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2006年02月04日

田中貢太郎

「南北の東海道四谷怪談」
庄三郎はそれから富士権現の前へ往った。祠(ほこら)の影から頬冠(ほおかむり)した男がそっと出て来て、庄三郎に覘(ねら)い寄り、手にしている出刃で横腹を刳(えぐ)った。
「与茂七、恋の仇じゃ、思い知ったか」


「日本天変地異記」
要するにわが国は、こういうふうに外側地震帯及び日本海を走っている内側地震帯の幹線に地方的な小地震帯がたくさんの支線を結びつけているうえに、火山脈が網の目のようになっているから、その爆発に因る地震も非常に多く、従って土地の隆起陥没もまた多い。天武天皇の時大地震があって、一夜にして近江の地が陥没して琵琶湖が出来ると共に、駿河に富士山が湧出したという伝説も、その間の消息を語るものである。

貞観六年七月には富士山の噴火に伴うて大地震があって、噴出した鑠石は本栖、■の両湖をはじめ、民家を埋没した。富士山は既に延暦二十年三月にも噴火し、その後長元五年にも噴火したが、この噴火とは比べものにならなかった。

そして元弘元年七月には、紀伊に大地震があって、千里浜の干潟が隆起して陸地となり、その七日には駿河に大地震があって、富士山の絶頂が数百丈崩れた。この七月は藤原俊基が関東を押送せられた月で、「参考太平記」には、「七月七日の酉の刻に地震有りて、富士の絶頂崩ること数百丈なり、卜部宿禰(うらべのすくね)大亀を焼いて卜(うらな)ひ、陰陽博士占文を開いて見るに、国王位を易(か)へ、大臣災に遇ふとあり、勘文の面穏かならず、尤も御慎み有るべしと密奏す」とあって、地震にも心があるように見える。

その大地震の恐怖のまだ生生している十一月に、駿河、甲斐、相模、武蔵に地震が起ると共に、富士山が爆発して噴火口の傍に一つの山を湧出した。これがいわゆる宝永山である。山麓の須走村は熔岩の下に埋没し、降灰は武相駿三箇国の田圃を埋めた。

田中英光

「オリンポスの果実」
夜の食事のときなど、メニュウが、手紙になったり、先の方に絵葉書がついていたりします。ぼくはその上に書く、あなたへの、愛の手紙など空想して、コオルドビイフでも噛んでいるのです。メニュウには、殆(ほとん)ど錦絵が描(えが)かれています。歌麿なぞいやですが、広重の富士と海の色はすばらしい。その藍のなかに、とけこむ、ぼくの文章も青いまでに美しい。

相馬愛蔵

「私の小売商道」
私が青年時代のこと、富士山に登るのに健脚の自信があって、白衣の従者を追い抜き頂の方に素晴しい勢いで登って行った。ところが八合目になると急に疲れて休まねばいられなくなった。休んでいると先ほどの白衣の道者が急がず焦らず悠々とした足取りで通って行く。これではならぬと私も勇を鼓して登って行ったが、頂上に達した時は従者はもう早く着いて休んでいた。世の中のことはすべてこれだなと思って私もその時は考えたが、家康の教えにも、「人生は重き荷を負うて遠き道を往くが如し、急ぐべからず」とあります。実に名言だと思います。
では一歩先んじようとは何であるか、遅れていても結果において早ければよいではないかと言ってしまったのでは話にならない。一歩を先んじよというのは、常に緊張して努力せよというのであって、その結果は必ず他に一歩を進める事となる。すなわちこの一歩一歩は富士の山麓から山頂までつづけられる努力であって、それは決して私がやったように一時人を出し抜く早足ではない。

須川邦彦

「無人島に生きる十六人」
元旦の初日の出を、伊豆近海におがみ、青空に神々しくそびえる富士山を、見かえり見かえり、希望にもえる十六人をのせた龍睡丸(りゅうすいまる)は、追手(おいて)の風を帆にうけて、南へ南へと進んで行った。

また、船底につく海藻は、アオサ、ノリの類(たぐい)が多い。貝では、カキ、カメノテ、エボシ貝、フジツボなどで、フジツボが、ふつういちばんたくさんにつく。フジツボは、富士山のような形をした貝で、直径五センチ、高さ五センチぐらいの大きなものもある。これが、船底いちめんにつくのだ。

明治三十二年十二月二十三日。十六人は、感激のなみだの目で、白雪にかがやく霊峯(れいほう)富士をあおぎ、船は追風(おいて)の風に送られて、ぶじに駿河湾にはいった。そして午後四時、赤い夕日にそめられた女良(めら)の港に静かに入港した。

清水紫琴

「したゆく水」
なに暗からぬ御身をば、はや、いつしかにほの暗き、障子の方に押向けて、墨磨りたまふ勿体なさ。硯の海より、山よりも、深いお情け、おし載く、富士の額は火に燃えて。有難しとも、冥加とも、いふべきお礼の数々は、口まで出ても、ついさうと、いひ尽くされぬ、主従の、隔ては、たつた、一ツの敷居が、千言万語の心の関。

三遊亭圓朝

「業平文治漂流奇談」(鈴木行三校訂編纂)
亥「それで豊島町の八右衞門さんが一人の親だから立派にしろというので、組合(くみえい)の者が皆(みんな)供に立って、富士講の先達だの木魚講(もくぎょこう)だのが出るという騒ぎで、寺を借りて坊主が十二人出るような訳で」

亥「へえ…何(なん)だって豊島町の富士講の先達だの法印が法螺の貝を吹くやら坊主が十二人」

亥「坊主を十二人頼むというので棺台などを二間(けん)にして、無垢も良(い)いのを懸けろというので、富士講に木魚講、法印が法螺の貝を吹く」


「菊模様皿山奇談」(鈴木行三校訂・編纂)
鐵「へえー大変でげすな、御獄さんてえのは滅法けえ高(たけ)え山だってね」
□「高いたって、それは富士より高いと云いますよ、あなた方も信心をなすって二度もお登りになれば、少しは曲った心も直りますが」

竹久夢二

「若き母達へ」
土蔵のまへの椿の下で、淡い春の日ざしを浴びながらきいた紡車の音も、また遠い街の家並のあなたの赤い入日を、子守女の肩に見ながらきいた子守唄や、または、乳の香のふかい母親の懐できいたねんねこ歌も、今の私達には、もはや遠い昔の記憶になつてしまひました。科学実験時代の現代の文化はサムライや紅い提灯や富士ヤマへの憧憬から、お寺の鐘の音から、人形芝居からそして紙と木の家から、鉄と電気の雑音の都会へ私達を追ひやつてしまつた。
私達は、もはや緑の草の上に寝ころんで、青空をゆく白い雲を見送ることはないであらうか。


「新年」
○富士山のうへに
 太陽が出ました
○日本の子供は
 みんな出て
 太陽を拝みませう
○日本の島に
 お正月が来ました
○日本の人は
 みんな出て
 お正月を祝ひませう


「夢二画集 夏の巻」
その他、破風造のシムプルな神社の建築や。客間の床に飾られた木と称する不快な骨董品や。地獄極楽のからくりや。枯枝に烏のとまつた枯淡な風景。木のない富士山や。数え来れば、灰色の背景は到る所にあるではないか。そしてそれ等の画材を、最も有効に最も適切に描表し得る線画を有するのは日本の誇りではあるまいか。


「沼津」
この子の可愛いさ限りしなし。
山で木の数、萱の数、
富士へ上れば星の数、
沼津へ下れば松林、
千本松原、小松原、
松葉の数よりまだ可愛い。


「お正月」
○正月さんが御座つた。
 何処まで御座つた。
 富士のお山の麓まで。
 何に乗つて御座つた。
 お餅のやうな下駄はいて、
 譲葉に乗つて、

 ゆづり/\御座つた。

○お盆のやうな餅ついて、
 割木見たよな魚添へて、
 霰のやうな飯食べて、
 火燵へあたつてねんこ/\。


「お月様」から
○まうし、まうし、お月様、
 猫と鼠が一升さげて
 富士のお山を今越えた。


「砂がき」
ある時、銀座の夜店で、獨逸の「シンビリシズム」といふ雜誌を買つて、複寫のすばらしい繪を手に入れた、その山の畫はよかつた。今おもふとたしか、あれは、イタリアのセガンチニイだつたらしい。これにくらべると、その頃評判だつた「白馬山の雪景」や「曉の富士山」なんか影がうすくてとても見られないと思つたが、これもやつぱり誰にも言はないでゐた。

登山會といふ會はどういふことをするのか私は知らないが、多分、人跡未踏の深山幽谷を踏破する人達の會であらう。自分も山へ登る事は非常に好きだが、敢て、高い山でなくとも、岡でも好い。氣に入つたとなると富士山へ一夏に三度、筑波、那須へも二度づゝ登つたが、いつも東京の街を歩くよりも勞れもせず、靴のまゝで散歩する氣持で登れた。

昔下宿屋の二階でよんだ、紅葉や一葉の作物の中にある東京の春の抒景は、もう古典になつたほど、今の東京の新年は、商取引と年期事務としてあるに過ぎないと、思はるる。
富士山の見える四日市場に、紀州の蜜柑船がつくのさへもう見られまい。


「秘密」
けれど、私は何故に生れたらう? とさうきいて御覧なさい。知つてゐる人は言はないし、知らない人は答はしない。それゆゑにおもしろいのです。富士山が一万三千尺あらうとも、ないやがら瀑布が世界第一であらうとも、そんなことは少しもおもしろくない。私達の知らぬことが世の中には、まだどんなに沢山あることだらう。それからまだこの宇宙には世界の人達が今迄に知つた事よりももつともつと沢山の知らない事があるに違ない、けれどそれは土の世界のことである。

2006年02月03日

佐々木味津三

「右門捕物帖・なぞの八卦見(はっけみ)」
「しました、しました。富士の風穴へでもへえったようですよ。さすがはだんなだけあって、やることにそつがねえや。なるほどな。じゃ、なんですね、きのうからのこの小娘のそぶりをお聞きなすって、ひと事件(あな)あるなっとおにらみなすったんですね」


「右門捕物帖・七七の橙(だいだい)」
「そいつが気に入らねえんだ。ついでのことに日本橋のほうへ向いてりゃいいものを、ちくしょうめ、何を勘ちげえしたか、品川から富士山のほうへ向いていやがるんですよ」
「ウフフ、そうかい。そうするてえと――」


「右門捕物帖・卒塔婆(そとば)を祭った米びつ」
「ウフフフ。なんでえ、なんでえ。来てみればさほどでもなし富士の山っていうやつさ。とんだ板橋のご親類だよ。――のう、ねえや!」


「右門捕物帖・左刺しの匕首(あいくち)」
「アハハ……そうか。なるほど、そうか。来てみればさほどでもなし富士の山、というやつかのう。よしよし。そろそろと根がはえだしやがった」


「右門捕物帖・毒を抱(いだ)く女」
「話したことも、つきあったこともないが、てまえの叔父(おじ)が富士見ご宝蔵の番頭(ばんがしら)をいたしておるゆえ、ちょくちょく出入りいたしてこの顔には見覚えがある。たしかにこれはご宝蔵お二ノ倉の槍(やり)刀剣お手入れ役承っておる中山数馬という男じゃ」

なれども、これには悲しい子細あってのこと、父行徳助宗は、ご存じのように末席ながら上さま御用|鍛冶(かじ)を勤めまするもの、事の起こりは富士見ご宝蔵お二ノ倉のお宝物、八束穂(やつかほ)と申しまするお槍(やり)にどうしたことやら曇りが吹きまして、数ならぬ父に焼き直せとのご下命のありましたがもと、そのお使者に立たれましたのが中山数馬さまでござりました。


「右門捕物帖・達磨を好く遊女」
そのすがすがしさがまたくるわの水でみがきあげたすがすがしさなんだから、普通一般の清楚とかすがすがしさといったすがすがしさではなく、艶(えん)を含んでかつ清楚――といったような美しさのうえに、そったばかりの青まゆはほのぼのとして、その富士額の下に白い、むっちりともり上がった乳をおおっている浜縮緬(ちりめん)の黒色好みは、それゆえにこそいっそう艶なる清楚を引き立てていたものでしたから、同じ遊女のうちでもこんなゆかしい品もあるかと、ややしばらく右門もうち見とれていましたが、かくてはならじと思いつきましたので、こういう女の心を攻めるにはまた攻める方法を知っている右門は、ずばりと、いきなりその急所を突いてやりました。


「右門捕物帖・首つり五人男」
「あれだ、あれだ、この建物アたしかにお富士教ですよ」

近ごろ本所のお蔵前にお富士教ってえのができて、たいそうもなく繁盛するという話だがご存じですかい、とぬかしたんでね。御嶽(おんたけ)教、扶桑(ふそう)教といろいろ聞いちゃおるが、お富士教ってえのはあっしも初耳なんで、今に忘れず覚えていたんですよ。本所のお蔵前といや、ここよりほかにねえんだ。まさしくこれがそのお富士教にちげえねえですぜ」
「どういうお宗旨だかきいてきたか」
「そいつが少々おかしいんだ。お富士教ってえいうからにゃ、富士のお山でも拝むんだろうと思ったのに、心のつかえ、腰の病、気欝(きうつ)にとりつかれている女が参ると、うそをいったようにけろりと直るというんですよ」

「ふふん。とんだお富士教だ。おいらの目玉の光っているのを知らねえかい。おまえにゃ目の毒だが、しかたがねえや。ついてきな」

「何を無礼なことおっしゃるんです! かりそめにも寺社奉行さまからお許しのお富士教、わたしはその教主でござります。神域に押し入って、あらぬ狼藉(ろうぜき)いたされますると、ご神罰が下りまするぞ!」
「笑わしゃがらあ。とんでもねえお富士山を拝みやがって、ご神罰がきいてあきれらあ。四の五のいうなら、一枚化けの皮をはいでやろう! こいつあなんだ!」


「旗本退屈男 第六話 身延に現れた退屈男」
「合点だッ。富士川を下るんですかい」

小林多喜二

「人を殺す犬」
右手に十勝岳が安すッぽいペンキ画の富士山のように、青空にクッキリ見えた。そこは高地だったので、反対の左手一帯はちょうど大きな風呂敷を皺(しわ)にして広げたように、その起伏がズウと遠くまで見られた。

2006年02月02日

小学唱歌集

「初編」(明治14年)より
第二十七 富士山
○ふもとに雲ぞ かゝりける
 高嶺にゆきぞ つもりたる
 はだへは雪 ころもはくも
 そのゆきくもを よそひたる
 ふじてふやまの 見わたしに
 しくものもなし にるもなし
○外国人も あふぐなり
 わがくに人も ほこるなり
 照る日のかげ そらゆくつき
 つきひとともに かがやきて
 冨士てふ山の みわたしに
 しくものもなし にるもなし


第六十三 富士筑波
○駿河なる ふじの高嶺を
 あふぎても 動かぬ御代は
 しられけり
○つくばねの このもかの面も
 てらすなる みよのひかりぞ
 ありがたき

島崎藤村

「落梅集」に収録
「寂寥」より
あした炎をたゝかはし
ゆうべ煙をきそひてし
駿河にたてる富士の根も
今はさびしき日の影に
白く輝く墓のごと
はるかに沈む雲の外
これは信濃の空高く
今も烈しき火の柱
雨なす石を降らしては
みそらを焦す灰けぶり
神夢さめし天地の
ひらけそめにし昔より
常世につもる白雪は
今も無間の谷の底
湧きてあふるゝ紅の
血潮の池を目にみては
布引に住むはやぶさも
翼をかへす浅間山


「若菜集」に収録
「天馬」より
あゝ朝鳥の音をきゝて
富士の高根の雪に鳴き
夕つけわたる鳥の音に
木曾の御嶽の巌を越え
かの青雲に嘶きて
天より天の電影の
光の末に隠るべき
雄馬の身にてありながら
なさけもあつくなつかしき


「千曲川のスケッチ」
山荘は二階建で、池を前にして、静かな沢の入口にあった。左に浅い谷を囲んだ松林の方は曇って空もよく見えなかった。快晴の日は、富士の山巓(さんてん)も望まれるという。池の辺(ほとり)に咲乱れた花あやめは楽しい感じを与えた。

間もなく私達は甲州の方に向いた八つが岳の側面が望まれるところへ出た。私達は樹木の少い大傾斜、深い谷々なぞを眼の下にして立った。
「富士!」
と学生は互に呼びかわして、そこから高い峻(けわ)しい坂道を甲州の方へ下りた。


「夜明け前」(第二部)
伊那(いな)の谷あたりを中心にして民間に起こって来ている実行教(富士講)の信徒が、この際、何か特殊な勤倹力行と困苦に堪(た)えることをもって天地の恩に報いねばならないということを言い出し、一家全員こぞって種々(さまざま)な難行事を選び、ちいさな子供にまで、早起き、はいはい、掃除(そうじ)、母三拝、その他飴菓子(あめがし)を買わぬなどの難行事を与えているようなあの異常な信心ぶりを考えて見ることもある。これにも驚かずにはいられなかった。


「家」
「裏の叔父さんがなし、面白いことを言ったデ――『ああ、ああ、峯公(女教師の子息)も独りで富士登山が出来るように成ったか、して見ると私が年の寄るのも……』どうだとか、こうだとか――笑って了(しま)ったに」


「芽生」
こういう私の家の光景(ありさま)は酷く植木屋の人達を驚かした。この家族を始め、旧くから大久保に住む農夫の間には、富士講の信者というものが多かった。翌日のこと、切下髪(きりさげがみ)にした女が突然私の家へやって来た。この女は、講中の先達とかで、植木屋の老爺(じい)さんの弟の連合(つれあい)にあたる人だが、こう私の家に不幸の起るのは――第一引越して来た方角が悪かったこと、それから私の家内の信心に乏しいことなどを言って、しきりに祈祷(きとう)を勧めて帰って行った。

私の家に復たこのような不幸が起ったということは、いよいよ祈祷の必要を富士講の連中に思わせた。女の先達は復た私の家へ訪ねて来て、それ見たかと言わぬばかりの口調で、散々家内の不心得を責めた。「度し難い家族」――これが先達の後へ残して行った意味だった。

与謝野鉄幹(與謝野、寛)

富士ひとつ雲をかづきて夕映す他はみな黒し甲斐のむら山


「むらさき」に収録
「日本を去る歌」より
ああわが国日本
ああわが父祖の国日本
東太平洋の緑をのぞんで
白き被衣の女富士立てり
顧望して低徊す
山なんぞ麗しき
水なんぞ明媚なる
ああわれ去るに忍ぴんや

増田雅子(増田まさ子、→茅野雅子)

「恋衣」に収録(詩:山川登美子、増田雅子、與謝野晶子)
 「みをつくし」より
ゆく春をひとりしづけき思かな花の木間に淡き富士見ゆ

薄田淳介(薄田泣菫)

 「筑波紫」
夜は明けぬ。二の新代の朝ぼらけ、
国の兄姫の長すがた、富士こそ問へれ、
しろがねの被衣も揺に、『やよ筑波、
八十伴の緒は玉ぶちの冕冠も高に、
天の宮御垣は守るに、いかなれば、
異よそほひの東人と、汝やはひとり、
玉敷の御蔭の庭も見ず久に、
下なる国の暗谷につくばひ居るや。』

※「白羊宮」に収録

2006年02月01日

万葉集

天地の別れし時ゆ 神さびて 高く貴き駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放け見れば渡る日の 影も隠らひ照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺

田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける

なまよみの甲斐の国 うち寄する駿河の国と こちごちの国のみ中ゆ 出で立てる 富士の高嶺は 天雲もい行きはばかり 飛ぶ鳥も飛びも上らず 燃ゆる火を雪もち消ち 降る雪を火もち消ちつつ 言ひも得ず 名付けも知らず くすしくも います神かも せの海と名付けてあるも その山のつつめる海ぞ 富士川と人の渡るも その山の水のたぎちぞ 日の本の 大和の国の鎮めとも います神かも 宝ともなれる山かも 駿河なる富士の高嶺は 見れど飽かぬかも

富士の嶺に 降り置く雪は 六月の 十五日に消ぬれば その夜降りけり

富士の嶺を 高み畏み 天雲も い行きはばかり たなびくものを

我妹子に 逢ふよしをなみ 駿河なる 富士の高嶺の 燃えつつかあらむ

妹が名も 我が名も立たば 惜しみこそ 富士の高嶺の 燃えつつわたれ

天の原 富士の柴山 この暗の 時ゆつりなば 逢はずかもあらむ

富士の嶺の いや遠長き 山道をも 妹がりとへば けによばず来ぬ

霞居る 富士の山びに 我が来なば いづち向きてか 妹が嘆かむ

さ寝らくは 玉の緒ばかり 恋ふらくは 富士の高嶺の 鳴沢のごと

昭憲皇太后(明治天皇の皇后)

二十七年 新年山
新しき年の初日に富士の根の雪さへにほふ朝ぼらけかな

二十七年 海上夕立
富士の根は雲にかくれてくらざはの沖ゆく船にかゝる夕立

四十年 折にふれて
大君のみいつおぼえて日かげさす劔が峯の雪ぞかゞやく

三十七年 眺望
三浦がた富士の高根のみえぬ日も江の島のみはさやけかりけり

四十二年 湖上舟
玉くしげ箱根のうみをゆく船にうつれる富士の影うごくなり

三十八年 
あしたづのは山の里にうちむかふ富士より高き齢かさねよ

三十年 西京にものしける時御殿場あたりにて
見ゆべくも思はざりしを富士の根の雲間さやかにあらはれにけり

四十年 田子の浦にゆきしをり
道すがら心にかけし雲はれて雪さやかなる富士を見るかな

明治天皇

明治十一年以前 述懐
をぐるまのをす巻きあげてみわたせば朝日に匂ふ富士の白雪

明治十七年 晴天鶴
富士のねもはるかに見えてあしたづのたちまふ空ぞのどけかりける

明治二十九年 山霞
あま雲もいゆきははゞかる富士のねをおほふは春の霞なりけり

明治三十五年 薄暮山
あかねさす夕日のかげは入りはてゝ空にのこれる富士のとほ山

明治三十八年 新年山
富士のねに匂ふ朝日も霞むまで年たつ空ののどかなるかな

明治四十一年 富士山
万代の国のしづめと大空にあふぐは富士のたかねなりけり

明治四十三年 海辺雪
波のうへに富士のね見えて呉竹のはやまの浦の雪はれにけり

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・ 以上、大正十一年九月にまとめられた明治天皇御集から「富士」を含む歌。
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