野口米次郎
「自然の慈悲」
八合目から九合目に至る金屎(かなくそ)のやうな焼石の合間から、
イタドリが咲いています、君、この花を見たことがありますか、
虎杖と書いた植物で Polygonum Cuspidatum が原名ださうです、
葉は長楕円形状、花は玉子色、
希薄な空気を吸つて雲や風で洗はれるせゐでもありませうか、
温室育ちに相応(ふさは)しいような綺麗に澄んだ色をして居ります、
考えて御覧なさい、一万尺以上に高い山なのですよ………
それにこんな血の無い焼石にも花を育てる力があるといふことを、
だれも自然の威嚇(いかく)と同時にその恵深さを驚かずには居られますまい。
それからご承知のやうに、頂上に、金明水と銀明水の泉があります、
苦しんで上つた人でないと、この冷たい甘さは分りますまい、
一万幾千尺の絶頂でさへ水を飲むことが出来るといふことが、
尊い神様の有難さでなくて何であらう、君、さう思いませんか。
私共のやうに幾万人の一人としてこの山に上り、
綺麗な虎杖を眺めても乃至は頂上の冷水を飲んでも、
普通の感激以上に何物も感じないかも知れません、
然しですね、若し君が幾千年前の人間であって、始めてこの山に上り、
絶頂に近い焼石の角から君を迎へる虎杖を見たとしたならば、
或は金明水なり銀明水なりを偶然に絶頂で発見して君の乾いた唇を湿(しめ)したとするならば、
どんなに君は感激の涙を流して神様の慈悲を謝するでありませう。
私は私共末世に産れたものの感激の領土は狭められたといふことを悲みます、
私唯一の希望は、神様が産みつけたもともとの人間に帰つて、
人間が愚にも失った感激の領土を取りかへしたいのであります、
少くも私は万葉時代の人間に立ちかへつて、(君もさうおもふでせうが、)
月や花や自然の現象から真実な感激を体験したいと希望いたします。