« 2006年08月06日 - 2006年08月12日 | メインページへ | 2006年10月29日 - 2006年11月04日 »

2006年08月18日

僧契冲

富士がねは山の君にて高御座
   空にかけたる雪の経笠

そらにみつやまとしまねにふたつなき
   たよりとなれるふじのしば山

日のもとのくにをしづめてうごきなき
   ふじのたかねのなるさはのいし

くちなしのゆきげの雲は空とぢて
   人ぞいひつぐふじのたかね

ふじのねに峰をわたりてふる雪の
   めづらしげなくめづらしきかな

あづまぢはをちこち人のいひづきて
   ゆくもかへるもふじのしばやま

ひさかたのあまのみはしら神代より
   たてるやいづこふじのしば山

富士のねをみれば雲にものらぬみの
   こゝろは空にうきしまがはら

をとめこがふじのみゆきのしたがさね
   あまのはごろもなるゝよもなし

山路愛山

「詩人論」
殊に知らず、天地の情豈に一人一派にして悉知(しつち)するを得んや。月影波に横はれば砕けて千態万状を為すに非ずや。百日の富士は百日の異景を呈するに非ずや。詩人たる者唯宜しく異を容れて惟(こ)れ日も足らざるべし、何を苦しんで党派を作らんとするぞ。是も亦談理の弊に非ずや。

2006年08月17日

坂口安吾

「明治開化 安吾捕物 その十九 乞食男爵」
当時の女相撲は十五六貫から二十一二貫どまりであるが、女相撲だからデブで腕ッ節の強いのが力まかせに突きとばせば勝つにきまっていると思うのは早計である。斎藤一座は特に四十八手の錬磨にはげませたから、例の遠江灘オタケ二十一歳六ヶ月、五尺二寸四分二十一貫五百匁が歯力ならびに腕力抜群でも、実は西の横綱だった。東の横綱は富士山オヨシ二十六歳八ヶ月、五尺二寸五分、体重はただの十六貫二百である。


「明治開化 安吾捕物 その十二 愚妖」
轢死体のあった場所は、昔の東海道線、国府津と松田の中間。今の下曾我のあたりだ。そのころは下曾我という駅はなかった。今の東海道線小田原、熱海、沼津間ははるか後日に開通したもので、昭和の初期はまだ国府津から松田、御殿場と、富士山麓を大まわりしていたものだ。


「外套と青空」
 いつ頃のことであつたか、あるとき花村が情慾と青空といふことをいつた。印度の港の郊外の原で十六の売笑婦と遊んだときの思ひ出で、青空の下の情慾ほど澄んだものはないといふ述懐だつた。すると舟木が横槍を入れて、情慾と青空か。どうやら電燈と天ぷらといふやうに月並ぢやないかな、といつた。その花村や舟木や間瀬や小夜太郎らは庄吉も一しよにキミ子を囲んで伊豆や富士五湖や上高地や赤倉などへ屡々旅行に出たといふ。キミ子が彼等の先頭に立ち、短いスカートが風にはためき、まつしろな腕と脚をあらはに、青空の下をかたまりながら歩く様が見えるのだつた。すると花村も舟木も間瀬も小夜太郎も、一人々々が白日の下でキミ子を犯してゐるのであつた。


「巷談師」
共産党以外の人には分る筈だが、この文句は、時の首相とか、政党の指導者などに用いるもので、巷談屋には用いない。用いて悪い規則もないが、巷談屋とヒットラーには、用いる言葉がおのずからそれぞれに相応したものでなければならない。
こう断定した共産党は静岡県の富士郡というところの何々村の住人だ。行って見たわけではないが、富士山の麓のヘキ村だろう。そんなところに住んでいても、民衆の心が巷談屋から離れているのをチャンと見ているのである。


「教祖の文学――小林秀雄論――」
花鳥風月を友とし、骨董をなでまはして充ち足りる人には、人間の業と争ふ文学は無縁のものだ。小林は人間孤独の相と云ひ、地獄を見る、と言ふ。
 あはれあはれこの世はよしやさもあらばあれ来む世もかくや苦しかるべき (西行)
 花みればそのいはれとはなけれども心のうちぞ苦しかりける (西行)
 風になびく富士の煙の空にきえて行方も知らぬ我が思ひかな (西行)
 ほのほのみ虚空にみてる阿鼻地獄行方もなしといふもはかなし (実朝)
 吹く風の涼しくもあるかおのづから山の蝉鳴きて秋は来にけり (実朝)
秀歌である。たしかに人間孤独の相を見つめつゞけて生きた人の作品に相違なく、又、純潔な魂の見た風景であつたに相違ない。

岡本綺堂

「近松半二の死」
あづま路に、かうも名高き沼津の里、富士見白酒名物を、一つ召せ/\駕籠に召せ、お駕籠やろかい參らうか、お駕籠お駕籠と稻むらの蔭に巣を張り待ちかける、蜘蛛の習(ならひ)と知られたり。浮世渡りはさま/″\に、草の種かや人目には、荷物もしやんと供廻(ともまは)り、泊りをいそぐ二人連れ――


「半七捕物帳・ズウフラ怪談」
安政四年九月のことである。駒込富士前町の裏手、俗に富士裏というあたりから、鷹匠屋敷の附近にかけて、一種の怪しい噂が立った。


「半七捕物帳・白蝶怪」
旧暦二月のなかばの春の空は薄むらさきに霞んで、駿河町からも富士のすがたは見えなかった。その日本橋の魚河岸から向う鉢巻の若い男が足早に威勢よく出て来た。


「綺堂むかし語り」
この茶店には運動場があって、二十歳ばかりの束髪の娘がブランコに乗っていた。もちろん土地の人ではないらしい。山の頂上は俗に見晴らし富士と呼んで、富士を望むのによろしいと聞いたので、細い山路をたどってゆくと、裳(すそ)にまつわる萩や芒(すすき)がおどろに乱れて、露の多いのに堪えられなかった。登るにしたがって勾配がようやく険しく、駒下駄ではとかく滑ろうとするのを、剛情にふみこたえて、まずは頂上と思われるあたりまで登りつくと、なるほど富士は西の空にはっきりと見えた。秋天片雲無きの口にここへ来たのは没怪(もっけ)の幸いであった。

2006年08月16日

白木南栖

赤富士に河童忌の雲帆のごとし

2006年08月15日

白井爽風

長月の富嶽のせゐる波がしら

萩原麦草

富士照りて今夜寝られず麦を搗く

富士くらく闇夜の氷踏みにけり

2006年08月14日

石田波郷

初富士やことなきに似て甍満つ

初富士へ荒濤船を押しあぐる

※「押しあげる」の資料もあり。

初富士や蜜柑ちりばめ蜜柑山

2006年08月13日

能見八重子

富士講者火を連ねつつ夜を登る

日夏耿之介

雲の翳黝みつ富士の鋭きそそり