木下尚江
「火の柱」
篠田はやがて学生の群と別れて、独り沈思の歩(あゆみ)を築山の彼方(あなた)、紅葉麗はしき所に運びぬ、会衆の笑ひ興ずる声々も、いと遠く隔りて、梢に来鳴く雀の歌も閑(のど)かに、目を挙ぐれば雪の不二峰(ふじがね)、近く松林の上に其頂を見せて、掬(すく)はば手にも取り得んばかりなり、心の塵吹き起す風もあらぬ静邃閑寂(せいすゐかんじやく)の天地に、又た何事の憂きか残らん、時にふさはしき古人の詩歌など思ひ浮ぶるまに/\微吟しつ、岸の紅葉、空の白雲、映して織れる錦の水の池に沿うて、やゝ東屋(あづまや)に近きぬ、見れば誰やらん、我より先きに人の在り、聞ゆる足音に此方(こなた)を振り向きつ、思ひも掛けず、ソは山木の令嬢梅子なり、
夕ばえの富士の雪とも見るべき神々しき姉の面(おもて)を仰ぎて、剛一は、腕拱(こまぬ)きぬ、
鳥の群、空高く歌うて過ぐ、
「ふウむ」と侯爵は葉巻(シガー)の煙(けむ)よりも淡々しき鼻挨拶(はなあしらひ)、心は遠き坑夫より、直ぐ目の前の浜子の後姿にぞ傾くめり、
浜子は彼方(あちら)向いて、遙か窓外の雪の富士をや詮方(せんかた)なしに眺むらん、