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東條耕子藏

「先哲叢談續編」

<松浦霞沼>から
芳洲が橘窗茶話に云く、霞沼余と同じく雉塾に寓す、我より少きこと八歳なり、最も成翠虚が富士山を賦する、空に浮ぶ積翠煙鬟を開く(浮空積翠開煙鬟)の句を喜び、吟賞して已まず、

<田中邱愚>から
相の酒匂川は、百川を會同し、東海に入る、富士・箱根其南に鎭し、大岳舟山其北に連なる、實に關中の襟帶、海東の咽喉なり、寶暦己亥の冬、富士山東南の隅、土中火を發し、砂礫數百里に飛ぶ、蓋し硫黄の氣の釀す所なり、其災傷の及ぶ所、關東八州の地、青草を見ざる者數百里、深き者は驤丈、淺き者は盈尺、武相の間、焦土最も甚だし、酒匂川遂に壅く、其後比年大水、○防悉く決す、故を以て居民流亡する者、此に二十年、朝廷方に水を治むる者を求め、以て生民の爲に利を興し害を除かんと欲す、

<高芙蓉(大島芙蓉)>から
芙蓉は富士山に登ること、前後三次、幽を探り勝を窮めて、自ら山嶽の眞景を寫し、百芙蓉圖と曰ふ、是より先き、未だ此擧をなす者あらず、後人富士を畫く者、多く皆之に據る、此より後、別に中嶽畫史と號す、