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喜田川守貞

「守貞謾稿」(守貞謾稿)
五月晦日、六月朔日ノ両日、江戸浅草、駒込、高田、深川、目黒、四ツ谷、茅場町、下野小野照(以上八所トモニ江戸ノ地名也。並ニ冨士山ヲ模造シテ、浅間ノ神を祭レリ。平日ハ、此模山ニ登ルコトヲ聴サズ。此両日ノミ、詣人ヲ登ス。蓋、駒込ヲ江戸ノ本所トス。)等ノ富士詣テト号テ、群参ス。各所、必ラズ麦藁制ノ蛇形ヲ、生杉枝ニ繞ヒタルヲ賣ルニ、大小アルトモ皆同制也。富士詣ノ方物トス。
或書曰、宝永中疫病行レ、緒人患(レ)之。干時駒込ノ農夫喜八ナル者、麦ワラ制の蛇ヲ、冨士辺ノ市ニ賣ル。買(レ)之者皆必ラズ疫病ノ患ヲ除ク。依(レ)之テ、以後毎年今日、専ラ賣之。又曰、当時ハ、遠近ヨリ冨士詣ノ童子、専ラ披髪ニテ行ク云々。
又曰、享保二年始テ、銕炮洲ノ船松町ヨリ花万度ヲ、毎年今日、駒込冨士権現ニ献ズ。
塵塚談曰、駒込冨士権現祭、五月晦日ヨリ六月朔日迄参詣夥シ。予、若年ノ比ハ、俗間ノ童子等、参詣ニハ皆、髪ヲアラヒ、油元結ヲ用ヒズ、散髪ニシテ詣デシガ多カリシ。近年、右躰ノ童、更ニ見ヘズ。移リ代ル世ノ有サマ、斯ノ如シ云々。

※上記の(レ)は、レ点を表した。

昔は京坂の昆布店に 板を富士山の形に造り采りて招牌とす。文政の始めまで 大坂順慶町堺筋南西角にこぶ店あり。その所に不二の看板ありしを 予幼年に見覚へあり。その他にもありしならん。古き小唄に 大きいもので云ふなら弓削の道鏡 名も高き千石船の帆柱か。奈良の大仏二王さまアリヤ。九文竜に釈迦ヶ岳。富士の山をばちよつと片手に提げまする。それは昆布ヤノ掾ジヤイナ(九文竜釈迦ヶ岳、二人角力の名)。