和の初期はまだ国府津から松田、御殿場と、富士山麓を大まわりしていたものだ。


「外套と青空」
 いつ頃のことであつたか、あるとき花村が情慾と青空といふことをいつた。印度の港の郊外の原で十六の売笑婦と遊んだときの思ひ出で、青空の下の情慾ほど澄んだものはないといふ述懐だつた。すると舟木が横槍を入れて、情慾と青空か。どうやら電燈と天ぷらといふやうに月並ぢやないかな、といつた。その花村や舟木や間瀬や小夜太郎らは庄吉も一しよにキミ子を囲んで伊豆や富士五湖や上高地や赤倉などへ屡々旅行に出たといふ。キミ子が彼等の先頭に立ち、短いスカートが風にはためき、まつしろな腕と脚をあらはに、青空の下をかたまりながら歩く様が見えるのだつた。すると花村も舟木も間瀬も小夜太郎も、一人々々が白日の下でキミ子を犯してゐるのであつた。


「巷談師」
共産党以外の人には分る筈だが、この文句は、時の首相とか、政党の指導者などに用いるもので、巷談屋には用いない。用いて悪い規則もないが、巷談屋とヒットラーには、用いる言葉がおのずからそれぞれに相応したものでなければならない。
こう断定した共産党は静岡県の富士郡というところの何々村の住人だ。行って見たわけではないが、富士山の麓のヘキ村だろう。そんなところに住んでいても、民衆の心が巷談屋から離れているのをチャンと見ているのである。


「教祖の文学――小林秀雄論――」
花鳥風月を友とし、骨董をなでまはして充ち足りる人には、人間の業と争ふ文学は無縁のものだ。小林は人間孤独の相と云ひ、地獄を見る、と言ふ。
 あはれあはれこの世はよしやさもあらばあれ来む世もかくや苦しかるべき (西行)
 花みればそのいはれとはなけれども心のうちぞ苦しかりける (西行)
 風になびく富士の煙の空にきえて行方も知らぬ我が思ひかな (西行)
 ほのほのみ虚空にみてる阿鼻地獄行方もなしといふもはかなし (実朝)
 吹く風の涼しくもあるかおのづから山の蝉鳴きて秋は来にけり (実朝)
秀歌である。たしかに人間孤独の相を見つめつゞけて生きた人の作品に相違なく、又、純潔な魂の見た風景であつたに相違ない。

2006年07月15日

三鼠(岡村恒元)

木のまたに六月尽の富士低し

※正岡子規の叔父

2006年07月08日

沢木欣一

赤富士の胸乳ゆたかに麦の秋

初旅の友来る富士の裾野より

笹鳴や満月登る富士の肌

沢田はぎ女

富士一つ浸せり春の水はろに

2006年07月07日

沢聰

蒼白き雲海に富士日の出待つ

2006年06月06日

斉藤夏風

筒鳥やさはに峯反る暁の富士

佐野青陽人

こゝに踏む初富士の裾しろ/\と

2006年06月03日

西東三鬼

梅雨富士の黒い三角兄死ぬか

ばら色のままに富士凍て草城忌

大寒の富士へ向つて舟押し出す

新年を見る薔薇色の富士にのみ

富士高く海低し秋の蝿一匹

素手で掻く岩海苔富士と共に白髪

2006年05月22日

真田清見

初富士や空に柾目のあるごとく

2006年05月09日

酒井絹代

いまさらに富士大いなり初御空

萱刈の声とばしけり富士颪

芒野に富士も全し今日の月

2006年04月29日

三枝正子

墨色の富士へ短かき男郎花

2006年04月28日

佐藤春夫

欅落葉野末は富士の白くして


「オリンピック東京大會賛歌」
○オリンポス遠きギリシャの
 いにしえの神々の火は
 海を超え荒野をよぎり
 はるばると渡り来て
 今ここに燃えにぞ燃ゆる
 青春の命のかぎり
 若人ら力つくして
 この國の世界の祭
 喜ばん富士も筑波も
 はためきて五輪の旗や
 へんぽんとひるがえる
 日本の秋さわやかに

※4番まである

佐藤脩一

夕富士に寒雲こぞる別れかな

斎藤梅影

雲の上行く二日目や富士詣

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斎藤玄

寒声や柱のごとき富士応ふ

2006年04月27日

佐藤紅緑

野の末に小き富士の小春かな

佐藤幸寿

出羽富士の明るき日なり鮭のぼる

2006年04月26日

佐藤一色

富士を背に源氏蛍の小宇宙

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佐土井智津子

富士現れて万物露を輝かす

佐田栲

冬耕や蒼天の富士全かり

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佐々木六戈

よく吠えてこの寒犬の富士額

2006年04月24日

斎藤長秋(幸雄)・莞斎(幸孝)・月岑(幸成)

「江戸名所図会」
高田富士山 稲荷の宮の後にあり 岩石を畳むて其容を模擬す 安永九年庚子に至り成就せしとなり この地に住める富士山の大先達藤四郎といへる者これを企てたりといふ 毎歳六月十五日より同十八日まて山を開きて参詣をゆるす 山下に浅間の宮を勧請してあり

2006年04月10日

沢田緑生

雲丹採にかたむき迫る利尻富士

2006年04月08日

沢田弦四朗

富士晴れて橋に籾干す忍野村

青栗や曇れどさやに信濃富士

2006年04月06日

斎藤徳元

煙にもすすけず白し富士の山

むさし野の雪ころはしか富士の雪

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2006年04月01日

坂本護堂

落葉松の秀の立ち揃ふ雪解富士

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2006年03月30日

佐藤公子

夏霧の俊足宝永火口より

佐々木良素

富士に向く赤松樹林蝉しぐれ

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佐久間法師

白樺の白に揺るる葉や雪解富士

坂井多嘉

寒林の道いくたびも富士に会ふ

斎藤杏子

五月富士現るるよと火山灰踏みくづす

斎藤杏子

五月富士現るるよと火山灰踏みくづす

2006年03月02日

西條八十

「菊五郎格子」
○十八娘の 緋鹿子(かのこ)の
 手柄がくずれて 富士額
 弁天小僧が きる啖呵
 知らざあ言って 聞かせやしょう
 なつかしいぞえ 菊五郎格子

※3番のうち1番
※作詞西條八十/作曲米山正夫


「東京音頭」より
○ハァ 西に富士の嶺(みね) チョイト
 東に筑波 ヨイヨイ
 音頭とる子は 音頭とる子はまん中に サテ
 ヤットナァ ソレ ヨイヨイヨイ
 ヤットナァ ソレ ヨイヨイヨイ

※西條八十作詞/中山晋平作曲
※1番歌いだしは「ハァ 踊り踊るなら チョイト 東京音頭 ヨイヨイ」

2006年02月24日

沢村専太郎(沢村胡夷)

「紅萌ゆる丘の花(三高逍遥の歌)」

紅萌ゆる丘の花 早緑(さみどり)匂う岸の色
 都の花に嘯(うそぶ)けば 月こそかかれ吉田山
緑の夏の芝露(しばつゆ)に 残れる星を仰ぐ時
 希望は高く溢れつつ 我等が胸に湧返る
千載(せんざい)秋の水清く 銀漢(ぎんかん)空にさゆる時
 通える夢は崑崙(こんろん)の 高嶺の此方(こなた)ゴビの原
ラインの城やアルペンの 谷間の氷雨なだれ雪
 夕べは辿る北溟(ほくめい)の 日の影暗き冬の波
嗚呼故里よ野よ花よ ここにも萌ゆる六百の
 光も胸も春の戸に 嘯き見ずや古都の月
それ京洛(けいらく)の岸に散る 三年(みとせ)の秋の初紅葉
 それ京洛の山に咲く 三年の春の花嵐
左手(ゆんで)の書(ふみ)にうなずきつ 夕(ゆうべ)の風に吟ずれば
 砕けて飛べる白雲(はくうん)の 空には高し如意ケ嶽
神楽ケ岡の初時雨 老樹の梢伝う時
 檠燈(けいとう)かかげ口誦(くちずさ)む 先哲至理の教(おしえ)にも
嗚呼又遠き二千年 血潮の史(ふみ)や西の子の
 栄枯の跡を思うにも 胸こそ躍れ若き身に
希望は照れり東海の み富士の裾の山桜
 歴史を誇る二千載(にせんざい) 神武の子等が立てる今
見よ洛陽の花霞 桜の下(もと)の男の子等が
 今逍遥に月白く 静かに照れり吉田山

※沢村専太郎作詞・K.Y.作曲

2006年02月18日

西行(藤原憲清)

風になびく富士の煙の空に消えて行方も知らぬわが思ひかな
※新古今和歌集1615


清見潟月すむ空の浮雲は富士の高嶺の煙なりけり
けぶり立つ富士に思ひのあらそひてよだけき恋をするがへぞ行く
いつとなき思ひは富士の烟にておきふす床やうき島が原
※以上2首、山家集

2006年02月04日

三遊亭圓朝

「業平文治漂流奇談」(鈴木行三校訂編纂)
亥「それで豊島町の八右衞門さんが一人の親だから立派にしろというので、組合(くみえい)の者が皆(みんな)供に立って、富士講の先達だの木魚講(もくぎょこう)だのが出るという騒ぎで、寺を借りて坊主が十二人出るような訳で」

亥「へえ…何(なん)だって豊島町の富士講の先達だの法印が法螺の貝を吹くやら坊主が十二人」

亥「坊主を十二人頼むというので棺台などを二間(けん)にして、無垢も良(い)いのを懸けろというので、富士講に木魚講、法印が法螺の貝を吹く」


「菊模様皿山奇談」(鈴木行三校訂・編纂)
鐵「へえー大変でげすな、御獄さんてえのは滅法けえ高(たけ)え山だってね」
□「高いたって、それは富士より高いと云いますよ、あなた方も信心をなすって二度もお登りになれば、少しは曲った心も直りますが」

2006年02月03日

佐々木味津三

「右門捕物帖・なぞの八卦見(はっけみ)」
「しました、しました。富士の風穴へでもへえったようですよ。さすがはだんなだけあって、やることにそつがねえや。なるほどな。じゃ、なんですね、きのうからのこの小娘のそぶりをお聞きなすって、ひと事件(あな)あるなっとおにらみなすったんですね」


「右門捕物帖・七七の橙(だいだい)」
「そいつが気に入らねえんだ。ついでのことに日本橋のほうへ向いてりゃいいものを、ちくしょうめ、何を勘ちげえしたか、品川から富士山のほうへ向いていやがるんですよ」
「ウフフ、そうかい。そうするてえと――」


「右門捕物帖・卒塔婆(そとば)を祭った米びつ」
「ウフフフ。なんでえ、なんでえ。来てみればさほどでもなし富士の山っていうやつさ。とんだ板橋のご親類だよ。――のう、ねえや!」


「右門捕物帖・左刺しの匕首(あいくち)」
「アハハ……そうか。なるほど、そうか。来てみればさほどでもなし富士の山、というやつかのう。よしよし。そろそろと根がはえだしやがった」


「右門捕物帖・毒を抱(いだ)く女」
「話したことも、つきあったこともないが、てまえの叔父(おじ)が富士見ご宝蔵の番頭(ばんがしら)をいたしておるゆえ、ちょくちょく出入りいたしてこの顔には見覚えがある。たしかにこれはご宝蔵お二ノ倉の槍(やり)刀剣お手入れ役承っておる中山数馬という男じゃ」

なれども、これには悲しい子細あってのこと、父行徳助宗は、ご存じのように末席ながら上さま御用|鍛冶(かじ)を勤めまするもの、事の起こりは富士見ご宝蔵お二ノ倉のお宝物、八束穂(やつかほ)と申しまするお槍(やり)にどうしたことやら曇りが吹きまして、数ならぬ父に焼き直せとのご下命のありましたがもと、そのお使者に立たれましたのが中山数馬さまでござりました。


「右門捕物帖・達磨を好く遊女」
そのすがすがしさがまたくるわの水でみがきあげたすがすがしさなんだから、普通一般の清楚とかすがすがしさといったすがすがしさではなく、艶(えん)を含んでかつ清楚――といったような美しさのうえに、そったばかりの青まゆはほのぼのとして、その富士額の下に白い、むっちりともり上がった乳をおおっている浜縮緬(ちりめん)の黒色好みは、それゆえにこそいっそう艶なる清楚を引き立てていたものでしたから、同じ遊女のうちでもこんなゆかしい品もあるかと、ややしばらく右門もうち見とれていましたが、かくてはならじと思いつきましたので、こういう女の心を攻めるにはまた攻める方法を知っている右門は、ずばりと、いきなりその急所を突いてやりました。


「右門捕物帖・首つり五人男」
「あれだ、あれだ、この建物アたしかにお富士教ですよ」

近ごろ本所のお蔵前にお富士教ってえのができて、たいそうもなく繁盛するという話だがご存じですかい、とぬかしたんでね。御嶽(おんたけ)教、扶桑(ふそう)教といろいろ聞いちゃおるが、お富士教ってえのはあっしも初耳なんで、今に忘れず覚えていたんですよ。本所のお蔵前といや、ここよりほかにねえんだ。まさしくこれがそのお富士教にちげえねえですぜ」
「どういうお宗旨だかきいてきたか」
「そいつが少々おかしいんだ。お富士教ってえいうからにゃ、富士のお山でも拝むんだろうと思ったのに、心のつかえ、腰の病、気欝(きうつ)にとりつかれている女が参ると、うそをいったようにけろりと直るというんですよ」

「ふふん。とんだお富士教だ。おいらの目玉の光っているのを知らねえかい。おまえにゃ目の毒だが、しかたがねえや。ついてきな」

「何を無礼なことおっしゃるんです! かりそめにも寺社奉行さまからお許しのお富士教、わたしはその教主でござります。神域に押し入って、あらぬ狼藉(ろうぜき)いたされますると、ご神罰が下りまするぞ!」
「笑わしゃがらあ。とんでもねえお富士山を拝みやがって、ご神罰がきいてあきれらあ。四の五のいうなら、一枚化けの皮をはいでやろう! こいつあなんだ!」


「旗本退屈男 第六話 身延に現れた退屈男」
「合点だッ。富士川を下るんですかい」