« 道興法准后親王 | メインページへ | 会津八一(會津八一) »

高村光太郎

「晴天に酔ふ」
四方八方こんなによく晴れわたつてしまつては
あんまりまぶしいやうで気まりが悪いやうだ。
十国峠の頂上にいま裸で立たされてゐるやうだ。
頭のまうへにのしかかる巨大な富士
まるで呼吸をしてゐるやうに岩肌がひかるし、
右と左に二つの海が金銀の切箔をまきちらしてゐるし、
天城の向うに眼さへきいたら唐人お吉の町も見えさうだ。
どこからどこまで秋晴の午前八時だ。
天地一刻の防音装置に
展望はしんとして遠近無視の極彩色。
枯芝の匂の中に身を倒すと
ゆらゆらあたり一面の空気がゆらめき、
白ペンキ鮮かな航空燈台も四十五度にかたむき、
青ダイヤの龍胆がぱつちりと四五輪
富士の五合目あたりに咲いてゐる。
あんまり明るいので太陽の居るのさへ忘れてしまひ
何もかも忘れて此の存在が妙に仮象じみても来るし、
永遠の胎内のやうに温かでもあるし、
たうとうお天気に酔つぱらつて欠伸をすると、
急に耳の孔があいて森羅万象
一度に透明無比な音楽をはじめた。


「智恵子抄」の「噴霧的な夢」より
ほそい竹筒のやうな望遠鏡の先からは
ガスの火が噴射機(ジエツトプレイン)のやうに吹き出てゐた。
その望遠鏡で見ると富士山がみえた。
お鉢の底に何か面白いことがあるやうで
お鉢のまはりのスタンドに人が一ぱいゐた。
智恵子は富士山麓の秋の七草の花束を
ヴエズヴイオの噴火口にふかく投げた。
智恵子はほのぼのと美しく清浄で
しかもかぎりなき惑溺(わくでき)にみちてゐた。