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2007年11月05日

五十嵐力

「我執轉々記」の「信濃路」より
またのろ/\と饒舌(しゃべ)りながら引いて行く。
「車屋さん、此の邊から名高い高山が見えるかね。」
「エヽ見えますともな。八ケ岳に穗高岳、それから飛騨の高山も見えます。富士山も見えます。晴れて居ますと、此の正面のあの山の間からな。エヽ/\……」


「我執轉々記」の「參宮」より
   朝熊岳の頂上より
昨日麓から二十二町の嶮路に身體中(からだぢゆう)の汗を絞つて、頂上の一軒旅館豆腐屋に着いたのは午後の四時半頃でありました。すぐ一浴して「十八亭」の一室に案内されました。「十八亭」は山鼻に建てられた凉臺式(すゞみだいしき)の離家(はなれや)で、そこから、伊勢、志摩、紀伊、尾張は云ふに及ぼず、秋冬の晴天には澄んだ空を透ほして、遠く富士、箱根から駒ケ嶽、御嶽、乗鞍、立山、白山まで都合十八ヶ國を一目に見渡し得るので、かくは名づけたのであります。


「我執轉々記」の「白帝城」より
此の谿には岩と水と樹木との美妙な調和を成した、かやうな絶景が、二三里切れ目なしに續いて居るといふことで、其の間に駱駝岩、猿岩、獅子岩、鳶岩、眼鏡岩、兜岩、綱干岩、川平の二つ岩、不二の瀬、觀音の瀬などいふ、いろ/\の岩や淵や瀬があり、山にも夕暮富士、伊木山、氷室山、瑞泉寺山、實積寺山など、數々あるが、一々の眺めは、とても筆の上に寫せることではない。


「我執轉々記」の「山彦」より
私は今まで平凡な單調な道を歩いて來たとはいふものの、それでも後に思ふと、幾度かの命拾ひをして居ります。それを回想して、「おれはあの時に臺灣で死んだ筈だ。」「富士の谷底に落ちた筈だ。」「あの病氣の折には死を傳へられて悔みに來られたことがあるぢやないか。」と思へば、世の中はのんきなものです。

   會遊の地で好かつた處をと蕁ねられて
富士と瀬戸内海を別として、まづ九州の阿蘇山の噴火ロと北海道登別(ぬぶるべつ)温泉の地獄谷とが浮かんで來ます。

2007年10月30日

井口丑二

「日本語源」
例へば富士山の『フジ』は埃乃の『火の山』といふのであるが、其は純粹日本語であつてクジフルダケ、即ち奇岳、火山のことであることがわかる。出雲も埃乃語を借るに及ばす出雲の字を正字として、即ち『イヅクモ』の約と見て何の不足もなく、差支もない。

2007年07月26日

今村一尤

「静岡県富士市立神戸(こうど)小学校 校歌」
○大富士晴れて 窓ひらく
 学びの庭に 朝がきた
 ひな鳥われら 声あげて
 希望のうたを うたおうよ
 きれいな 神戸小学校

※作詞今村一尤/作曲信時潔
※3番あるうちの1番

2007年07月23日

稲畑廣太郎

暖かき白さは富士の威容かな

2007年06月28日

石榑千亦

萬(よろず)のものみなひそまりて天つちは一つの不二となりにけるかも

2007年05月27日

伊藤長七

「長野県諏訪清陵高等学校 第一校歌」
○春城上の花霞 白帆のかげもほのかなる
 衣ヶ崎の朝ぼらけ 芙蓉の峰を望みては
 昔忍ぶの石垣に みやびの胸の通ふかな
○夏は湖水の夕波に 岸の青葉をうつしつつ
 オール執る手も勇ましく 漕ぐや天龍富士守屋
 げに海国の日の本の 男の子の意気ぞたのもしき

※8番のうちの2番と3番。
※伊藤長七作詞

2007年05月20日

泉田秋硯

赤富士の威容癇癪深く秘す

大河なす梅雨赤富士の余り水

2007年05月15日

石田東陵(石田羊一郎)

「望嶽」
萬古神霊宅
巍然鎮海東
浮嵐昏旦変
積雪夏冬同
千里遙相望
孤青尚未終
久懐凌絶頂
浩歌御天風

※萬古 神霊の宅
※巍然(ぎぜん)として海東を鎮む
※浮嵐(ふらん) 昏旦(こんたん)に変じ
※積雪 夏も冬も同じ
※千里 遙かに相望めば
※孤青 尚未だ終(つ)きず
※久しく懐う 絶頂を凌ぎ
※浩歌(こうか) 天風を御(ぎょ)さんと

※注)富士山を歌ったものか確認要。

2007年05月02日

井内佳代子

赤富士や一日一日を恙無く

2007年04月24日

井上健太郎

大菩薩峠にせまる黒き富士天の無音に聳えたちたり

2007年04月13日

池西言水

大年の富士見てくらす隠居かな

2007年04月11日

伊藤春畝(伊藤博文)

「日出」
日出扶桑東海隈
長風忽拂嶽雲來
凌霄一萬三千尺
八朶芙蓉當面開

*日は出づ 扶桑東海の隈(くま)
*長風 忽ち嶽雲を拂いて來る
*霄(そら)を凌ぐ 一萬三千尺
*八朶の芙蓉 當面に開く

2007年03月05日

岩野泡鳴

「毒薬を飲む女」
「どうです、田村君、あの歌沢は?」番組の第四が終ってから、博士は義雄に立ち話をした。
富士の白雪などは最も面白いじゃアありませんか?」
「ちょッとひねくれて、含蓄があるようなところが、ね、お宅で初めて聴いた時から面白い物だと思いました。」


「湖上を渡り艱みし蜻蛉に寄す」より
○比叡の御山は西にあり、
 近江の富士はその東、
 周囲七十五六里の
 岸辺は遠きたヾ中や、

※『霜じも』(1901)収録

2007年03月03日

石田比呂志

しかすがに今日は罷らん甲斐のくに不二がほのかに化粧している

2006年12月30日

泉鏡花

「白金之絵図」
坂下の下界の住人は驚いたろう。山の爺(おじ)が雲から覗く。眼界濶然(かつぜん)として目黒に豁(ひら)け、大崎に伸び、伊皿子(いさらご)かけて一渡り麻布を望む。烏は鴎が浮いたよう、遠近(おちこち)の森は晴れた島、目近(まぢか)き雷神の一本の大栂(おおとが)の、旗のごとく、剣のごとく聳えたのは、巨船天を摩す柱に似て、屋根の浪の風なきに、泡の沫か、白い小菊が、ちらちらと日に輝く。白金(しろがね)の草は深けれども、君が住居(すまい)と思えばよしや、玉の台(うてな)は富士である。


「悪獣篇」
見よ、南海に巨人あり、富士山をその裾に、大島を枕にして、斜めにかかる微妙の姿。青嵐(あおあらし)する波の彼方に、荘厳なること仏のごとく、端麗なること美人に似たり。


「南地心中」
初阪(はつざか)ものの赤毛布(あかげっと)、という処を、十月の半ば過ぎ、小春凪(こはるなぎ)で、ちと逆上(のぼ)せるほどな暖かさに、下着さえ襲(かさ)ねて重し、野暮な縞も隠されず、頬被りがわりの鳥打帽で、朝から見物に出掛けた……この初阪とは、伝え聞く、富士、浅間、大山、筑波、はじめて、出立つを初山と称(とな)うるに傚(なら)って、大阪の地へ初見参(ういけんざん)という意味である。

電車の塵も冬空です……澄透った空に晃々(きらきら)と太陽(ひ)が照って、五月頃の潮(うしお)が押寄せるかと思う人通りの激しい中を、薄い霧一筋、岸から離れて、さながら、東海道で富士を視(なが)めるように、あの、城が見えたっけ。


「神鷺之巻」
話は別にある。今それを言うべき場合でない。築地の料理店梅水の娘分で、店はこの美人のために賑った。早くから銑吉の恋人である。勿論、その恋を得たのでもなければ、意を通ずるほどの事さえも果さないうちに、昨年の夏、梅水が富士の裾野へ暑中の出店をして、避暑かたがた、お誓がその店を預ったのを知っただけで、この時まで、その消息を知らなかった次第なのである。……

――昨年、店の都合で裾野の方へ一夏まいりまして、朝夕、あの、富士山の景色を見ますにつけ……ついのんびりと、一人で旅がしてみたくなったんです。一体出不精な処へ、お蔭様、店も忙しゅうございますし、本所の伯父伯母と云った処で、ほんの母がたよりました寄親(よりおや)同様。これといって行(ゆ)きたい場所も知りませんものですから、旅をするなら、名ばかりでも、聞いただけ懐しい、片原を、と存じまして、十月小春のいい時候に、もみじもさかり、と聞きました。……


「燈明之巻」
いやどこも不景気で、大したほまちにはならないそうだけれど、差引一ぱいに行けば、家族が、一夏避暑をする儲けがある。梅水は富士の裾野――御殿場へ出張した。
そこへ、お誓が手伝いに出向いたと聞いて、がっかりして、峰は白雪、麓は霞だろう、とそのまま夜這星の流れて消えたのが――もう一度いおう――去年の七月の末頃であった。


「半島一奇抄」
――「当修善寺から、口野浜(くちのはま)、多比(たひ)の浦、江の浦、獅子浜(ししはま)、馬込崎と、駿河湾(するがわん)を千本の松原へ向って、富士御遊覧で、それが自動車と来た日には、どんな、大金持ちだって、……何、あなた、それまでの贅沢(ぜいたく)でございますよ。」と番頭の膝(ひざ)を敲(たた)いたのには、少分の茶代を出したばかりの記者は、少からず怯(おびや)かされた。

富士が浮いた。……よく、言う事で――佐渡ヶ島には、ぐるりと周囲に欄干(まわり)があるか、と聞いて、……その島人に叱られた話がある。が、巌山(いわやま)の巉崕(ざんがい)を切って通した、栄螺(さざえ)の角(つの)に似たぎざぎざの麓(ふもと)の径(こみち)と、浪打際との間に、築繞(つきめぐ)らした石の柵(しがらみ)は、土手というよりもただ低い欄干に過ぎない。
「お宅の庭の流(ながれ)にかかった、橋廊下の欄干より低いくらいで、……すぐ、富士山の裾(すそ)を引いた波なんですな。よく風で打(ぶ)つけませんね。」

「その居士(こじ)が、いや、もし……と、莞爾々々(にこにこ)と声を掛けて、……あれは珍らしい、その訳じゃ、茅野(ちの)と申して、ここから宇佐美の方へ三里も山奥の谷間(たにあい)の村が竹の名所でありましてな、そこの講中が大自慢で、毎年々々、南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)でかつぎ出して寄進しますのじゃ……と話してくれました。……それから近づきになって、やがて、富士の白雪あさ日でとけて、とけて流れて三島へ落ちて、……ということに、なったので。」


「婦系図」
富士の山と申す、天までとどく山を御目にかけまするまで、主税は姫を賺(すか)して云った。

窓の外は、裾野の紫雲英(げんげ)、高嶺(たかね)の雪、富士皓(しろ)く、雨紫なり。

この富士山だって、東京の人がまるっきり知らないと、こんなに名高くはなりますまい。

県庁、警察署、師範、中学、新聞社、丸の内をさして朝ごとに出勤するその道その道の紳士の、最も遅刻する人物ももう出払って、――初夜の九時十時のように、朝の九時十時頃も、一時(ひとしきり)は魔の所有(もの)に寂寞(ひっそり)する、草深町は静岡の侍小路を、カラカラと挽いて通る、一台、艶やかな幌に、夜上りの澄渡った富士を透かして、燃立つばかりの鳥毛の蹴込み、友染の背当てした、高台細骨の車があった。

薄萌葱の窓掛を、件の長椅子(ソオフア)と雨戸の間(あい)へ引掛けて、幕が明いたように、絞った裙(すそ)が靡(なび)いている。車で見た合歓(ねむ)の花は、あたかもこの庭の、黒塀の外になって、用水はその下を、門前の石橋続きに折曲って流るるので、惜いかな、庭はただ二本(ふたもと)三本(みもと)を植棄てた、長方形の空地に過ぎぬが、そのかわり富士は一目。

「こうこう、姉え、姉え、目を開いて口を利きねえ。もっとも、かっと開いたところで、富士も筑波も見えるかどうだか、覚束ねえ目だけれどよ。はははは、いくら江戸前の肴屋だって、玄関から怒鳴り込む奴があるかい。

嗜(たしなみ)も気風もこれであるから、院長の夫人よりも、大店向(おおだなむき)の御新姐(ごしんぞ)らしい。はたそれ途中一土手田畝道(たんぼみち)へかかって、青田越に富士の山に対した景色は、慈善市(バザア)へ出掛ける貴女(レディ)とよりは、浅間の社へ御代参の御守殿という風があった。

扉(ドア)を開放した室の、患者無しに行抜けの空は、右も左も、折から真白な月夜で、月の表には富士の白妙、裏は紫、海ある気勢(けはい)。停車場の屋根はきらきらと露が流れて輝く。

右隣が空いた、富士へ向いた病室の前へ来ると、夫人は立留って、白衣は左右に分れた。

さて母屋の方は、葉越に映る燈(ともしび)にも景気づいて、小さいのが弄ぶ花火の音、松の梢に富士より高く流星も上ったが、今は静(しずか)になった。


「縷紅新草」
今朝六時頃、この見附を、客人で通りました時は、上下、左右すれ違うとサワサワと音がします。青空、青山、正面の雪の富士山の雲の下まで裾野を蔽うといいます紫雲英(げんげ)のように、いっぱいです。赤蜻蛉に乗せられて、車が浮いて困ってしまいました。


「草迷宮」
件の大崩壊(おおくずれ)の海に突出でた、獅子王の腹を、太平洋の方から一町ばかり前途(ゆくて)に見渡す、街道端の――直ぐ崖の下へ白浪が打寄せる――江の島と富士とを、簾に透かして描いたような、ちょっとした葭簀張(よしずばり)の茶店に休むと、媼(うば)が口の長い鉄葉(ブリキ)の湯沸(ゆわかし)から、渋茶を注いで、人皇(にんのう)何代の御時(おんとき)かの箱根細工の木地盆に、装溢(もりこぼ)れるばかりなのを差出した。

旅僧は先祖が富士を見た状(さま)に、首あげて天井の高きを仰ぎ、


「蛇くひ」
此處(こゝ)往時(むかし)北越名代(なだい)の健兒(けんじ)、佐々成政の別業(べつげふ)の舊跡(あと)にして、今も殘れる築山は小富士と呼びぬ。


「貝の穴に河童の居る事」
「……諏訪――の海――水底(みなそこ)、照らす、小玉石――手には取れども袖は濡(ぬら)さじ……おーもーしーろーお神楽らしいんでございますの。お、も、しーろし、かしらも、白し、富士の山、麓の霞――峰の白雪。」

「それでは、お富士様、お諏訪様がた、お目かけられものかも知れない――お待ち……あれ、気の疾い。」


「逗子だより」
これより、「爺(ぢゞ)や茶屋」「箱根」「原口の瀧」「南瓜軒(なんくわけん)」「下櫻山(しもさくらやま)」を經(へ)て、倒富士(さかさふじ)田越橋(たごえばし)の袂(たもと)を行けば、直(すぐ)にボートを見、眞帆(まほ)片帆(かたほ)を望む。

臺所(だいどころ)より富士見(み)ゆ。露の木槿(むくげ)ほの紅う、茅屋(かやや)のあちこち黒き中に、狐火かとばかり灯の色沈(しづ)みて、池子の麓砧(きぬた)打つ折から、妹(いも)がり行くらん遠畦(とほあぜ)の在郷唄(ざいがううた)、盆過ぎてよりあはれさ更にまされり。


「逗子より」
尤も、海に参り候、新宿なる小松原の中よりも、遠見に其の屋根は見え候を、後に心づき候へども、旗も鳥居もあるにこそ、小やかなる茅屋とて、たゞ山の上の一軒家とのみ、あだに見過ごされ申すべく、況して海水帽あひ望み、白脛、紅織るが如くに候をや、道心御承知の如き小生すら、時々富士の雪の頂さへ真正面に見落して、浴衣に眼を奪はれ候。


「雛がたり」
時に蒼空(あおぞら)に富士を見た。

2006年08月14日

石田波郷

初富士やことなきに似て甍満つ

初富士へ荒濤船を押しあぐる

※「押しあげる」の資料もあり。

初富士や蜜柑ちりばめ蜜柑山

2006年07月11日

池内友次郎

夕富士の刻刻変る麦を蒔く

2006年07月10日

池田澄子

そよ風が肌を乾かす逆さ富士

2006年06月11日

石嶌岳

白玉や一日富士を目の前に

初富士や箔一枚を置くごとし

石塚友二

富士颪まともに刈田鴉かな

2006年06月10日

石川青幽

夜を青く富士しづもりて魂まつり

石川英利

初富士の大きく見ゆるところまで

2006年06月09日

石原八束

露の彩動き赤富士現じけり

石原透

初刷や富士を二つに折りたたみ

2006年06月08日

石橋辰之助

柴漬や夕富士夙に見失ふ

石丸恭子

大富士を視野いつぱいに袋掛

2006年06月07日

石井健作

ふらここのあるとき富士を足蹴にす

石井とし夫

初富士や宗吾の渡舟波立たず

2006年05月11日

市丸利之助

紺青の駿河の海に聳えたる
  紫匂ふ冬晴れの富士

垂れこめし雲中腹に凝結し
  忽ち白く抜けいづる富士

夕靄の伊豆を包みて海原も
  富士も縹に冬の日暮れぬ

野も山も包み了りて春霞
  包みあませる富士の白雪

厩にして富士ははるかに遠ざかり
  機は一文字南の島

2006年05月03日

市村究一郎

富士颪わけて細枝の寄生木は

野に低き初富士にして畦照らす

2006年04月25日

今瀬剛一

初富士が車窓にありて誰も言はず

今橋眞理子

初空へ雲を放ちて富士現るる

冬濤ヘカーブを切れば富士のあり

寒濤に富士立ち上がる如くあり

今井千鶴子

ベランダの椅子に大きな富士の闇

夕富士を見つつ帰らん日は永き

2006年04月23日

石川丈山

「富士山」
仙客来遊雲外巓
神龍棲老洞中淵
雪如■素煙如柄
白扇倒懸東海天

※■(糸へんに丸)

※仙客来たり遊ぶ 雲外の巓
 神龍棲み老ゆ 洞中の淵
 雪はがんその如く 煙は柄の如し
 白扇倒(さかしま)に懸かる 東海の天

2006年04月16日

岩下ただを

雁渡し富士を遠見に父母の墓

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岩間民子

目刺青し富士麓までよく見える

岩淵晃三

ひと刷けの土牛の富士の淑気かな

岩松草泊

野は夕焼富士晴れてゆく晴れてゆく

2006年04月13日

飯田龍太

強霜の富士や力を裾までも

裏富士の月夜の空を黄金虫

紅梅や富士充実の白に満ち

夏富士のひえびえとして夜を流す


飯田龍太 について

飯田蛇笏

ある夜月に 富士大形の 寒さかな

初富士や樹海の雲に青鷹(もろがへり)

裏富士のすそ野ぐもりに別れ霜

富士垢離のほそぼそたつるけむりかな


飯田蛇笏

飯利勝郎

草田男忌夕星(ゆうづつ)肩に男富士

2006年04月10日

池田隣

朝富士のしずもる山湖冬に入る

池田二三子

峠路に富士を大きく初景色

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2006年04月06日

石谷秀子

赤富士の前落葉松は露こぼす

石寒太

笠雲の富士遠くみて母憶ふ

2006年03月30日

今村泗水

落葉松の上の月夜富士見て湯ざめ

今村一夜

大いなるあゆみなりしよ葉月富士

2006年03月27日

伊沢修二

「あふきみよ」
○あふぎみよ
 ふじのたかねのいやたかく
 ひいづるくにのそのすがた
○みよやひと
 あさひににほふさくらにぞ
 やまとごゝろはあらハるゝ

※伊沢修二作詞作曲

2006年03月26日

巖谷小波(巌谷小波)

富士山
○我(わが)日本(にっぽん)に山あり 富士と云ふ。
 日本に二つなき山。
 冬は只 仰げ仰げ、
 仰げば雪を 戴きて、
 眼(まなこ)を射る
 白扇、さかさまなり。
○我日本に山あり 富士と云ふ。
 日本に二つなき山。
 夏はいざ 登れ登れ。
 登れば雲に 擢(ぬきん)でゝ。
 面(おもて)を吹く
 天風(てんぷー) ひやゝかなり。

※巌谷小波作詞/東儀鉄笛作曲
※「お伽唱歌」(明治40)に収録


秋晴や富士明に水鏡

三日程富士も見えけり松の内


ふじの山
○あたまを雲の上に出し
 四方の山を見おろして
 かみなりさまを下にきく
 ふじは日本一の山
○青ぞら高くそびえたち
 からだに雪のきものきて
 かすみのすそをとおくひく
 ふじは日本一の山

※巖谷小波(いわやさざなみ)作詞/作曲者不詳/文部省唱歌

2006年03月18日

磯部勇吉

雪富士を列車の窓に連れて行く

2006年03月16日

E・S・モース(Edward Sylvester Morse)

「日本その日その日(Japan Day by Day)」
山を描くにあたっては、どの国の芸術家も傾斜を誇張する――即ち山を実際よりも遥かに険しく描き表す――そうである。日本の芸術家も、確かにこの点を誤る。少なくとも数週間にわたる経験(それは扇、広告その他の、最もやすっぽい絵描のみに限られているが)によると、富士の絵が皆大いに誇張してあることによって、この事実が判る。私はふと、隣室の学生達に富士の傾斜を記憶によって描いて貰おうと思いついた。

私は髪に鋏を入れては山にあてがって見て、ついに輪郭がきちんと合う迄に切り、そこで隣の部屋にはいって、通訳を通じて、できるだけ正確な富士の輪郭を描くことを学生達に依頼した。私は紙四枚に、私の写生図における底線と同じ長さの線を引いたのを用意した。これ等の青年はここ数週間、一日に何十遍となく富士を眺め、測量や製図を学び、角度、図の弧等を承知している上に、特に、斜面を誇張しないようにとの、注意を受けたのである。

彼等は不知不識、子供の時から見慣れてきたすべての富士山の図の、急な輪郭を思い浮かべたのである。


※E・S・モース著/石川欣一訳
※旧仮名遣いや漢字は、一部現代向けに(恣意的に)直した。「絵書」→「絵描」などを含む。

2006年03月12日

井上井月

富士にたつ 霞程よき 裾野かな

方角を富士に見てゆく花野かな

富士に日の匂ふ頃なり時鳥

雪ながら富士は今年のものらしき

井上井月(いのうえせいげつ)について

稲野博明

裏富士のたちまち暮るる蛇笏の忌

稲野博明

裏富士のたちまち暮るる蛇笏の忌

稲垣晩童

富士すこし見ゆ町裏の小六月

井本農一

頂きが少し赤富士雁の声

井沢正江

火祭に富士講の灯も天駈くる

大富士の面よりおこり雪起し

から松の上の富士の上の露の天

富士の辺に烽火の入日実朝忌

依田由基人

裏富士の湖鏡なす春の霜

宵闇の五湖をしりぞけ富士聳ゆ

初冨士の裾広く展べ湖に果つ

蛇笏忌や富士の夕空がらんどう

遠富士の初雪父母の墓洗ふ

井桁汀風子

初富士にたちまちこころきまりけり

伊藤柏翠

火祭の夜空に富士の大いさよ

富士の裾雲より垂れて麦の秋

大富士の暮れ去りてより春の月

伊藤通明

冬空に掴まれて富士立ち上る

伊藤霜楓

岩つばめ富士を暁色走りをり

飛雪尾根声あげて声奪はる
※長田尾根建設記念碑

伊藤雪男

きょうはきょうの富士で晴れている刈田の薄氷

伊藤京子

梨花満てり夜空の奥の伯耆富士

伊東余志子

富士に雪来にけり銀木犀匂ふ

伊藤敬子

絹扇ひらくかたちに富士花野

今日夏至の富嶽を夜も賜ひけり

初富士の胸わたりゆく雲の翳

伊藤啓子について

井原西鶴

「浮世栄花一代男」
我大願あつて冨士山に参詣ゆくと宿を立出是を養生の種として。ひさしくたよりもせざりしを此女深く恨ミ。せめてうき世をわする事とて毎夜あまた女をあつめ。気の浮立はなしに大笑ひ聞えければ忍之介折ふし此里一見に通りあハせ。何事やらんと立入ける男なしの女ばかり寄合奥さまをいさめて不義なる事を取集めて語りけるに。後にハいろを替てひとりひとり上気して。お座にたまりかねてそれそれの寝所にことかけなるうきを晴しける。


「日本永代蔵」
雪のうちにハ壺の口を切水仙の初咲なげ入花のしほらしき事共。いつならひ初られしも見えざりしが銀さへあれバ何事もなる事ぞかし。此人前後にかハらず一生悋くハ。冨士を白銀にして持たれバとて武蔵のゝ土羽芝の煙となる身を知て老の入前かしこく取置。


「男色大鑑(なんしょくおおかがみ)」
神鳴の孫介さゝ波金碇。くれなゐの龍田今不二の山。京の地車平野の岸くづし。寺島のしだり柳綿屋の喧嘩母衣。座摩の前の首白尾なし公平。此外名鳥かぎりなく其座にしてつよきを求て。あたら小判を何程か捨ける。


冨士のけぶりしかけで廻り灯籠哉

冨士は礒扇流の夕かな

はたち計冨士の烟やわかたばこ

2006年03月11日

稲畑汀子

富士の山青く裾引く夏の空

秋燕の富士の高さを越えにけり

赤富士の片鱗を見て足らへしと

伊藤信徳

富士に傍て三月七日八日かな

伊藤松宇

真ん中に富士聳えたり国の春

伊藤春男

笠雲の笠をずらして秋の富士

伊藤郁男

冬麗の富士中腹の雪煙

伊藤白潮

赤人の詠みし火の富士いま雪解

腰の鈴よく鳴ることよ富士導者

伊藤白潮について

2006年03月08日

磯貝碧蹄館

腕二本振りて歩めば二月富士

外套を脱ぐバルザック富士が立つ

五百木瓢亭

五月晴の富士の如くにあらせられ

※五百木瓢亭(いおぎひょうてい)

2006年03月07日

伊藤アキラ

「きた!きた!とっきゅう」より
○おだきゅうあさぎり ふじさんみえた
 とうぶスペーシア こしつでパーティー
 きんてつとっきゅう アーバンライナー
 めいてつとっきゅう パノラマスーパー

※伊藤アキラ作詞/勝誠二作曲/窓花さなえ唄

2006年01月24日

伊藤左千夫

不士の野に五里をめくりつ水海の沖にはこやの山を見にけり
久方の三ケ月の湖ゆふ暮れて富士の裾原雲しづまれ


「野菊の墓」
茄子畑というは、椎森の下から一重の藪を通り抜けて、家より西北に当る裏の前栽畑。崖の上になってるので、利根川は勿論中川までもかすかに見え、武蔵一えんが見渡される。秩父から足柄箱根の山山、富士の高峯(たかね)も見える。東京の上野の森だと云うのもそれらしく見える。