夏目漱石
元日の冨士にあひけり馬の上
「三四郎」
「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね。もっとも建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応のところだが、――あなたは東京がはじめてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。我々がこしらえたものじゃない」
「東京はどうです」
「ええ……」
「広いばかりできたない所でしょう」
「ええ……」
「富士山に比較するようなものはなんにもないでしょう」
三四郎は富士山の事をまるで忘れていた。広田先生の注意によって、汽車の窓からはじめてながめた富士は、考え出すと、なるほど崇高なものである。ただ今自分の頭の中にごたごたしている世相とは、とても比較にならない。
「君、不二山を翻訳してみたことがありますか」と意外な質問を放たれた。
「翻訳とは……」
「自然を翻訳すると、みんな人間に化けてしまうからおもしろい。崇高だとか、偉大だとか、雄壮だとか」
三四郎は翻訳の意味を了した。
「みんな人格上の言葉になる。人格上の言葉に翻訳することのできないものには、自然が毫(ごう)も人格上の感化を与えていない」
「創作家の態度」
「君富士山へ登ったそうじゃないか」「うん登った」「どんなだい」「どんなの、こんなのって大変さ」「どうして」「まず足は棒になる、腹は豆腐になる」「へえー」「それから耳の底でダイナマイトが爆発して、眼の奥で大火事が始まったかと思うと頭葢骨の中で大地震が揺り出した」こんな人に逢ったらたまりません。
「文芸の哲学的基礎」
冬富士山へ登るものを見ると人は馬鹿と云います。なるほど馬鹿には相違ないが、この馬鹿を通して一種の意志が発現されるとすれば、馬鹿全体に眼をつける必要はない、ただその意志のあらわれるところ、文芸的なるところだけを見てやればよいかも知れません。貴重な生命を賭(と)して海峡を泳いで見たり、沙漠を横ぎって見たりする馬鹿は、みんな意志を働かす意識の連続を得んがために他を犠牲に供するのであります。したがってこれを文芸的にあらわせばやはり文芸的にならんとは断言できません。
「模倣と独立」
気高いということは富士山や御釈迦様や仙人などを描いて、それで気高いという訳じゃない。仮令(たとい)馬を描いても気高い。猫をかいたら――なお気高い。草木禽獣(そうもくきんじゅう)、どんな小さな物を描いても、どんなインシグニフィカントな物を描いても、気高いものはいくらもあります。
「現代日本の開化――明治四十四年八月和歌山において述――」
外国人に対して乃公(おれ)の国には富士山があるというような馬鹿は今日はあまり云わないようだが、戦争以後一等国になったんだという高慢な声は随所に聞くようである。なかなか気楽な見方をすればできるものだと思います。ではどうしてこの急場を切り抜けるかと質問されても、前(ぜん)申した通り私には名案も何もない。ただできるだけ神経衰弱に罹(かか)らない程度において、内発的に変化して行くが好かろうというような体裁の好いことを言うよりほかに仕方がない。
「硝子戸の中」
するとほどなく坂越の男から、富士登山の画(え)を返してくれと云ってきた。彼からそんなものを貰った覚(おぼえ)のない私は、打ちやっておいた。しかし彼は富士登山の画を返せ返せと三度も四度も催促してやまない。私はついにこの男の精神状態を疑い出した。「大方(おおかた)気違だろう。」私は心の中でこうきめたなり向うの催促にはいっさい取り合わない事にした。
さっそく封を解いて中を検(しら)べたら、小さく畳んだ画が一枚入っていた。それが富士登山の図だったので、私はまた吃驚(びっくり)した。
しかしその時の私はとうてい富士登山の図などに賛をする勇気をもっていなかった。私の気分が、そんな事とは遥か懸(か)け離れた所にあったので、その画に調和するような俳句を考えている暇がなかったのである。けれども私は恐縮した。私は丁寧な手紙を書いて、自分の怠慢を謝した。それから茶の御礼を云った。最後に富士登山の図を小包にして返した。
「草枕」
ところがこの女の表情を見ると、余はいずれとも判断に迷った。口は一文字を結んで静(しずか)である。眼は五分(ごぶ)のすきさえ見出すべく動いている。顔は下膨(しもぶくれ)の瓜実形(うりざねがた)で、豊かに落ちつきを見せているに引き易(か)えて、額(ひたい)は狭苦(せまくる)しくも、こせついて、いわゆる富士額(ふじびたい)の俗臭を帯びている。のみならず眉は両方から逼(せま)って、中間に数滴の薄荷(はっか)を点じたるごとく、ぴくぴく焦慮(じれ)ている。鼻ばかりは軽薄に鋭どくもない、遅鈍に丸くもない。画(え)にしたら美しかろう。
「虞美人草」
「おい富士が見える」と宗近君が座を滑り下りながら、窓をはたりと卸(おろ)す。広い裾野から朝風がすうと吹き込んでくる。
「うん。さっきから見えている」と甲野さんは駱駝(らくだ)の毛布(けっと)を頭から被(かむ)ったまま、存外冷淡である。
「そうか、寝なかったのか」
「少しは寝た」
「何だ、そんなものを頭から被って……」
「寒い」と甲野さんは膝掛の中で答えた。
「僕は腹が減った。まだ飯は食わさないだろうか」
「飯を食う前に顔を洗わなくっちゃ……」
「ごもっともだ。ごもっともな事ばかり云う男だ。ちっと富士でも見るがいい」
「今日はいい御天気ですよ」
「ああ天気で仕合せだ。富士が奇麗に見えたね」と長芋が髯から折のなかへ這入(はい)る。
「御迷惑でしたろう」と小野さんは隠袋(ポッケット)から煙草入を取り出す。闇を照す月の色に富士と三保の松原が細かに彫ってある。その松に緑の絵の具を使ったのは詩人の持物としては少しく俗である。派出(はで)を好む藤尾の贈物かも知れない。
「いえ、迷惑だなんて。こっちから願って置いて」と小夜子は頭から小野さんの言葉を打ち消した。
「行人」
それから一年ほどして彼はまた飄然(ひょうぜん)として上京した。そうして今度はお兼さんの手を引いて大阪へ下(くだ)って行った。これも自分の父と母が口を利(き)いて、話を纏(まと)めてやったのだそうである。自分はその時富士へ登って甲州路を歩く考えで家にはいなかったが、後でその話を聞いてちょっと驚いた。勘定して見ると、自分が御殿場で下りた汽車と擦れ違って、岡田は新しい細君を迎えるために入京したのである。
自分は胡坐(あぐら)のまま旅行案内をひろげた。そうして胸の中(うち)でかれこれと時間の都合を考えた。その都合がなかなか旨く行かないので、仰向(あおむけ)になってしばらく寝て見た。すると三沢といっしょに歩く時の愉快がいろいろに想像された。富士を須走口へ降りる時、滑って転んで、腰にぶら下げた大きな金明水(きんめいすい)入の硝子壜(ガラスびん)を、壊したなり帯へ括(くく)りつけて歩いた彼の姿扮(すがた)などが眼に浮んだ
「ではどうぞちょっと御改ためなすって」
自分は形式的にそれを勘定した上、「確(たしか)に。――どうもとんだ御手数(おてかず)をかけました。御暑いところを」と礼を述べた。実際急いだと見えてお兼さんは富士額の両脇を、細かい汗の玉でじっとりと濡らしていた。
富士が見え出して雨上りの雲が列車に逆(さか)らって飛ぶ景色を、みんなが起きて珍らしそうに眺める時すら、彼は前後に関係なく心持よさそうに寝ていた。
彼女のこの姿勢のうちには女らしいという以外に何の非難も加えようがなかった。けれどもその結果として自分は勢い後(うしろ)へ反り返る気味で座を構えなければならなくなった。それですら自分は彼女の富士額をこれほど近くかつ長く見つめた事はなかった。自分は彼女の蒼白い頬の色をほのおのごとく眩しく思った。
彼らは帽子とも頭巾とも名の付けようのない奇抜なものを被(かぶ)っていた。謡曲の富士太鼓を知っていた自分は、おおかたこれが鳥兜(とりかぶと)というものだろうと推察した。首から下も被りものと同じく現代を超越していた。
「道草」
そうしてあたかも健三を『江戸名所図絵』の名さえ聞いた事のない男のように取扱った。その健三には子供の時分その本を蔵から引き摺り出して来て、頁から頁へと丹念に挿絵を拾って見て行くのが、何よりの楽みであった時代の、懐かしい記憶があった。中にも駿河町(するがちょう)という所に描いてある越後屋の暖簾と富士山とが、彼の記憶を今代表する焼点(しょうてん)となった。
「門」
その時分にはちょうど旧の正月が来るので、ひとまず国元へ帰って、古い春を山の中で越して、それからまた新らしい反物を背負えるだけ背負って出て来るのだと云った。そうして養蚕の忙(せわ)しい四月の末か五月の初までに、それを悉皆(すっかり)金に換えて、また富士の北影の焼石ばかりころがっている小村へ帰って行くのだそうである。