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尾崎紅葉

「金色夜叉」
「どうぞ此方(こちら)へお出あそばしまして。ここが一番見晴が宜いのでございます」
「まあ、好い景色ですことね! 富士が好く晴れて。おや、大相木犀(もくせい)が匂ひますね、お邸内(やしきうち)に在りますの?」

鋳物の香炉の悪古(わるふる)びに玄(くす)ませたると、羽二重細工の花筐(はなかたみ)とを床に飾りて、雨中の富士をば引攪旋(ひきかきまは)したるやうに落墨して、金泥精描の騰竜(のぼりりゆう)は目貫を打つたるかとばかり雲間に耀(かがや)ける横物の一幅。

一村十二戸、温泉は五箇所に涌きて、五軒の宿あり。ここに清琴楼と呼べるは、南に方(あた)りて箒川の緩く廻れる磧(かはら)に臨み、俯しては、水石(すいせき)はりんりんたるを弄び、仰げば西に、富士、喜十六(きじゆうろく)の翠巒(すいらん)と対して、清風座に満ち、袖の沢を落来る流は、二十丈の絶壁に懸りて、ねりぎぬを垂れたる如き吉井滝(よしいのたき)あり。