« 松濤明 | メインページへ | 吉江喬松 »

与謝野晶子(與謝野晶子)

「日記のうち」
十一月十三日
きゆうきゆうと云ふ音が彼方でも此方でもして、何処の寝台ももう畳まれて居るらしいので、わたしも起きないでは悪いやうな気がして蒲団の上に坐つた。けれどまだ実際窓の外は薄暗さうである。富士が見えるかも知れぬと思ふが窓掛を引く気にもならない。身繕ひをして下駄を穿きながら、ボーイに心附けを遣らないでおけば物を云ふ世話がなからうなどと考へて居た。洗面所に入つて髪を結つて来た間に上の寝台もしまはれて、大阪の商人は黄八丈の寝間着の儘で隣に腰掛けて楊枝を使つて居た。日が当つて富士が一体に赤銅色をして居る。


「元朝の富士」より
人人(ひとびと)よ、戦後の第一年に、
わたしと同じ不思議が見たくば、
いざ仰(あふ)げ、共に、
朱に染まる今朝の富士を。


「日本新女性の歌」より
○東の国に美くしく
 天の恵める海と山、
 比べよ、其れに適はしき
 我等日本の女子あるを。
○中にも特にすぐれたる
 瀬戸の内海、富士の雪
 その優しさと気高さは
 やがて我等の理想なり。


「冬晴」より
裸の木の上には青空、
それがまろく野のはてにまで
お納戸いろを垂れてゐる。
二階へ上がつたら
富士もまつ白に光つてゐよう。


「霧氷」
富士山の上の霧氷、
それを写真で見て喜んでゐる。
美くしいことは解る、
それがどんなに寒い世界の消息かは
登山者以外には解らない。
あなたにわたしの歌が解りますつて、
さうでせうか、さうでせうか。


〔無題〕
○今日わしれども、わしれども、
 武蔵の路の長くして、
 われの車の窓に入る、
 盛り上がりたる白き富士
○竜胆(りんだう)いろに、冬の空、
 晴れわたりつつ、雲飛ばず。
 見て行く萩の上にあり、
 河原より吹く風のおと。


===以下、句集から===

(明治時代)

佐保姫
青き富士うすきが下に雲ばかりある野の朝の風に吹かるる

毒草
ゆるされて水ふみわたる春の野やあらぬを富士と君もまどひし

常夏
しろ銀の魚鱗の上に富士ありぬ相模の春の月のぼる時

舞姫
遠つあふみ大河ながるる国なかば菜の花さきぬ富士をあなたに
春の潮遠音ひびきて奈古の海の富士赤らかに夜明けぬるかな
富士の山浜名の海の葦原の夜明の水はむらさきにして

夢之華
春の海潮時こしと来し波のうへに富士ありほのむらさきに

(大正時代)

晶子新集
富士の嶺のいみじき雪になぞらへぬ子を思ふこと君恋ふること
富士白し及ばずとしてみどりなる磯草に消ゆ茅が崎の雪

草の夢
夕月と富士の雪より射る光霧にみだるる田方の郡
伊豆の山すべて愁ひて潤むなり富士より早く春は知れども
しら玉の富士を仄かにうつしたる足柄山の頂の雪
わが前へ浮漂ひて富士の来ぬうす黄を雲の染むる夕ぐれ
真白なる富士を削りてわれに媚ぶ春の畑毛の温泉の靄

瑠璃光
八月の富士の雪解の水湛へ甲斐の谷村を走る川かな
末遠き桂の川も富士の嶺の雪解の水の行く道にして
本栖湖をかこめる山は静かにて烏帽子が岳に富士おろし吹く
空破れ富士燃ゆるとも本栖湖の青犯されず静かならまし
富士川の白き腕は舞ふ雲と千草の底におぼれはててき
日落つるとともに不思議はかき消えて富士むら山の一つとなりぬ
雲うごく富士ゆゑ心おちゐねば松籟山をいでて眺むる
白雲は富士の珊瑚の頂を少しくだれるきはに臥床す
ほの赤き小舟ばかりの影となり富士のうつれる暮方の水
去る雲も枕さだめて寝る雲もあてに振舞ふ富士の夕ぐれ
富士の嶺の裾野の雲に北海の猟虎の群もまじりてぞ行く
ほととぎすホテルの裏の花畑に臨める富士は紫にして
われいたく異ることを思はずて富士の麓の湖畔にいねん
限りなく富士より雲のひろごりて人ははかなき物思ひする
二三人うすごろも著て遊ぶなり富士に対する赤松の台
赤松が七つの条を引きたれば七間ほどの富士と云はまし
富士にある雲のひかりと赤松の精進の山の相てらす昼
さながらの形に富士をつつみたる真白き雲のをかしき夕
うぐひすや富士の西湖の青くして百歳の人わが船を漕ぐ
船にさすからかさ重し湖へ富士の雲皆おちんとすらん
富士の雲つねに流れて束の間も心おちゐぬ山中の湖
桂川富士よりいでて濁流に終るとな見そ雨降るものを
日の三時雨に引かれて川浪のわりなくまさり富士おろし吹く
東京の廃墟を裾に引きたれば愁ひに氷る富士の山かな
富士の山代代木が原の仮小屋のつらなる上に愁ひつゝ立つ

流星の道
女かと富士あはれなり重げなる雲に胸をば巻かれたるゆゑ
富士おろし及ばぬきはの足柄の岩角に居てその駿河見る
わが馬車は富士の左の緑金の線をかしこみ退きて行く
羅をば脱ぐサロメの舞にならふ富士馬車の口より見て動く富士
富士の嶺も海も不思議のふくろより出でつるものの心地する朝

太陽と薔薇
われも云ふ正月の富士高きかな真白きかなと子等に混りて

梅花集
何れとも白雲台を云ひがたし梅の占むると富士の座なると
暁の富士の朱壁のもとに咲く伊豆の山辺のしら梅の花

霧嶋の歌
王朝の世の富士の嶺の煙ほどくゆるなりけり高千穂の山

心の遠景
新潟の富士が樽をば打つ音のをかしけれども富士貴に過ぐ
足柄と青根の中に富士を見ぬ日もなつかしき尾花山荘
富士小くその頂の見ゆるゆゑ信濃をおもふ配所のやうに
白蘭のごとつややかに富士の見え三浦の霞その下に引く
忽ちに湧き上りたるものなれば富士散りはてんここちこそすれ
姥子の湯古城のごとし九つの藁屋つながり富士と向へる

采菊別集
菊の花富士の尾上の雪のごと一つぞ咲けるゆたかなる葉に


『定本與謝野晶子全集』未収録
つつましく守屋の嶽の裾山に見なせと並ぶ東海の富士
信濃路のあけぼのの雲その中に富士も靡けり一月にして
雪の止み姥子の林ほのかなる富士を上にす岩湯出づれば


秋の雨精進の船の上を打ち富士ほのぼのと浮かぶ空かな
朝の富士晴れて雲無し何者か大いなる手に掃へるごとし