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富士山の歴史年表

※追加中です(最新追加2007年7月)。
※コメントで追加・修正項目をいただけると幸いです。

約70万年前 小御岳火山の誕生。(C)
約10万年前 この頃までには小御岳火山の活動が終了。(D)
約8万年前 古富士火山が活動開始、激しい爆発型噴火。(C)(約10万年前,D)
約1万1千年前 多量の溶岩を噴出するタイプに変化。(C)(新富士火山の誕生:ステージ1,D)
約9千年前 静穏な時代に入る。(C)
約8千年前 この頃から山頂火口から小規模な降下テフラが断続的に噴出:ステージ2。(D)
約5千年前 噴火活動の再開、新富士火山誕生。(C)
約4500年前 この頃から山頂や北西〜南東山腹から小・中規模の降下テフラが断続的に噴出:ステージ3。(D)
約3200年前 この頃から山頂から比較的大規模の降下テフラが断続的に噴出:ステージ4。(D)
紀元前286(孝霊5)? 一夜で琵琶湖ができ、富士山が誕生した伝説。(C)
紀元前約200年 山頂での最後の噴火。この頃から山腹から小規模の降下テフラや溶岩が断続的に噴出:ステージ5。(D)
紀元前27 浅間大神が山足の地に祀られ(浅間大社の起源)、山霊が鎮められた(という伝説)。(J)
110頃 皇子日本武尊が蝦夷征伐のときこの地を訪れ、現在の須山浅間神社を創起した(と伝えられる)。(M)
552(欽明13) 蘇我稲目が現在の須山浅間神社を再興。(M)
699 富士山での開創伝説がある役行者(役小角)が伊豆に流される。(「続日本紀」,D)
700頃 「柿本集」に噴煙の記述(C)
720頃 噴火?(「万葉集」,C)
781 噴火による降灰で植生に被害の記録(続日本紀,D)
788(延暦7) 北口本宮冨士浅間神社が現在地に遷座される。(M)
800(延暦19) 延暦の噴火(=富士山の3大噴火、C)。平安末期の「日本紀略」の中に抄録。(D)
802(延暦21) 噴火。砕石により塞がれた足柄路が捨てられ、代わって箱根路が開かれる。(D)
803 足柄路が復旧。(D)
806 坂上田村麻呂が山宮から移し、現在地の富士山本宮浅間大社となった(と伝えられる)。
807(大同2) 802年の噴火の鎮火祈願を行った須走の斎場跡(現在の須走浅間神社の地)に、社殿が造営された(と伝えられる)。(M)
826 噴火(C)
864(貞観6) 866年にかけ貞観の噴火(=富士山の3大噴火、C)。青木ヶ原溶岩の噴出し、現在の西湖と精進湖が誕生。「日本三代実録」に記載。(D)
865(貞観7) 河口浅間神社が富士山噴火を鎮めるために創建された(とされる)。(M)
870 山頂で小噴火。(C)
877 この頃に都良香が「富士山記」を著す。(D)
907(延喜7) 駿河富士明神が従二位を授かる。(L)
932 噴火、浅間神社消失。(C)
937(承平7) 噴火。「日本紀略」に記録。(C,D)
937(承平7) 小御岳神社(小御岳石尊大権現)創建と伝えられる。(H)
952 噴火。(C)
958(天徳2) 吉田口登山道二合目の冨士御室浅間神社の里宮が河口湖畔の現在地に建立される。(M)
981(天元4) 平兼盛が須山浅間神社を修理。(M)
993 噴火。(C)
999 噴火。神祗官及び陰陽寮に噴火について占わせる。(C,D,L)
1017 噴火。(C)
1020 「更級日記」に火山活動の記述。(D)
1033 噴火。(C,D)
1069(延久元) 現存する最古の富士山の絵とされる「聖徳太子絵伝」が製作される。(G)
1083 噴火。「扶桑略記」に記録。(C,D)
1149? 駿河の末代上人により、山頂に仏閣が建てられる。(C)
1223(貞応2) 北条義時が駿河富士浅間社を造替、遷宮の儀を行う。(L)
1223(貞応2) 北口本宮浅間神社に北条義時が東宮本殿(浅間本社、冨士権現とも)を浅間本社として創建。(M)
1251(建長3) 幕府は富士山の雪を貢進させることを止める。(L)
1331(元徳3or元弘元) 地震で山頂崩れる。(C)
1333(元弘3) 富士浅間社に下島郷地頭職が寄附される。(L)
1334(建武元) 富士浅間社に駿河富士郡上方が寄附される。(L)
1435 噴火。「妙法寺記」に記録。(D)
室町時代 式部輝忠が「富士八景図」を描く。(G)
1500(明應9) 関東の乱により、富士登山は須走口が使われる。(L)
1511 噴火。「王代記」に記録。(C,D)
1561(永禄4) 北口本宮浅間神社の東宮本殿について、現在の社殿が武田信玄の川中島の戦い戦勝祈願のために、浅間本社として新たに造営。
1560 噴火。(C)
1594(文禄3) 北口本宮浅間神社の西宮本殿(重文)が建立される。(M)
1604(慶長9) 徳川家康が浅間大社の本殿造営に着手、2年後に完成(といわれる)。(M)
1606(慶長11) 河口浅間神社本殿消失、翌年再建。(M)
1612(慶長17) 冨士御室浅間神社の現在の本殿(重文)が吉田口登山道二合目に建立される。昭和48年に里宮に移築。(M)
札から明らかになっており、里宮である現在地へは昭
和48 年に移築された。
1615(元和元) 北口本宮浅間神社の本殿(重文)が建立される。(M)
1646(正保3) 富士講の基礎をつくった長谷川角行が106歳で人穴(富士宮市)において死去(と伝えられる)。
1697(元禄10) 河口浅間神社の鳥居が再建され、現在に伝わる。(M)
1700 噴火。(C)
1703 元禄関東地震。4年後の宝永東海・南海地震とともに、宝永噴火に関連があるという説。(D)
1707 宝永の噴火(=富士山の3大噴火、C)。宝永東海・南海地震の49日後に始まる。(D)
1708 全国に救済・復興費用を賦課。駿河・相模の被災地の一部を幕府直轄化。(D)
1718(享保3) 宝永噴火でで崩壊した須走浅間神社の社殿が再建され、現在まで続く。(M)
1727(享保12) 最初の測量記録。福田(姓のみ記録あり)氏が吉原から実施したもので、3895m相当。
1733(享保18) 食行身禄(伊藤伊兵衛)が7合5勺の烏帽子岩で入定。
1742(寛保2) 「御水」(富士の加持水=山頂金明水・銀明水)の流通が禁止となる。
1743 荘田子謙 「芙蓉之図」出版。(K)
1760(宝暦10) 池大雅が登山し、白山・立山を含む「三岳紀行図」を製作。彼の登山は1748・1761にも。(G)
1767 河村岷雪の絵「百富士」が出版される。(G)
1775(安永4) 大宮口(現在の富士宮口)と須走口が山頂の権利争いをする。(I)
1779(安永8) 幕府が各登山口の代表を呼び、8合以上は浅間神社の社有との裁決を出す。(I)
1780(安永9) 宝永噴火で廃道となった須山口が復興。(H)
1781−1786 この間に、狩野養川惟信が「富嶽十二ヶ月図巻」を描く。(G)
1790 加茂季鷹 「富士日記」出版。(K)
1795(寛政7) 水戸藩士の小泉壇山が「富士山真状」を描く。初の頂上図か。(G)
1795(寛政7) 富士講と号して奉納物を建立したり、行衣や数珠を用いたり護符を出したりすることを禁止とする触書がでる。
1799 契沖 「富士百首」出版。(K)
1803 和久田叔宮 「富士雪譜」出版。(K)
1803? 伊能忠敬が標高を測量推定。3928m相当。
1805 林呂亮 「富士山記」出版。(K)
1817 高田与清 「富士根源記」出版。(K)
1821(文政4) 野呂介石が「紅玉芙蓉峰図」を描く。赤富士を描いた最初の絵か。(G)
1822(文政5) 十返舎一九 「大山廻り富士詣」出版。(K)
1822(文政5) 大石周我 「山王真杉」出版。(K)
1823(文政6) 須山浅間神社の本社が再建される。(M)
1826 シーボルトが富士川で山頂高度角を測定。8度44分。
1827 羽倉簡堂 「陞山麩拭彌佝如(K)
1828 原義胤 「富士詣行李之友」出版。(K)
1828 二宮敬作が頂上で気圧観測により富士山頂標高を3794.5mと推定。
1828 山田貞実 「芙蓉奇観」出版。(K)
1831−33(天保2−4) 葛飾北斎の「富嶽三十六景」が発売される。(G)
1831 大森快庵 「不二紀行詩」出版。(K)
1832 高山たつが女性による最初の登頂。
1834 内田恭(五親)が標高測定。3475.7m。
1843 桑門在融 「快玆日記」出版。(K)
1845 小泉檀山 「富嶽写真」出版。(K)
1846 栗本鋤雲 「登嶽日記」出版。(K)
1847(弘化4) 月三講の長島泰行が「富士山真景之図」を製作。本人の画や信者の文書などをまとめたもの。山頂の表現「心字富士」が描かれたのはこれが最初かも。(G)
1852 狩野永岳が「富嶽登龍図」を描く。(G)
1854 安政の東海大地震 噴火口内が主体だった地熱地帯が、火口東縁の荒巻(伊豆ヶ嶽・成就ヶ嶽の間)に移動したきっかけになったという説。
1857(安政4) 浮世絵師歌川貞秀が錦絵「大日本富士絶頂図」を製作。(G)
1860 西欧人の登山 ラザフォード・オールコック英公使一行8名が、9月11(旧暦7月26?)日に登頂。ペリーの来航から7年にして、西欧人の最初の登山者。当時のイギリス公使。同行の印度海軍ロビンソン大尉(中尉?)が山頂で測量。高度4322m。植物学者のウィリアム・フッカー、園芸商ジョン・グールド・ヴィーチなども同行しシラビソなどを採取、本国に送る。
1860 幕府による裁許 8合目より上が浅間大社の境内と認められる。
1860 仮名垣魯文 「滑稽富士詣」出版。(K)
1867 西欧人女性の最初の登頂。パークス夫人。当時のイギリス公使夫人。
1868(明治元) 明治改元で神仏分離令施行。外輪山の名称変更や、大日堂(?)の建物が浅間大社奥宮に変わる。山頂の仏像・仏具類が一掃される。富士講は神道化。同年、アーネスト・サトウ(Sir Ernest Maison Satow)が村山口から登頂。
1871(明治4) 政府は御師制度を廃止する。(I)
1872(明治5) 政府は女人の富士登山を解禁する。(I)
1872(明治5) 政府は修験道廃止令を施行。山麓の浅間神社などに影響。
1873(明治6) 山頂で高度を測定(その2) 米国人クラークによる。
1873(明治6) お中道の大沢休泊所はが官許を得る。(H)
1874(明治7) 小御岳神社が火災で焼失。(H)
1875(明治8) ドイツ人植物学者デーニッツが山頂で植物採集。同年、英人教師モンタギュー・フェントンが、田中館愛橘などを引率して登頂。
1876(明治9) 山本長五郎(清水の次郎長)が南麓で開墾を始めるが、水もなく離脱者が多く頓挫。
1876(明治9) 小御岳神社の本殿・拝殿が再建される。(H)
1877(明治10) 土屋勝太郎が「富士之栞」を著す。(H)
1880(明治13) 荒巻地熱の記述 木野戸勝隆が「富士山頂独(ひとり)案内」を執筆。荒巻における地熱を最初に記した文献とされる。
1880(明治13) 初めての本格的な気象観測 "東大物理学科の米国人、トマス・メンデンホール(Thomas Carwin Mendenhall 1841-1924)が、田中館愛橘、東京気象台中村精男らとともに山頂に3日(4日?)間滞在。気象観測(隈本有尚が担当)や重力測定、天体観測や測量など、各種実験。このとき、標高3778mと算出。 (E)
1880(明治13) メンデンホールとW.S.チャプリンが理科大学紀要にそれぞれ「東京と富士山頂における重力測定」、「富士山の高さについて」を著す。(E)
1883(明治16) 御殿場口の原型完成。東海道線開通を見越して「富士山東表口」が地元によって拓かれる。
1887(明治20) 9月、ドイツ人エルヴィン・クニッピングが中央気象台の正戸豹之助と須走口頂上で気象観測。 (E)
1889(明治22) 富士山頂久須志岳の石室で中村精男ほか2名が、山中湖畔では近藤久治朗が38日間、初めて正式な気象観測を開始。
1889(明治22) 東海道線開通で御殿場駅や佐野駅(現在の裾野駅)開業 。東表口(現在の御殿場口)の起点が御殿場駅となる。佐野駅には須山口の案内看板が設置される。(I)
1890(明治23) ウォルター・ウェストンの登山 日本アルプスの父といわれる英国人。翌年12月、厳冬期の登山も。
1895(明治28) 中央気象台が久須志岳で夏季富士山頂気象観測を続ける。 定期的な夏季気象観測の開始。
1895(明治28) 野中至は山頂剣が峰に観測所用建物を建設し、10月から初の冬季気象観測を開始。しかし、至、千代子夫人共に病気となり、越冬ならず12月にやむなく下山。東京地学協会の「地学雑誌」(Journal of Geography)に「寒中の富士登山」掲載。
1896(明治29) 野中氏の報文発表 「地学雑誌」8〜10月号に、「富士山気象観測報文」を連続執筆。
1898(明治31) ラフカディオ・ハーンの登山 小泉八雲(ギリシャ生まれ?の)アメリカ人。
1898(明治31) 富岡鉄斎が屏風「富士山図」を製作。
1899(明治32) 富士・愛鷹両火山についての、最初の地学的調査の報告(震災予防調査報告第24号,平山武)。(C)
1900(明治33) 観測事業の提言 野中至が「地学雑誌」5・7月号に「富士観象事業に付て」を執筆。
1901(明治34) 筑波山 (筑波山頂に気象観測所が建設される。初代所長は佐藤順一)
1907(明治40) 佐藤順一、気象集誌に論文「日本の高山観測」を発表。
1909(明治42) 陸軍滝ヶ原廠舎設置に伴う軍用道路開設で、御殿場駅から山頂に至る現在の御殿場口登山道ルートとなる。
1909(明治42)? 日本初スキー? オーストリア人商社員クラッツェルが山腹太郎坊でスキーを行う。御殿場口駐車場に看板あり。
1911(明治44) 日本スキーの父といわれるオーストリア人、テオドール・フォン・レルヒが御殿場口8合目付近までスキー登山。(K)
1912 レルヒが初めての山頂よりスキー滑降。
1916(大正5) 須走口登山道が改修され、馬上での登山が可能となる。(M)
1922(大正11) 伊豆ヶ嶽に噴気 関東大震災後にいち早く沼津測候所の技手が登山、石室の大きな被害と新たな噴気を記録。
1923(大正12) 山頂で天気予報 摂政宮の登山。中央気象台技師の国富信一が山頂で天気予報を行う。
1924(大正13) Frederick Starrが、富士山を総合的にまとめた初の洋書"FUJIYAMA:The Sacred Mountain of Japan"を出版。(G)
1925(大正14) 7月、油屋熊八の考案した別府温泉のキャッチコピー「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」の標柱が山頂に設置される。
1926 標高3776mに 最初の測量記録は享保12(1727)年に福田(姓のみ記録あり)氏が吉原から実施したもので、3895m。
1927(昭和2) 佐藤順一が東京自動車学校鈴木靖二校長の寄付を得て観測小屋(佐藤小屋)を山頂東安河原に完成。設立者鈴木の「富士気候観測所」と中央気象台の「臨時富士山観測所」の2枚の看板が掲げられる。8月1日観測開始、9月末まで。(E) 気象観測は昭和6年(1931)まで続いた。
1927 富士山の山雲を研究する阿部正直が、御殿場市に私設の研究所として「阿部雲気流研究所」を開設。
1928(昭和3) 佐藤順一は7月1日から9月末まで山頂気象観測。(E)
1928−29 浅間神社編纂の「富士の研究」全6巻が刊行される。(H)
1929(昭和4) 鈴木靖二が中央気象台に山頂の観測小屋を寄付、富士気候観測所の看板は下ろされる。
1929(昭和4) 山頂では7〜9月に気象観測。7月11日〜8月28日に、山頂から警察の有線電話を介して中央気象台・沼津測候所に気象通報。NHKの気象通報に乗せ、関東各駅前には10時の気象状況を掲示。沼津では山頂の気象予報を実施。中央気象台では雷雨予報への利用を試行。(E)
1930(昭和5) 富士岳麓鉄道(現在の富士急行)が大月〜富士吉田間に鉄道を開業。
1930(昭和5) 1月から2月にかけ強力梶房吉の協力を得て佐藤順一が冬季山頂滞在観測。
1932(昭和7) 第二極年国際協同観測の一つとして山頂東安河原に「中央気象台臨時気象観測所」を設立、通年観測を開始。
1934(昭和9) 富士山頂での気象観測の原案を日本学術振興会で議論。第二極年観測後の観測を三井報恩会の援助で継続。
1935(昭和10) 剣が峰への観測所移築費が国会で認められ、国家予算として山頂の気象観測の経常費がつく。
1935(昭和10) 元貴族院議員の山崎亀吉によるケーブルカー計画。内務省により却下。昭和35・38年にも別のケーブルカー計画。
1936(昭和11) 「中央気象台富士山頂観測所」が山頂観測所の正式名称となり、山頂剣が峰に新庁舎を建設し移転。
1936(昭和11) 富士箱根伊豆国立公園の指定。
1937(昭和12) 東安河原の旧庁舎を剣が峰に移設し、観測所の3号庁舎とした。
1940(昭和15) 山頂庁舎の4号庁舎を庁舎南側に増設。
1941(昭和16) 観測所の御殿場基地事務所が開所。
1942(昭和17) 太郎坊避難所設置 御殿場口太郎坊に山頂勤務支援のための避難所を設置。
1944(昭和19) 観測所職員今村一郎が殉職 4月、交替登山中に吹雪のため道を失い、4合目付近で殉職。享年19。
1944(昭和19) 12月3日に山頂空襲。翌年の7月30日(3名軽傷)、8月13日にも。
1944(昭和19) 逓信院は東安河原の観測所避難所を東京―八丈島間の無線中継所として送電線を布設。観測所にも分電した。
1946(昭和21) 観測所職員小出六郎が殉職 12月、登山中の交代班員を迎えに行き、9合目付近で滑落。享年28。
1948(昭和23) 山頂観測所の所掌が三島測候所から分離・独立。
1948(昭和23) 第1回「富士山登山競争」が開催される。
1949(昭和24) 山頂観測所の名称変更で「富士山観測所」に改名。
1949(昭和24) 12月21日、富士宮口8合で雪崩、2名負傷。(B)
1950(昭和25) 3月7日、御殿場口4合目で雪崩、山小屋流出。(B)
1950(昭和25) 観測所が「富士山測候所」に昇格。
1951(昭和26) トヨタ「ジープBJ」(ランドクルーザーの原型)が6合目まで登坂テスト。(Q)
1952(昭和27) 吉田口中ノ茶屋周辺のレンゲツツジとフジザクラの群落に対して天然記念物指定。
1953(昭和28) 3月11日、吉田口7合で雪崩、山小屋数軒が全壊。(B)
1954(昭和29) 2月27日、御殿場口4合で雪崩。山小屋流出。(B)
1954(昭和29) 11月28日、吉田大沢9合下(7合?)で新雪表層雪崩。東大・日大・慶大などの雪上訓練者40名を巻き込み15名死亡、16名負傷。(A,B)
1957(昭和32) 3月、「富士山頂超短波放送実用化試験局」の免許申請書が東海大学理事長の松前重義名義で提出される。(O)
1957(昭和32) 浅間大社が訴訟 明治維新で強制的に国有地化されていた8合目より上の、国に対する返還訴訟。
1958(昭和33) 2月26日、測候所職員長田輝雄が殉職。御殿場口7合目付近で勤務登山中に突風に飛ばされる。享年59。
1958(昭和33) 地下水利用のため、富士綜合開発が大宮口1合付近に全長2017mの横穴を掘削開始する。しかし水は出ず、昭和36(1961)年に中止。後に東大地震研が利用。
1958(昭和33) 12月22日、吉田口本八合目付近で千葉水道局・三菱銀行員の2名が滑落死。(N)
1959(昭和34) 4月23日、北海道の高橋一夫氏が吉田口頂上鳥居直下で滑落死。(N)
1959(昭和34) 1月30日、御殿場口3合で雪崩。山小屋流出。(B)
1959(昭和34) 伊勢湾台風来襲 9月。富士山レーダー設置の契機となる。
1960(昭和35) 北アルプス白馬岳で捕獲したライチョウを富士宮5合目付近に放鳥するが、1971年に絶滅を確認。
1960(昭和35) 長田尾根安全柵建設 寄付により御殿場口上部の長田尾根に安全柵建設が始まる。
1960(昭和35) 11月19日、吉田大沢で新雪雪崩。早大・理科大山岳部など55名流され10名死亡、29名重傷。(A,B)
1961(昭和36) 5月4日、吉田口7合鎌岩付近で雪崩。日立川崎工場山岳部が巻き込まれ、2名負傷。(B)
1961(昭和36) 12月3日、吉田大沢8合屏風岩付近で雪崩。2名負傷。(B)
1963(昭和38) 予算がつき、富士山レーダーの設置が決定、機器の製作、レーダー塔の建設、庁舎の改装を開始。
1964(昭和39) 富士スバルライン開通。観光登山客の急激な増加をもたらす。
1964(昭和39) 富士山レーダー完成。実用化試験局として運用開始。 気象観測の通報は気象テレメーター装置による通報となり、大半の観測が自動化。
1965(昭和40) 富士山レーダーが陸上標定局の正式承認を受け正式運用開始。東京で式典、10円の記念切手発行。
1966(昭和41) 羽田発香港行きBOAC機が御殿場口太郎坊に墜落。124名全員死亡。
1966(昭和41) 表富士周遊道路全面開通 2月。
1966(昭和41) 阿部正直 没。(F)
1967(昭和42) 1957年に提訴された山頂の土地所有権訴訟において、最高裁で大社側勝訴。
1967(昭和42) 11月3日、吉田口9合付近で雪崩。2名負傷。(B)
1967(昭和42) 11月23日、吉田大沢7〜8合及びツバクロ沢の大雪崩。富士全体の積雪量は少なかった。(A)
1967(昭和42) 大沢崩れ対策の始動 参院予算委で大沢崩れ下流の土石流の問題が指摘され、国が砂防対策へ動き出す。
1967(昭和42) 測候所が雪上車導入。交替登山職員の負担軽減に大きく寄与。
1970(昭和45) 測候所山頂庁舎改築工事開始 レーダー塔及び電源室である4号庁舎以外すべて取り壊して新築。
1970(昭和45) この頃まで山頂や一部山麓では地熱活動が活発であった。(D)
1970(昭和45) 映画「富士山頂」公開。
1972(昭和47) 3月20日、御殿場口2.5合で大雪崩。清水労山・清水頂山岳会など巻き込まれ24名死亡。(B)
1973(昭和48) 測候所山頂新庁舎完成 2号・3号の新庁舎が完成。2階建てのかまぼこ型で、外壁はアルミニウム合金製となった。日本で数少ないアルミ建築。
1973(昭和48) 山頂の電力使用量増大に伴う測候所送電線更新。工事完成後、6.6kV高圧送電の火入れ式挙行。
1976(昭和51) 9月、擬似衛星用実験無線局が山頂に開設され、東京−名古屋間で通信実験。(P)
1977(昭和52) この年からお中道の大沢は通行禁止。(G)
1977(昭和52) 5月11〜12日にお中道大沢で中原万次郎氏が遭難。14日遺体で発見。この後、大沢にてお中道が通行禁止となる。(H)
1978(昭和53) 富士山レーダー更新 デジタル処理を採用、地形エコー除去機能の追加。
1978(昭和53) 測候所気象テレメータ更新
1980(昭和55) 測候所職員福田和彦殉職 4月、観測勤務中に火口に滑落。享年26。
1980(昭和55) 5月2日、吉田口8合屏風岩付近で雪崩、横須賀山岳会の2名負傷。(B)
1980(昭和55) 8月14日、久須志岳直下の岩が崩落し岩屑なだれ、吉田大沢で死者12名、負傷者31名。事故後に下山道のルート変更。
1981(昭和56) 11月2日、吉田口9合付近で雪崩。電気代・埼玉大山岳部を巻き込み4名負傷。(B)
1984(昭和59) 富士山レーダーのデジタル化本運用 カラー画像やデジタルデータの伝達など。
1987(昭和62) 有感地震 山頂では稀な有感地震を4回記録。
1988(昭和63) 最高齢登頂記録 五十嵐貞一が103歳で登頂。浅間大社が記録する最高齢記録。
1992(平成4) セスナ機が火口に墜落 6月6日、小型セスナ機が山頂火口に墜落。3人全員死亡。
1993(平成5) 標高の変更 山頂2等3角点の標高が、従来の計測より66cm低いことが判明。メートル単位での3776に変更無し。
1993(平成5) 風穴の汚損 天然記念物の風穴内で、フジテレビの番組収録中に発泡スチロールで汚損。翌年発覚。
1997(平成9) レーダー廃止決定 。
1999(平成11) 平成11年11月1日にレーダー廃止。前日にスノーボーダーが火口内に滑落、職員により救助。
2000(平成12) 2001年にかけ、深部低周波地震をの増加現象。(D)
2001(平成13) 三島測候所無人化 初冠雪の通報業務廃止。
2003(平成15) 無人化の発表 平成16年夏季をもって富士山測候所を(夏期以外)無人化すると気象庁が発表。
2003(平成15) 河口湖測候所無人化で、山梨側の初冠雪観測は甲府地方気象台からのみとなる。

参考資料:
(A)日本登山学校編,「気象ハンドブックシリーズ 山の気象と観天望気」,1970,日本文芸社
(B)新田隆三,「改定増補版 雪崩の世界から」,1986,古今書院
(C)諏訪彰編「富士山 その自然のすべて」,1992,同文書院
(D)内閣府中央防災会議「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書」,2006
(E)気象百年史及びその資料編,気象庁,1975
(F)富士山測候所−日本の気象観測を支えた人々−
(G)富士信仰研究会,「富士信仰研究第2巻」,2001,岩田書院
(H)富士信仰研究会,「富士信仰研究第3巻」,2002,岩田書院
(I)富士信仰研究会,「富士信仰研究第4巻」,2003,岩田書院
(J)浅間大社HP
(K)安川茂雄,「近代日本登山史(増補版)」,1976,四季書館
(L)東大編年史料綱文データベース,東大史料編纂所
(M)富士山世界文化遺産暫定リスト提案書,静岡県,2006
(N)山本三郎,富士山の気流と登山ルート,天気,1962
(O)Wikipedia, 「FM東海」
(P)JARL年表
(Q)トヨタHP