五所平之助
元朝や大いなる手を富士拡げ
元朝や大いなる手を富士拡げ
やゝ疲れて電車通りを離るれば白き富士見ゆ友の手をとる
雲一ひらひねもす富士を去らざりし夕ぐれ海に風出でにけり
冬の日のけぶれるなかにしづまりてはるかに富士の山脈(やまなみ)を見る
富士見えぬ相模の山も見えそめぬほのぼの夏の夜は明けにけり
菜の花を散らして海へゆく風に吹かれて遠く富士のかすめる
「堀越高等学校 校歌」
○紫匂う武蔵の広野
富士の高嶺は軒端に近く
野川の音は枕に通う
あゝうるわし我が中野
※3番あるうちの1番
※作詞小島政吉/作曲島崎赤太郎
メロン掬ふ富士見え初めし食堂車
帰るべく往くべく我をして富士はいづくと問わずふり返らする
「日本山水論」の「登山の時季」より
わが従来の経験に徴するに、本州の山嶽ことに信濃飛騨加賀越中などの群嶺は、少しく防寒の衣に心を用ゆれば十月中に登山すること容易なり、富士山と北緯四十度以北の高山を除いては、山頂残雪の外に新雪は極めて少々、山下の上人の如きニ、或いは秋季登山の危険を説くものあれども、我が信念にして堅固ならばおおむね耳を藉すに足らず、外人が多く土用後の秋山を愛するは、以上の意義を以つての故にあらざるを得んや。
「霧の不二、月の不二――明治三十六年八月七日御殿場口にて観察――」
不二より瞰(み)るに、眼下に飜展(ほんてん)せられたる凸版地図(レリイヴオ・マツプ)の如き平原の中(うち)白面の甲府を匝(め)ぐりて、毛ばだちたる皺(しわ)の波を畳み、その波頭に鋭峻の尖りを起てたるは、是れ言ふまでもなく金峰山、駒ヶ嶽、八ヶ嶽等の大嶽にして、高度いづれも一万尺に迫り、必ずしも我不二に下らざるが如し、不二は自らその高さを意識せざる謙徳の大君なり、裾野より近く不二を仰ぐに愈(いよい)よ低し、偉人と共に家庭居(まとゐ)するものは、その那辺(なへん)が大なるかを解する能はざるが如し。この夏我金峰山に登り、八ヶ嶽に登り、駒ヶ嶽に登る、瑠璃色なる不二の翅脈なだらかに、絮(じよ)の如き積雪を膚(はだへ)の衣に著(つ)けて、悠々と天空に伸ぶるを仰ぐに、絶高にして一朶の芙蓉、人間の光学的分析を許さゞる天色を佩(お)ぶ、我等が立てる甲斐の山の峻峭(しゆんせう)を以てするも、近づいて之に狎(な)るゝ能はず、虔(つゝ)しんでその神威を敬す、我が生国の大儒、柴野栗山先生讚嘆して曰く「独立原無競、自為衆壑宗(しゆうかくのそう)」まとことに不二なくんば人に祖先なく、山に中心なけむ、甲斐の諸山水を跋渉(ばつせふ)しての帰るさ、東海道を汽車にして、御殿場に下り、登嶽の客となりぬ。
※以下省略、富士登山記である。全文は青空文庫参照。
「上高地風景保護論」
かくの如き繁昌が、単に温泉のためでなく、登山または観光を主要な目的とする客が、その過半数を占めているというに至っては、常念山脈の麓にある、中房温泉がやや似ているとしても、先ず他に例のないところである、上高地が特に多く登山客を吸収する所以は、槍ヶ岳、穂高岳、霞沢岳、焼岳などの大山岳に登る便利のあること、殊に大山岳は富士や八ヶ岳式の火山を除いて、とかく全容を仰ぎがたいものであるが、穂高岳、霞沢岳、焼岳などは、その威厳ある岩壁の大部分を、この峡谷に展開して、容易に仰視し得られること、焼岳が盛んに噴煙して、火山学者やまた地震学者の注意を惹(ひ)き初めたこと、明浄な花崗質の岩盤を流れる谷水の、純碧と美麗と透徹と、他に比類なきこと、神仙譚を思わせるような美しい湖水のあること、森林のあること、温泉のあること、飛騨への交通路にあることなどであるが、これを一括して言えば、日本北アルプスとも称すべき飛騨山脈の、大殿堂は上高地峡谷によって、その第一の神秘なる扉を開かれたのである。
「不尽の高根」
※多数出てくるので全文掲載されている青空文庫を参照のこと。
「亡びゆく森」
今となつてみると、新雪の輝やく富士山がよく見えぬからと言つて、出洒張(でしやば)つた杉木立の梢を恨んだのは、勿体ない気がする。
「山を讃する文」
近来邦人が、いたづらなる夏期講習会、もしくは無意義なるいはゆる「湯治」「海水浴」以外に、種々なる登山の集会を計画し、これに附和するもの漸く多きを致す傾向あるは頗(すこぶ)る吾人の意を獲(え)たり、しかも邦人のやや山岳を識るといふ人も、富士、立山、白山、御嶽(おんたけ)など、三、四登りやすきを上下したるに過ぎず、その他に至りては、これを睹(み)ること、宛(さなが)ら外国の山岳の如くなるは、遺憾にあらずや。
想ひ起す、昨八ヶ岳裾野の紫蕊紅葩(しずいこうは)に、半肩を没して佇(たたず)むや、奇雲の夕日を浴ぶるもの、火峰の如く兀々然(こつこつぜん)として天を衝き、乱焼の焔は、茅萱(ちがや)の葉々を辷(すべ)りて、一泓水(こうすい)の底に聖火を蔵す、富士山その残照の間に、一朶(いちだ)の玉蘭(はもくれん)、紫を吸ひて遠く漂ふごとくなるや、桔梗もまた羞ぢて莟(つぼみ)を垂れんとす、眇(びょう)たる五尺の身、この色に沁み、この火に焼かれて、そこになほ我ありとすれば、そは同化あるのみ、同化の極致は大我あるのみ、
「日本山岳景の特色」
私たちが学生旅行をした時代には、日本の名山と言えば、殆んど火山に限られたように思われていた、富士山にさえ登り得らるれば、あとはみんな、それよりも低く、浅く、小さい山であるから、造作はないぐらいに考えていた、そのころ、今日でいう日本アルプス系の大山嶺で、私が名を知っていたものは、立山御嶽などいう火山の外には、木曾の駒ヶ岳(大部分黒雲母花崗岩より成る)ぐらいなものであった、いま憶い出しても笑わずにはいられないのは、その時代、或(ある)地理書の山岳高度表で、富士山の次に、白峰だの赤石山だのという、よほど高そうな山の名を見て何処にある山岳だか、一向見当がつかない、学校の教員も友人も、誰も知っていたものはなかった。
それどころじゃない、日本山岳風景の最も著しい特色は、日本アルプス系の山岳と富士帯の火山と、錯綜して、各自三千|米突(メートル)前後の大岳を、鋼鉄やプラチナの大鎖のように、綯(な)い交(ま)ぜたところに存するので、ヒマラヤ型や、アルプス式の山岳地と、比較すると、向うにあるもので、こっちにないものもあるが、またそれと反対に、こっちにあって、向うにないものもある、
そこで日本の火山線の最も大なるものは言うまでもない富士帯で、富士帯の大幹とも根柢ともいうべき富士山は、南に伊豆函根の諸山を放って海に入っているが、北は茅ヶ岳、金ヶ岳、八ヶ岳と蜒(う)ねって、その間に千曲川の断層を挟んで、日本南アルプスの白峰山脈、または甲斐駒山脈と並行している、
然るに富士帯の火山線は、甲斐駒ヶ岳山脈の支脈、釜無山脈になると、混じ合って、更に北の方、飛騨山脈となると、名にし負う御嶽乗鞍の大火山が噴出して、日本北アルプス系の、火成岩や、水成岩と、紛糾錯綜して、そこに日本山岳景に独特な風景、語を換えて言えば、地球の屋棟と言われているヒマラヤ山にも、または山岳という山岳の、種々相を、殆んど無数に、無類に具備しているというアルプス山にも、絶無な風景を作っている。
北斎や広重の版画を見ずにしまった彼は、富士山の線の美しさを、夢想にもしなかったらしい、東海道の吉原から、岩淵あたりで仰ぎ見る富士山の大斜線は、向って左の肩、海抜三七八八米突から、海岸の水平線近く、虚空を縫って引き落している、秋から冬にかけた乾空には、硬く強く鋼線のように、からからと鳴るかと思われ、春から夏にかけて、水蒸気の多い時分には、柔々(やわやわ)と消え入るように、または凧の糸のように、のんびりしている。地平線と水平線とを別として、我が日本国において見らるべき、有(あ)らゆる斜線と曲線の中で、これこそ最大最高の線であろうと、いつも東海道を通行するたびに、汽車の窓から仰ぎ見て、そう思わないことはない。
富士の八百九沢に見らるる大日沢であるとか、桜沢であるとかいうのは、みんな流水や、墜雪の浸蝕した痕跡であるが、あの御殿場口から登り初めると、宝永山の火山礫を冠った二箇の砂山が、山腹から約百尺も顔をもちあげて、裾を南へ引いているのを見るであろう、あれは二ツ塚という二子式の火山で、しかも側火山(学者によっては、寄生火山という言葉を用いているが、寄生植物のように、別種のものが、他種の本体に倚(よ)りかかっているのでないから、これを寄生というのは、いかがかと思う)であるが、この二ツ塚などには、山から吹きおろす風の斑紋までが、分明に黒砂に描き出されている。
しかも北から南までを通じての日本アルプスを、統御する威厳と運命とを備えているものは、畢竟(ひっきょう)するに日本山岳の欽仰(きんぎょう)すベき大徳の女王、富士山で、高さにおいては言うまでもないこと、その秀麗の山貌と、優美の色彩と、典雅の儀容とにおいて、群山から超絶している、むしろ統御の別席をしつらえるために、ことさらにアルプス大山系を回避して、太平洋岸に独歩特立して、一段と超越した高御座(たかみくら)を築き上げたかのように見える、日本アルプス大山系の地質構造史において、富士帯の大火山線が、重要なる関係を有しているように、山岳景においてもまたそうである、そうであらねばならぬのである、誰か偉大なる富士山を除外するような僭越と非礼と亡状を敢えてして、日本山岳論の特色を論ずることが出来よう。
「菜の花」
東海道藤沢の松並木の間から、菜の花の上に泛(うか)ぶ富士山を、おもしろい模様画に見立てて、富士山と菜の花の配合などを考えたことがある、中にも私の好む菜の花の場所は、相模大山の麓、今は烟草(たばこ)の産地として名高い秦野付近で、到るところ黄の波を列(つら)ねていた
「雪の白峰」
蒼醒(あおざ)めて、純桔梗色に澄みかえる冬の富士を、武蔵野平原から眺めた人は、甲府平原またはその附近の高台地から白峰の三山が、天外に碧い空を抜いて、劃然(かっきり)と、白銀の玉座を高く据えたのを見て、その冴え冴えと振り翳(かざ)す白無垢衣(しろむくえ)の、皺(しわ)の折れ方までが、わけもなく魂を織り込もうとするのに魅せられるであろう、
山の雪が動物の形態となって消え残ることは、何か因縁話があるのかは知らぬが、殊に中央日本の山に多いようである、自分の知った限りでも、前記の蝶ヶ岳、白馬、大蓮華の外に、先ず東海道から見た富士山の農男(馬琴の『覊旅漫録』巻の一、北斎の『富嶽百景』第三編に、その図が出ている、北斎のを茲(ここ)に透き写す、これで見ると、蝶や農鳥は、雪がその形をするのだが、農男は、雪に輪を取られた赭岩が、人物の格好に見えるらしい)は、名高いものであるが、甲府方面からは、富士の「豆蒔小僧」というのが見える、八十八夜を過ぎて、豆を蒔く頃になると、あの辺の農夫は、額に小手を翳して、この小僧を仰ぐものだそうな
白峰より彼(かの)鳥を奪わば、白峰は形骸のみとならんとまで、この頃は飽かず、眺め居候(おりそうろう)、……白峰の霊を具体せるものは、誠にこの霊鳥の形に御座候、前山も何もあったものにあらず、東南富士と相対して、群山より超越せる彼巨人の額に、何ものの覆うものなく、露出せる鳥の姿、スカイラインよりは、僅(わずか)に一尺も低かるべきか
八ヶ岳も、少し郊外に出づれば、頭を現わすべく、茅岳、金岳より、近き山々、皆冬枯の薄紫にて、淡き三色版そのまま、御阪山脈の方向は富士山なくんば見るに足らず、富士の雪は夕陽に映るとき、最も美しく候、
しかもラスキンのいわゆる、アルプスの魔女が紡(つむ)げる、千古の糸にも似た雪の白い山! 讃嘆せよ、讃嘆せよ、太平洋岸の表日本には、東に富士あり、西に我白峰がある。
地蔵、鳳凰の淡き練絹(ねりぎぬ)纏いし姿は、さもあらばあれ、白峰甲斐駒の諸峰は、更に山の膚を見ず、ただ峻谷の雪かすかなる、朧銀の色をなして、鉛色なる空より浮き出で巨大なる蛇の舌閃(ひらめ)いて、空に躍れる如し、何等のミレージ、何等のミラクル、今朝はやや晴れ、白峰満山の白雪、朝日に映じて瑪瑙(めのう)に金を含む、群山黙として黒く下に参す、富士も大なる白色魔の如く、鈍き空に懸れり、兄(けい)を招じて驚嘆の叫び承わり度候、
「雪中富士登山記」
今朝は寒いと思うとき、わが家の背後なる山王台に立って、遥かに西の方を見渡すと、昨夜の風が砥ぎ澄まして行った、碧く冴えた虚空の下には、丹沢山脈の大山一帯が、平屋根の家並のように、びったり凍(かじ)かんで一と塊に圧しつけられている。その背後から陶器の盃でも伏せたように、透き徹っているのは、言うまでもなく富士の山だ。
自然は富士山という一つの題材を、幾十百部に切り刻んで、相模野からかけて、武蔵野辺に住む人たちに朝となく、夕となく、種々の相を示してくれる。その中にも山頂に落ちた白雪は、私の神経を刺戟することにおいて、幾百反歩の雑木林の動揺と、叫喚とにも、勝っている。
その新雪光る富士山の巓(いただき)を、私が踏んだのは、去(さる)四十年十月の末であった。
「十月二十六日夜九時、御殿場富士屋へ着、寒暖計五十六度、曇天、温に過ぐ、明日の天候を気遣うこと甚だし。」
と日記に書いてある。
朝の霧が、方々から烟のように這っているほど、快晴であるが、一合目辺をカッキリ境界線にして、頭上の富士山は、雲のためにまるで見えず、天上の空次第に低く垂れて、屋根の上を距ること僅(わずか)に三尺。
眼の前には粒の細かい黒砂が、緩(なだ)らかな傾斜となって、霧の中へ、するすると登っている、登山客の脱ぎ捨てた古草鞋(ふるわらじ)が、枯ッ葉のように点を打って、おのずと登り路の栞(しおり)となっている、路傍の富士薊(ふじあざみ)の花は、獣にでも喰い取られたらしく、剛々しい茎の頭に、半分残って、根はシッカリと、土から離れまいと、しがみついて慄えている。太郎坊附近の、黄紅朱樺の疎らな短木の中を、霧は幾筋にもなって、組んず、ほぐれつして、その尖端が愛鷹(あしたか)山の方向へと流れて行く、
西風が強いかして、傾斜の土に疎ら生えしている、丈の短い唐松や、富士薊が、東に向いて俯向きに手を突いている。紅葉の秋木も、一合五勺位から皆無になったが、虎杖(いたどり)は二つ塚側火山の側面まで生えている、それも乱れ髪のように、蓬々としている。
下界はと見れば、大裾野の松林は、黒くして虫の這う如く、虎杖や富士薊は、赭黄の一色に、飴のようになって流れている、凡(すべ)てが燻(いぶ)されたようで、白昼の黄昏に、気が遠くなるばかりである。
一同は杖に倚(よ)って、水涸れの富士川を瞰下(みおろ)しながら、しばらく息を吐く。
眼を落すと、わが山麓には、富士八湖の一なる本栖湖が、森の眼球のように、落ち窪んで小さく光っている。
「高山の雪」
米人ジョン・ミューア John Muirは、かつてヨセミテ谿谷 Yosemite Valleyの記を草して、このシエラ山は全く光より成れる観があると言って、シエラをば「雪の峰と呼んではいけない、光の峰と名づけた方がいい」と言ったが、雪のある峰であればこそ、光るので、我が富士山が光る山であるのは、雪の山であるためではあるまいか。
筑波山の紫は、花崗石の肌の色に負うことが多いが、富士山の冬の紫は、雪の変幻から生ずる色といっても大過はあるまい。
富士山の如きは、十月より四月頃までは不断の降雪があるが、一昨々年は五月十二日に五合目以上に降雪あり、一昨年は五月二十六日には山巓はなかろう。随って厳格に言えば、初雪という語は意義を成さないのである。
日本の山岳は、日本アルプスあたりでは、大洋より来る湿気を含める風が当って、降雪量は充分であるが、融ける分量の方が積る分量より多いのであるから、氷河という現象を作らない。富士山は日本では三千七百七十八米突という抜群の標高を有しているが、太平洋方面は黒潮が流れるほどの暖かさで、かつ冬季は霽め知り難いのである。
日本アルプスの中で、最も山形に変化の多いのは北アルプスで、それには乗鞍岳(三〇二六米突)や御嶽(三〇六五米突)のように、富士山を除いて、日本第一の大火山の噴出があったためもあるが、御嶽頂上の五個の池、乗鞍岳頂上の火口湖などに、絶えず美しい水を湛えているのも、また信飛地方の峡谷の水が、純美であるのも、雪から無尽蔵に供給するからである。
氷河は勿論だが、雪辷輝石富士岩に属しているそうだ。この熔岩の上を雪が辷った痕を見ると、滑らかな光沢があって、鏡のように光っている。これは御殿場口から須走口に入ろうとする森林の側の、大日沢という所にも発見される。
それだから、その擦痕も、水のは凹形になっているが、万年雪や氷河のは、凸形になっている、白馬岳の擦痕は、やはりこの凸形の方に属するらしく、富士で見たのは、いずれかと言えば凹形の方に属している。
日本高山の雪は、一体にどの方面に多いかというと、私が十月の末に富士山に登ったときの経験で見ると、この山は北の方面よりも、南の太平洋面に多い。それは、北風が強くて、雪を南に吹き飛ばすからである。
富士見えていよ/\朧月夜かな
※早稲田文学の俳諧六首(1894)から
「澳行日記」
四日朝右舷のかたに遠山雪の如く見ゆ。これアラビヤのフラテオーなるべし。正午にはアーデンの山々手に取るごとく見ゆ。三時に船は港に入りぬ。このところは山みな巌石にして火山の如く、富士のいたゞきのごとくにぞありける。さればたえて草木なく、いささかの流れだになければ水に乏しく、家ごとに平らかなる屋根を作り、ふる雨をうけとめてもらさじとすめり。港には蒸溜機械を具へたる船ありて、日毎に怠らず海水を蒸溜して真水とせり。
初旅にして大いなる富士を見し
雲表に富士立つ登路凍るなり
寒菊にあさの大富士澄めりけり
水霜に尿たらす富士覚めたれば
またたびや大沢崩れ雲の中
北斎に無き冨士聳てりつちぐもり
菜の花や海よりかげる薩摩富士
裏富士や男に憑きし碧揚羽
都庁舎へ富士の初雪見にのぼる
鼻先の脚にあんじん富士詣
湖へだつ不二真向にささげ干す
白富士を輪投げの的に裾野の子
「とはずがたり」
煙もいまは、絶え果てて見えねば 風にもなにかなびくべくとおぼゆ。
富士の嶺は恋を駿河の山なれば思ひありとぞ煙立つらん
杯すゑたる小折敷(をしき)に、書きてさしおこせたる、
思ひ立つ心は何のいろぞとも富士の煙の末ぞゆかしき
いと思はずに、情ある心地して、
富士のねは恋をするがの山なれば思ひありとぞ煙立つらん
馴れぬる名残は、これまでもひき捨てがたき心地しながら、さのみあるべきならねば、また立ち出でぬ。
裏富士や湖へ吹かるる草の絮
巨燵より見ればぞ不二もふじの山
お花から出現したかふじの山
朝富士の天窓(あたま)へ投げる早苗かな
行としもそしらぬ富士のけぶり哉
朝不二や屠蘇の銚子の口の先
有明や不二へ不二へと蚤のとぶ
浅草の不二を踏へてなく蛙
浅草や家尻の不二も鳴雲雀
浅草や朝飯前の不二詣
浅草や犬も供して不二詣
明ぬ間に不二十ばかり上りけり
打解る稀の一夜や不二の雪
朝不二やとそのてうしの口の先
今出来た不二をさつそく時鳥
起て見よ蠅出ぬ前の不二の山
一不二の晴れて立けり初茄子
貝殻の不二がちよぼちよぼ春の雨
けぶりさへ千代のためしや春の立
蝸牛とも気永に不士へ上る也
かたつぶりそろそろ登れ富士の山
蟷螂が不二の麓にかゝる哉
斯う斯うと虻の案内や不二詣
駒込の不二に棚引蚊やり哉
蜻蛉やはつたとにらむふじの山
雲霧もそこのけ富士を下る声
かけ声や雲おしのけて不二下る
神の代や不二の峰にも泊り宿
九合目の不二の初雪喰ひけり
腰押してくれる嵐や不二詣
駒込の不二に棚引蚊やり哉
小盥や不二の上なる心太
背戸の不二青田の風の吹過る
涼しさやどこに住でもふじの山
鶺鴒やゆるがしてみろふじの山
涼しさや五尺程でもお富士山
三尺の不二浅間菩薩かな
涼しさや一またぎでも不二の山
するがぢは蝶も見るらん不二の夢
涼しさやお汁の中も不二の山
新富士の祝義にそよぐ蚊やり哉
西行の不二してかざす扇哉
達磨忌や箒で書きし不二の山
つんとして白梅咲の不二派寺
ちよんぼりと不二の小脇の柳哉
田子の浦にうち出て不二見かゞし哉
なの花のとつぱづれ也ふじの山
夏のよや焼飯程の不二の山
初松魚序ながらも富士の山
ほやつゞきことさら不二のきげん哉
富士ばかり高みで笑ふ雪解哉
富士に似た雲よ雲とや鳴烏
不二の草さして涼しくなかりけり
富士の気で鷺は歩くや大またに
富士の気で跨げば草も涼しいぞ
富士見ゆる門とてほこる扇哉
富士おろし又吹け〜と蚊やり哉
ふぐ食わぬ人には見せな富士の山
初夢に猫も不二見る寝やう哉
初夢の不二の山売都哉
始るやつくば夕立不二に又
御関やとその銚子の不二へむく
またぐ程の不二へも行かぬことし哉
むさしのや不二見へぬ里もほたる時
むさしのは不二と鰹に夜が明ぬ
麦刈の不二見所の榎哉
夕不二に手をかけて鳴蛙哉
夕立に打任せたりせどの不二
鎗の間は富士の見所ぞ時鳥
夕不二に尻を並べてなく蛙
涼風もけふ一日の御不二哉
涼風はどこの余りかせどの不二
わか草や町のせどのふじの山
脇向て不二を見る也勝角力(かちずもう)
亀殿のいくつのとしぞ不二の山
夕富士の蒼き身じまい梅二月
赤富士に走る雪痕秋新た
遠富士へ朝日とどかず秋あざみ
春風の届いてをりし冨士山頂
赤富士の褪め山小屋の灯も消えて
先づ白き富士より霞み初めにけり
つつじ燃え伊豆の近か富士親しうす
月見草富士は不思議な雲聚め
赤富士にかつとをんなの内側を
吹きこもる樹林の風や葉月富士
冠雪の富士正面に入港す
富士の雲散つて裾野の小菊かな
初ゆめや富士で獏狩したりけり
横にして富士を手に持つ扇かな
「二日物語」
山林に身を苦しめ雲水に魂をあくがれさせては、墨染の麻の袂に春霞よし野の山の花の香を留め、雲湧き出づる那智の高嶺の滝の飛沫に網代小笠の塵垢を濯ぎ、住吉の松が根洗ふ浪の音、難波江の蘆の枯葉をわたる風をも皆御法説く声ぞと聞き、浮世をよそに振りすてゝ越えし鈴鹿や神路山、かたじけなさに涙こぼれつ、行へも知れず消え失する富士の煙りに思ひを擬へ、
「水の東京」
○竹屋の渡場は牛の御前祠の下流一町ばかりのところより今戸に渡る渡場にして、吾妻橋より上流の渡船場中(わたしばちゆう)最もよく人の知れるところなり。船に乗りて渡ること半途(なかば)にして眼を放てば、晴れたる日は川上遠く筑波を望むべく、右に長堤を見て、左に橋場今戸より待乳山を見るべし。もしそれ秋の夕なんど天の一方に富士を見る時は、まことにこの渡の風景一刻千金ともいひつべく、画人等の動(やや)もすればこの渡を画題とするも無理ならずと思はる。
○富士見の渡といふ渡あり。この渡はその名の表はすが如く最も好く富士を望むべし。夕の雲は火の如き夏の暮方、または日ざし麗らかに天清(す)める秋の朝なんど、あるいは黒々と聳え、あるいは白妙に晴れたるを望む景色いと神々(こうごう)しくして、さすがに少時(しばし)は塵埃(じんあい)の舞ふ都の中にあるをすら忘れしむ。
「突貫紀行」
ともかくも青森よりは遥(はるか)によろしく、戸数も多かるべし。肴町(さかなまち)十三日町賑(にぎわ)い盛(さかん)なり、八幡の祭礼とかにて殊更(ことさら)なれば、見物したけれど足の痛さに是非もなし。この日岩手富士を見る、また北上川の源に沼宮内より逢う、共に奥州にての名勝なり。
「菊 食物としての」
薬用になるといふのは必ず菊なら菊の其本性の気味を把握してゐることが強いからのことであらう。進歩は進歩だらうが、ダリヤのやうになつた菊よりは、本性の気味を強く把握してゐるものを得て見たい。そんなら野菊や山路菊や竜脳菊で足りるだらうと云はれゝばそれも然様(さよう)である、富士菊や戸隠菊を賞してそれで足りる、それも然様である。
「明治大学校歌」より
○霊峰不二を仰ぎつつ
刻苦研鑽他念なき
我等に燃ゆる希望あり
いでや東亜の一角に
時代の夢を破るべく
正義の鐘を打ちて鳴らさむ
正義の鐘を打ちて鳴らさむ
※児玉花外作詞/山田耕筰作曲
「人を殺す犬」
右手に十勝岳が安すッぽいペンキ画の富士山のように、青空にクッキリ見えた。そこは高地だったので、反対の左手一帯はちょうど大きな風呂敷を皺(しわ)にして広げたように、その起伏がズウと遠くまで見られた。
「めでたき風景」「油絵新技法」
春信や師宣の春画も立派な裸体群像だと私は考えていますが、猥感を主体としているために人前だけははばかる必要があるのです。
すなわち西洋画のみに限らずインドの仏像もギリシャの神様もロダン、マイヨール、ルノアールも、南洋の彫刻も師宣や春信も、裸体の美をしつこく表現しています。
しかしともかく私は自動車や汽車の相貌、花瓶や牡丹やメロンや富士山の相貌より以上のしつこさにおいて裸体ことに裸女の相形に興味を持っています。
「楢重雑筆」
この府庁の建物は明治の初めに出来た唯一の西洋館だといいます。この建物は古くてもう役に立たなくなったので、取りこぼつのだとか噂に聞きましたが、それが事実ならば惜しい事実であります。
大阪人はこんな古臭い円屋根など、ゆっくり眺めたことはないのでしょうけれども、この円屋根がなくなったら、この辺りの風景は、それこそ東海道から富士山が凹んでしまったくらいの退屈な光景になってしまうことでしょう。
とにかくこの付近をぶらぶら歩いていると、古物の大阪が随所に、確かに残っているので愉快です。
それでは触覚で作る芸術とは一体どんなものだろうかというと、まずそれはまったく写実を離れた造形芸術であることは確かだ。何しろ神経の端から伝わって来る触感がモティフとなるのだから、自然の模倣は出来ないことだ。またやってもつまらない、それはちょうど音楽と同じことだ。
例えば富士山と海のある風景の触感を味わいたいと思って、その山と海とを手で撫で廻してみることはとうてい不可能なことである。
「油絵新技法」
例えば、富士山と雲と、樹木と人家と岩とが画面の中央に於て竪の一直線となって重なり合ったとしたら如何にも図柄が変だと、誰れの心にも感じられるのである、こんな場合画家は歩けるだけ歩きまわって、富士山と樹木と雲と人家と岩とが何んとかお互によろしき配置を保つ様に見える場所を探さねばならないのである。
要するに結局、時代は如何に変遷しても日本画の展覧会は雲と波と鶴と何々八景と上代美人と仏像である。それでもしも日本画の展覧会を西欧都市で開催でもすると、日本に汽車はあるかと訊くところのタタミ、ハラキリ的西洋人はうっかりと東洋天国を夢想して今に吉祥天女在世の生活にあこがれ、日本人はことごとく南宋的山水の中で童子をしたがえて琴を弾じ、治兵衛は今も天満で紙屋をしているように思ってくれたりするかも知れない。そしてはるばるやって来ると富士山の下で天人がカフェーを開いているし、新開の東京にはフォーブとシュールレアリズムとプロレタリア芸術が喧嘩をしていたりするわけだから、少々ばかり驚くことだろう。