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2006年01月28日

小出楢重

「めでたき風景」「油絵新技法」
春信や師宣の春画も立派な裸体群像だと私は考えていますが、猥感を主体としているために人前だけははばかる必要があるのです。
すなわち西洋画のみに限らずインドの仏像もギリシャの神様もロダン、マイヨール、ルノアールも、南洋の彫刻も師宣や春信も、裸体の美をしつこく表現しています。
しかしともかく私は自動車や汽車の相貌、花瓶や牡丹やメロンや富士山の相貌より以上のしつこさにおいて裸体ことに裸女の相形に興味を持っています。


「楢重雑筆」
この府庁の建物は明治の初めに出来た唯一の西洋館だといいます。この建物は古くてもう役に立たなくなったので、取りこぼつのだとか噂に聞きましたが、それが事実ならば惜しい事実であります。
大阪人はこんな古臭い円屋根など、ゆっくり眺めたことはないのでしょうけれども、この円屋根がなくなったら、この辺りの風景は、それこそ東海道から富士山が凹んでしまったくらいの退屈な光景になってしまうことでしょう。
とにかくこの付近をぶらぶら歩いていると、古物の大阪が随所に、確かに残っているので愉快です。

それでは触覚で作る芸術とは一体どんなものだろうかというと、まずそれはまったく写実を離れた造形芸術であることは確かだ。何しろ神経の端から伝わって来る触感がモティフとなるのだから、自然の模倣は出来ないことだ。またやってもつまらない、それはちょうど音楽と同じことだ。
例えば富士山と海のある風景の触感を味わいたいと思って、その山と海とを手で撫で廻してみることはとうてい不可能なことである。

「油絵新技法」
例えば、富士山と雲と、樹木と人家と岩とが画面の中央に於て竪の一直線となって重なり合ったとしたら如何にも図柄が変だと、誰れの心にも感じられるのである、こんな場合画家は歩けるだけ歩きまわって、富士山と樹木と雲と人家と岩とが何んとかお互によろしき配置を保つ様に見える場所を探さねばならないのである。

要するに結局、時代は如何に変遷しても日本画の展覧会は雲と波と鶴と何々八景と上代美人と仏像である。それでもしも日本画の展覧会を西欧都市で開催でもすると、日本に汽車はあるかと訊くところのタタミ、ハラキリ的西洋人はうっかりと東洋天国を夢想して今に吉祥天女在世の生活にあこがれ、日本人はことごとく南宋的山水の中で童子をしたがえて琴を弾じ、治兵衛は今も天満で紙屋をしているように思ってくれたりするかも知れない。そしてはるばるやって来ると富士山の下で天人がカフェーを開いているし、新開の東京にはフォーブとシュールレアリズムとプロレタリア芸術が喧嘩をしていたりするわけだから、少々ばかり驚くことだろう。

黒島伝治

「名勝地帯」
そこは、南に富士山を背負い、北に湖水をひかえた名勝地帯だった。海抜、二千六百尺。湖の中に島があった。
見物客が、ドライブしてやって来る。何とか男爵別荘、何々の宮家別邸、缶詰に石ころを入れた有名な奴の別荘などが湖畔に建っていた。

国木田独歩

「武蔵野」
十一月四日――「天高く気澄む、夕暮に独り風吹く野に立てば、天外の富士近く、国境をめぐる連山地平線上に黒し。星光一点、暮色ようやく到り、林影ようやく遠し」

同二十七日――「昨夜の風雨は今朝なごりなく晴れ、日うららかに昇りぬ。屋後の丘に立ちて望めば富士山真白ろに連山の上に聳(そび)ゆ。風清く気澄めり。
げに初冬の朝なるかな。
田面(たおも)に水あふれ、林影倒(さかしま)に映れり」

同じ路を引きかえして帰るは愚である。迷ったところが今の武蔵野にすぎない、まさかに行暮れて困ることもあるまい。帰りもやはりおよその方角をきめて、べつな路を当てもなく歩くが妙。そうすると思わず落日の美観をうることがある。日は富士の背に落ちんとしていまだまったく落ちず、富士の中腹に群(むら)がる雲は黄金色に染まって、見るがうちにさまざまの形に変ずる。連山の頂は白銀の鎖のような雪がしだいに遠く北に走って、終は暗憺(あんたん)たる雲のうちに没してしまう。

また武蔵野の味を知るにはその野から富士山、秩父山脈国府台等を眺めた考えのみでなく、またその中央に包まれている首府東京をふり顧(かえ)った考えで眺めねばならぬ。そこで三里五里の外に出で平原を描くことの必要がある。

また東のほうの平面を考えられよ。これはあまりに開けて水田が多くて地平線がすこし低いゆえ、除外せられそうなれどやはり武蔵野に相違ない。亀井戸(かめいど)の金糸堀(きんしぼり)のあたりから木下川辺(きねがわへん)へかけて、水田と立木と茅屋(ぼうおく)とが趣をなしているぐあいは武蔵野の一領分である。ことに富士でわかる。富士を高く見せてあだかも我々が逗子の「あぶずり」で眺むるように見せるのはこの辺にかぎる。また筑波でわかる。筑波の影が低く遥かなるを見ると我々は関(かん)八州の一隅に武蔵野が呼吸している意味を感ずる。

木下杢太郎

「少年の死」
かう云ふ懊惱(あうなう)が富之助を痩せさせる間に、三日經ち五日經つた。
船に一杯の石油を積み、それに爆發物を載せて、夜の海上に船を爆發させ、それと共に死なうなどと空想したこともあつた。
或は富士の人穴のやうな誰も知らない洞の奧に這入つて、死後も人に見付からないやうに死なうかとも考へた。

蒲原有明

「松浦あがた」
南、島原半島の筑紫富士(温泉岳)と遥にあひたいし、小城(をぎ)と東松浦との郡界の上に聳え、有明海沿岸の平野を圧するものを天山(てんざん)――また、あめやまともいふ――となす。この山ことに高しとにはあらざれども、最(もつとも)はやく雪を戴くをもて名あり。蓋(けだ)しその絶巓(いただき)は玄海洋(げんかいなだ)をあほり来る大陸の寒風の衝(つ)くに当ればなり。

いかづち夕に天半(なかぞら)を過ぐ、烏帽子、国見の山脈に谷谺(こだま)をかへせしその響は漸く遠ざかれり、牧島湾頭やがて面より霽れたれども、退く潮の色すさまじく柩を掩ふ布のごとき雲の峯々の谷間に埋れゆくも懶(ものう)げなり。くしや、この黄昏の空より吹きおろす秋風は遽(にはか)に万点の火を松浦富士(越岳(こしだけ))の裾野に燃しいでたる。

この阜のいただきに公園地あり、木の下道清く掃(はら)ひて、瀟洒なる茶亭を設く。呼子湾を圧するながめこころよし。ここよりは小川、加唐(かから)の島々をも指点しうるべく、東南の空はるかに筑紫富士をのぞむ。

北村透谷

「蓬莱曲別篇」より
慈航湖(じこふのうみ)
 (露姫玉棹を遣ひ素雄失心して)
 (船中に在り)
露、   これは慈航の湖(うみ)の上、波穏かに、水滑らかに、岩静かに、水鳥の何気なく戯(た)はれ泳げる、松の上に昨夜(ゆふべ)の月の軽く残れる、富士の白峯(しらね)に微(かす)けく日光(ひのめ)の匐(は)ひ登れる、おもしろき此処の眺望(ながめ)を打捨てゝ、
いざ急がなん西の國。


富嶽の詩神を思ふ」より
 白雲、黒雲、積雪、潰雪(くわいせつ)、閃電(せんでん)、猛雷、是等のものを用役し、是等のものを使僕し、是等のものを制御して而して恒久不変に威霊を保つもの、富嶽(ふがく)よ、夫れ汝か。渡る日の影も隠ろひ、照る月の光も見えず、昼は昼の威を示し、夜は夜の威を示す、富嶽よ汝こそ不朽不死に邇(ちか)きものか。汝が山上の浮雲よりも早く消え、汝が山腹の電影よりも速に滅する浮世の英雄、何の戯れぞ。
 遠く望めば美人の如し。近く眺れば威厳ある男子なり。アルプス山の大欧文学に於ける、わが富嶽の大和民族の文学に於ける、淵源(えんげん)するところ、関聯するところ、豈(あに)寡(すくな)しとせんや。遠く望んで美人の如く、近く眺めて男子の如きは、そも我文学史の証しするところの姿にあらずや。アルプスの崇厳、或は之を欠かん、然れども富嶽の優美、何ぞ大に譲るところあらん。われはこの観念を以て我文学を愛す。富嶽を以て女性の山とせば、我文学も恐らく女性文学なるべし。雪の衣を被(かつ)ぎ、白雲の頭巾を冠りたる恒久の佳人、われはその玉容をたのしむ。
 尽きず朽ちざる詩神、風に乗り雲に御して東西を飄遊し玉へり。富嶽駿河の国に崛起(くつき)せしといふ朝、彼は幾億万里の天崕(てんがい)よりその山巓(さんてん)に急げり、而して富嶽の威容を愛するが故に、その殿居に駐(とゞ)まり棲みて、遂に復(ま)た去らず。是より風流の道大に開け、人麿赤人より降(くだ)つて、西行芭蕉の徒、この詩神と逍遙するが為に、富嶽の周辺を往返して、形(けい)なく像なき紀念碑を空中に構設しはじめたり。詩神去らず、この国なほ愛すべし。詩神去らず、人間なほ味(あぢはひ)あり。


「楚囚(そしゆう)之詩」より
彼は余と故郷を同じうし、
 余と手を携へて都へ上りにき――
京都に出でゝ琵琶を後(あと)にし
 三州の沃野(よくや)を過(よぎ)りて、浜名に着き、
富士の麓に出でゝ函根(はこね)を越し、
 遂に花の都へは着(つき)たりき、

兎(と)は言へ、猶(な)ほ彼等の魂(たま)は縛られず、
 磊落(らいらく)に遠近(おちこち)の山川に舞ひつらん、
 彼の富士山の頂に汝の魂(たま)は留(とどま)りて、
 雲に駕し月に戯れてありつらん、
嗚呼何ぞ穢(きた)なき此の獄舎(ひとや)の中に、
 汝の清浄なる魂(たま)が暫時(しばし)も居(お)らん!


「富士山遊びの記憶」より
二十(六)七日 早朝亭を立出でゝ南の方富士の裾野へ進みけり強力の携えし品ハ長どてら一枚、別製鞋四足今日の弁当翌朝の餅等なり、

2006年01月25日

嘉村礒多

「滑川畔にて」
ユキは少女時代を瀬戸内海に沿うた漁師町で成長したから、さして水の上が珍らしくないであらうが、私は山國育ちで、こんな小舟に棹したことさへ、半生にないのである。私は舷に凭れてぢつと蒼い水面に視入つた。ふと頭を上げて遙の遠くに、富士や箱根や熱海の、淡い靄につゝまれた緑青色の連山の方をも眺めた。島の西浦の、蓊鬱と茂つた巨木が長い枝を垂れて、その枝から更に太い葛蘿(つたかづら)が綱梯子のやうに長く垂れた下の渚近くをめぐつて、棧橋のそばの岸で私達は舟を棄てた。

二人は、身體を捩ぢて、窓外の七里ヶ濱の高い浪を見た。帆かけ舟が一艘、早瀬の上を流れてゐた。
「七里ヶ濱ですか。ほれ中學の生徒のボートが沈没したといふのはここですね。……眞白き富士の嶺、みどりの江の島、仰ぎ見るも今は涙――わたしたちの女學生時代には大流行でしたよ。」
「なるほど、僕らも歌つた、歌つた。古いことだね。」

葛西善蔵

「浮浪」
「大船で乗替へて向うへ着くと十二時一寸過ぎになるんだが、宿屋で起きるか知ら?……」と私は話しかけたが、
「さうですかねえ」と、襟に頤を埋めて、黙りこくつた表情を動かさなかつた。
 やはり十四五年前富士登山の時、山を下りて腹を痛めて一週間ばかし滞在してゐたずつと町の奥の、古風なF屋と云ふ宿屋の落付いた室が思ひ出されたりした。

押川春浪

「本州横断 癇癪徒歩旅行」
あすここそ頂上に相違ないと、余りの嬉しさに周章(あわ)てたものか、吾輩は巌角(いわかど)から足踏み滑らして十分(したたか)に向脛(むこうずね)を打った。痛い痛いと脛を撫でつつ漸くそこに達し、拝殿にも上らず、直ちにその後(うしろ)の丘の上に駆け上ると、ここぞ海抜三千三百三十三尺、高さからいえば富士山の三分の一位のものであるが、人跡余り到らぬ常州第一の深山八溝山の絶頂である。

尾崎紅葉

「金色夜叉」
「どうぞ此方(こちら)へお出あそばしまして。ここが一番見晴が宜いのでございます」
「まあ、好い景色ですことね! 富士が好く晴れて。おや、大相木犀(もくせい)が匂ひますね、お邸内(やしきうち)に在りますの?」

鋳物の香炉の悪古(わるふる)びに玄(くす)ませたると、羽二重細工の花筐(はなかたみ)とを床に飾りて、雨中の富士をば引攪旋(ひきかきまは)したるやうに落墨して、金泥精描の騰竜(のぼりりゆう)は目貫を打つたるかとばかり雲間に耀(かがや)ける横物の一幅。

一村十二戸、温泉は五箇所に涌きて、五軒の宿あり。ここに清琴楼と呼べるは、南に方(あた)りて箒川の緩く廻れる磧(かはら)に臨み、俯しては、水石(すいせき)はりんりんたるを弄び、仰げば西に、富士、喜十六(きじゆうろく)の翠巒(すいらん)と対して、清風座に満ち、袖の沢を落来る流は、二十丈の絶壁に懸りて、ねりぎぬを垂れたる如き吉井滝(よしいのたき)あり。

2006年01月24日

小熊秀雄

「新版・小熊秀雄全集第1巻」(創樹社)

バラバン節
 破れ銅鑼を、敲かうよ。
         バラバンのバン
 一万三千尺、富士の山
 せまい日本が、一眼に見える、
 お花畑で、カルモチン。
         バラバンのバン


「小熊秀雄全集7・詩集(6)長篇詩集」
 18
富士山の山姿の
現象的ななだらかさのやうに―、
日本の楽壇も現象的にはなごやかなものだ、
だがこゝのジャンルでも
詩や、劇や、小説のジャンルと等しく
底では、地軸では、海底では
はげしく争ひ鳴つてゐるのだ、

尾形亀之助

詩集「雨になる朝」

十一月の街

 街が低くくぼんで夕陽が溜つてゐる

 遠く西方に黒い富士山がある

大阪圭吉

「香水紳士」
「今日は、日本晴れですから、国府津の叔母さんのお家からは、富士さんがとてもよく見られますよ」

上村松園

「砂書きの老人」
花を描いても天狗を描いても富士山を描いても馬や犬を描いても、それに使われる色とりどりの砂は一粒も他の色砂と交ることもなく整然と彼の老爺の右の手からこぼれるのである。あたかもすでに形あるものの上をなぞらえるがごとく、極めて淡々と無造作に描きわけてゆく。

内田魯庵

「貧書生」
銭が儲けたいなら僕の所為(まね)をし給へ。君達は理窟を云ふが失敬ながら猶だ社会を知つておらんやうだ。先ア僕の説を聞給へ。斯う見えて僕は故郷(くに)に在(ゐ)た時分は秀才と云はれて度々新聞雑誌に投書をして褒美を貰つた事もある。四五年前の雑誌を見給へ、駿州有渡郡(うどごほり)田子の浦在(ざい)駿河不二郎の名がチヨク/\見えるよ。


「為文学者経」
ミルトンの詩を高らかに吟じた処で饑渇(きかつ)は中々に医しがたくカントの哲学に思を潜めたとて厳冬単衣終(つい)に凌ぎがたし。学問智識は富士の山ほど有ツても麺包屋(ぱんや)が眼には唖銭(びた)一文の価値もなければ取ツけヱべヱは中々以ての外なり。

淡島寒月

「江戸か東京か」
それから浅草の今パノラマのある辺に、模型富士山が出来たり、芝浦にも富士が作られるという風に、大きいもの/\と目がけてた。可笑かったのは、花時(はなどき)に向島に高櫓を組んで、墨田の花を一目に見せようという計画でしたが、これは余り人が這入りませんでした。

伊藤左千夫

不士の野に五里をめくりつ水海の沖にはこやの山を見にけり
久方の三ケ月の湖ゆふ暮れて富士の裾原雲しづまれ


「野菊の墓」
茄子畑というは、椎森の下から一重の藪を通り抜けて、家より西北に当る裏の前栽畑。崖の上になってるので、利根川は勿論中川までもかすかに見え、武蔵一えんが見渡される。秩父から足柄箱根の山山、富士の高峯(たかね)も見える。東京の上野の森だと云うのもそれらしく見える。

有島武郎

「カインの末裔」
北海道の冬は空まで逼っていた。蝦夷富士といわれるマッカリヌプリの麓に続く胆振の大草原を、日本海から内浦湾に吹きぬける西風が、打ち寄せる紆濤(うねり)のように跡から跡から吹き払っていった。寒い風だ。見上げると八合目まで雪になったマッカリヌプリは少し頭を前にこごめて風に歯向いながら黙ったまま突立っていた。


「農場開放顛末」
小樽函館間の鉄道沿線の比羅夫駅の一つ手前に狩太といふのがある。それの東々北には蝦夷富士がありその裾を尻別の美河が流れてゐるが、その川に沿うた高台が私の狩太農場であります。