林芙美子
「放浪記」(初出)
十一月×日
○富士を見た
富士山を見た
赤い雪でも降らねば
富士をいゝ山だと賞めるに当らない。
あんな山なんかに負けてなるものか
汽車の窓から何度も思った徊想
尖った山の心は
私の破れた生活を脅かし
私の瞳を寒々と見降ろす。
○富士を見た
富士山を見た
烏よ!
あの山の尾根から頂上へと飛び越えて行け!
真紅な口でカラアとひとつ嘲笑ってやれ
○風よ!
富士はヒワヒワとした大悲殿だ
ビュン、ビュン吹きまくれ
富士山は日本のイメージーだ
スフィンクスだ
夢の濃いノスタルジヤだ
魔の住む大悲殿だ。
○富士を見ろ!
富士山を見ろ!
北斎の描いたかつてのお前の姿の中に
若々しいお前の火花を見たが…………
○今は老い朽ちた土まんじゅう
ギロギロした瞳をいつも空にむけているお前――
なぜやくざな
不透明な雲の中に逃避しているのだ!
○烏よ! 風よ!
あの白々とさえかえった
富士山の肩を叩いてやれ
あれは銀の城ではない
不幸のひそむ大悲殿だ
○富士山よ!
お前に頭をさげない女がこゝに一人立っている
お前を嘲笑している女がここにいる
○富士山よ
富士よ!
颯々としたお前の火のような情熱が
ビュンビュン唸って
ゴウジョウな此女の首を叩き返えすまで
私はユカイに口笛を吹いて待っていよう。
私はまた元のおゆみさん、胸にエプロンをかけながら、二階の窓をあけに行くと、ほんのひとなめの、薄い富士山が見える。
「夜福」
昨夜はまんじりともしなかつたけれども、兎に角、一晩たつたといふことは、福へ對しての怒りを、ほどよく冷ますのに十分であつた。
今、眼の前に見る福といふ女は、久江にはきれいに見えた。赤ん坊もよくふとつて、清治に生うつしである。
富士山のやうに盛りあがつた小さい唇に、蟹のやうにつばきをためながら、青く澄んだ眼を久江へ呆んやり向けた。久江が思はず手を出すと、赤ん坊は思ひがけないあどけさで兩の手を久江の方へのばして來るのである。
「谷間からの手紙」
「これ‥‥」
さう言つて、富士山の模様の風呂敷から、萄葡と固パンを出して私の膝に載つけましたので、私はチヨコレートの犬の尻つぽをお返しにしました。すると、兵隊さんは、その犬の尻つぽをひと口に頬ばつて、私の足をきつと踏みました。
「痛いわ!」
さう小さい声で言つたんですけど、兵隊さんはまるで赤い地図のやうに首筋から血を上せて、顔をあかくしました。