延広禎一
赤富士や乾されてありし万祝着
赤富士や乾されてありし万祝着
「自然の慈悲」
八合目から九合目に至る金屎(かなくそ)のやうな焼石の合間から、
イタドリが咲いています、君、この花を見たことがありますか、
虎杖と書いた植物で Polygonum Cuspidatum が原名ださうです、
葉は長楕円形状、花は玉子色、
希薄な空気を吸つて雲や風で洗はれるせゐでもありませうか、
温室育ちに相応(ふさは)しいような綺麗に澄んだ色をして居ります、
考えて御覧なさい、一万尺以上に高い山なのですよ………
それにこんな血の無い焼石にも花を育てる力があるといふことを、
だれも自然の威嚇(いかく)と同時にその恵深さを驚かずには居られますまい。
それからご承知のやうに、頂上に、金明水と銀明水の泉があります、
苦しんで上つた人でないと、この冷たい甘さは分りますまい、
一万幾千尺の絶頂でさへ水を飲むことが出来るといふことが、
尊い神様の有難さでなくて何であらう、君、さう思いませんか。
私共のやうに幾万人の一人としてこの山に上り、
綺麗な虎杖を眺めても乃至は頂上の冷水を飲んでも、
普通の感激以上に何物も感じないかも知れません、
然しですね、若し君が幾千年前の人間であって、始めてこの山に上り、
絶頂に近い焼石の角から君を迎へる虎杖を見たとしたならば、
或は金明水なり銀明水なりを偶然に絶頂で発見して君の乾いた唇を湿(しめ)したとするならば、
どんなに君は感激の涙を流して神様の慈悲を謝するでありませう。
私は私共末世に産れたものの感激の領土は狭められたといふことを悲みます、
私唯一の希望は、神様が産みつけたもともとの人間に帰つて、
人間が愚にも失った感激の領土を取りかへしたいのであります、
少くも私は万葉時代の人間に立ちかへつて、(君もさうおもふでせうが、)
月や花や自然の現象から真実な感激を体験したいと希望いたします。
「旅の民謡」より
○芒ァ穂に立つ
裾野は秋よ
富士は今年も
山仕舞
(富士の裾野にて)
○山にや霧立つ
霧ァ雲となる
雲も重なりや
雨となる
「富士の白雪」
○富士の白雪
お日和つづき
○一つ眺めて
見ませうかな
○藪でなくのは
藪鶯か
○春の日永を
藪でなく
○富士の白雪
いつとけるやら
○一つ眺めて
見ませうかな
「龍ヶ崎小唄」より
○富士はなつかし筑波はいとし
どちら向くにも身は一つ
困りましたよ私はちょいと
(モダン龍ヶ崎アリントアリントサ)
※()内は囃子ことば
「足利節」より
○前は渡良瀬 織姫さまは
遠く富士さへ ひと眺め
「木更津ばやし」より
○上総木更津 飛行場が出来て
こひし東京の チョイト空護る
(富士の白雪ア 解けそで解けない)
(木更津港と チョイト 差し向ひ)
※()内は囃子ことば
「一橋をどりの歌」より
○寒い風だよ富士山颪
山にや雪でも 降るのやら
(一橋 一橋 一橋サ)
(自由の鐘は カカンカカンと)
(一橋 一橋 一橋サ)
※()内は囃子ことば
「富士八景小唄」
○相州江の島 (トコ ヤンヤノサ) 涼しいはずよ
富士とまともに 富士とまともに 差し向ひ
(来たか常夏 夏こそ富士よ)
(富士の白雪ア玉の肌 トコ ヤンヤノサ)
○箱根芦の湖 玉なす水に
富士は慕ふて 富士は慕ふて 影うつす
○夏の御殿場 裾野の流れ
富士のそよ風 富士のそよ風 そよそよと
○沼津千本浜 松の葉の上に
富士はちらちら 富士はちらちら 見えかくれ
○田子の浦から 虹たつころは
富士に横雲 富士に横雲 雨の脚
○興津清見潟 後ふり向けば
富士は真上に 富士は真上に のしかかる
○三保の松原 曇らば曇れ
富士の眺めに 富士の眺めに 変りやない
○吉田吉田と 夏吹く風は
富士の雪斛(ゆきげ)の 富士の雪斛の 送り風
※()内は囃子ことば
「甲州音頭」より
○富士は東に アリヤ 御嶽は西に
音頭とるなら まん中に
ヨイトナ ヤレヨイトナ
音頭とるなら まん中に
スツチヨコ スツチヨン スツチヨンナ
ヤーレ スツチヨン スツチヨンチヨン
○最早や火祭り アリヤ もう山じまひ
お富士やこれから ひとりぽち
ヨイトナ ヤレヨイトナ
お富士やこれから ひとりぽち
スツチヨコ スツチヨン スツチヨンナ
ヤーレ スツチヨン スツチヨンチヨン
○富士は五つの アリヤ 鏡の湖に
朝な夕なの 薄化粧
ヨイトナ ヤレヨイトナ
朝な夕なの 薄化粧
スツチヨコ スツチヨン スツチヨンナ
ヤーレ スツチヨン スツチヨンチヨン
※1,6,8番抜粋
暮夙(くれまだき)三保の浦廻に見のよきはほのに紅さす雪富士の峰
頂きは人しなければニはしら降りし御世の心地こそすれ
夏山は何れの人か踏初(ふみそめ)し雪の高ねはわれぞ分ぬる
うた人の眺めのみせしふじのねを御代の光りとなさましものを
国々の海山かけし大庭をわがもの顔に眺めあかしつ
富士のねの雪にかばねは埋むとも留め置まし日本(やまと)だましひ
露茶にも味が出るうへふえはするお客も室も共によろ昆布(こぶ)
観測のランプピカ/\よもすがらうろつくわれは蛍なりけり
夜日とも眠りもやらでゐるわれはいたるにあらで蛍なりけり
たとへ身は増荒(ますら)おの子にあらずとも尽す心はをとらじものを
姫神のいます御山に登りしはいかなるえにしありてなるらむ
姫神と聞もなつかし皇国(すめらぎ)に尽すわれをば守りたまへや
さなぎだに白露しげき裾野にて人のなさけに袖しぼるらん
富士の嶺を仰ぎて見れば雲かゝる行手の道も遠くもあるかな
秋寒きふじの裾野の夕暮は行手ながくもおもほゆるかな
しら雪に埋もるゝ不二の頂を今ぞ初めて踏み分けにける
おなじみの風の御神はけふはなど山の神をば吹飛ばしけん
祝ひ日のもちどころでなくやっとかゆすゝりし上に風くらひけり
ふじのねの雪の朝(あし)たの頂きをわれのみしめて住ゐぬるかな
しら雪に埋るゝ富士の頂きをげに心ある人に見せばや
しろがねにつゝみし富士の頂きは此世(このよ)の外の心地こそすれ
あられ飛(とび)風すさまじく降(ふる)雪に埋るゝ今朝の富士の頂き
あらこまを乗しづめたるのちならばうしの背なかは安けからまし
慾ばりてやかんあたまの刷毛おやぢ金に付たら迚(とて)もはなれず
富士講者火を連ねつつ夜を登る
かはらぬや其ふりかかりふじの雪
「吹雪のユンクフラウ」
私たちの立ってるすぐ上の軒庇から黒い鳥が二羽三羽と吹雪の中を飛び下りて来てはまた飛び上って行く。烏に似て烏よりは小さく、鳩よりは大きい。名前を聞いたらベルクドーレ(山がらす)というのだそうだ。私たちはすぐ目の前にユンクフラウの本体を仰ぎながら、富士より三九〇米高く、新高より二一六米高いその俊峰を卍(まんじ)巴の雪花の中に見失い、しばらく償われない気持で立ちつくした。
「エトナ」
エトナの遠望は孤立したところは富士に似て居り、その高さ(三三〇〇米)も富士に近いが、富士よりも大きく根を張って、裾野が直接海の中へ走り込んでるのと、残雪の間から噴煙を立てているのがちがう。登って見ると幾つも峰があったり、熔岩流が無数にあったりするけれども、直径二五キロを距てたタオルミーナから眺めると、山容はなだらかな線となって、海の紺碧との調和が譬えようもなく美しい。
「日本文學と外來思潮との交渉(四)西洋文學」
例へば明治十三年刊行の橘顯三譯「春風情話」(スコットの「ラマムアの花嫁」)の人物が讀本(よみほん)や草双紙の如き日本風俗の男女に描かれたり、明治十九年刊行の「天路歴程」が、口繪には西洋風な原作者の銅版肖像が入れてありながら、中にはちよん髷の老人や、ざんぎり頭に羽織を着て下駄をはいた紳士が出たり、從道と名乘るクリスチャンが新田義貞の如き甲冑に身を固め日本刀を拔いて、蝙蝠の如き翼を張つて毒矢をかざした惡魔アポリオンと格鬪して居ると、その背景に富士山が見えてゐたりする。斯くの如き適應性が果して當時尚ほ必要であつただらうか。疑なきを得ない。
「湖水めぐり」
吉田から先は少し歩かうと云ふことであつたけれども、わぎわざ歩くほどの價値もなささうな所だから、それに、歩くとなると槇村君の提げて來た大きなカバンのために人夫を一人傭はねばならぬので、矢張り鐵道馬車で出かける事にした。桑と黍と小松の間の下り道をのろのろと一頭の馬が首を振り振り曳いて行くのである。富士は曇つて裾野だけが明るく展けてゐた。
私と青楓君は浴衣に着替へて湖水を眺めたり雲に蔽はれた富士を見たりしてゐたが、まだ日が高くて二階には相當のほてりがあり、外へ出て見たところで大してしようもなささうだから、(實際、河口湖は平凡である、)やがて歸つて來た兩君と一緒になつて寢ころびながら、例の大カバンの中から罐詰のソオセイジを取り出したり、ミルクココアをこさへたりして雜談に耽つた。
九時半。富士は昨日よりよく見えたが、それでも顏だけはヴェイルを取らなかつた。六合目か七合目かの石室が肉眼でもよく見えた。馬返しの附近にはもう登山の群が見える頃だといふので、舟の中から頻りに望遠鏡をのぞいたけれども、なんにも見えなかつた。
長濱に上るとすぐ道は上りになり、照りつける日は熱かつたけれども、三十分の後には私達は鳥坂峠の頂上に立つてゐた。其處から今渡つて來た河口湖を後に見下し、これから横ぎらうとする西湖を目の下に見やつた眺めは、恐らくいつまでも忘れられないであらう。更に、西湖の向に青木ヶ原の樹海を見渡し、それに續く丘陵の先に龍ヶ嶽(その頭は富士と同じやうにまだ雲の中に隱れてゐた)を見た景色は、たとへば、此處から引返すとしても私たちは此の旅行を後悔しないだらうと思はれる程度のものであつた。
西湖は周りにすぐ山が迫つて、河口湖よりは暗いけれども、それだけ靜寂の氣に多く充ちて、私には高く値ぶみされる。けれども舟で渡るよりも、鳥坂峠から見下した景色の方が遙かによい。舟で行くと、その間に富士が斷えず見えてゐるのがうれしい。
私たちの集まつてゐた窓の前にはまつすぐな赤松が何本も立つて、その間から、肩を稍〃そばめ加減にして端坐した富士孃の、全身に夕日を浴びてまぶしさうにしてゐる姿が、時間の進むにつれてだんだんと近くなつて來るやうに見えた。
さうしてまた窓ぎはに椅子を寄せて明日の旅程についてさつきのつづきを話し合つた。馬で大宮方面へ出ることだけはきまつてゐるが上井出から先は鐵道馬車があるさうだから、馬は上井出まで(六里半とも七里ともいふ)にして、大宮に泊るか、身延へ(輕便鐵道で)出るか、それとも吉原へ行つて泊るか、或ひは富士驛に出て終列車で東京へ歸るか、と云つた風に、皆んなが別別の意見を持つてゐるだけならまだよいが、一人で幾つもの意見を持つてゐる者があるので、小田原評定に終つてしまつた。
私は輕井澤から追分へかけての高原を歩いたこともあり、妙高山の高原を歩いたこともあるけれども、これほどの雄大な高原はまだ見たことがなかつた。富士は半分以上雲の中に隱れてゐたが、右の方にすぐ龍ヶ岳が聳えて、その山と富士の中間の臺地が私たちの前に限りなく遠くまで起伏してゐるのである。皆んな口口に、いいね、いいね、と叫んだ。どこを見ても一面の草原で、その間に秋草が咲いて、なでしこの色が湖水の縁のよりも一きは濃く、ところどころに菖蒲の咲いてゐるのも珍らしかつた。
結局、大宮には登山客が雜沓するだらうから泊らないといふことだけをきめて、大宮から富士驛までの切符を買つた。
富士身延の輕便鐵道は思つたより乘心地がよかつた。大宮町の停車場で、休刊してゐた東京の新聞が出てゐたことと、敷島が十五錢になつたことを知つて、なんだか二三日の間に世間から遠くなつてゐたやうに思はれた。汽車の中で梨子をむいて食べながら、とにかく今夜は海道の何處かへ泊まり、明日東京へ歸ることにしようと一決した。それで、切符は東京までのを買つたけれども、富士驛で乘り換へ、沼津で下りた。