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樋口一葉

「ゆく雲」
我が養家は大藤村の中萩原とて、見わたす限りは天目山大菩薩峠の山々峯々垣をつくりて、西南にそびゆる白妙の富士の嶺は、をしみて面かげを示めさねども冬の雪おろしは遠慮なく身をきる寒さ、魚といひては甲府まで五里の道を取りにやりて、やう/\まぐろの刺身が口に入る位、あなたは御存じなけれどお親父(とつ)さんに聞て見給へ、それは隨分不便利にて不潔にて、東京より歸りたる夏分などは我まんのなりがたき事もあり、そんな處に我れは括(くく)られて、面白くもない仕事に追はれて、逢ひたい人には逢はれず、見たい土地はふみ難く、兀々(こつ/\)として月日を送らねばならぬかと思に、氣のふさぐも道理とせめては貴孃(あなた)でもあはれんでくれ給へ、可愛さうなものでは無きかと言ふに、あなたは左樣仰しやれど母などはお浦山しき御身分と申て居りまする。