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平野萬里

「晶子鑑賞」
  雪厚し長浜村の船大工槌打つほどの赤石が岳
これも三津浜で作つたものの一つ、しかしこの歌はほんとうには私によくわからない。それをここへ出したのは、その取り合せが如何にも面白いからである。三津から見た富士は天下第一と云はれる美観だが、あの辺りからはまた低く赤石山脈も見える。浜は桜が満開なのに山は雪で真白だ。

十二年の晩秋、当時唯一軒よりなかつた網代の湯宿佐野家に滞在中の作。座敷の前は直ぐ海で、今日は波が高い。余り音がひどいので硝子戸を立てて見ると急に音が弱つてまるで人なら疲れたもののやうに聞こえる。それも少しさびしいので、また明けると、まるで私を引き裂く様な勢でとび込んでくるといふわけである。この時の歌には 櫨紅葉燃殻のごと残りたる上に富士ある磯山の台 三方に涙の溜る海を見て伊豆の網代の松山に立つ 故なくば見もさびしまじ下の多賀和田木の道の水神の橋 などが数へられる。

  ほのじろくお会式桜枝に咲き時雨降るなる三島宿かな
御会式桜とは池上の御会式の頃即ち柿の実の熟する頃に返り咲く種類の桜のことでもあらうか。旅の帰りに三島明神のほとりを通ると葉の落ちた枝に御会式桜が返り咲いてゐて珍しい、そこへ時雨が降り出した。それは富士の雪溶の水の美しく流れる三島宿に相応はしい光景である。この歌の調子の中にはさういふ心持も響いてゐる。

  遠つあふみ大河流るる国半ば菜の花咲きぬ富士をあなたに
大河は天竜で作者が親しく汽車から見た遠州の大きな景色を詠出したものである。あの頃はまだ春は菜の花が一面に咲いてゐた、その黄一色に塗りつぶされた世界をあらはす為に大河流るるといひ国半ばといふ強い表現法を用ゐたのである。世の中にはをかしいこともあるもので、誰であつたか忘れたが、その昔この歌を取り上げて歌はかう詠むものだといつて直した男があつた。自己の愚と劣とを臆面もなくさらけ出して天才を批判したその勇気には実際感心させられた。

  天地の春の初めを統べて立つ富士の高嶺と思ひけるかな
久能の日本平で晴れ渡つた早春の富士山を見て真正面から堂々と詠出した作。私はそこへ登つたことはないが、ある正月のこれも晴れた日に清水税関長の菅沼宗四郎君と共に三保の松原に遊んでそこから富士を見たことがある。その大きなすばらしい光景を富士皇帝といふ字面であらはし駿河湾の大波小波がその前に臣礼を取る形の歌を作つたことがあるが、この歌ではそんなわざとらしい言葉も使はず、正しく叙しただけで私の言はうとしたと同じ心持がよくあらはれてゐる。私はこの歌によつても私と晶子さんとの距離のいかに大きいかを思つた。ことにその調子の高いこと類がない。又この歌に続く次の二首があつて遺憾なくその日の大観が再現されてゐる。曰く 類ひなき富士ぞ起れる清見潟駿河の海は紫にして 大いなる駿河の上を春の日が緩く行くこそめでたかりけれ

  薄曇り立花屋など声かけん人もあるべき富士の出でざま
やはり鉄舟寺で作つた歌の一つ、その日は薄曇りであつたのに突然雲がきれて富士が顔を出した。それはどうしても羽左衛門といふ形である。大向うから立花屋といふ声がかからないではゐないといふわけである。私は若い時吉井勇君にそのよさを教へられて以来羽左がたまらなく好きになつて、よそながら死ぬまで傾倒したものだから、私にはこの歌の感じが特によく分る。ぱつたり雲を分けて出て来たのはどうあつても羽左でなければならない。

  浜ごうが沙をおほえる上に撤き鰯乾さるる三保の浦かな
三保の松原は昔からの名所であり、羽衣伝説の舞台であり、その富士に対するや今日も天下の絶景である。その三保の松原と鰯の干物とを対照させた所がこの歌の狙ひである。今日の様に一尾一円もする時代では鰯の干物の値打ちも昔日の比でなく、この歌の対照の面白味も少しく減るわけだが、この歌の出来た頃の干鰯の値段は一尾一銭もしなかつただらう。而して最下等の副食物としてその栄養価値の如きは全く無視され化学者達の憤りを買つてゐた時代の話だ。三保の松原の海に面した沙地一面に這ひ拡つた浜ごうの上に又一面に鰯が干されて生臭い匂ひを放つてゐる。その真正面には天下の富士が空高く聳えて駿河湾に君臨してゐる。さうしてそれが少しも不自然でなくよく調和してゐる。普通の観光客なら聖地を冒涜でもするやうに怒り出す所かも知れない、そこを反つて興じたわけなのであらう。

  比が根山秋風吹けど富士晴れず拠なく靡く草かな
十国峠を通るに相当強い秋風が海の方から吹いて来る、けれども中天の雲を吹き飛ばすだけの力はなく富士は曇つた儘姿を現はさない。而してそれに失望するのは自分だけではない、それより富士を拠として日々その生を続けてゐるこの比加根山の草の方が可哀さうだ、頼りなささうに秋風に靡いて居るその姿。十国峠の草山の物足らぬ心持が淋しい位よく出てゐる。

  秋寒し旅の女は炉になづみ甲斐の渓にて水晶の痩せ
秋寒しは、文章なら水晶の痩せて秋寒しと最後に来る言葉である。これは昭和七年十月富士の精進湖畔の精進ホテルに山の秋を尋ねた時の作。富士山麓の十月は相当寒い。旅の女は炉辺が放れられない。しかし寒いのは旅の女許りではない、この甲州の寒さでは、水晶さへ鉱区の穴の中で痩せ細ることだらう。

  鴬や富士の西湖の青くして百歳の人わが船を漕ぐ
大正十二年七月夫妻は富士五湖に遊んだ。精進ホテルはあつたが外人の為に出来てゐたので、日本人の遊ぶものまだ極めて少い時代であつた。西湖なども小舟で渡つたのでこの歌がある。西湖の色は特に青くもあり、環境は一しほ幽邃で仙骨を帯びてゐる許りでなく少しく気味のわるい様相をさへ呈してゐる。そこで舟を漕ぐ船頭迄百歳の人のやうな気がするといふのであらう。