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加藤道夫

「なよたけ」
衛門 今時分でも頂上には雪が積っているのだそうですね?
綾麻呂 積っている。……儂(わし)がここへ赴任して来た当時は半分から上は純白の雪に蔽(おお)われていた。……この長雨で、あるいは幾らか溶けてしまったかもしれんが、……ま、いずれ雲が晴れてみれば分る。……玲瓏と云うか崇厳と云うか、とにかく、あれは日の本の秋津島の魂の象徴だ。……儂はもう文麻呂の奴に早くみせてやりたくてな。
衛門 手前だって早く見とうござります。
綾麻呂 いや何も別にお前には見せないと云うわけではない。ただあの不甲斐ない息子が一時も早く迷いの夢から覚めてくれれば、と思っているのだ。あの崇厳な不尽ヶ嶺の姿をみれば、少しは気持が落着いてくれるだろう。……全く、あいつは不甲斐のない男になってしまったものだ。

急に、雨雲が晴れ渡って、太陽が燦々と輝きはじめた。
衛門 おう! 旦那様! あれは不尽山ではございませんか! あれは不尽山ではございませんか! (前方右手を指さしている)
綾麻呂 うむ! そうだ! あれが不尽の山だ! あれが不尽の山だよ! (空を仰いで)おお、それにしても何と云う不思議だ! つい今しがたまで、あのように鬱陶(うっとう)しく立ちこめていた雨雲が、いつの間にやら、まるで嘘のように跡方もなく晴れ渡ってしまったではないか?……それに、どうだ! 衛門! 今日の不尽は嘗(かつ)て見たこともない神々しさだぞ! こんな荘厳な不尽を見るのは儂も初めてだ! 見ろ! あの白銀(しろがね)に燦(きら)めく頂きの美しさを!……おう! 後光だ! あれはまるで神の後光だ!
いつの間にか、文麻呂が向う側から丘の中腹に姿を現わして、輝やかしい瞳でじっと不尽山をみつめながら、立っている。丘の上の二人は気が付かない。舞台右手奥の方にも遠い連山が見え始める。

綾麻呂 (遠く不尽を望みながら、朗々と朗誦し始める)……
天地(あめつち)の 分れし時ゆ 神(かん)さびて
高く貴き 駿河なる 布士(ふじ)の高嶺
天の原 ふり放(さ)け見れば 渡る日の
影も隠ろい 照る月の 光も見えず
白雲も い行き憚(はばか)り 時じくぞ
雪は降りける 語り継ぎ 言い継ぎ行かむ
不尽の高嶺は……

文麻呂 (不尽を仰ぎながら)あの時代には国中の人達が美しい調和の中に生きていたのですね。……お父さん! 僕はしあわせです。(うっとりとして)万葉を生んだ国土。うつくしい国土。僕はこの国に生れたことを心の底からしあわせに思っています。