村田春海
心あてに見ししら雲は麓にておもはぬ空に晴るる富士のね
« 2007年10月 | メインページへ | 2007年12月 »
心あてに見ししら雲は麓にておもはぬ空に晴るる富士のね
「國語論叢」の「國語學史篇」より
其の中に方言に關する事が記載されて居るが、之を綜合すると、方言座談會といつてもよいやうな會が、二回程あつたやうである。その大體を紹介する。
其の第一は、第二卷の『じ ぢ のけぢめの條』に見えて居る。即ち
時 文政の初年
處 鐸ノ屋 藤井高尚の京都塾
人 1 吉田 直堅(土佐人) 2 本居 太平
3 塙 保己一 4 大堀 正輔
5 義門
といつた構成で座談が行はれた。此の時の話題其の他が詳かでないが、次のやうな談話の行はれたことだけは解つてゐる。
吉田「郷里土佐では富士の山は必ずふじ山 藤の花はいつもふぢ とかくこと、女わらべも間違はない。口で呼ぶのが區別されでゐるからである。然るに京に出て三年五年住んでゐた女などは、歸國してことさらめいて解らぬやうにいふ。
「日本詩の押韻」より「地中海の落日」
○銀色の橄欖の林から
匂やかに南國の風が吹く
ユッカの花の向ふは青い海原
○アペニンの山脈も影がうすく
夕霧の中に溶けたまま
眞赤な日が地中海へ落ちて行く
○想ひ起すのは房州の濱
入陽を映して薔薇色に顫(わな)なく浪
海のかなたに紫に浮く富士の山
○あのとき私をおそうた魂の痛み
生(いのち)ににじむ愁ひのきざし
わけもなく取留もない幽かな惱み
○あれはまだ少年の日の私
やうやく戀を知りそめた頃
いつの間にかもう二十年の昔
○いまも丁度あの瞬聞のこころ
そつくりあの通りの氣もちだ
違つてゐるのはただ時と處
○私は矢張のもとの私だ
「山梨県富士吉田市立下吉田東小学校 校歌」
○富士の裾野に 聳え立つ
白亜の学び舎 わが母校
窓辺にゆれる 鈴懸の
大地に深く 根をおろせ
伸びる伸びる 下吉田東小
※作詞車田寿/作曲堀内秀治
※3番あるうちの3番
「山梨県富士吉田市立吉田小学校 校歌」
○高くそびゆる 富士の山
すそ野の岩に 根をおろす
気高くかおる 富士桜
かたく手をとり 励み合う
伸びる 吉田小学校
※作詞車田寿/作曲渡辺晋一郎
※3番あるうちの3番
「活語餘論」
尚いはゞ ゐ ゑ を は喉唇音なるが故に、い え お のただ喉音なるは■からで、此三音いづれも是を云んとする時、初微隱にウ音を帶べるは、たとへば だ で の二はもとあぎを打て舌用に關る事の深きに彙へて ぢ づ を呼び、ざ ぜ の二は舌用いと/\ 淺くかすかにて、だ で の如く腭をうつには非るに准へて、じ ず を|唱へこゝろみれば、藤(フヂノ)花 富士(フジノ)山 などおのづからによく分れて有べきにもよそへて、いはゆる お を それに随ひては い ゐ え ゑ のけぢめをも辨ふべき事なりとぞ思はるゝ。
「我執轉々記」の「信濃路」より
またのろ/\と饒舌(しゃべ)りながら引いて行く。
「車屋さん、此の邊から名高い高山が見えるかね。」
「エヽ見えますともな。八ケ岳に穗高岳、それから飛騨の高山も見えます。富士山も見えます。晴れて居ますと、此の正面のあの山の間からな。エヽ/\……」
「我執轉々記」の「參宮」より
朝熊岳の頂上より
昨日麓から二十二町の嶮路に身體中(からだぢゆう)の汗を絞つて、頂上の一軒旅館豆腐屋に着いたのは午後の四時半頃でありました。すぐ一浴して「十八亭」の一室に案内されました。「十八亭」は山鼻に建てられた凉臺式(すゞみだいしき)の離家(はなれや)で、そこから、伊勢、志摩、紀伊、尾張は云ふに及ぼず、秋冬の晴天には澄んだ空を透ほして、遠く富士、箱根から駒ケ嶽、御嶽、乗鞍、立山、白山まで都合十八ヶ國を一目に見渡し得るので、かくは名づけたのであります。
「我執轉々記」の「白帝城」より
此の谿には岩と水と樹木との美妙な調和を成した、かやうな絶景が、二三里切れ目なしに續いて居るといふことで、其の間に駱駝岩、猿岩、獅子岩、鳶岩、眼鏡岩、兜岩、綱干岩、川平の二つ岩、不二の瀬、觀音の瀬などいふ、いろ/\の岩や淵や瀬があり、山にも夕暮富士、伊木山、氷室山、瑞泉寺山、實積寺山など、數々あるが、一々の眺めは、とても筆の上に寫せることではない。
「我執轉々記」の「山彦」より
私は今まで平凡な單調な道を歩いて來たとはいふものの、それでも後に思ふと、幾度かの命拾ひをして居ります。それを回想して、「おれはあの時に臺灣で死んだ筈だ。」「富士の谷底に落ちた筈だ。」「あの病氣の折には死を傳へられて悔みに來られたことがあるぢやないか。」と思へば、世の中はのんきなものです。
會遊の地で好かつた處をと蕁ねられて
富士と瀬戸内海を別として、まづ九州の阿蘇山の噴火ロと北海道登別(ぬぶるべつ)温泉の地獄谷とが浮かんで來ます。