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2006年12月30日

泉鏡花

「白金之絵図」
坂下の下界の住人は驚いたろう。山の爺(おじ)が雲から覗く。眼界濶然(かつぜん)として目黒に豁(ひら)け、大崎に伸び、伊皿子(いさらご)かけて一渡り麻布を望む。烏は鴎が浮いたよう、遠近(おちこち)の森は晴れた島、目近(まぢか)き雷神の一本の大栂(おおとが)の、旗のごとく、剣のごとく聳えたのは、巨船天を摩す柱に似て、屋根の浪の風なきに、泡の沫か、白い小菊が、ちらちらと日に輝く。白金(しろがね)の草は深けれども、君が住居(すまい)と思えばよしや、玉の台(うてな)は富士である。


「悪獣篇」
見よ、南海に巨人あり、富士山をその裾に、大島を枕にして、斜めにかかる微妙の姿。青嵐(あおあらし)する波の彼方に、荘厳なること仏のごとく、端麗なること美人に似たり。


「南地心中」
初阪(はつざか)ものの赤毛布(あかげっと)、という処を、十月の半ば過ぎ、小春凪(こはるなぎ)で、ちと逆上(のぼ)せるほどな暖かさに、下着さえ襲(かさ)ねて重し、野暮な縞も隠されず、頬被りがわりの鳥打帽で、朝から見物に出掛けた……この初阪とは、伝え聞く、富士、浅間、大山、筑波、はじめて、出立つを初山と称(とな)うるに傚(なら)って、大阪の地へ初見参(ういけんざん)という意味である。

電車の塵も冬空です……澄透った空に晃々(きらきら)と太陽(ひ)が照って、五月頃の潮(うしお)が押寄せるかと思う人通りの激しい中を、薄い霧一筋、岸から離れて、さながら、東海道で富士を視(なが)めるように、あの、城が見えたっけ。


「神鷺之巻」
話は別にある。今それを言うべき場合でない。築地の料理店梅水の娘分で、店はこの美人のために賑った。早くから銑吉の恋人である。勿論、その恋を得たのでもなければ、意を通ずるほどの事さえも果さないうちに、昨年の夏、梅水が富士の裾野へ暑中の出店をして、避暑かたがた、お誓がその店を預ったのを知っただけで、この時まで、その消息を知らなかった次第なのである。……

――昨年、店の都合で裾野の方へ一夏まいりまして、朝夕、あの、富士山の景色を見ますにつけ……ついのんびりと、一人で旅がしてみたくなったんです。一体出不精な処へ、お蔭様、店も忙しゅうございますし、本所の伯父伯母と云った処で、ほんの母がたよりました寄親(よりおや)同様。これといって行(ゆ)きたい場所も知りませんものですから、旅をするなら、名ばかりでも、聞いただけ懐しい、片原を、と存じまして、十月小春のいい時候に、もみじもさかり、と聞きました。……


「燈明之巻」
いやどこも不景気で、大したほまちにはならないそうだけれど、差引一ぱいに行けば、家族が、一夏避暑をする儲けがある。梅水は富士の裾野――御殿場へ出張した。
そこへ、お誓が手伝いに出向いたと聞いて、がっかりして、峰は白雪、麓は霞だろう、とそのまま夜這星の流れて消えたのが――もう一度いおう――去年の七月の末頃であった。


「半島一奇抄」
――「当修善寺から、口野浜(くちのはま)、多比(たひ)の浦、江の浦、獅子浜(ししはま)、馬込崎と、駿河湾(するがわん)を千本の松原へ向って、富士御遊覧で、それが自動車と来た日には、どんな、大金持ちだって、……何、あなた、それまでの贅沢(ぜいたく)でございますよ。」と番頭の膝(ひざ)を敲(たた)いたのには、少分の茶代を出したばかりの記者は、少からず怯(おびや)かされた。

富士が浮いた。……よく、言う事で――佐渡ヶ島には、ぐるりと周囲に欄干(まわり)があるか、と聞いて、……その島人に叱られた話がある。が、巌山(いわやま)の巉崕(ざんがい)を切って通した、栄螺(さざえ)の角(つの)に似たぎざぎざの麓(ふもと)の径(こみち)と、浪打際との間に、築繞(つきめぐ)らした石の柵(しがらみ)は、土手というよりもただ低い欄干に過ぎない。
「お宅の庭の流(ながれ)にかかった、橋廊下の欄干より低いくらいで、……すぐ、富士山の裾(すそ)を引いた波なんですな。よく風で打(ぶ)つけませんね。」

「その居士(こじ)が、いや、もし……と、莞爾々々(にこにこ)と声を掛けて、……あれは珍らしい、その訳じゃ、茅野(ちの)と申して、ここから宇佐美の方へ三里も山奥の谷間(たにあい)の村が竹の名所でありましてな、そこの講中が大自慢で、毎年々々、南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)でかつぎ出して寄進しますのじゃ……と話してくれました。……それから近づきになって、やがて、富士の白雪あさ日でとけて、とけて流れて三島へ落ちて、……ということに、なったので。」


「婦系図」
富士の山と申す、天までとどく山を御目にかけまするまで、主税は姫を賺(すか)して云った。

窓の外は、裾野の紫雲英(げんげ)、高嶺(たかね)の雪、富士皓(しろ)く、雨紫なり。

この富士山だって、東京の人がまるっきり知らないと、こんなに名高くはなりますまい。

県庁、警察署、師範、中学、新聞社、丸の内をさして朝ごとに出勤するその道その道の紳士の、最も遅刻する人物ももう出払って、――初夜の九時十時のように、朝の九時十時頃も、一時(ひとしきり)は魔の所有(もの)に寂寞(ひっそり)する、草深町は静岡の侍小路を、カラカラと挽いて通る、一台、艶やかな幌に、夜上りの澄渡った富士を透かして、燃立つばかりの鳥毛の蹴込み、友染の背当てした、高台細骨の車があった。

薄萌葱の窓掛を、件の長椅子(ソオフア)と雨戸の間(あい)へ引掛けて、幕が明いたように、絞った裙(すそ)が靡(なび)いている。車で見た合歓(ねむ)の花は、あたかもこの庭の、黒塀の外になって、用水はその下を、門前の石橋続きに折曲って流るるので、惜いかな、庭はただ二本(ふたもと)三本(みもと)を植棄てた、長方形の空地に過ぎぬが、そのかわり富士は一目。

「こうこう、姉え、姉え、目を開いて口を利きねえ。もっとも、かっと開いたところで、富士も筑波も見えるかどうだか、覚束ねえ目だけれどよ。はははは、いくら江戸前の肴屋だって、玄関から怒鳴り込む奴があるかい。

嗜(たしなみ)も気風もこれであるから、院長の夫人よりも、大店向(おおだなむき)の御新姐(ごしんぞ)らしい。はたそれ途中一土手田畝道(たんぼみち)へかかって、青田越に富士の山に対した景色は、慈善市(バザア)へ出掛ける貴女(レディ)とよりは、浅間の社へ御代参の御守殿という風があった。

扉(ドア)を開放した室の、患者無しに行抜けの空は、右も左も、折から真白な月夜で、月の表には富士の白妙、裏は紫、海ある気勢(けはい)。停車場の屋根はきらきらと露が流れて輝く。

右隣が空いた、富士へ向いた病室の前へ来ると、夫人は立留って、白衣は左右に分れた。

さて母屋の方は、葉越に映る燈(ともしび)にも景気づいて、小さいのが弄ぶ花火の音、松の梢に富士より高く流星も上ったが、今は静(しずか)になった。


「縷紅新草」
今朝六時頃、この見附を、客人で通りました時は、上下、左右すれ違うとサワサワと音がします。青空、青山、正面の雪の富士山の雲の下まで裾野を蔽うといいます紫雲英(げんげ)のように、いっぱいです。赤蜻蛉に乗せられて、車が浮いて困ってしまいました。


「草迷宮」
件の大崩壊(おおくずれ)の海に突出でた、獅子王の腹を、太平洋の方から一町ばかり前途(ゆくて)に見渡す、街道端の――直ぐ崖の下へ白浪が打寄せる――江の島と富士とを、簾に透かして描いたような、ちょっとした葭簀張(よしずばり)の茶店に休むと、媼(うば)が口の長い鉄葉(ブリキ)の湯沸(ゆわかし)から、渋茶を注いで、人皇(にんのう)何代の御時(おんとき)かの箱根細工の木地盆に、装溢(もりこぼ)れるばかりなのを差出した。

旅僧は先祖が富士を見た状(さま)に、首あげて天井の高きを仰ぎ、


「蛇くひ」
此處(こゝ)往時(むかし)北越名代(なだい)の健兒(けんじ)、佐々成政の別業(べつげふ)の舊跡(あと)にして、今も殘れる築山は小富士と呼びぬ。


「貝の穴に河童の居る事」
「……諏訪――の海――水底(みなそこ)、照らす、小玉石――手には取れども袖は濡(ぬら)さじ……おーもーしーろーお神楽らしいんでございますの。お、も、しーろし、かしらも、白し、富士の山、麓の霞――峰の白雪。」

「それでは、お富士様、お諏訪様がた、お目かけられものかも知れない――お待ち……あれ、気の疾い。」


「逗子だより」
これより、「爺(ぢゞ)や茶屋」「箱根」「原口の瀧」「南瓜軒(なんくわけん)」「下櫻山(しもさくらやま)」を經(へ)て、倒富士(さかさふじ)田越橋(たごえばし)の袂(たもと)を行けば、直(すぐ)にボートを見、眞帆(まほ)片帆(かたほ)を望む。

臺所(だいどころ)より富士見(み)ゆ。露の木槿(むくげ)ほの紅う、茅屋(かやや)のあちこち黒き中に、狐火かとばかり灯の色沈(しづ)みて、池子の麓砧(きぬた)打つ折から、妹(いも)がり行くらん遠畦(とほあぜ)の在郷唄(ざいがううた)、盆過ぎてよりあはれさ更にまされり。


「逗子より」
尤も、海に参り候、新宿なる小松原の中よりも、遠見に其の屋根は見え候を、後に心づき候へども、旗も鳥居もあるにこそ、小やかなる茅屋とて、たゞ山の上の一軒家とのみ、あだに見過ごされ申すべく、況して海水帽あひ望み、白脛、紅織るが如くに候をや、道心御承知の如き小生すら、時々富士の雪の頂さへ真正面に見落して、浴衣に眼を奪はれ候。


「雛がたり」
時に蒼空(あおぞら)に富士を見た。

2006年12月28日

織田作之助

「道なき道」
やがて、父娘は大阪行きの汽車に乗った。車窓に富士が見えた。
「ああ、富士山!」
 寿子は窓から首を出しながら、こうして汽車に乗っている間は、ヴァイオリンの稽古をしなくてもいい、今日一日だけは自分は自由だと思うと、さすがに子供心にはしゃいで、
富士は日本一の山……」
 と、歌うように言った。
富士は日本一の山か。そうか」
 と、庄之助は微笑したが、やがて急にきっとした顔になると、
「――日本一のヴァイオリン弾き! 前途遼遠だ。今夜大阪へ帰ったらすぐ稽古をはじめよう」
 無心に富士を仰いでいる寿子の美しい横顔を見つめながら、ひそかに呟いた。美しいが、しかしやつれ果てて、痛々しい位、蒼白い横顔だった。

2006年12月26日

高村光雲

「幕末維新懐古談〜熊手を拵えて売ったはなし〜」
その頃は、もう、ぞろぞろと浅草一帯は酉の市の帰りの客で賑わい、大きな熊手を担いだ仕事師の連中が其所(そこ)らの飲食店へ這入って、熊手を店先に立て掛け上がったりしている。何処の店も、大小料理店いずれも繁昌で、夜透(よどお)しであった。前にいい落したが、その頃小料理屋で、駒形に初富士とか、茶漬屋で曙などいった店があってこんな時に客を呼んでいた。

2006年12月24日

森鴎外

「俳句と云ふもの」
○父は医書の外は何も読まない流儀の人であつた。詩や歌や俳句の本が偶有つたのは、皆祖父の遺物である。祖父は歌を一番好いてゐた。始て江戸に上る途中で、
   おもひきやさしも名高き富士のね
     麓を雲の上に見んとは   綱浄
と云ふ歌をよんだ。それを福羽子爵が半折に書いて、
   いと高きしらべなりけりふじのねに
     これもおとらぬ君がことのは
と書き添へて贈られた掛物が残つてゐる。


「伊沢蘭軒」
茶山は其後九月中江戸にゐて、十月十三日に帰途に上つた。帰るに先(さきだ)つて諸家に招かれた中に古賀精里の新に賜つた屋敷へ、富士を見に往つたなどが、最も記念すべき佳会であつただらう。精里の此邸宅は今の麹町富士見町で、陸軍軍医学校のある処である。地名かへる原を取つて、精里は其楼を復原(ふくげん)と名づけた。茶山は江戸にゐた間、梅雨を中に挾んで、曇勝な日にのみ逢つてゐたので、此日に始て富士の全景を看た。

茶山は岡山、伊部、舞子、尼崎、石場、勢田、石部、桜川、大野、関、木曾川、万場、油井、薩陀峠、箱根山、六郷、大森等に鴻爪(かうさう)の痕を留めて東する。伊部を過ぎては「白髪満頭非故我、記不当日旧牛医」と云ひ、尼崎を過ぎては「輦下故人零落尽、蘭交唯有旧青山」と云ひ、又富士を望んでは「但為奇雲群在側、使人頻拭老眸看」と云ふ。到処今昔の感に堪へぬのであつた。


「大塩平八郎」
己は隠居してから心を著述に専(もつぱら)にして、古本大学刮目(こほんだいがくくわつもく)、洗心洞剳記(せんしんどうさつき)、同附録抄、儒門空虚聚語(じゆもんくうきよしゆうご)、孝経彙註(かうきやうゐちゆう)の刻本が次第に完成し、剳記(さつき)を富士山の石室(せきしつ)に蔵し、又足代権太夫弘訓(あじろごんたいふひろのり)の勧(すゝめ)によつて、宮崎、林崎の両文庫に納めて、学者としての志をも遂げたのだが、連年の飢饉、賤民の困窮を、目を塞いで見ずにはをられなかつた。

四年癸巳 平八郎四十一歳。四月洗心洞剳記(せんしんどうさつき)に自序し、これを刻す。頼余一に一本を貽(おく)る。又一本を佐藤坦(たひら)に寄せ、手書して志を言ふ。七月十七日富士山に登り、剳記を石室に蔵す。八月足代弘訓の勧(すゝめ)により、剳記を宮崎、林崎の両文庫に納(おさ)む。九月奉納書籍聚跋(ほうなふしよじやくしゆうばつ)に序す。十二月儒門空虚聚語(じゆもんくうきよしゆうご)に自序す。是年柏岡伝七、塩屋喜代蔵入門す。

2006年12月22日

小島鳥水

「日本山水論」の「登山の時季」より
わが従来の経験に徴するに、本州の山嶽ことに信濃飛騨加賀越中などの群嶺は、少しく防寒の衣に心を用ゆれば十月中に登山すること容易なり、富士山と北緯四十度以北の高山を除いては、山頂残雪の外に新雪は極めて少々、山下の上人の如きニ、或いは秋季登山の危険を説くものあれども、我が信念にして堅固ならばおおむね耳を藉すに足らず、外人が多く土用後の秋山を愛するは、以上の意義を以つての故にあらざるを得んや。


「霧の不二、月の不二――明治三十六年八月七日御殿場口にて観察――」
不二より瞰(み)るに、眼下に飜展(ほんてん)せられたる凸版地図(レリイヴオ・マツプ)の如き平原の中(うち)白面の甲府を匝(め)ぐりて、毛ばだちたる皺(しわ)の波を畳み、その波頭に鋭峻の尖りを起てたるは、是れ言ふまでもなく金峰山、駒ヶ嶽、八ヶ嶽等の大嶽にして、高度いづれも一万尺に迫り、必ずしも我不二に下らざるが如し、不二は自らその高さを意識せざる謙徳の大君なり、裾野より近く不二を仰ぐに愈(いよい)よ低し、偉人と共に家庭居(まとゐ)するものは、その那辺(なへん)が大なるかを解する能はざるが如し。この夏我金峰山に登り、八ヶ嶽に登り、駒ヶ嶽に登る、瑠璃色なる不二の翅脈なだらかに、絮(じよ)の如き積雪を膚(はだへ)の衣に著(つ)けて、悠々と天空に伸ぶるを仰ぐに、絶高にして一朶の芙蓉、人間の光学的分析を許さゞる天色を佩(お)ぶ、我等が立てる甲斐の山の峻峭(しゆんせう)を以てするも、近づいて之に狎(な)るゝ能はず、虔(つゝ)しんでその神威を敬す、我が生国の大儒、柴野栗山先生讚嘆して曰く「独立原無競、自為衆壑宗(しゆうかくのそう)」まとことに不二なくんば人に祖先なく、山に中心なけむ、甲斐の諸山水を跋渉(ばつせふ)しての帰るさ、東海道を汽車にして、御殿場に下り、登嶽の客となりぬ。

※以下省略、富士登山記である。全文は青空文庫参照。


「上高地風景保護論」
かくの如き繁昌が、単に温泉のためでなく、登山または観光を主要な目的とする客が、その過半数を占めているというに至っては、常念山脈の麓にある、中房温泉がやや似ているとしても、先ず他に例のないところである、上高地が特に多く登山客を吸収する所以は、槍ヶ岳、穂高岳、霞沢岳、焼岳などの大山岳に登る便利のあること、殊に大山岳は富士や八ヶ岳式の火山を除いて、とかく全容を仰ぎがたいものであるが、穂高岳、霞沢岳、焼岳などは、その威厳ある岩壁の大部分を、この峡谷に展開して、容易に仰視し得られること、焼岳が盛んに噴煙して、火山学者やまた地震学者の注意を惹(ひ)き初めたこと、明浄な花崗質の岩盤を流れる谷水の、純碧と美麗と透徹と、他に比類なきこと、神仙譚を思わせるような美しい湖水のあること、森林のあること、温泉のあること、飛騨への交通路にあることなどであるが、これを一括して言えば、日本北アルプスとも称すべき飛騨山脈の、大殿堂は上高地峡谷によって、その第一の神秘なる扉を開かれたのである。


「不尽の高根」
※多数出てくるので全文掲載されている青空文庫を参照のこと。


「亡びゆく森」
今となつてみると、新雪の輝やく富士山がよく見えぬからと言つて、出洒張(でしやば)つた杉木立の梢を恨んだのは、勿体ない気がする。


「山を讃する文」
近来邦人が、いたづらなる夏期講習会、もしくは無意義なるいはゆる「湯治」「海水浴」以外に、種々なる登山の集会を計画し、これに附和するもの漸く多きを致す傾向あるは頗(すこぶ)る吾人の意を獲(え)たり、しかも邦人のやや山岳を識るといふ人も、富士、立山、白山、御嶽(おんたけ)など、三、四登りやすきを上下したるに過ぎず、その他に至りては、これを睹(み)ること、宛(さなが)ら外国の山岳の如くなるは、遺憾にあらずや。

想ひ起す、昨八ヶ岳裾野の紫蕊紅葩(しずいこうは)に、半肩を没して佇(たたず)むや、奇雲の夕日を浴ぶるもの、火峰の如く兀々然(こつこつぜん)として天を衝き、乱焼の焔は、茅萱(ちがや)の葉々を辷(すべ)りて、一泓水(こうすい)の底に聖火を蔵す、富士山その残照の間に、一朶(いちだ)の玉蘭(はもくれん)、紫を吸ひて遠く漂ふごとくなるや、桔梗もまた羞ぢて莟(つぼみ)を垂れんとす、眇(びょう)たる五尺の身、この色に沁み、この火に焼かれて、そこになほ我ありとすれば、そは同化あるのみ、同化の極致は大我あるのみ、


「日本山岳景の特色」
私たちが学生旅行をした時代には、日本の名山と言えば、殆んど火山に限られたように思われていた、富士山にさえ登り得らるれば、あとはみんな、それよりも低く、浅く、小さい山であるから、造作はないぐらいに考えていた、そのころ、今日でいう日本アルプス系の大山嶺で、私が名を知っていたものは、立山御嶽などいう火山の外には、木曾の駒ヶ岳(大部分黒雲母花崗岩より成る)ぐらいなものであった、いま憶い出しても笑わずにはいられないのは、その時代、或(ある)地理書の山岳高度表で、富士山の次に、白峰だの赤石山だのという、よほど高そうな山の名を見て何処にある山岳だか、一向見当がつかない、学校の教員も友人も、誰も知っていたものはなかった。

それどころじゃない、日本山岳風景の最も著しい特色は、日本アルプス系の山岳と富士帯の火山と、錯綜して、各自三千|米突(メートル)前後の大岳を、鋼鉄やプラチナの大鎖のように、綯(な)い交(ま)ぜたところに存するので、ヒマラヤ型や、アルプス式の山岳地と、比較すると、向うにあるもので、こっちにないものもあるが、またそれと反対に、こっちにあって、向うにないものもある、

そこで日本の火山線の最も大なるものは言うまでもない富士帯で、富士帯の大幹とも根柢ともいうべき富士山は、南に伊豆函根の諸山を放って海に入っているが、北は茅ヶ岳、金ヶ岳、八ヶ岳と蜒(う)ねって、その間に千曲川の断層を挟んで、日本南アルプスの白峰山脈、または甲斐駒山脈と並行している、

然るに富士帯の火山線は、甲斐駒ヶ岳山脈の支脈、釜無山脈になると、混じ合って、更に北の方、飛騨山脈となると、名にし負う御嶽乗鞍の大火山が噴出して、日本北アルプス系の、火成岩や、水成岩と、紛糾錯綜して、そこに日本山岳景に独特な風景、語を換えて言えば、地球の屋棟と言われているヒマラヤ山にも、または山岳という山岳の、種々相を、殆んど無数に、無類に具備しているというアルプス山にも、絶無な風景を作っている。

北斎や広重の版画を見ずにしまった彼は、富士山の線の美しさを、夢想にもしなかったらしい、東海道の吉原から、岩淵あたりで仰ぎ見る富士山の大斜線は、向って左の肩、海抜三七八八米突から、海岸の水平線近く、虚空を縫って引き落している、秋から冬にかけた乾空には、硬く強く鋼線のように、からからと鳴るかと思われ、春から夏にかけて、水蒸気の多い時分には、柔々(やわやわ)と消え入るように、または凧の糸のように、のんびりしている。地平線と水平線とを別として、我が日本国において見らるべき、有(あ)らゆる斜線と曲線の中で、これこそ最大最高の線であろうと、いつも東海道を通行するたびに、汽車の窓から仰ぎ見て、そう思わないことはない。

富士の八百九沢に見らるる大日沢であるとか、桜沢であるとかいうのは、みんな流水や、墜雪の浸蝕した痕跡であるが、あの御殿場口から登り初めると、宝永山の火山礫を冠った二箇の砂山が、山腹から約百尺も顔をもちあげて、裾を南へ引いているのを見るであろう、あれは二ツ塚という二子式の火山で、しかも側火山(学者によっては、寄生火山という言葉を用いているが、寄生植物のように、別種のものが、他種の本体に倚(よ)りかかっているのでないから、これを寄生というのは、いかがかと思う)であるが、この二ツ塚などには、山から吹きおろす風の斑紋までが、分明に黒砂に描き出されている。

しかも北から南までを通じての日本アルプスを、統御する威厳と運命とを備えているものは、畢竟(ひっきょう)するに日本山岳の欽仰(きんぎょう)すベき大徳の女王、富士山で、高さにおいては言うまでもないこと、その秀麗の山貌と、優美の色彩と、典雅の儀容とにおいて、群山から超絶している、むしろ統御の別席をしつらえるために、ことさらにアルプス大山系を回避して、太平洋岸に独歩特立して、一段と超越した高御座(たかみくら)を築き上げたかのように見える、日本アルプス大山系の地質構造史において、富士帯の大火山線が、重要なる関係を有しているように、山岳景においてもまたそうである、そうであらねばならぬのである、誰か偉大なる富士山を除外するような僭越と非礼と亡状を敢えてして、日本山岳論の特色を論ずることが出来よう。


「菜の花」
東海道藤沢の松並木の間から、菜の花の上に泛(うか)ぶ富士山を、おもしろい模様画に見立てて、富士山と菜の花の配合などを考えたことがある、中にも私の好む菜の花の場所は、相模大山の麓、今は烟草(たばこ)の産地として名高い秦野付近で、到るところ黄の波を列(つら)ねていた


「雪の白峰」
蒼醒(あおざ)めて、純桔梗色に澄みかえる冬の富士を、武蔵野平原から眺めた人は、甲府平原またはその附近の高台地から白峰の三山が、天外に碧い空を抜いて、劃然(かっきり)と、白銀の玉座を高く据えたのを見て、その冴え冴えと振り翳(かざ)す白無垢衣(しろむくえ)の、皺(しわ)の折れ方までが、わけもなく魂を織り込もうとするのに魅せられるであろう、

山の雪が動物の形態となって消え残ることは、何か因縁話があるのかは知らぬが、殊に中央日本の山に多いようである、自分の知った限りでも、前記の蝶ヶ岳、白馬、大蓮華の外に、先ず東海道から見た富士山の農男(馬琴の『覊旅漫録』巻の一、北斎の『富嶽百景』第三編に、その図が出ている、北斎のを茲(ここ)に透き写す、これで見ると、蝶や農鳥は、雪がその形をするのだが、農男は、雪に輪を取られた赭岩が、人物の格好に見えるらしい)は、名高いものであるが、甲府方面からは、富士の「豆蒔小僧」というのが見える、八十八夜を過ぎて、豆を蒔く頃になると、あの辺の農夫は、額に小手を翳して、この小僧を仰ぐものだそうな

白峰より彼(かの)鳥を奪わば、白峰は形骸のみとならんとまで、この頃は飽かず、眺め居候(おりそうろう)、……白峰の霊を具体せるものは、誠にこの霊鳥の形に御座候、前山も何もあったものにあらず、東南富士と相対して、群山より超越せる彼巨人の額に、何ものの覆うものなく、露出せる鳥の姿、スカイラインよりは、僅(わずか)に一尺も低かるべきか

八ヶ岳も、少し郊外に出づれば、頭を現わすべく、茅岳、金岳より、近き山々、皆冬枯の薄紫にて、淡き三色版そのまま、御阪山脈の方向は富士山なくんば見るに足らず、富士の雪は夕陽に映るとき、最も美しく候、

しかもラスキンのいわゆる、アルプスの魔女が紡(つむ)げる、千古の糸にも似た雪の白い山! 讃嘆せよ、讃嘆せよ、太平洋岸の表日本には、東に富士あり、西に我白峰がある。

地蔵、鳳凰の淡き練絹(ねりぎぬ)纏いし姿は、さもあらばあれ、白峰甲斐駒の諸峰は、更に山の膚を見ず、ただ峻谷の雪かすかなる、朧銀の色をなして、鉛色なる空より浮き出で巨大なる蛇の舌閃(ひらめ)いて、空に躍れる如し、何等のミレージ、何等のミラクル、今朝はやや晴れ、白峰満山の白雪、朝日に映じて瑪瑙(めのう)に金を含む、群山黙として黒く下に参す、富士も大なる白色魔の如く、鈍き空に懸れり、兄(けい)を招じて驚嘆の叫び承わり度候、


「雪中富士登山記」
今朝は寒いと思うとき、わが家の背後なる山王台に立って、遥かに西の方を見渡すと、昨夜の風が砥ぎ澄まして行った、碧く冴えた虚空の下には、丹沢山脈の大山一帯が、平屋根の家並のように、びったり凍(かじ)かんで一と塊に圧しつけられている。その背後から陶器の盃でも伏せたように、透き徹っているのは、言うまでもなく富士の山だ。

自然は富士山という一つの題材を、幾十百部に切り刻んで、相模野からかけて、武蔵野辺に住む人たちに朝となく、夕となく、種々の相を示してくれる。その中にも山頂に落ちた白雪は、私の神経を刺戟することにおいて、幾百反歩の雑木林の動揺と、叫喚とにも、勝っている。
その新雪光る富士山の巓(いただき)を、私が踏んだのは、去(さる)四十年十月の末であった。

「十月二十六日夜九時、御殿場富士屋へ着、寒暖計五十六度、曇天、温に過ぐ、明日の天候を気遣うこと甚だし。」
と日記に書いてある。

朝の霧が、方々から烟のように這っているほど、快晴であるが、一合目辺をカッキリ境界線にして、頭上の富士山は、雲のためにまるで見えず、天上の空次第に低く垂れて、屋根の上を距ること僅(わずか)に三尺。

眼の前には粒の細かい黒砂が、緩(なだ)らかな傾斜となって、霧の中へ、するすると登っている、登山客の脱ぎ捨てた古草鞋(ふるわらじ)が、枯ッ葉のように点を打って、おのずと登り路の栞(しおり)となっている、路傍の富士薊(ふじあざみ)の花は、獣にでも喰い取られたらしく、剛々しい茎の頭に、半分残って、根はシッカリと、土から離れまいと、しがみついて慄えている。太郎坊附近の、黄紅朱樺の疎らな短木の中を、霧は幾筋にもなって、組んず、ほぐれつして、その尖端が愛鷹(あしたか)山の方向へと流れて行く、

西風が強いかして、傾斜の土に疎ら生えしている、丈の短い唐松や、富士薊が、東に向いて俯向きに手を突いている。紅葉の秋木も、一合五勺位から皆無になったが、虎杖(いたどり)は二つ塚側火山の側面まで生えている、それも乱れ髪のように、蓬々としている。

下界はと見れば、大裾野の松林は、黒くして虫の這う如く、虎杖や富士薊は、赭黄の一色に、飴のようになって流れている、凡(すべ)てが燻(いぶ)されたようで、白昼の黄昏に、気が遠くなるばかりである。

一同は杖に倚(よ)って、水涸れの富士川を瞰下(みおろ)しながら、しばらく息を吐く。

眼を落すと、わが山麓には、富士八湖の一なる本栖湖が、森の眼球のように、落ち窪んで小さく光っている。


「高山の雪」
米人ジョン・ミューア John Muirは、かつてヨセミテ谿谷 Yosemite Valleyの記を草して、このシエラ山は全く光より成れる観があると言って、シエラをば「雪の峰と呼んではいけない、光の峰と名づけた方がいい」と言ったが、雪のある峰であればこそ、光るので、我が富士山が光る山であるのは、雪の山であるためではあるまいか。

筑波山の紫は、花崗石の肌の色に負うことが多いが、富士山の冬の紫は、雪の変幻から生ずる色といっても大過はあるまい。

富士山の如きは、十月より四月頃までは不断の降雪があるが、一昨々年は五月十二日に五合目以上に降雪あり、一昨年は五月二十六日には山巓はなかろう。随って厳格に言えば、初雪という語は意義を成さないのである。

日本の山岳は、日本アルプスあたりでは、大洋より来る湿気を含める風が当って、降雪量は充分であるが、融ける分量の方が積る分量より多いのであるから、氷河という現象を作らない。富士山は日本では三千七百七十八米突という抜群の標高を有しているが、太平洋方面は黒潮が流れるほどの暖かさで、かつ冬季は霽め知り難いのである。

日本アルプスの中で、最も山形に変化の多いのは北アルプスで、それには乗鞍岳(三〇二六米突)や御嶽(三〇六五米突)のように、富士山を除いて、日本第一の大火山の噴出があったためもあるが、御嶽頂上の五個の池、乗鞍岳頂上の火口湖などに、絶えず美しい水を湛えているのも、また信飛地方の峡谷の水が、純美であるのも、雪から無尽蔵に供給するからである。
氷河は勿論だが、雪辷輝石富士岩に属しているそうだ。この熔岩の上を雪が辷った痕を見ると、滑らかな光沢があって、鏡のように光っている。これは御殿場口から須走口に入ろうとする森林の側の、大日沢という所にも発見される。

それだから、その擦痕も、水のは凹形になっているが、万年雪や氷河のは、凸形になっている、白馬岳の擦痕は、やはりこの凸形の方に属するらしく、富士で見たのは、いずれかと言えば凹形の方に属している。

日本高山の雪は、一体にどの方面に多いかというと、私が十月の末に富士山に登ったときの経験で見ると、この山は北の方面よりも、南の太平洋面に多い。それは、北風が強くて、雪を南に吹き飛ばすからである。

2006年12月20日

海野十三

「未来の地下戦車長」
「いや、わかっています。わしには何でもわかっているんだ。しかしね、一郎さん。土を掘るのもいいが、地質のことを考えてみなくちゃ駄目だよ」
「地質ですって」
「今、掘っているのは、どういう土か、またその下には、どんな土があるかということを心得ていないと、穴は掘れないよ」
 御隠居さんは、中々物知らしい。
「じゃあ、教えてくださいよ」
「わしも、くわしいことは知らんが、お前さんが今掘っているその土は、赤土さ」
「赤土ぐらい知っていますよ」
「その赤土は、火山の灰だよ。大昔、多分富士山が爆発したとき、この辺に降って来た灰だろうという話だよ。大体、関東一円、この赤土があるようだ」
「はあ、そうですか。御隠居さんも、なかなか数値のうえに立っているようだな」


「○○獣」
敬二は寝衣(ねまき)をかなぐりすてると、金釦(きんボタン)のついた半ズボンの服――それはこの東京ビルの給仕としての制服だった――を素早く着こんだ。そしてつっかけるように編あげ靴を履いて、階段を転がるように下りていった。彼の右手には、用心のたしにと思って、この夏富士登山をしたとき記念のために買ってきた一本の太い力杖が握られていた。


「三十年後の世界」
「大きさが富士山くらいある宇宙塵は決して少なくないと、今まで知られています」
富士山くらいですか。そんな大きなものも、塵とよぶのですか」


「地中魔」
「大丈夫です。不肖ながら大辻(おおつじ)がこの大きい眼をガッと開くと、富士山の腹の中まで見通してしまいます。帆村荘六の留守のうちは、この大辻に歯の立つ奴はまずないです」


「地球要塞」
「オルガ姫、こんどは、東京へ向けてみよ。途中、富士山にぶつかるだろうから、その地点を忘れないで教えて、ちょっと停めよ」

「ここが富士山の位置です」

富士山は、ここかね。山なんぞ、ありはしないが……」
どう見まわしても、富士山らしいものはなかった。このとき艇は、海面下わずかに一メートルのところを走していたのを、ぴたりと停めたわけであるが、このとき見えるのは、艇の下、約七、八メートルのところに、なんといったらいいか、恰(あたか)も並べられた大きなパンの背中を見るような感じのするベトンだけであったのだ。やや凸凹はあるものの、山らしい形のものは、さっぱり見当らない。

その一方において、富士山がなくなり、その代りでもあるように、紀伊水道が浅くなってしまって、ベトンの壁が突立っているのであった。一体、どういうわけであろう。

これを使えば、あの海抜四千メートル余もある富士山も、百台の機械でもって、わずか一時間のうちに、きれいに削り取られてしまうのであった。こんなことをいっても、三十年前の人間には、とても想像さえつかないであろう。


「大宇宙遠征隊」
「雲のようにというのが、分らないのかね。つまり、よく富士山に雲がかかっているだろう。あれと同じことで、味噌汁が、下へこぼれ落ちもせず、まるでやわらかい餅が宙にかかっているような恰好で、卓上(テーブル)の上をふわふわうごいているんだ。僕はおどろいたよ。そして、仕方がないから、両手をだして、宙に浮いている味噌汁をつかんでは、椀の中におしこみ、つかんではおしこんだものさ。あははは」


「怪星ガン」
眼鏡をかけても、かけないでも、じぶんの部屋のようすは、かわりがないようであった。バンドのついた椅子。有機ガラスをはめてある格子形の戸棚。テレビジョン受影機に警報器。壁につってある富士山の写真のはいっている額。その他、みんなおなじことであった。


「氷河期の怪人」
山脈中の最高峰は、八千八百八十三メートルのエベレスト山であって、富士山の二倍半に近い。そのほかにも八千メートルを越える高い峰々がならんでいて、機の高度の方が、むしろ低い。もっと機の高度をあげればよいわけであるが、これ以上あげると、エンジンの馬力(ばりき)がたいへんおちるしんぱいがあった。


「海底都市」
ところが、このヒマワリ軒と来たら、だいぶん勝手がちがう。まず入口を入ったすぐのところが円形の広間になっていて、天井は半球で、壁画が秋草と遠山の風景である。急に富士山麓へ来たような気持ちになる。あまり高くない奏楽が聞こえていて、気持はいよいよしずかになる。


「海野十三敗戦日記」
◯「富士」編輯局(へんしゅうきょく)の木村健一氏が来宅。去る十二月十二日夜、雑司ケ谷墓地附近へ敵機が投弾して火災が生じたが、そのとき木村氏は用があって附近を通行中だった。


「第五氷河期」
「――中央気象台の発表によりますと、このたびの驚異的大地震は、わが国の七つの火山帯の総活動によるものでありまして、従来五十四を数えられた活火山は、いずれも一せいに噴火が増大しました。また従来百十一を数えられた休火山のうち、その三分の二に相当する七十四が、このたびあらためて噴火を始めました。中でも、富士火山帯の活動はものすごく、富士山自身もついに頂上付近より噴煙をはじめました。今後さらに活発になるものと思われます……」
富士山が噴火をはじめたというのだ。

「おお、あそこだ。富士山が燃えている」
真赤な雲の裾から、左右に、富士山のゆるやかな傾斜が見えていた。山巓のところは、まさに異状があった。黒いような赤いような大きな雲の塊が、すこしずつ、むくむくと上にのびあがっていくのが見える。そして、ときどき、電気のようなものが、慄えながら見入っている人々の目を射た。
富士山の噴火は、ついに事実となって、市民の目の前に現われたのである。


「超人間X号」
「ああ、あれが富士山ですか」

2006年12月13日

高神覚昇

「般若心経講義」
次に「処」とは、十二処ということで、「六根」と「六境」といったものです。ところでその六根とは、あの富士山や御嶽山などへ登る行者たちが、「懺悔懺悔、六根清浄」と唱える、あの六根で、それは眼、耳、鼻、舌、身の五官、すなわち五根に、「意根」を加えて六根といったので、つまり私どもの身と心のことです。別な語でいえば心身清浄ということが六根清浄です。そこで、この「根」という字ですが、昔から、根とは、識を発(おこ)して境を取る(発識取境(はっしきしゅきょう))の義であるとか、または勝義自在(しょうぎじざい)の義などと、専門的にはずいぶんむずかしく解釈をしておりますが、要するに根とは「草木の根」などという、その根で、根源とか根本とかいう意味です。すなわちこの六根は、六識が外境(そとのもの)を認識する場合は、そのよりどころとなり、根本となるものであるから、「根」といったのです。

2006年12月11日

坂村真民

「日本よ永遠なれ」
富士の高嶺
鎮まり在ます
木花開耶媛
さくら
さくら
日本よ永遠なれ

あなにやし えおとめ
あなにやし えおとこ
国産みの
若い二人の神よ
ああ
日本よ永遠なれ

葦の芽の
萌え出づる
若き国よ
夢よ豊かに
日本よ永遠なれ

海から生命は生まれ
海は命の始まり
海に囲まれ
生きてきた民よ
日本よ永遠なれ

敷島の日本(やまと)の国は言霊の
たすくる国ぞ真幸(まさき)くありこそ
柿本人麻呂よ
来りて導き給へ
ああ
日本よ永遠なれ


「千年後」
千年後の祖国が
どうなっているか
それはわからないが
念ずれば花ひらく
いくつかの碑が
残っていて
呼びかけて
くれるだろう
地球温暖化のため
小さい国が
更に小さくなり
富士山頂
木花開耶媛
淋しがっていられるだろう
わたしが
飛天になりたく
思うのも
そんなことからだ


「桜花迎春 」
日本の乱れが
桜に伝わり
富士山頂に鎮座まします
木花開耶媛(このはなさくやひめ)に 
 御心配かけているのでは
なかろうか
桜が咲いたら
まず一輪を
口に噛み
体を浄化して
喜びを伝えよう
ああ
九十三歳で迎える
桜の花よ


「桜賛歌」
咲いた
咲いた
桜が
咲いた
宇宙和楽の
桜が
咲いた

富士の高嶺
鎮まり居ます
媛を称(たた)えて
乾杯しよう
日本の栄えを
民の奮起を


※2006年12月11日死去。ご冥福をお祈りします。

2006年12月01日

藤村郁雄

「富士山頂気象観測の歌」
○一万二千尺雲の上
 うき世の風のいづこ吹く
 千古の雪の禊して
 絶えざる観測(ミトリ)にいそしむは
 気象の二字に打込める
 霊峰富士の観測者
○氷の頂風寒く
 アイゼン固くいでたてば
 弥生の空に月残り
 黄沙に煙る十三州
 栄華の巷は遠く消え
 いま駘蕩の春の夢
○雲縹渺の海となり
 下界は雨に濡るヽらむ
 陽光ひとり燦(?)として
 氷の殿堂(ウテナ)は雫する
 噴火口壁に聲ありて
 夏のきざしを告ぐるなり
○暗雲低く掠めつヽ
 矢羽根は南に転じたり
 気圧の降下加速する
 時こそ来れ台風ぞ
 雨よ降れ降れ石も飛べ
 我等が力を試しみむ
○秋玲瓏の朝ぼらけ
 紫紺の山脈(ヤマナミ)空を截り
 炊ぎの煙は地に靡く
 御稜威(ミイツ)洽き天が下
 遮る雲も影ひそめ
 太平洋上波もなし
○電池も凍り眉凍る
 エンジン重く息弾む
 通信任務重ければ
 夜を徹しても始動せむ
 互に励まし手入れせば
 注ぐ重油も凍りたり
○樹氷の花よ天よ地よ
 この壮麗の頂よ
 危難を越えて観測(ミトリ)せし
 艱苦はこヽに酬いられ
 あヽ雲表の別天地
 自然は秘庫を啓示せり
○命を賭けし観測(ミトリ)こそ
 吾が欣びの使命なり
 永久(トワ)に伝うる記録こそ
 吾が欣びの貢献(ミツギ)なり
 いでや科学の矛とりて
 御国の光をいやまさむ
 いでや科学の盾とらむ
 護れ浅間この使命