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2006年03月18日

磯部勇吉

雪富士を列車の窓に連れて行く

北村ゆうじ

松山へ飛ぶ富士の上の小春かな

原順子

富士から湧水柿田は下萌ゆる

近藤日陽子

冠雪の富士正面に入港す

※この方の情報を教えてください!

玉木春夫

富士を見る新樹の森を抜けてより

橋本風車

痩富士が遠くて盆地ただ寒し

橋本渡舟

春の嶺富士と並んで勝気なり

橋川かず子

五月富士雲脱ぐことを繰返す

2006年03月17日

中古日本治乱記

「中古日本治乱記」(山中山城守長俊・編)に所載の歌

足利義満
 時しらぬ冨士とは兼て聞触し水無月の雪を目に見つる哉

今川上総介恭範
 はるばると君がきまさんもてなしに鹿の子まだらに降冨士の雪
 君か見ん今日のためにや昔より積りは初し冨士の白雪
 紅の雪を高峯に顕して冨士より出る朝日影哉
 月雪も光りを添て冨士の根のうこきなき世の程を見せつつ
 吹冴る秋の嵐に急れて空より降す冨士の白雲
 我ならす今朝は駿河の冨士の根の綿帽子ともなれる雪哉
 仰き見る君にひかれて冨士の根もいとと名高き山と成らん

法印尭孝
 思ひ立冨士の根遠き面影を近く三上の山の端の雲
 冨士の根に待えん影そ急るる今宵名高き月をめてても
 君そ猶万代遠くをほゆへき冨士の余外目の今日の面影
 言の葉も実にぞをよばぬ塩見坂聞しに越る富士の高根
 契りあれや今日の行手の二子塚ここより冨士を相見初ぬる
 秋の雨も晴間はかりの言葉を冨士の根よりも高こそ見れ
 雨雲の余外に隔し冨士の根はさやにも見へすさやの中山
 白雲のかさなる山も麓にてまかはぬ冨士の空に冴けき
 我君の高き恵に譬てそ猶仰見る富士の柴山
 雲はこふ富士の根下風吹や唯秋の朝気の身には染共

足利義教
 今そはや願満ぬる塩見坂心挽し富士を詠て
 立帰幾年浪か忍まし塩見坂にて富士を見し世を
 たくひなき冨士を見初る里の名を二子塚とはいかていはまし
 名にしをへは昼越てたに冨士も見ず秋雨闇小夜の中山
 見すはいかに思ひしるへき言の葉もをよはぬ冨士と兼て聞しも
 朝日影さすより冨士の高峯なる雪もひとしほ色増る哉
 月雪のひとかたならぬ詠ゆへ冨士に短き秋の夜半哉
 朝あけの冨士の根下風身に染も忘果つつ詠ける哉
 跡垂て君守るてふ神そ今名高き冨士をともに逢ふ哉
 こと山は月になるまて夕日影猶こそ残れ冨士の高根
 今そはや願ひ満ぬる塩見坂心ひかれし冨士を詠て
 冨士の根にする山もかな都にてたくへてたにも人に語ん

三条宰相実雅
 我君の曇ぬ御代に出る日の光に匂ふ冨士の白雲

飛鳥井中納言雅世
 冨士根も雲そいたたく万代の万代つまん綿帽子哉

山名持豊入道綱真宗全
 雲や我雲をいたたく冨士の根かともに老せぬ綿帽子哉

細川下野守持春
 冨士の根も雲こそ及へ我君の高き御影そ猶たくひなき
 あきらけき君か時代を白雲も光添らし冨士の高根に

山名中務大輔熈貴
 露の間もめかれし物を冨士の根の雲の往来に見ゆる白雲

太田資長
 我庵は松原遠海近冨士の高根を軒端にそ見る

宮津昭彦

滝に森に人あそばしめ雪解富士

山椒の棘やはらかし雪解富士

久保田鈴子

夏富士の裾野町の灯散りばめて

2006年03月16日

笠木以都子

弥生尽冨士山頂に入る夕日かな

※この方に関する情報を教えてください!

垣沼千代子

残雪の片裾長し女富士

※この方に関する情報を教えてください!

吉波泡生

夏富士の紫しるき姿かな

吉田いつ女

涅槃富士広き裾野は萌色に

※この方に関する情報を教えてください!

藤吉正孝

「白雪の唄」
富士の白雪朝日に映えて
 男どうしでくむ酒に
 明日の明るい夢がある
 山は富士なら酒は白雪
○酒に生れて四百年を
 味にひとすじ生きてきた
 男命の心意気
 山は富士なら酒は白雪
○月の光のさしこむ窓に
 花のさかずき松の陰
 こよいあふれる幸福は
 山は富士なら酒は白雪

藤吉正孝作詞/土田啓四郎作曲/井沢八郎唄

※「山は富士、酒は白雪」の小西酒造のテーマソング

3低山・3高山・高山を持つ島

国土地理院資料から。標高・位置の情報。
 1位 天保山(大阪市) 4.50m
 2位 日和山(仙台市) 6.05m
 3位 弁天山(徳島市) 6.10m

 1位 富士山<剣ケ峯>(静岡・山梨県境未確定地域)
    3776m、北緯35°21′39″、東経138°43′39″
 2位 北岳(山梨県)
    3193m、北緯35°40′28″、東経138°14′20″
 3位 奥穂高岳(長野・岐阜県境)
    3190m、北緯36°17′21″、東経137°38′53″

※参考:日本博学倶楽部「[図解]日本全国ふしぎ探訪」 (PHP研究所)には、低山10位まで記載されている。


高山を持つ島
1位 ジャヤ(パプア島/インドネシア・パプアニューギニア)
     5029m
2位 マウナケア山(ハワイ島/アメリカ)
     4206m
3位 キナバル山(ボルネオ島/マレーシア・インドネシア)
     4101m
4位 玉山(台湾/台湾or中国)
     3951m
5位 クリンチ山(スマトラ島/インドネシア)
     3805m
6位 富士山(本州/日本)
     3776m
7位 クック山(南島/ニュージーランド)
     3764m

※加納啓良「インドネシアを齧る―知識の幅をひろげる試み」(めこん社)による。
 本書には16位まで掲載されている。

E・S・モース(Edward Sylvester Morse)

「日本その日その日(Japan Day by Day)」
山を描くにあたっては、どの国の芸術家も傾斜を誇張する――即ち山を実際よりも遥かに険しく描き表す――そうである。日本の芸術家も、確かにこの点を誤る。少なくとも数週間にわたる経験(それは扇、広告その他の、最もやすっぽい絵描のみに限られているが)によると、富士の絵が皆大いに誇張してあることによって、この事実が判る。私はふと、隣室の学生達に富士の傾斜を記憶によって描いて貰おうと思いついた。

私は髪に鋏を入れては山にあてがって見て、ついに輪郭がきちんと合う迄に切り、そこで隣の部屋にはいって、通訳を通じて、できるだけ正確な富士の輪郭を描くことを学生達に依頼した。私は紙四枚に、私の写生図における底線と同じ長さの線を引いたのを用意した。これ等の青年はここ数週間、一日に何十遍となく富士を眺め、測量や製図を学び、角度、図の弧等を承知している上に、特に、斜面を誇張しないようにとの、注意を受けたのである。

彼等は不知不識、子供の時から見慣れてきたすべての富士山の図の、急な輪郭を思い浮かべたのである。


※E・S・モース著/石川欣一訳
※旧仮名遣いや漢字は、一部現代向けに(恣意的に)直した。「絵書」→「絵描」などを含む。

2006年03月15日

増鏡

「増鏡」
一番づつの御引出物、伊勢物語の心とぞ聞こえし。かねの地盤に、銀の伏篭に、たき物くゆらかして、「山は富士の嶺いつと無く」と、又、銀の船に麝香の臍にて、蓑着たる男つくりて、「いざ言問はむ都鳥」など、様々いとなまめかしくをかしくせられけり。わざとことごとしき様には有らざりけり。

増鏡について

田中冬二

富士の水ここに湧き居りまんじゆさげ


「スープに浮かんだ富士」
朝の食卓に近い
窓いっぱいに富士
目近く見る
富士は意外に小さい
スープに浮かんだ
その富士を
スプーンに掬う

※↑勝山ふれあいドームの文学碑

田中冬二について

平治物語

「平治物語」
かくて近江の国をもすぎゆけば、いかになるみの塩ひがた、二むら山・宮路山・高師山・濱名の橋をうちわたり、さやの中山・うつの山をもみてゆけば、都にて名にのみきゝし物をと、それに心をなぐさめて、富士の高根をうちながめ、足柄山をも越ぬれば、いづくかぎりともしらぬ武蔵野や、ほりかねの井も尋みてゆけば、下野の国府につきて、我すむべか(ん)なる室の八嶋とて見やり給へば、けぶり心ぼそくのぼりて、おりから感涙留めがたく思はれしかば、なくなくかうぞきこえける。

平治物語について

義経記(ぎけいき)

「義経記」(大町桂月校訂)
さてこそ常盤は三人の子供をば所々にて成人させ給ひけり。今若八歳と申す春の頃より観音寺にのぼせ学問させて、十八の年受戒、禅師の君とぞ申しける。後には駿河国富士の裾野におはしけるが悪襌師と申しけり。八条におはしけるは、そしにておはしけれども、腹あしく恐ろしき人にて、賀茂、春日、稲荷、祇園の御祭ごとに平家を狙ふ。

夏目漱石

元日の冨士にあひけり馬の上


「三四郎」
「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね。もっとも建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応のところだが、――あなたは東京がはじめてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。我々がこしらえたものじゃない」

「東京はどうです」
「ええ……」
「広いばかりできたない所でしょう」
「ええ……」
富士山に比較するようなものはなんにもないでしょう」
三四郎は富士山の事をまるで忘れていた。広田先生の注意によって、汽車の窓からはじめてながめた富士は、考え出すと、なるほど崇高なものである。ただ今自分の頭の中にごたごたしている世相とは、とても比較にならない。

「君、不二山を翻訳してみたことがありますか」と意外な質問を放たれた。
「翻訳とは……」
「自然を翻訳すると、みんな人間に化けてしまうからおもしろい。崇高だとか、偉大だとか、雄壮だとか」
三四郎は翻訳の意味を了した。
「みんな人格上の言葉になる。人格上の言葉に翻訳することのできないものには、自然が毫(ごう)も人格上の感化を与えていない」


「創作家の態度」
「君富士山へ登ったそうじゃないか」「うん登った」「どんなだい」「どんなの、こんなのって大変さ」「どうして」「まず足は棒になる、腹は豆腐になる」「へえー」「それから耳の底でダイナマイトが爆発して、眼の奥で大火事が始まったかと思うと頭葢骨の中で大地震が揺り出した」こんな人に逢ったらたまりません。


「文芸の哲学的基礎」
富士山へ登るものを見ると人は馬鹿と云います。なるほど馬鹿には相違ないが、この馬鹿を通して一種の意志が発現されるとすれば、馬鹿全体に眼をつける必要はない、ただその意志のあらわれるところ、文芸的なるところだけを見てやればよいかも知れません。貴重な生命を賭(と)して海峡を泳いで見たり、沙漠を横ぎって見たりする馬鹿は、みんな意志を働かす意識の連続を得んがために他を犠牲に供するのであります。したがってこれを文芸的にあらわせばやはり文芸的にならんとは断言できません。


「模倣と独立」
気高いということは富士山や御釈迦様や仙人などを描いて、それで気高いという訳じゃない。仮令(たとい)馬を描いても気高い。猫をかいたら――なお気高い。草木禽獣(そうもくきんじゅう)、どんな小さな物を描いても、どんなインシグニフィカントな物を描いても、気高いものはいくらもあります。


「現代日本の開化――明治四十四年八月和歌山において述――」
外国人に対して乃公(おれ)の国には富士山があるというような馬鹿は今日はあまり云わないようだが、戦争以後一等国になったんだという高慢な声は随所に聞くようである。なかなか気楽な見方をすればできるものだと思います。ではどうしてこの急場を切り抜けるかと質問されても、前(ぜん)申した通り私には名案も何もない。ただできるだけ神経衰弱に罹(かか)らない程度において、内発的に変化して行くが好かろうというような体裁の好いことを言うよりほかに仕方がない。


「硝子戸の中」
するとほどなく坂越の男から、富士登山の画(え)を返してくれと云ってきた。彼からそんなものを貰った覚(おぼえ)のない私は、打ちやっておいた。しかし彼は富士登山の画を返せ返せと三度も四度も催促してやまない。私はついにこの男の精神状態を疑い出した。「大方(おおかた)気違だろう。」私は心の中でこうきめたなり向うの催促にはいっさい取り合わない事にした。

さっそく封を解いて中を検(しら)べたら、小さく畳んだ画が一枚入っていた。それが富士登山の図だったので、私はまた吃驚(びっくり)した。

しかしその時の私はとうてい富士登山の図などに賛をする勇気をもっていなかった。私の気分が、そんな事とは遥か懸(か)け離れた所にあったので、その画に調和するような俳句を考えている暇がなかったのである。けれども私は恐縮した。私は丁寧な手紙を書いて、自分の怠慢を謝した。それから茶の御礼を云った。最後に富士登山の図を小包にして返した。


「草枕」
ところがこの女の表情を見ると、余はいずれとも判断に迷った。口は一文字を結んで静(しずか)である。眼は五分(ごぶ)のすきさえ見出すべく動いている。顔は下膨(しもぶくれ)の瓜実形(うりざねがた)で、豊かに落ちつきを見せているに引き易(か)えて、額(ひたい)は狭苦(せまくる)しくも、こせついて、いわゆる富士額(ふじびたい)の俗臭を帯びている。のみならず眉は両方から逼(せま)って、中間に数滴の薄荷(はっか)を点じたるごとく、ぴくぴく焦慮(じれ)ている。鼻ばかりは軽薄に鋭どくもない、遅鈍に丸くもない。画(え)にしたら美しかろう。


「虞美人草」
「おい富士が見える」と宗近君が座を滑り下りながら、窓をはたりと卸(おろ)す。広い裾野から朝風がすうと吹き込んでくる。
「うん。さっきから見えている」と甲野さんは駱駝(らくだ)の毛布(けっと)を頭から被(かむ)ったまま、存外冷淡である。
「そうか、寝なかったのか」
「少しは寝た」
「何だ、そんなものを頭から被って……」
「寒い」と甲野さんは膝掛の中で答えた。
「僕は腹が減った。まだ飯は食わさないだろうか」
「飯を食う前に顔を洗わなくっちゃ……」
「ごもっともだ。ごもっともな事ばかり云う男だ。ちっと富士でも見るがいい」

「今日はいい御天気ですよ」
「ああ天気で仕合せだ。富士が奇麗に見えたね」と長芋が髯から折のなかへ這入(はい)る。

「御迷惑でしたろう」と小野さんは隠袋(ポッケット)から煙草入を取り出す。闇を照す月の色に富士と三保の松原が細かに彫ってある。その松に緑の絵の具を使ったのは詩人の持物としては少しく俗である。派出(はで)を好む藤尾の贈物かも知れない。
「いえ、迷惑だなんて。こっちから願って置いて」と小夜子は頭から小野さんの言葉を打ち消した。


「行人」
それから一年ほどして彼はまた飄然(ひょうぜん)として上京した。そうして今度はお兼さんの手を引いて大阪へ下(くだ)って行った。これも自分の父と母が口を利(き)いて、話を纏(まと)めてやったのだそうである。自分はその時富士へ登って甲州路を歩く考えで家にはいなかったが、後でその話を聞いてちょっと驚いた。勘定して見ると、自分が御殿場で下りた汽車と擦れ違って、岡田は新しい細君を迎えるために入京したのである。

自分は胡坐(あぐら)のまま旅行案内をひろげた。そうして胸の中(うち)でかれこれと時間の都合を考えた。その都合がなかなか旨く行かないので、仰向(あおむけ)になってしばらく寝て見た。すると三沢といっしょに歩く時の愉快がいろいろに想像された。富士須走口へ降りる時、滑って転んで、腰にぶら下げた大きな金明水(きんめいすい)入の硝子壜(ガラスびん)を、壊したなり帯へ括(くく)りつけて歩いた彼の姿扮(すがた)などが眼に浮んだ

「ではどうぞちょっと御改ためなすって」
自分は形式的にそれを勘定した上、「確(たしか)に。――どうもとんだ御手数(おてかず)をかけました。御暑いところを」と礼を述べた。実際急いだと見えてお兼さんは富士額の両脇を、細かい汗の玉でじっとりと濡らしていた。

富士が見え出して雨上りの雲が列車に逆(さか)らって飛ぶ景色を、みんなが起きて珍らしそうに眺める時すら、彼は前後に関係なく心持よさそうに寝ていた。

彼女のこの姿勢のうちには女らしいという以外に何の非難も加えようがなかった。けれどもその結果として自分は勢い後(うしろ)へ反り返る気味で座を構えなければならなくなった。それですら自分は彼女の富士額をこれほど近くかつ長く見つめた事はなかった。自分は彼女の蒼白い頬の色をほのおのごとく眩しく思った。

彼らは帽子とも頭巾とも名の付けようのない奇抜なものを被(かぶ)っていた。謡曲の富士太鼓を知っていた自分は、おおかたこれが鳥兜(とりかぶと)というものだろうと推察した。首から下も被りものと同じく現代を超越していた。


「道草」
そうしてあたかも健三を『江戸名所図絵』の名さえ聞いた事のない男のように取扱った。その健三には子供の時分その本を蔵から引き摺り出して来て、頁から頁へと丹念に挿絵を拾って見て行くのが、何よりの楽みであった時代の、懐かしい記憶があった。中にも駿河町(するがちょう)という所に描いてある越後屋の暖簾と富士山とが、彼の記憶を今代表する焼点(しょうてん)となった。


「門」
その時分にはちょうど旧の正月が来るので、ひとまず国元へ帰って、古い春を山の中で越して、それからまた新らしい反物を背負えるだけ背負って出て来るのだと云った。そうして養蚕の忙(せわ)しい四月の末か五月の初までに、それを悉皆(すっかり)金に換えて、また富士の北影の焼石ばかりころがっている小村へ帰って行くのだそうである。

加藤淇水

波たたむ大秋晴れの逆さ富士

※この方の情報がありません。教えてください。

2006年03月13日

幸田露伴

富士の雲散つて裾野の小菊かな

初ゆめや富士で獏狩したりけり

横にして富士を手に持つ扇かな


「二日物語」
山林に身を苦しめ雲水に魂をあくがれさせては、墨染の麻の袂に春霞よし野の山の花の香を留め、雲湧き出づる那智の高嶺の滝の飛沫に網代小笠の塵垢を濯ぎ、住吉の松が根洗ふ浪の音、難波江の蘆の枯葉をわたる風をも皆御法説く声ぞと聞き、浮世をよそに振りすてゝ越えし鈴鹿や神路山、かたじけなさに涙こぼれつ、行へも知れず消え失する富士の煙りに思ひを擬へ、


「水の東京」
○竹屋の渡場は牛の御前祠の下流一町ばかりのところより今戸に渡る渡場にして、吾妻橋より上流の渡船場中(わたしばちゆう)最もよく人の知れるところなり。船に乗りて渡ること半途(なかば)にして眼を放てば、晴れたる日は川上遠く筑波を望むべく、右に長堤を見て、左に橋場今戸より待乳山を見るべし。もしそれ秋の夕なんど天の一方に富士を見る時は、まことにこの渡の風景一刻千金ともいひつべく、画人等の動(やや)もすればこの渡を画題とするも無理ならずと思はる。

富士見の渡といふ渡あり。この渡はその名の表はすが如く最も好く富士を望むべし。夕の雲は火の如き夏の暮方、または日ざし麗らかに天清(す)める秋の朝なんど、あるいは黒々と聳え、あるいは白妙に晴れたるを望む景色いと神々(こうごう)しくして、さすがに少時(しばし)は塵埃(じんあい)の舞ふ都の中にあるをすら忘れしむ。


「突貫紀行」
ともかくも青森よりは遥(はるか)によろしく、戸数も多かるべし。肴町(さかなまち)十三日町賑(にぎわ)い盛(さかん)なり、八幡の祭礼とかにて殊更(ことさら)なれば、見物したけれど足の痛さに是非もなし。この日岩手富士を見る、また北上川の源に沼宮内より逢う、共に奥州にての名勝なり。


「菊 食物としての」
薬用になるといふのは必ず菊なら菊の其本性の気味を把握してゐることが強いからのことであらう。進歩は進歩だらうが、ダリヤのやうになつた菊よりは、本性の気味を強く把握してゐるものを得て見たい。そんなら野菊や山路菊や竜脳菊で足りるだらうと云はれゝばそれも然様(さよう)である、富士菊や戸隠菊を賞してそれで足りる、それも然様である。

2006年03月12日

松岡青蘿

不二は白雲桜に駒の歩みかな

高井几董

 東武よりの帰さ、しらすかふた河の際より、松間の不二をかへり見る所あり。
伸上る富士のわかれや花すゝき

名月に富士見ぬ心奢かな

富士に添て富士見ぬ空ぞ雪の原

晴る日や雲を貫く雪の富士

横井也有

富士はたゞ袴に着たる錦かな


「摺鉢伝」
備前の国にひとりの少女あり。あまざかるひなの生れながら、姿は名高き富士の俤に通ひて、片山里に朽はてん身をうき物にや思ひそみけん、


「鼻箴」
たとへ百年のつくも髪だに鼻ばかりは欠けもやらず、つぶれて用をかく事もなし。ひとり常盤の操を守りて時しらぬ山とも称すべけむ。

塩川秀子

富士新雪托鉢僧の列ゆけり

遠藤壽々子

建国祭G一色の富士仰ぐ

遠藤芳郎

スケートの刃の傷あまた逆さ富士

遠藤正年

初富士の大雪塊を野に置ける

遠藤梧逸

初富士の出てゐて好きな榛の径

苗代の規矩の正しき五月富士

雲を出し富士の紺青竹煮草

初富士や古き軒端に妻と老い

大根の丘に現れ師走富士

岩手富士大根畑に出て近し

井上井月

富士にたつ 霞程よき 裾野かな

方角を富士に見てゆく花野かな

富士に日の匂ふ頃なり時鳥

雪ながら富士は今年のものらしき

井上井月(いのうえせいげつ)について

燕音

銭湯の富士の淑気を浴ぶ男女(なんにょ)

窓に富士膝に初刷手に眼鏡

東海道白妙の富士皮切りに

燕音について、だれかコメントしてください。人物について把握できてません。

益田清

湾に浮く朝の黒富士敗戦忌

永井龍男

冬没日瑪瑙の中に富士は凍て

お召車を待つ打水や五月富士

影島智子

蛇匂ふ風に歪みし逆さ富士

身じろがぬ富士と暮して畦塗りぬ

どこからも正面に富士初耕

田植機の始動にゆらぐ逆さ富士

借景の富士の高さに松手入

浦野芳南

火祭の燠にもほほと富士の風

羽部洞然

火祭太鼓富士へひれ伏す炬火一里

富士の笠雲漂ひいでぬ春天ヘ

木々芽吹く富士の大氷壁の前

五月富士へ真直ぐよぎる牧草地

愛鷹と富士なだれ合ふ朴の花

宇野犂子

振りし舳に見ゆ近江富士いさざ汲む

宇都木水晶花

花林檎天に夜明けの津軽富士

宇咲冬男

ほととぎす富士は噴く火をなおはらむ

宇咲冬男について

稲野博明

裏富士のたちまち暮るる蛇笏の忌

稲垣晩童

富士すこし見ゆ町裏の小六月

井本農一

頂きが少し赤富士雁の声

井沢正江

火祭に富士講の灯も天駈くる

大富士の面よりおこり雪起し

から松の上の富士の上の露の天

富士の辺に烽火の入日実朝忌

依田由基人

裏富士の湖鏡なす春の霜

宵闇の五湖をしりぞけ富士聳ゆ

初冨士の裾広く展べ湖に果つ

蛇笏忌や富士の夕空がらんどう

遠富士の初雪父母の墓洗ふ

井桁汀風子

初富士にたちまちこころきまりけり

伊藤柏翠

火祭の夜空に富士の大いさよ

富士の裾雲より垂れて麦の秋

大富士の暮れ去りてより春の月

伊藤通明

冬空に掴まれて富士立ち上る

伊藤霜楓

岩つばめ富士を暁色走りをり

飛雪尾根声あげて声奪はる
※長田尾根建設記念碑

伊藤雪男

きょうはきょうの富士で晴れている刈田の薄氷

伊藤京子

梨花満てり夜空の奥の伯耆富士

伊東余志子

富士に雪来にけり銀木犀匂ふ

安田春峰

軒すぐに富士ある暮し葱植うる

近江富士かすむ翁の笠ほどに

安斉君子

冬晴れの富士に祈りて人見舞ふ

初富士の鼓動聞こゆるところまで

安原葉

すぐ合点ゆかざるほどに霞む富士

雲の間に赤富士覗きはじめけり

粟飯原孝臣(あいはら−)

会釈したき新雪の富士麦を蒔く

伊藤敬子

絹扇ひらくかたちに富士花野

今日夏至の富嶽を夜も賜ひけり

初富士の胸わたりゆく雲の翳

伊藤啓子について

臼田亞浪(臼田亜浪)

影富士の消えゆくさびしさ花すゝき

浅間ゆ富士へ春暁の流れ雲

大北風あらがふ鷹の富士指せり

するが野や大きな富士が麦の上

尾花そよぎ富士は紫紺の翳に聳つ

富士ほのと劫火の舌の空ねぶる

尾花咲き猟夫ら富士をうしろにす

葡萄園山に喰ひ入り富士かすむ

枯草のそよげどそよげど富士端しき

富士皓といよよ厳しき年は来ぬ

春西風の空にもとめて富士あらず

臼田亞浪について

(参考URL)
http://www1.ocn.ne.jp/~go79dou/haiku001.html
http://www.kumamoto-bunkamura.com/haiku/haiku200412.html

井原西鶴

「浮世栄花一代男」
我大願あつて冨士山に参詣ゆくと宿を立出是を養生の種として。ひさしくたよりもせざりしを此女深く恨ミ。せめてうき世をわする事とて毎夜あまた女をあつめ。気の浮立はなしに大笑ひ聞えければ忍之介折ふし此里一見に通りあハせ。何事やらんと立入ける男なしの女ばかり寄合奥さまをいさめて不義なる事を取集めて語りけるに。後にハいろを替てひとりひとり上気して。お座にたまりかねてそれそれの寝所にことかけなるうきを晴しける。


「日本永代蔵」
雪のうちにハ壺の口を切水仙の初咲なげ入花のしほらしき事共。いつならひ初られしも見えざりしが銀さへあれバ何事もなる事ぞかし。此人前後にかハらず一生悋くハ。冨士を白銀にして持たれバとて武蔵のゝ土羽芝の煙となる身を知て老の入前かしこく取置。


「男色大鑑(なんしょくおおかがみ)」
神鳴の孫介さゝ波金碇。くれなゐの龍田今不二の山。京の地車平野の岸くづし。寺島のしだり柳綿屋の喧嘩母衣。座摩の前の首白尾なし公平。此外名鳥かぎりなく其座にしてつよきを求て。あたら小判を何程か捨ける。


冨士のけぶりしかけで廻り灯籠哉

冨士は礒扇流の夕かな

はたち計冨士の烟やわかたばこ