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中里介山

「大菩薩峠」 (一)甲源一刀流の巻
両人首座の方へ挨拶して神前に一礼すると、この時の審判すなわち行司役は中村一心斎という老人です。
この老人は富士浅間(せんげん)流という一派を開いた人で、試合の見分(けんぶん)には熟練家の誉れを得ている人でありました。
一心斎は麻の裃(かみしも)に鉄扇(てっせん)を持って首座の少し前のところへ歩み出る。

竜之助は冷やかな微笑を浮べて、
富士浅間流の本家、中村一心斎殿とあらば相手にとって不足はあるまい、いざ一太刀の御教導を願う」
「心得たり、年は老いたれど高慢を挫(くじ)く太刀筋は衰え申さぬ」


「大菩薩峠」(四)三輪の神杉の巻
式上郡から宇陀郡へ越ゆるところを西峠という。西峠の北は赤瀬の大和富士(やまとふじ)まで蓬々(ぼうぼう)たる野原で、古歌に謡(うた)われた「小野の榛原(はいばら)」はここであります。


「大菩薩峠」(七)東海道の巻
同じく百文ばかりの金を投げ出してこの男が出たのは、七兵衛がもうさった峠の上りにかかろうとする時分でありました。
幸いに晴れていて、富士も見えれば愛鷹も見える。伊豆の岬、三保の松原、手に取るようでありますが、七兵衛は海道第一の景色にも頓着なく、例の早足で、すっすと風を切って上って行く。

右の方へは三保の松原が海の中へ伸びている、左の方はさった峠から甲州の方へ山が続いている。前は清水港、檣柱(ほばしら)の先から興津(おきつ)、蒲原(かんばら)、田子の浦々(うらうら)。その正面には富士山が雪の衣をかぶって立っています。
「まあ、なんという眺めのよいところでしょう」
お君は立って風景に見とれていました。


「大菩薩峠」(八)白根山の巻
その翌朝、山駕籠(やまかご)に身を揺られて行く机竜之助。庵原(いおはら)から出て少し左へ廻りかげんに山をわけて行く。駕籠わきにはがんりきが附添うて、少し後(おく)れてお絹の駕籠。
 山の秋は既に老いたけれども、谷の紅葉はまだ見られる。右へいっぱいに富士の山、頭のところに雲を被っているだけで、夜来の雨はよく霽(は)れたから天気にはまず懸念がありません。

「なんだか道が後戻りをするような気がしますねえ」
「峠へ出るまでは少し廻りになりますから、富士の山に押されるようなあんばいになります、その代り峠へ出てしまえば、それからは富士の根へ頭を突込んで行くと同じことで、爪先下(つまさきさが)りに富士川まで出てしまうんでございますから楽なもので」

昨夜の雨がまだ降り足りないで、富士の頭へ残して行った一片の雨雲がようやく拡がって来ると、白根山脈の方からも、それと呼びかわすように雨雲が出て来る。それで、天気が曇ってくると富士颪(ふじおろし)が音を立てて、梢(こずえ)の枯葉を一時に鳴らすのでありました。


「大菩薩峠」(一一)駒井能登守の巻
「そうだ、猿橋と甲斐絹の名は知らぬ者はあるまい、その猿橋ももう近くなったはず」
「これから、ほんの僅かでございます、そんなに大きな橋ではございませんが、組立てが変っておりますから、日本の三奇橋の一つだなんぞと言われておりまする。猿橋から大月、大月には岩殿山(いわとのさん)の城あとがございまして、富士へおいでになるにはそこからわかれる道がございます。それから初狩(はつかり)、黒野田を通って笹子峠」


「大菩薩峠」(一三)如法闇夜の巻
でえだらぼっちというのはそもそも何者であろうかというに、これは伝説の怪物であります。素敵もない大きな男で、常に山を背負って歩いて、足を田の中へ踏み込んで沼をこしらえたり、富士山を崩して相模灘を埋めようとしたり、そんなことばかりしているのであります。
でえだらぼっちという字には何を当箝(あては)めたらよいか、時によっては大多法師と書きます。ところによってはレイラボッチとも言います。そんなばかばかしい巨人があるわけのものではないけれど、諸国を旅行したものは、どこへ行ってもその伝説を聞くことができます。今でも土地によってはその実在をさえ信じているところもあるのであります。でえだらぼっちが八幡様へ喧嘩を売りに来るという伝説の迷信が取払われないから、米友は今夜も燈籠へ火を入れなければなりませんでした。

彼等の間の話題は、近いうちおたがいに結束して山登りをしようということの相談でありました。その山登りをすべき山は、どこにきめたらよかろうかということにまで相談が進んでいたのであります。甲斐の国のことですから、山に不足はありません。多過ぎる山のうちのそのどれを択(えら)んでよいかという評議であります。
富士山に限る」
と言って大手を拡げたのがありました。それと同時に、富士山は甲斐のものである、それは古(いにし)えの記録を見てもよくわかることである、しかるに中世以来、駿河の富士、駿河の富士と言って、富士を駿河に取られてしまったことは心外千万である、甲斐の者は奮ってその名前を取戻さねばならぬ、なんどと主張しているものもありました。


「大菩薩峠」(一四)お銀様の巻
甲斐の国、甲府の土地は、大古(おおむかし)は一面の湖水であったということです。冷たい水が漫々と張り切って鏡のようになっていると、そこへ富士の山が面(かお)を出しては朝な夕なの水鏡をするのでありました。富士の山の水鏡のためには恰好でありましょうとも、水さえなければ人間も住まわれよう、畑も出来ようものをと、例の地蔵菩薩がお慈悲心からある時、二人の神様をお呼びになって、
「どうしたものじゃ、この水をどこへか落して、人間たちを住まわしてやりたいものではないか」

東へ向いても笹子や大菩薩の峰を見ることができません。西へ向って白根連山の形も眼には入りません。南は富士の山、北は金峰山、名にし負う甲斐の国の四方を囲む山また山の姿を一つも見ることはできないので、ただ霏々(ひひ)として降り、繽紛(ひんぷん)として舞う雪花(せっか)を見るのみであります。

いま、主膳が坐っている二階の一間は、雪見には誂向(あつらえむ)きの一間で、前に言った躑躅ケ崎の出鼻から左は高山につづき、右は甲府へ開けて、常ならば富士の山が呼べば答えるほどに見えるところであります。


「大菩薩峠」(一五)慢心和尚の巻
そこから眺めると目の下に、笛吹川沿岸の峡東(こうとう)の村々が手に取るように見えます。その笛吹川沿岸の村々を隔てて、甲武信(こぶし)ケ岳(たけ)から例の大菩薩嶺、小金沢、笹子、御坂、富士の方までが、前面に大屏風(おおびょうぶ)をめぐらしたように重なっています。それらの山々は雲を被(かぶ)っているのもあれば、雪をいただいているのもあります。
お銀様は、その山岳の重畳と風景の展望に、心を躍らせて眺め入りました。


「大菩薩峠」(一八)安房の国の巻
そうして番小屋の炉の傍で、お角の給仕で夕飯を食べながら話をしました。清吉のことは、もう諦めてしまっているようです。その話のうちに、甲州話がありました。けれども、その甲州話も、政治向のことや勤番諸士の噂などは、おくびにも出ないで、甲州では魚を食べられないとか、富士の山がよく見えるとか、甲斐絹(かいき)が安く買えるとか、そんな他愛のないことばかりでしたからお角は、この殿様がどうしてかの立派な御身分から今のように、おなりあそばしたかということを尋ねてみる隙がありませんでした。


「大菩薩峠」(二〇)禹門三級の巻
詮方(せんかた)なく米友は、代々木の原を立ち出でました。林のはずれを見ると、天気がいいものだから丹沢や秩父あたりの山々が見えるし、富士の山は、くっきり姿をあらわしていました。米友も久しく見なかった広い原と、高い山の景色に触れると、胸膈(きょうかく)がすっと開くようにいい心持になりました。

ここに立って東を望むと、高尾の本山の頂をかすめて、遠く武蔵野の平野であります。東に向ってやや右へ寄ると、武蔵野の平野から相模野がつづいて、相模川の岸から徐々として丹沢の山脈が起りはじめます。それをなおずっと右へとって行けば甲州に連なる山また山で、その山々の上には富士の根が高くのぞいているのを、晴れた時は鮮かに見ることができます。それを元へ返して丹沢の山つづきを見ると、その尽くるところに突兀(とっこつ)として高きが大山の阿夫利山(あふりさん)です。更に相模野を遠く雲煙縹渺(ひょうびょう)の間(かん)にながめる時には、海上微(かす)かに江の島が黒く浮んでいるのを見ることができます。

人跡(じんせき)の容易に到らない道志谷(どうしだに)を上って行くと、丹沢から焼山を経て赤石連山になって、その裏に鳥も通わぬ白根(しらね)の峰つづきが見える。富士の現われるのは、その赤石連山と焼山岳の間であります。空気のかげんによっては、道志谷の山のひだが驚くばかりハッキリして、そこを這う蟻の群までが見えるような心持がする。

小仏の背後に高いのが景信山(かげのぶやま)で、小仏と景信の間に、遠くその額を現わしているのが大菩薩峠の嶺であります。転じて景信の背後には金刀羅山(こんぴらやま)、大岳山(おおたけさん)、御岳山(みたけさん)の山々が続きます。それから山は再び武蔵野の平野へと崩れて行くのだが、小仏の肩を辷(すべ)って真一文字に甲州路をながめると、またしても山また山で、街道第一の難所、笹子の嶺を貫いて、その奥に甲信の境なる八ケ岳の雄姿を認める。富士をのぞいてすべての山がまだ黒い時分に、まず雪をかぶるのは八ケ岳です。


「大菩薩峠」(二一)無明の巻
まもなく庭を隔てた一間の障子にうつる影法師は、今の南条力。
   秀でては不二の岳(たけ)となり
   巍々(ぎぎ)千秋に聳え
   注いでは大瀛(たいえい)の水となり
   洋々八州をめぐる……
案(つくえ)によって微吟し、そぞろに鬱懐(うっかい)をやるの体(てい)。
興に乗じて微吟が朗吟に変ってゆく。

今宵、寺の縁側へ出て見ると、周囲をめぐる山巒(さんらん)、前面を圧する道志脈の右へ寄ったところに、富士が半身を現わしている。月はそれより左、青根の山の上へ高く鏡をかけているのであります。


「大菩薩峠」(二二)白骨の巻
その日の天気模様は朝から曇っていたものですから、肝腎の峠の上から諏訪湖をへだてた富士の姿が見えず、あたら絶景の半ばを損じたもののようで、ことに寒気が思いのほか強く、風こそないけれども、海抜一千メートルのここは、今にも雪を催してくるかとばかりです。


「大菩薩峠」(二三)他生の巻
こうして二人は社前を辞して大宮原にかかる。ここは三十町の原、この真中に立つと、富士、浅間、甲斐(かい)、武蔵、日光、伊香保などの山があざやかに見える。


「大菩薩峠」(二五)みちりやの巻
次にその夜の物語。大菩薩峠伝説のうちの一つ――
富士の山と、八ヶ岳とが、大昔、競争をはじめたことがある。
富士は、八ヶ岳よりも高いと言い、八ヶ岳は、富士に負けないと言う。
きょう、富士が一尺伸びると、あすは八ヶ岳が一尺伸びている。
この両個(ふたつ)は毎日、頭から湯気を出して――これは形容ではない、文字通り、その時は湯気を出していたのでしょう――高さにおいての競争で際限がない。
そうして、下界の人に向って、両者は同じように言う、
「どうだ、おれの方が高かろう」
けれども、当時の下界の人には、どちらがどのくらい高いのかわからない。わからせようとしても、その日その日に伸びてゆく背丈(せいたけ)の問題だから、手のつけようがない。
そこで、下界の人は、両者の、無制限の競争を見て笑い出した。
「毎日毎日、あんなに伸びていって、しまいにはどうするつもりだろう」
富士も、八ヶ岳も、その競争に力瘤(ちからこぶ)を入れながら、同時に、無制限が無意味を意味することを悟りかけている。さりとて、競争の中止は、まず中止した者に劣敗の名が来(きた)る怖れから、かれらは無意味と悟り、愚劣と知りながら、その無制限の競争をつづけている。
ある時のこと、毎日晨朝諸々(じんちょうもろもろ)の定(じょう)に入(い)り、六道に遊化(ゆうげ)するという大菩薩(だいぼさつ)が、この峰――今でいう大菩薩の峰――の上に一休みしたことがある。
その姿を見かけると、富士と、八ヶ岳とが、諸声(もろごえ)で大菩薩に呼びかけて言うことには、
「のう大菩薩、下界の人にはわからないが、あなたにはおわかりでしょう、見て下さい、わたしたちの身の丈を……どちらが高いと思召(おぼしめ)す」
かれらは、その日の力で、有らん限りの背のびをして、大菩薩の方へ向いた。
「おお、お前たち、何をむくむくと動いているのだ。何、背くらべをしている!」
大菩薩は半空に腰をかがめて、まだ半ば混沌たる地上の雲を掻き分けると、二ツの山は躍起となって、
「見て下さい、わたしたちの身の丈を……どちらが高いと思召す」
「左様――」
大菩薩は、稚気(ちき)溢れたる両山の競争を見て、莞爾(かんじ)として笑った。
「わたしの方が高いでしょう、少なくとも首から上は……」
八ヶ岳が言う。
御冗談でしょう――わたしの姿は東海の海にうつるが、八ヶ岳なんて、どこにも影がないじゃないか」
富士が言う。
「よしよし」
大菩薩は、事実の証明によってのほか、かれらの稚気満々たる競争を、思い止まらせる手段はないと考えた。
そこで、しゅ杖(しゅじょう)を取って、両者の頭の上にかけ渡して言う、
「さあ、お前たち、じっとしておれ」
そこで東海の水を取って、しゅ杖の上に注ぐと、水はするするとしゅ杖を走って、富士の頭に落ちた。
富士、お前の頭はつめたいだろう」
「ええ、それがどうしたのです」
「日は冷やかなるべく、月は熱かるべくとも、水は上へ向っては流れない」
「それでは、わたしが負けたのですか、八ヶ岳よりも、わたしの背が低いのですか」
「その通り」
大菩薩はそのまま雲に乗って、天上の世界へ向けてお立ちになる。
その後ろ姿を見送って、富士は歯がみをしたが及ばない。八ヶ岳が勝ち誇って乱舞しているのを見ると、カッとしてのぼせ上り、
「コン畜生!」
といって、足をあげて八ヶ岳の頭を蹴飛ばすと、不意を喰った八ヶ岳の、首から上がケシ飛んでしまった。
「占(し)めた! これでおれが日本一!」
その時から、富士と覇を争う山がなくなったという話。

近頃、山々へ登る人が、よく山々を征服したという。征服の文字がおかしいという者がある。おかしくはない、古来人跡の未(いま)だ至らなかったところへ、はじめて人間が足跡をしるすのだから痛快である、征服の文字はいっこうさしつかえがない、という者がある。
ハハハハと高笑いをして、富士山を征服したというから、おらあはあ、富士の山を押削(おっけず)って地ならしをして、坪幾らかの宅地にでも売りこかしてしまったのか、そりゃはあ、惜しいこんだと思っていたら、何のことだ、富士の山へ登って来たのが征服だということだから笑わせる……上へたかったのが征服なら、蠅はとうから人間様を征服している……と山の案内者が言いました。
山の案内者は、近頃の征服連の堕落をなげき、高山植物などの、年々少なくなることをも怖れているらしい。

弁信さん
お前は知らない
あたしが
どこにいるか
お前には
わからないだろう
海は広く
山は遠い
向うにぼんやりと
山と山の上に
かすんで見えるのは
富士の山
甲州の上野原でも
あの塔の上では
富士の山
見えたのに
弁信さん
お前の姿が見えない


「大菩薩峠」(二六)めいろの巻
「どうかして、ここへ、弁信さんを呼んで来ることはできないか知ら」
「ところさえわかれば、できないことはないでしょう」
「それがわからないのです。さっきは、富士山の後ろの方から面(かお)を出したから、たしか、あの辺にいるのかも知れません」
富士山の後ろって、お前……そんなお前、広いことを言っても、わかりゃしないじゃないの」
「ああ、弁信さんに羽が生えて、この海を渡って、飛んで来てくれるといいなあ」
「弁信さんて、そんなにいい人なの、憎らしい、弁信坊主――」
といって兵部の娘は、海を隔てて罪もない富士山を睨(にら)みました。

千九百六十米突(メートル)の白岩山がある。二千十八米突の雲取山がある。それから武州御岳との間に、甲斐の飛竜、前飛竜がある。御前と大岳(おおたけ)を前立てにして、例の大菩薩連嶺が悠久に横たわる。
天狗棚山があり、小金沢山があり、黒岳があり、雁ヶ腹摺山がある――ずっと下って景信(かげのぶ)があり、小仏があり、高尾がある。
いったん脈が切れて、そうして丹沢山塊が起る。蛭ヶ岳があり、塔ヶ岳があって、それからまたいったん絶えたるが如くして、大山阿夫利山(おおやまあふりさん)が突兀(とっこつ)として、東海と平野の前哨(ぜんしょう)の地位に、孤風をさらして立つ。富士は、大群山(おおむれやま)と丹沢山の間に、超絶的の温顔を見せている――


「大菩薩峠」(二七)鈴慕の巻
「山という山はたいてい歩きましたね、日本国中の有名な山という山には、たいてい一度はお見舞を致しましたが、なんにしても山といっては、この信州に限ったものです。富士は一つ山ですから、上って下ってしまえば、それっきりですが、信濃から飛騨、越中、加賀へかけての山ときては、山の奥底がわかりませんからな。尤(もっと)も毛唐人(けとうじん)にいわせると――毛唐人といっては穏かでないが、西洋の人ですな、長崎で西洋の山好きに逢いましてな、その男に聞きますとな、感心なもので、あの西洋人の山好きは、日本人の歩かない山を歩いていましたよ、この辺の山のことでもなんでもよく知っているには驚かされましたよ。ウエストとかなんとかいう名の男でしてね、それが、あんた、日本人がまだ名も知らねえ、この信濃の奥の山のことなんぞをくわしく話し出されるものだから、若い時分のことですから、すっかり面食(めんくら)ってしまいましたね。その西洋の山好きの男が言うことには、日本はさすがに山岳国だけあって、山の風景はたいしたものには相違ないが、それでも、高さからいっても、規模からいっても、西洋の国々に類の無いというほどのものではない、世界中にはまだまだ高いのや、変ったのがいくらもあるが、そのうちでも、ちょっと類の無いのは、肥後の国の阿蘇山だってこう言いましたよ」

「駒ヶ岳が、お見えになりましょう」
「どれ?」
富士山と、赤石と、八ヶ岳とが、遠くかすんでおりまするそのこちらに」
「うむ、なるほど」

一様に黒くはなったけれども、少しもその個性を失うのではない。槍は槍のように、穂高は穂高のように、乗鞍は乗鞍のように、駒ヶ岳は駒ヶ岳のように、焼ヶ岳は焼ヶ岳のように、赤石の連脈は赤石の連脈のように、八ヶ岳の一族は八ヶ岳の一族のように、富士は問題の外であるが、越中の立山は立山のように、加賀の白山は加賀の白山のように――展望において、やや縦覧を惜しまれている東南部、針木、夜立、鹿島槍、大黒の山々、峠でさえも、東北の方、戸隠、妙高、黒姫等の諸山までも、おのおのその個性を備えて、呼べば答えんばかりにではない、呼ばないのに、千山轡(くつわ)を並べ、万峰肩を連ねて、盛んなる堂々めぐりをはじめました。

「ああ、山という山が、みんな集まって来るではないか」
「山がみんな集まって、何をするのでしょう」
「何をしでかすかわからない」
「あれ、富士山が――大群山(おおむれやま)が、丹沢山が、蛭(ひる)ヶ峰(みね)が、塔ヶ岳が、相模の大山――あれで山は無くなりますのに――まあ、イヤじゃありませんか、大菩薩峠までが出て来ましたよ」
「大菩薩峠が……」


「大菩薩峠」(二九)年魚市の巻
――私の今の感覚によって想像してみますと、茂太郎は海の方へ出ていますね、多分、房州の故郷の方へ連れ戻されているかも知れません、時々、あちらからあの子の声が聞えます。弁信さん――いま富士山の頭から面(かお)を出したのはお前だろう、なんて――あの子が海岸を馳せめぐって、夕雲の棚曳(たなび)く空の間に、私の面を見出して、飛びついたりなぞしている光景が、私の頭の中へ、絶えずひらめいて参ります。

そこで、お銀様は、甲府盆地に見ゆる限りの山河をながめます。後ろは峨々(がが)たる地蔵、鳳凰、白根の連脈、それを背にして、お銀様の視線のじっと向うところは、富士でもなく、釜無でもなく、おのずから金峯(きんぽう)の尖端が、もう雪をいただいて、銀の置物のようにかがやくあたりでありました。

「できるだけ高く、とおっしゃっても、高いには際限がありませんでございますから……」
「それはわかっていますよ、富士や白根より高くなんて言いやしません、お前たちの力で、このくらいの円さのうちへ、頂上へ四坪ほどの平地を置いて、それでどのくらい高く出来るか、やれるだけやってみてごらん」

「梅は、ずっと昔、支那から渡って来たものだということになっているが、それもしかとはわからぬ、九州の梅谷(うめがや)というところ、甲州の富士の麓なんぞには、たしかに野生の梅があるのだからな。どうも、わしの頭では、やっぱり日本に、最初から存在したもののように思われてならぬ、樹ぶりから枝ぶり、趣味好尚に至るまで、全く日本にふさわしいものだ」


「大菩薩峠」(三〇)畜生谷の巻
「それは教えて上げない限りもございませんが、白川郷へ行く道は、並大抵の道ではありませんよ、まあ、あの白山をごらんなさい」
「はい」
富士の雪は消える時がありましても、白山の雪は消えることがございません、あの高い峻(けわ)しいところを、ずっとなぞいに左の方をごらんなさい、滝が見えましょう」
「え、え」


「大菩薩峠」(三一)勿来の巻
「関東では、山として高い方では日本一の富士、低いけれども名に於て、このもかのもの筑波がある。高さにして富士は一万五千尺、山も高いが、名も高いことこの上なし。筑波は僅かに数千尺――山は高くないが名が高い。米沢の吾妻山なんて、山も高くない、名も高くない……いったい、その吾妻山なるものの高さは、何尺あるのだ」

「そりゃあ、議論をすれば際限がないが、そう聞かれて、左様に出て来るのは豊臣秀吉さ――秀吉が日本に於ける古今第一の英雄だということは、まあ、富士が第一の高山だというのと同じように、相場になっている」
「その通り。そこで、拙者は、もう少し深く突込んだ意味で、端的に、日本第一の画家を狩野永徳だと答えるのだ」

「異人は、何でもすることが大きいのね」
「うむ……あいつらの船を見ただけでもわかる、いまいましい奴等だ」
「そうしてまた、いちばん高いところへ登ると、上総、房州から、富士でも、足柄でも、目通りに見えるんですとさ」

「大菩薩峠」(三二)弁信の巻
幸いにして海はいくら見てもいやだとは言わない、見たければまだまだ奥があります、際限なくごらん下さい、とお銀様をさえ軽くあしらっている。山はそうではない、我が故郷の国をめぐる山々、富士を除いた山々は、みんな、こんなとぼけた面をしてわたしを見ることはない。奥白根でも、蔵王、鳳凰、地蔵岳、金峯山の山々でも、時により、ところによって、おのおの峻峭(しゅんしょう)な表情をして見せるのに比べると、海というものはさっぱり張合いがない――

「それとこれとは違いますよ、硫黄岳、焼ヶ岳もずいぶん、噴火の歴史を持っているにはいますが、何しろ土地がこの通りかけ離れた土地ですから、人間に近い浅間山や、富士山、肥前の温泉(うんぜん)、肥後の阿蘇といったように世間が注意しません」
「神主さん、我々は噴火の歴史と地理を聞いているのじゃありません、この震動が安全ならば、何故に安全であるか、という理由を説明してもらいたいのです」


「大菩薩峠」(三五)胆吹の巻
臥竜山(がりゅうさん)の山上にもう一つ秀吉の横山城――それから佐々木六角氏の観音寺の城、鏡山、和歌で有名な……鏡の山はありとても、涙にくもりて見えわかず、と太平記にもある、あれだ。それから三上山(みかみやま)、近江富士ともいう、田原藤太が百足(むかで)を退治したところ――浅井長政の小谷(おだに)の城、七本槍で有名な賤(しず)ヶ岳たけ。うしろへ廻って見給え、これが胆吹の大岳であることは申すまでもあるまい。


「大菩薩峠」(三七)恐山の巻
右のお婆さんの語るところによると、鳩ヶ谷の三志様という人は、武州足立郡鳩ヶ谷の生れの人であって、不二講という教に入って、富士山に上り、さまざまの難行苦行をしたそうです。
ところが、そのうち、お釈迦様と同じように、こういう難行苦行だけが本当の人を救う道ではござるまい、誰かもう少し本当の道を教えてくれる人はないか――それから師を求め、道をとぶろうて修行して、まさにその道を大成したということです。

それがもう、一度や二度のことじゃございませんよ、何百回となるか数えきれないほどでござんしてね。それから、富士のお山へ登りまして天下泰平五穀豊年のお祈りをすることが百六十一度でございました。が、天保十二年の九月に七十七歳でお亡くなりになりました。

「中興の食行様(じきぎょうさま)は、江戸の巣鴨に住んで、油屋を営んでおいでになりました。富士のお山の麓には、食行様が立行(りつぎょう)というのをなさった石がございます、その石の上へ立ったままで御修行をなさいましたので、石へ足の指のあとがちゃんと凹(くぼ)んでついているのでございますよ。食行様は御一生の間に、富士のお山へ八十八回御登山をなさいました、そうしていつも、自分の家業は少しも怠らず、常に人に教えて『半日は家業に精出せ、半日は神様におつとめをするように』と申されました、そこで信徒たちにも『信心のあまりにも、家業を怠けるようなことがあってはならぬ』と教えて、御自分も教主の御身でありながら、油売りをおやめになりません、その油を売る時も、桝の底から周囲(まわり)まで竹箆(たけべら)で油をこすり落して、一滴たりとも買い手の利益になるように商売をなさいますので、人々がみな尊敬いたしました。こうして食行様は、享保十八年に富士の烏帽子岩にお籠りになって、そこでこの世を終りなさいました」

十八の時、お家をお出になりまして、あまねく名山、大川、神社仏閣の霊場めぐりをなさいまして、最後に富士のお山へおいでになりました。ここぞ御自分の畢生(ひっせい)の御修行場と思召して、お頂上、中道(ちゅうどう)、人穴、八湖、到るところであらゆる難行苦行をなさいました、それからいったんお国許へお帰りになりまして、また再び富士のお山の人穴に籠って大行をなさいました。

それをはじめて知って、角行様は大願成就とお喜びになりました。それが御縁で角行様は、この富士のお山こそ御国のしるし、御国はまた万国のしるし、取りも直さず富士のお山は、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高産霊神(たかみむすびのかみ)、神産霊神(かみむすびのかみ)の御三体の神様の分魂(わけみたま)のみましどころであるということを、御霊感によって確然とお悟りになり、そこで、この富士のお山こそ天地の魂の集まり所であると、こうお開きになり、天地の始め、国土の柱、天下国治、大行の本也(もとなり)、とお遺言なさって、正保の三年に、富士の人穴で御帰幽なさいました

そこで富士の霊山こそは、日本の国の秀霊であって、それと同じように、日本の国は万国の秀霊であるということの信仰。富士山こそは天下泰平国土安穏の霊山であるから、この霊山を信じ、祈ることによって、国家安穏の大願が成就する。

与八は、いちいちそれを頷いて聞いている。それからお婆さんは、自分の今度の旅行も、この故に富士山へ登山参詣をして来たその戻り道であるということを聞かされて、与八もこれには実際的に多少の驚異を感じたようです。というのは、七十以上のお婆さんの身で、真夏でもあれば知らぬこと、もう晩秋といってもよい時分に、単身で富士登山をしての戻り道だということを聞かされてみると、与八も鈍感な頭をめぐらして、このお婆さんの、皺(しわ)くちゃな身体を見直さないわけにはゆきませんでした。

それから右のお婆さんは、与八にお礼を言って、自分は信州飯田の者である、右のような次第でお富士さんへ参詣して来たが、これから故郷の信州飯田へ帰る、お前さんもどうか、そのうち都合して、ぜひ飯田まで遊びに来て下さい、飯田へ来て松下のお千代婆さんと言えば、直ぐわかる。

お婆さんは、自分のかぶっていた菅笠(すげがさ)を、与八のためにと言って残した。その笠には、富士のお山のおしるしもあれば、お婆さんの故郷、信州飯田――池田町――松下千代と書いてある。

「あっ!」
 二人の目を射たものは、真上に仰ぐ富士の高嶺の姿でありました。雪を被(かぶ)って、不意に前面から圧倒的に、しかも温顔をもって現われた富士の姿を見ると、お婆さんは真先にへたへたとそこに跪(ひざまず)いて、伏し拝んでしまいました。与八は土下座こそしなかったが、思わず両手を胸に合わせ拝む気になりました。
甲斐の国にいて富士を眺めることは、座敷にいて床の間の掛物を見るのと同じようなものですが、大竹藪を突抜けて来て、思いがけない時にその姿を前面から圧倒的に仰がせられたために、二人が打たれてしまったのでしょう。
お婆さんが山岳の感激から醒(さ)めて立ち上った時に、程近い藪の中から、真白い煙が起り、そこで人声がしましたものですから、とりあえずそちらの方へ行ってみることにしながら、お婆さんは、富士の姿を振仰いでは拝み、振仰いでは拝みして行くうちに、与八は早くもその白い煙の起ったところと、人の声のしたところへ行き着いて見ると、そこには数人の人があって、ていねいにお墓の前を掃除をし、その指図しているところの、極めて人品のよろしい老人が一人立っている。

富士を拝み拝み、たどり着いたお婆さんは、この人品のよい老人を見ると、恭(うやうや)しく頭を下げ、
「これはこれは徳大寺様――」

「では、知らねえ人だね」
「はい、信州の飯田というところのお婆さんで、お富士さんを信仰なさるのだということだけは聞きましたが」

松下千代女(すなわちお婆さんの本名)は信州飯田の池田町に住んでいる。鳩ヶ谷の三志様、すなわち富士講でいう小谷禄行(おたにろくぎょう)の教えを聞いてから、熱烈なる不二教の信者となり、既に四十年間、毎朝冷水を浴びて身を浄め、朝食のお菜(かず)としては素塩一匙(さじ)に限り、祁寒暑雨(きかんしょう)を厭わず、この教のために働き、夫が歿してから後は――真一文字にこの教のために一身を捧げて東奔西走している。その間に京都へ上って皇居を拝し、御所御礼をして宝祚万歳(ほうそばんざい)を祈ること二十一回、富士のお山に登って、頂上に御来光を拝して、天下泰平を祈願すること八度――五畿東海東山、武総常野の間、やすみなく往来して同志を結びつけ、忠孝節義を説き、放蕩無頼の徒を諭(さと)しては正道に向わしめ、波風の立つ一家を見ては、その不和合を解き、家々の子弟や召使を懇々(こんこん)と教え導き、また、台所生活にまで入って、薪炭の節約を教えたり、諸国遊説(ゆうぜい)の間に、各地の産業を視察して来て、農事の改良方法を伝えたりなどするものですから、「女高山」という異名を以て知られるようになっている。

してまた、一方の徳大寺様というのはいかに、これこそ、まことに貴い公家様でござって、女高山の婆さんは、エライといっても身分としては、信州飯田の一商家の女に過ぎないが、徳大寺様ときた日には、畏多(おそれおお)くも天子様の御親類筋で、身分の高いお公卿様でいらっしゃる。今は富士教に入って、教主の第九世をついでおいでになる。
ということを富作さんが、与八と、もう一人のお百姓にくわしく語って聞かせたところから、与八は、では、この山県大弐様もやっぱり富士講の仲間でいらっしゃるのか、とたずねると、富作さんが首を烈しく左右に振り、
「違う、全く違う――山県大弐様という人はな……」

山県大弐というのは、富士講の信者じゃねえです、あれは武田信玄公の身内で、有名な山県三郎兵衛の子孫でごいす、先祖の山県三郎兵衛は武田方で聞えた勇士だけれど、山県大弐はずっと後(おく)れて世に出たもんだから、戦争もなし、勇武で手柄を現わしたわけじゃねえのです、学問の方で大した人物でごいした、勤王方でしてね。


「大菩薩峠」(四〇)山科の巻
与八は、この土地に居ついた心持になりました。このところ、甲州有野村、富士と白根にかこまれた別天地――ここに於て、わが生涯が居ついたという感じが出ると共に、安定の心が備わりました。そこで、居る時は即ち安心、出づる時は即ち平和であります。