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2007年07月06日

秋山秋紅蓼

春の白い富士に犬が来ている野の道

富士を月夜とし鉄橋のある風景

雪の富士と句碑の量感をよしとす

富士が見える屋上でゴム風船持たされる

妻に故里の三月の富士を見する

かたつむり富士の見える方へ歩いてゆく

2007年06月24日

天田愚庵(天田五郎)

ふじかねにのぼりて四方の国みるもまづふるさとの空をたずねて

2007年06月18日

Annie Lennox

「Syracuse Lyrics」より
○Voir les jardins de Babylone
 Et le palais du Grand Lama
 Rever des amants de Verone
 Au sommet du Fuji Yama...

※4番あるうちの2番。

2007年05月24日

浅田光

赤富士は時空を超えて北斎忌

2007年04月05日

赤尾兜子

淡雪富士ひとつの素船出てゆくも

2007年01月31日

芥川龍之介

「日本の女」
サア・オルコツクは、徳川幕府の末年(まつねん)に日本に駐剳(ちうさつ)した、イギリスの特命全権公使である。その日本駐剳中には、井伊大老も桜田門外で刺客(せきかく)の手に斃(たふ)れてゐる。西洋人も何人か浪人のために殺されてゐる。
 といふと人事(ひとごと)のやうに聞えるが、サア・オルコツクの住んでゐた品川の東禅寺にも浪士が斬り込んで、何人かの死傷を生じた事件もある。その上、サア・オルコツクは、富士山へ登つたり、熱海の温泉へはひつたり、可なり旅行も試みてゐる。かういふ風に、内外共多事の幕末の日本に住み、且つまた、江戸にばかりゐずに方々歩き廻つたのであるから、サア・オルコツクの日本紀行の興味の多いのは偶然ではない。


「樗牛の事」
一山(いっさん)の蝉の声の中に埋れながら、自分は昔、春雨にぬれているこの墓を見て、感に堪えたということがなんだかうそのような心もちがした。と同時にまた、なんだか地下の樗牛に対してきのどくなような心もちがした。不二山と、大蘇鉄(だいそてつ)と、そうしてこの大理石の墓と――自分は十年ぶりで「わが袖の記」を読んだのとは、全く反対な索漠(さくばく)さを感じて、匆々(そうそう)竜華寺の門をあとにした。爾来(じらい)今日に至っても、二度とあのきのどくな墓に詣でようという気は樗牛に対しても起す勇気がない。


「不思議な島」
僕は大いに感心しながら、市街(まち)の上へ望遠鏡を移した。と同時に僕の口はあっと云う声を洩らしそうになった。
鏡面には雲一つ見えない空に不二に似た山が聳えている。それは不思議でも何でもない。けれどもその山は見上げる限り、一面に野菜に蔽われている。玉菜(たまな)、赤茄子、葱、玉葱、大根、蕪、人参、牛蒡(ごぼう)、南瓜(かぼちゃ)、冬瓜(とうがん)、胡瓜(きゅうり)、馬鈴薯、蓮根(れんこん)、慈姑(くわい)、生姜、三つ葉――あらゆる野菜に蔽われている。蔽われている? 蔽わ――そうではない。これは野菜を積み上げたのである。驚くべき野菜のピラミッドである。


「本所両国」
富士の峯白くかりがね池の面(おもて)に下(くだ)り、空仰げば月麗(うるは)しく、余が影法師黒し。」――これは僕の作文ではない。二三年前(まへ)に故人になつた僕の小学時代の友だちの一人(ひとり)、――清水昌彦(しみづまさひこ)君の作文である。

2007年01月19日

会津八一(會津八一)

武蔵野の霞める中にしろ妙の富士の高根に入日さす見ゆ

若くさや富士をうしろにひとりゆく

小便をするとて富士も笑ふらむ

草も木もわすれてしろし富士の山

2006年11月07日

足代弘員

時しらぬ山は蕎畑いつとてか

2006年08月06日

天野桃隣

市中や木の葉も落ず不二颪

2006年07月27日

天野武子

蝌蚪生るる田の半分に逆さ富士

2006年07月26日

天野蘇鉄

大鳥居はみ出してゐる夏の富士

2006年06月24日

相生垣瓜人

雲行きて初富士に著くこともなし

起し絵のけはしき富士の聳えけり

裏富士を傾き出でて炭車

2006年06月20日

浅羽緑子

初御空おのがひかりの中の富士

青富士や松の秀に鳴く茅くぐり

富士ふつと立つ草木瓜の返り花

小寒の夕映富士をのぼりつむ

軒菖蒲青き切つ先富士を指す

富士疎林三光鳥の声わたる

富士樹海森林浴の深息す

小寒の夕映富士をのぼりつむ

浅井一志

大いなる富士を入れたり青葉闇

2006年06月14日

赤木格堂

初富士や浪の穂赤き伊豆相模

焼土にずり込む杖や富士詣

2006年06月13日

赤堀五百里

夕富士に夏蚕終ひのまぶし干す

赤城さかえ

白菜括る夕べは富士の現つ気配

富士夕焼父の言ひたきこと知りつゝ

2006年06月12日

赤松けい子

富士の根に眠りかなしむ山幾重

裏富士に天の一太刀鳥かへる

湖べりに富士を見惜しむ夕焚火

菜の花や坊主坐りに讃岐富士

※「けい」の漢字が難しい。

2006年06月04日

青木よしを

富士新雪落葉松の金厚くなる

2006年05月08日

秋元不死男

富士爽やか妻と墓地買ふ誕生日

梳きはじめ鏡台の富士傾けて

冬蜂の尻てらてらと富士の裾


秋元不死男

秋山牧車

富士真白諸君も髯を剃れという

秋元大吉郎

丸みぐせ伸ばす富嶽のカレンダー

2006年04月23日

荒井正隆

クレソンの葉混みはぐくむ富士の水

初富士の天つ袴として立てり

2006年04月19日

阿仏尼

「うたたねの記」
不二の山は、ただここもとにぞ見ゆる。けぶり雪いと白くてこころぽそし。風になびく煙の末も夢の前に哀れなれど、上なきものはと思ひ消つこころのたけぞ、ものおそろしかりける。甲斐の白根もいと白く見渡たされたり。


「十六夜日記」
富士の山を見れば煙もたゝず。むかし父の朝臣にさそはれて、「いかになるみの浦なれば」などよみしころ、とほつあふみの國まては見しかば、「富士のけぶりの末も、あさゆふたしかに見えしものを、いつの年よりか絶えし」と問へば、さだかにこたふる人だになし。
「たが方に なびきはてゝか 富士のねの 煙のすゑの 見えずなるらむ」。
古今の序のことばまで思ひ出でられて、
「いつの世の ふもとの塵か 富士のねを 雪さへたかき 山となしけむ。
 くちはてし ながらの橋を つくらばや 富士の煙も たゝずなりなば」。
今宵は、波の上といふ所にやどりて、あれたる昔、更に目もあはず。
廿七日、明はなれて、後富士川わたる。朝川いとさむし。かぞふれば十五瀬をぞ渡りぬる。
「さえわびぬ 雪よりおろす 富士川の かは風こほる ふゆのころも手」。
けふは、日いとうらゝかにて、田子の浦にうち出づ。あまどものいさりするを見ても、
「心から おりたつ田子の あまごろも ほさぬうらみと 人にかたるな」
とぞ言はまほしき。

「立ち別れ 富士のけぶりを 見てもなほ 心ぼそさの いかにそひけむ」。
又これも返しをかきつく、
「かりそめに 立ちわかれても 子を思ふ おもひを富士の 煙とぞ見し」。

2006年04月15日

有馬壽子

初冨士の擂鉢ほどに遠かりき

2006年04月06日

赤松恵子

向き直りをらむ裏富士朴散華

浅野余里女

富士の雲はれて樹海に虹の脚

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浅井青陽子

冬麗の富士目のあたり賀に参る

2006年03月30日

在本順子

攀じに攀づ天まで富士の大斜面

天井界神に還して富士閉ざす

2006年03月12日

安斉君子

冬晴れの富士に祈りて人見舞ふ

初富士の鼓動聞こゆるところまで

粟飯原孝臣(あいはら−)

会釈したき新雪の富士麦を蒔く

2006年03月11日

粟津松彩子

大富士に引き寄せられて天の川

粟津松彩子

大富士に引き寄せられて天の川

綾部仁喜

ちかぢかと富士の暮れゆく秋袷

雨宮きぬよ

梅雨明けの裏富士のこの男貌

安藤明子

月夜富士見むとテラスに出て来たる

安藤八木郎

黒富士といふ大きさの夏野かな

愛須真青

鮎釣に雲はらひ聳つ紀州富士

阿部みどり女

大銀杏騒げる窓に夏の富士

阿部完市

雲と歌撒き富士の裾野を逃げまわる

石楠花は富士の夕の色に咲けり

阿部完市

阿波野青畝

初富士を隠さふべしや深庇

赤冨士の雲紫にかはりもし

富士淡し松虫草の花の上

阿波野青畝

2006年03月10日

浅井了意(淺井了意)

「東海道名所記」
三嶋と富士とは、親と子の御神なり、富士権現には木花開耶姫なり。三島は御父の神にてオハシましけり。竹取の物語にかぐや姫とかきしハ、後の世の事にやあるらむ。三嶋と申すハ、伊予・摂津・伊豆の三所におハしますよしを、延喜式の神明帳にのせたり。

さて本町に入りて見れば、隔子かうしの中には、金屏風はしらかし、たばこ盆に眞刻(しんきざみ)、匂ひたばこなんど、金銀のきせるとりそへ、池田炭を富士灰に埋み、時々伽羅、梅花、侍從なんど、おぼろにくゆらかし、打しめりたる三味線の音引いて、さすがにかしましからず。

2006年01月24日

淡島寒月

「江戸か東京か」
それから浅草の今パノラマのある辺に、模型富士山が出来たり、芝浦にも富士が作られるという風に、大きいもの/\と目がけてた。可笑かったのは、花時(はなどき)に向島に高櫓を組んで、墨田の花を一目に見せようという計画でしたが、これは余り人が這入りませんでした。

有島武郎

「カインの末裔」
北海道の冬は空まで逼っていた。蝦夷富士といわれるマッカリヌプリの麓に続く胆振の大草原を、日本海から内浦湾に吹きぬける西風が、打ち寄せる紆濤(うねり)のように跡から跡から吹き払っていった。寒い風だ。見上げると八合目まで雪になったマッカリヌプリは少し頭を前にこごめて風に歯向いながら黙ったまま突立っていた。


「農場開放顛末」
小樽函館間の鉄道沿線の比羅夫駅の一つ手前に狩太といふのがある。それの東々北には蝦夷富士がありその裾を尻別の美河が流れてゐるが、その川に沿うた高台が私の狩太農場であります。