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2006年02月25日

松濤明

「山想う心」
華麗、陰惨、明快、幽邃(ゆうすい)、重厚、深遠、平和、兇猛……、山の美は選ぶ人の心により各様である。或る人は富士を佳い山といい、或る人は穂高ほど素晴らしい山はないと言う。高尾山など頼まれても嫌だと言う人もあれば、そのふくよかな谷間をこよなく愛する人もある。しかし、それぞれ評価のすべてを貫いて流れるものは美への好尚であり、押しなべて山想う心である。

別所梅之助

「石を積む」
大きい石の上に石を積むのみか、洞穴などの廻りにも積む。現に蘇峰先生の名となつた阿蘇の火口のほとりに、参詣者たちは岩やら石やらを積み重ねる。これが讚岐に残つてゐる古墳、積石塚などとどういふ関係があるか、私は知らぬ。なにせよ小石をつむやうな所は、里遠からぬ地では、坂路などに多い。従つて之を賽の神に縁ありとする柳田国男氏の説もうなづける。「丘山は卑きを積んで高きをなす」(荘子)だの、「泰山は土石を辞せず、故によくその高きをなす」(管子)だのいふおもひの背景は、何であつたらう。それはすぐ断定もしがたいけれど、山や丘は、その低くなるのを忌む。それで富士などのやうに、山から落ちる砂が夜の間に山にのぼりゆくといふ想もあつたり、石巻山などのやうに、参詣の者は小石を山上に運ぶといふならはしもある。

馬名

※中央競馬データベースによる、「フジ」を含む馬名を無条件で列挙する。(2006年2月現在)
※「富士」の意を有するとは限らない。(「藤」などかもしれない)
※「キフジン」のようなものも除外せず残してある。

アドマイヤフジ
イチノフジヒメ
イチフジダイアン
エイシンフジサン
ケージーフジキセキ
シャトルフジ
ジョウショーフジ
セキサンフジ
ターフジェニック
チドリフジ
テンセイフジ
トチノミネフジ
ナリタフジヒメ
ニシノフジムスメ
ハクリュウタケフジ
ハヤノキフジン
ビューテーフジエス
フジアンバーワン
フジエスミリオーネ
フジキセキ
フジクロカミ
フジサイレンス
フジサクラオー
フジシンボリ
フジダイシン
フジノカズサオー
フジノサウスポー
フジノショウブ
フジノストーリー
フジノタカネ
フジノダイヒット
フジノチャーリー
フジノテンビー
フジノハイメリット
フジノハゴロモ
フジノプライアム
フジノマッケンオー
フジノムテキ
フジノモンスター
フジノヤマザクラ
フジノヤマノオー
フジヒカル
フジミケアンズ
フジミハミルトン
フジミパルテノン
フジヤマケンザン
フジヤマゲンスイ
フジヤマシンゲキ
フジヤマスウィープ
フジヤマデュラブ
フジヤマハギタケ
フジヤマビザン
フジヤマビュティー
フジヤマボーイ
フジヤマワイルド
フジラッキーボーイ
フジラピド
フジレインボー
フジワンマンクロス
ボタンフジ
ミフジシーワン
ユウキフジ
アグネスキフジン
イケフジ
イチフジイサミ
ケイエフジュビリー
スズカノフジアロー
チーフジャスティス
チョウチョウフジン
ツキフジレディ
フジエイワン
フジカツラ
フジキガン
フジサンデーズサン
フジゼファー
フジタカリュウエン
フジタカローズ
フジダイヤ
フジノオー
フジノクロフネ
フジノコンドル
フジノシアター
フジノスラッガー
フジノセイガイハ
フジノセンバツ
フジノテンホー
フジノビーム
フジノプロテクター
フジファレノプシス
フジプラウド
フジベル
フジマサミラクル
フジマサリーダー
フジマドンナ
フジヤマエンゼル
フジヤマキセキ
フジヤマグラス
フジヤマグリーン
フジヤマシャープ
フジヤマハクザン
フジヤマヘイザン
フジヤマワカギミ
ヘイローフジ
アサフジ
アシヤフジ
フジオンワード
フジキセキ
フジノパーシア
フジノフウウン
ミネフジ
アイビイフジエス
アサカフジ
アサマフジ
エムエスフジノ
オーフジ
カツフジクイン
カツラフジ
カネフジ
クリフジ
ケンフジ
シガラキフジ
スピードキヨフジ
ターフジェイド
ターフジョイ
タイガーフジ
チヨダフジ
ツカサフジ
ツルフジ
トーヨーフジ
トサハートフジ
トシフジ
ニシノフジエス
ハヤテフジコ
ハヤノキフジン
パーソフジ
ヒガシフジ
フジアザミ
フジアナ
フジアナリッジ
フジイーグル
フジウイン
フジエスコトブキ
フジカマダ
フジカワ
フジコウ
フジサカエ
フジシャーク
フジタカジョウ
フジタカナイス
フジタカレディ
フジチヨ
フジトモエ
フジネバー
フジノアイドル
フジノイチリン
フジノイブキ
フジノサンコー
フジノシャーク
フジノシュンプー
フジノジンライ
フジノスミレ
フジノセビリア
フジノタカ
フジノタカコトブキ
フジノタカコマチ
フジノタチカゼ
フジノダンサー
フジノトップエース
フジノハヤカゼ
フジノバンナ
フジノビート
フジノホーショー
フジノムーリン
フジノリニアー
フジノルージュ
フジノルーラー
フジベンチャ
フジミマドリード
フジャブ
フジランディ
フジリュウ
ブゼンタカフジ
マシフジ
マルフジクイン
ヤマフジビゼン

2006年02月24日

三角錫子

「七里ケ浜の哀歌」(真白き富士の根)
真白き富士の根 緑の江の島
仰ぎ見るも 今は涙
帰らぬ十二の 雄々しきみたまに
捧げまつる 胸と心

ボートは沈みぬ 千尋の海原
風も浪も 小さき腕に
力もつきはて 呼ぶ名は父母
恨(うらみ)は深し 七里が浜辺

み雪は咽(むせ)びぬ 風さえ騒ぎて
月も星も 影をひそめ
みたまよ何処(いずこ)に 迷いておわすか
帰れ早く 母の胸に

みそらにかがやく 朝日のみ光り
暗(やみ)にしずむ 親の心
黄金(こがね)も宝も 何しに集めん
神よ早く 我も召せよ

雲間に昇りし 昨日の月影
今は見えぬ 人の姿
悲しさ余りて 寝られぬ枕に
響く波の おとも高し

帰らぬ浪路(なみじ)に 友よぶ千鳥に
我もこいし 失せし人よ
尽きせぬ恨(うらみ)に 泣くねは共々
今日もあすも 斯(か)くてとわに

※三角錫子作詞・Jeremiah Ingalls作曲
※解説

平野萬里

「晶子鑑賞」
  雪厚し長浜村の船大工槌打つほどの赤石が岳
これも三津浜で作つたものの一つ、しかしこの歌はほんとうには私によくわからない。それをここへ出したのは、その取り合せが如何にも面白いからである。三津から見た富士は天下第一と云はれる美観だが、あの辺りからはまた低く赤石山脈も見える。浜は桜が満開なのに山は雪で真白だ。

十二年の晩秋、当時唯一軒よりなかつた網代の湯宿佐野家に滞在中の作。座敷の前は直ぐ海で、今日は波が高い。余り音がひどいので硝子戸を立てて見ると急に音が弱つてまるで人なら疲れたもののやうに聞こえる。それも少しさびしいので、また明けると、まるで私を引き裂く様な勢でとび込んでくるといふわけである。この時の歌には 櫨紅葉燃殻のごと残りたる上に富士ある磯山の台 三方に涙の溜る海を見て伊豆の網代の松山に立つ 故なくば見もさびしまじ下の多賀和田木の道の水神の橋 などが数へられる。

  ほのじろくお会式桜枝に咲き時雨降るなる三島宿かな
御会式桜とは池上の御会式の頃即ち柿の実の熟する頃に返り咲く種類の桜のことでもあらうか。旅の帰りに三島明神のほとりを通ると葉の落ちた枝に御会式桜が返り咲いてゐて珍しい、そこへ時雨が降り出した。それは富士の雪溶の水の美しく流れる三島宿に相応はしい光景である。この歌の調子の中にはさういふ心持も響いてゐる。

  遠つあふみ大河流るる国半ば菜の花咲きぬ富士をあなたに
大河は天竜で作者が親しく汽車から見た遠州の大きな景色を詠出したものである。あの頃はまだ春は菜の花が一面に咲いてゐた、その黄一色に塗りつぶされた世界をあらはす為に大河流るるといひ国半ばといふ強い表現法を用ゐたのである。世の中にはをかしいこともあるもので、誰であつたか忘れたが、その昔この歌を取り上げて歌はかう詠むものだといつて直した男があつた。自己の愚と劣とを臆面もなくさらけ出して天才を批判したその勇気には実際感心させられた。

  天地の春の初めを統べて立つ富士の高嶺と思ひけるかな
久能の日本平で晴れ渡つた早春の富士山を見て真正面から堂々と詠出した作。私はそこへ登つたことはないが、ある正月のこれも晴れた日に清水税関長の菅沼宗四郎君と共に三保の松原に遊んでそこから富士を見たことがある。その大きなすばらしい光景を富士皇帝といふ字面であらはし駿河湾の大波小波がその前に臣礼を取る形の歌を作つたことがあるが、この歌ではそんなわざとらしい言葉も使はず、正しく叙しただけで私の言はうとしたと同じ心持がよくあらはれてゐる。私はこの歌によつても私と晶子さんとの距離のいかに大きいかを思つた。ことにその調子の高いこと類がない。又この歌に続く次の二首があつて遺憾なくその日の大観が再現されてゐる。曰く 類ひなき富士ぞ起れる清見潟駿河の海は紫にして 大いなる駿河の上を春の日が緩く行くこそめでたかりけれ

  薄曇り立花屋など声かけん人もあるべき富士の出でざま
やはり鉄舟寺で作つた歌の一つ、その日は薄曇りであつたのに突然雲がきれて富士が顔を出した。それはどうしても羽左衛門といふ形である。大向うから立花屋といふ声がかからないではゐないといふわけである。私は若い時吉井勇君にそのよさを教へられて以来羽左がたまらなく好きになつて、よそながら死ぬまで傾倒したものだから、私にはこの歌の感じが特によく分る。ぱつたり雲を分けて出て来たのはどうあつても羽左でなければならない。

  浜ごうが沙をおほえる上に撤き鰯乾さるる三保の浦かな
三保の松原は昔からの名所であり、羽衣伝説の舞台であり、その富士に対するや今日も天下の絶景である。その三保の松原と鰯の干物とを対照させた所がこの歌の狙ひである。今日の様に一尾一円もする時代では鰯の干物の値打ちも昔日の比でなく、この歌の対照の面白味も少しく減るわけだが、この歌の出来た頃の干鰯の値段は一尾一銭もしなかつただらう。而して最下等の副食物としてその栄養価値の如きは全く無視され化学者達の憤りを買つてゐた時代の話だ。三保の松原の海に面した沙地一面に這ひ拡つた浜ごうの上に又一面に鰯が干されて生臭い匂ひを放つてゐる。その真正面には天下の富士が空高く聳えて駿河湾に君臨してゐる。さうしてそれが少しも不自然でなくよく調和してゐる。普通の観光客なら聖地を冒涜でもするやうに怒り出す所かも知れない、そこを反つて興じたわけなのであらう。

  比が根山秋風吹けど富士晴れず拠なく靡く草かな
十国峠を通るに相当強い秋風が海の方から吹いて来る、けれども中天の雲を吹き飛ばすだけの力はなく富士は曇つた儘姿を現はさない。而してそれに失望するのは自分だけではない、それより富士を拠として日々その生を続けてゐるこの比加根山の草の方が可哀さうだ、頼りなささうに秋風に靡いて居るその姿。十国峠の草山の物足らぬ心持が淋しい位よく出てゐる。

  秋寒し旅の女は炉になづみ甲斐の渓にて水晶の痩せ
秋寒しは、文章なら水晶の痩せて秋寒しと最後に来る言葉である。これは昭和七年十月富士の精進湖畔の精進ホテルに山の秋を尋ねた時の作。富士山麓の十月は相当寒い。旅の女は炉辺が放れられない。しかし寒いのは旅の女許りではない、この甲州の寒さでは、水晶さへ鉱区の穴の中で痩せ細ることだらう。

  鴬や富士の西湖の青くして百歳の人わが船を漕ぐ
大正十二年七月夫妻は富士五湖に遊んだ。精進ホテルはあつたが外人の為に出来てゐたので、日本人の遊ぶものまだ極めて少い時代であつた。西湖なども小舟で渡つたのでこの歌がある。西湖の色は特に青くもあり、環境は一しほ幽邃で仙骨を帯びてゐる許りでなく少しく気味のわるい様相をさへ呈してゐる。そこで舟を漕ぐ船頭迄百歳の人のやうな気がするといふのであらう。

平出修

「計畫」
途が頂上に達する處に一本の松が立つて居る。その木の下まで行けば、向うは眼界がひろくなつて、富士山がすぐ眼近に見える。村の人は富士見の松と云ひならはして居る。二人はそこまで行つて草を藉いて腰を下した。五月の日盛りの空はぼうとして、起伏する駿州の丘陵が霞の中から、初夏の姿をあらはして居る。風が温かく吹いて、二人の少し汗した肌を心持よくさました。

水上瀧太郎

「山を想ふ」
  富士の嶺はをみなも登り水無月の氷のなかに尿垂るとふ
與謝野寛氏の歌だ。近頃の山登の流行は素晴しい。斷髮洋裝で舞踏場に出入し、西洋人に身を任せる事を競ふ女と共に、新興國の産物である。一國の文化に古びがついて來ると、人々は無闇に流行を追はなくなるが、國を擧げてモダアンといふ言葉に不當の値打をつけてゐる心根のはびこる限り、生理的に山などへ登つてはいけない時期にある娘もいつしよになつて神域を汚す事は、活動寫眞じこみの身振と共にすたらないであらう。高きに登りて小便をする程壯快な事は無いと云つた人があるが、女もその快感を味ははんが爲めに、汗臭くなつて健脚をほこり、土踏まずの無い足で富士の嶺を踏つけ、日本アルプスを蹴飛ばすのか。

年齡の關係か、年々海よりも山の姿に心が向くやうになつた。むかし富士山に登つた時、砂走で轉んで擦(すり)むいた膝子(ひざつこ)の傷痕を撫でながら、日本晴の空にそそり立つ此の國の山々の姿を想ひ描くのである。
山といふと、私は第一に淺間山をなつかしく思ふ。燒土ばかりの富士の山は、遙かに下界から仰ぎ見るをよしとする。空氣の固く冷たい信濃の高原の落葉松(からまつ)の林の向うに烟を吐く淺間は生きて居る。詩がある。私はまだ、山の彼方に幸ひの國があると夢見てゐた少年の日に登つた。

雲を破つて日が登つた。もくもくと湧く白雲の海の向うに、はつきりと富士山が見えた。岩のかげから、拍手が起つた。吾々より後から小屋に來て、先に出た連中だつた。

林柳波

「羽衣」
白い浜辺の 松原に
波が寄せたり かえしたり

あまの羽衣 ひらひらと
天女の舞の 美しさ

いつか霞に つつまれて
空にほんのり 富士の山

※林柳波作詞・橋本国彦作曲
※文部省唱歌、昭和16年

海野厚

「背くらべ(せいくらべ)」
柱のきずは おととしの
 五月五日の 背くらべ
粽(ちまき)たべたべ 兄さんが
 計ってくれた 背のたけ
きのうくらべりゃ 何のこと
 やっと羽織の 紐(ひも)のたけ

柱に凭(もた)れりゃ すぐ見える
 遠いお山も 背くらべ
雲の上まで 顔だして
 てんでに背伸(せのび) していても
雪の帽子を ぬいでさえ
 一はやっぱり 富士の山

※海野厚作詞・中山晋平作曲

謡曲 富士太鼓

「富士太鼓」
富士浅間いづれも面白き名なり。さりながら古き歌に、信濃なる浅間の嶽も燃ゆるといへば。
富士の煙のかひや無からんと聞く時は。名こそ上なき富士なりとも。

雲の上なほ遥なる。富士の行方をたづねん。

さしも名高き富士はなど、煙とはなりぬらん。今は歎くに其かひもなき跡に残る思子を。見るからのいとゞ猶すゝむ涙はせきあへず。

持ちたる撥をば剣と定め、瞋恚の焔は太鼓の烽火の、天にあがれば雲の上人。誠に富士颪に絶えず揉まれて裾野の桜。四方へばつと散るかと見えて。花衣さす手も引く手も。

日も既に傾きぬ。/\。山の端をながめやりて招きかへす舞の手の。うれしや今こそは。思ふ敵は打ちたれ。打たれて音をや出すらん。我には晴るゝ胸の煙。富士が恨を晴らせば涙こそ上なかりけれ。

※登場人物に富士、富士の妻、富士の女などあるが、富士山に関連する部分など適当に抜粋。

沢村専太郎(沢村胡夷)

「紅萌ゆる丘の花(三高逍遥の歌)」

紅萌ゆる丘の花 早緑(さみどり)匂う岸の色
 都の花に嘯(うそぶ)けば 月こそかかれ吉田山
緑の夏の芝露(しばつゆ)に 残れる星を仰ぐ時
 希望は高く溢れつつ 我等が胸に湧返る
千載(せんざい)秋の水清く 銀漢(ぎんかん)空にさゆる時
 通える夢は崑崙(こんろん)の 高嶺の此方(こなた)ゴビの原
ラインの城やアルペンの 谷間の氷雨なだれ雪
 夕べは辿る北溟(ほくめい)の 日の影暗き冬の波
嗚呼故里よ野よ花よ ここにも萌ゆる六百の
 光も胸も春の戸に 嘯き見ずや古都の月
それ京洛(けいらく)の岸に散る 三年(みとせ)の秋の初紅葉
 それ京洛の山に咲く 三年の春の花嵐
左手(ゆんで)の書(ふみ)にうなずきつ 夕(ゆうべ)の風に吟ずれば
 砕けて飛べる白雲(はくうん)の 空には高し如意ケ嶽
神楽ケ岡の初時雨 老樹の梢伝う時
 檠燈(けいとう)かかげ口誦(くちずさ)む 先哲至理の教(おしえ)にも
嗚呼又遠き二千年 血潮の史(ふみ)や西の子の
 栄枯の跡を思うにも 胸こそ躍れ若き身に
希望は照れり東海の み富士の裾の山桜
 歴史を誇る二千載(にせんざい) 神武の子等が立てる今
見よ洛陽の花霞 桜の下(もと)の男の子等が
 今逍遥に月白く 静かに照れり吉田山

※沢村専太郎作詞・K.Y.作曲

まど・みちお

「一年生になったら」から抜粋

一年生になったら
一年生になったら
ともだち100人 できるかな
100人で 食べたいな
富士山の上で おにぎりを
パックン パックン パックンと

※まど・みちお作詞・山本直純作曲

宮沢賢治

「文語詩稿 一百篇」
浮世絵
ましろなる塔の地階に、 さくらばなけむりかざせば、
やるせなみプジェー神父は、 とりいでぬにせの赤富士。
青瓊(ぬ)玉かゞやく天に、 れいろうの瞳をこらし、
これはこれ悪業(あく)乎(か)栄光(さかえ)乎(か)、 かぎすます北斎の雪。


「春と修羅」
雲は白いし農夫はわたしをまつてゐる
またあるきだす(縮れてぎらぎらの雲)
トツパースの雨の高みから
けらを着た女の子がふたりくる
シベリヤ風に赤いきれをかぶり
まつすぐにいそいでやつてくる
(Miss Robin)働きにきてゐるのだ
農夫は富士見の飛脚のやうに
笠をかしげて立つて待ち
白い手甲さへはめてゐる もう二十米だから
しばらくあるきださないでくれ
じぶんだけせつかく待つてゐても
用がなくてはこまるとおもつて
あんなにぐらぐらゆれるのだ

宮本百合子

「なつかしい仲間」
マア、おけいちゃん! 手をつかまえて、玄関のわきの自分の小部屋へ入って、膝をつきつけて、どうしたのよ、手紙もよこさないで、と云うと、おけいちゃんは富士額の生えぎわを傾けて、やはりおとなしく御免なさいね、とあやまるのであった。そして、ゆっくりした口調で、私神戸の方へ行っていたの、と云った。


「二つの庭」
けれども、佐々の家には一軒の貸家も、収入となる一ヵ所の地所もなかった。それがあれば、ひとりでに儲かってゆくというような家とか地面とかをためていなかった。そういう点で泰造の生活態度は仕事に自信のある技術家らしい淡白さだった。多計代がむしろそういう点に用心ぶかさと積極性をもっていた。それにしろ十何年も昔、多計代がひどく意気込んで雪の日に見に行って買った北多摩の地面は、四季を通じてそこから富士が素晴らしくよく見えるというのがとりえなばかりで、地価さえろくにあがらず、今だに麦畑のままであった。


「国際観光局の映画試写会」
五月十九日の朝。日比谷映画劇場へ、国際観光局の映画の試写を見に行った。「富士山」、「日本の女性」。
そのとき挨拶をしたのは観光局の役人で、スマートなダブルの左右のポケットへ両手の先を入れた姿勢でラウドスピイカアの前へ立ち、この二つの作品では特別音楽に力を注いだということの説明があった。


「実感への求め」
先月、日比谷映画劇場で、国際観光局が海外宣伝映画試写会をもよおした。「富士山」と「日本の女性」という二つの作品で、其映画のはじまる前に、映画製作に直接関係した課の長にあたる人の挨拶があった。これまでの日本の映画音楽がよくなかったので、この二つには特に新進の作曲家たちの労作を得た。


「小祝の一家」
祖父ちゃんとミツ子を紐でおんぶった祖母ちゃんとが、火葬場からアヤのお骨をひろってかえって来た。
祖母ちゃんは、戸棚の奥へ風呂敷包みをつみかえ、前の方だけあけ、そこへ水色の富士絹の風呂敷をひろげてアヤのお骨壺をのせた。


「山峡新春」
なるほど天城街道は歩くによい道だ。右は冬枯れの喬木に埋った深い谷。小さい告知板がところどころに建っていて、第×林区、広田兵治など書いてある。その、炭焼きか山番かであろう男が一人いる処は、向う山か、遙かな天城山の奥か。
或る角で振返ったら、いつか背後に眺望が展け、連山の彼方に富士が見えた。頂の雪は白皚々、それ故晴れた空は一きわ碧く濃やかに眺められ、爽やかに冷たい正月の風は悉くそこから流れて来るように思えた。


「播州平野」
東京を立つ前、ひろ子は土産ものをさがして銀座の三越へ入った。がらん洞に焼けた地階のほんの一部分だけを、ベニヤ板や間に合わせのショウ・ケースで区切って、当座の売場にしてあった。紙につつんだ丈の口紅や、紙袋入りの白粉が並べられたりしている。一方の隅に、アメリカのどんな避暑地にある日本土産品店よりも貧弱な日本品陳列場が出来ていた。白樺のへぎに、粗悪な絵具で京舞妓や富士山を描いた壁飾。けばけばしい色どりで胡魔化した大扇。ショウ・ケースに納められているのは、焼けのこったどこからか集めて来た観光客向の縮緬(ちりめん)紙に印刷された広重の画や三つ目小僧がつづらから首を出している舌切雀のお伽草子類である。


「村の三代」
三春富士と安達太郎山などの見えるところに昔大きい草地があった。そして、その草地で時々鎌戦さが行われた。あっち側からとこっち側からと草刈りに来る村人たちは大方領主がそれぞれちがっていて、地境にある草地の草を、どっちが先に刈るかというような争いから、丁髷を振り立てて鎌戦さになることがあったのだろう。

まだ荒漠としている開墾の遙か彼方の山並の上に三春富士を眺め、その下に連る古い町々の人煙を見ながら、松林の中へ三層楼の役場を建てた当時の人々の感情のなかには、明治というものがどんなに明るく、広く、真直な美しさをもってうちひらけ、描かれていたかが実に髣髴とするようである。


「正義の花の環――一九四八年のメーデー――」
去年十二月下旬日本銀行の紙幣発行高は、凡そ二〇〇〇億円であった。この二千億という紙幣を百円札で八割、十円札二割とすると、面積六六万平方キロ。長さ八二万キロで地球のまわりの長さの二十倍。高さ富士山の百二十倍。この二千億を日本の総人口七千万と仮定すると一人が三千円ずつもっていられるはずである。ところが、実際にはどこへ金が吸いこまれてしまっているのだろう。正業にしたがっているものは、税、税の苦しみで、片山首相が「間借り」で都民税一二〇円ですましていられたことを羨んだ。


「獄中への手紙」一九三七年(昭和十二年)
この家は、同じ方角できっといい月が眺められるでしょう。きのうあたり夕月がきれいでした。晴天だと、遠く西日のさす頃、富士も見えます。

正月早く、あなたには突然のように私が引越したのは、Nが正月頃傾向がわるく家をあけ(飲んで)そういうときは私が煙ったく、煙ったいと猶グレるので、Kのやりかたがむずかしいこともありありと分って一層早くうつったのでした。この目白の家が割合よかったこともあって。ここは、先の家の一つ先の横丁を右に入った右の角のところで、小さい家です。でも、夕刻晴天だと富士が見えます。交通費がやすくすむので何より助かります。バスで裁判所や市ヶ谷へゆけるの。

八月二十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(国立公園富士箱根大涌谷の絵はがき)〕

十月十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(琴平名所の金比羅高台より讚岐富士を望む絵はがき)〕


「獄中への手紙」一九四〇年(昭和十五年)
二月九日  第十三信
うちの時計が十三分ばかり進んでいるらしいけれども、午後の四時すこしすぎ。
きょうは西の方に真白い富士がよく見えました。とけのこった雪が家々の北側の屋根瓦や軒に僅ずつのこっていて、そこをわたって来る風はつめたいけれども日光は暖い、いかにも早春のような日和です。

おや多賀ちゃんがかえって来た、困った、富士もサクラもないらしい。今夕わかりますが。では又ね、呉々お大切に。

けさのこの小散歩でやっと田舎に来たらしい気になりました。多賀子はこれから広島へゆきます、例のお話していたたか子の友達ね、あのひとにあって、大体の意中をきくために。ついでにみやげのレモンを買い、東京迄の寝台券を買うために。十三日の寝台で十四日朝ついて、すぐそちらに行くしかないことになりましたから。サクラ、富士、どっちも駄目ですから。東京からの汽車はまだいくらかましですが、こちらから東京へは全くひどいこみようです、寝台もあるかしら。これさえあやしいのです。全くお話の外です。

八月三十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(国立公園富士・三保松原の写真絵はがき)〕

九月七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(○満州国民衆風俗「路傍の肉屋」、○国立公園富士・鈴川より「橋畔に立ちて」、○国立公園富士・清水港より「港から」の写真絵はがき)〕


「獄中への手紙」一九四三年(昭和十八年)
一月三日 〔豊島区西巣鴨一ノ三二七七巣鴨拘置所の宮本顕治宛 本郷区林町二十一より(代筆 牧野虎雄筆「春の富士」の絵はがき)〕

藤田嗣治の絵は、変にアジア人の特徴を出して、泥色の皮膚をした芸者なんか描いていていやでしたが、国男さんが十七年版の美術年鑑を買ったのを見たらば、そこに戦争絵がアリ、原野の戦車戦、ある山嶽の攻略戦等の絵がありました。目をひかれたのは、藤田が昔の日本人の合戦絵巻、土佐派の合戦絵図の筆法を研究して、構成を或る意味で装飾的に扱っていることです。更に気がついたのは、その構成にある大きさ、ゆとり、充実感が、こういう絵の求めるわが方の威力というものを表現する上に実に効果をあげています。山嶽攻略なんか、北斎の富士からヒントでも得たかと思うほど、むこうの山を押し出して、山の圧力が逆作用でこちらの圧力を転化する構成です。


「獄中への手紙」一九四五年(昭和二十年)
さて、きょうは三十一日になりました。朝八時すぎにこうした手紙をかきはじめるというようなことは珍しゅうございます。けさ八時に国が富士というところへゆくために出発したのでこんな時間が出来ました。

けさは七時すぎサイレンで起きましたが、ありがたいことに来ず。又午後かしら。午後はBだからいやね。動坂の家の先に富士神社があったでしょう、きのう以来、あのあたりもあったところということになりました。うちのすぐ前の交番の横通り。こんどはあすこよ。なかなかでしょう? 昨夜は、ローソク生活でした。今夜つくかしら。水道・ガスなしです。そちらは灯つきましたろうか。


「禰宜様宮田」
ところどころ崩れ落ちて、水に浸っている堤の後からは、ズーとなだらかな丘陵が彼方の山並みまで続いて、ちょうど指で摘み上げたような低い山々の上には、見事な吾妻富士の一帯が他に抽(ぬきん)でて聳(そび)えている。
色彩に乏しい北国の天地に、今雪解にかかっているこの山の姿ばかりは、まったく素晴らしい美しさをもって、あらゆるものの歎美の的となっているのである。


「舗道」
エスペラントの講習会はそこの一室である。
ミサ子が富士絹の風呂敷づつみを抱え、ソッとドアをあけて入って行くと、荒板を打ちつけて拵えたベンチにかたまって板をしわらせながらかけている連中の中から菅が、
「ヤア……ちょうどいいところだ、早く来なさい。みんな食っちまうヨ!」
と大きな晴ればれした声で呼びかけた。


「道標」
「ああいう連中はね」
川瀬勇が、云った。
「下宿の神さんや娘や、その他おなじみの女たちに、せいぜい刺繍したハンカチーフだの何だのやっちゃ、大いに国威を発揚していたのさ。富士山(フジヤマ)だの桜だのってね。そこへ、『シャッテン・デス・ヨシワラ』に出られちゃ、顔がつぶれるっていうわけさ、被害甚大ってわけさ。まさか見るな、とも云えまいしね。御婦人連は、おあいそのつもりで、わいわい云うんだろうし……」


「金色の秋の暮」
帰途、富士を見た。薄藍のやや低い富士、小さい焔のような夕焼け雲一つ二つ。


「長寿恥あり」
アメリカへ行くとのぼせて、日本人に向っておかしなことをいう日本人は、冬のさなかにサン・グラスをつけて、フジヤマ・スプレンディッド(素晴らしい富士山)と叫んだ田中絹代ばかりではない。池田蔵相もだいぶおかしくなったらしい。尾崎行雄は年甲斐もなく亢奮して、日本の国語が英語になってしまわなければ、日本で民主精神なんか分りっこないと放言しているのには、日本のすべての人がおどろいた。元来民主主義は英語の国から来たものだからだそうだ。

葛原しげる

「中野学園(明治大学付属中野中学校・高等学校) 校歌」
○日に幾度か麗はしく
 色こそかはれ 芙蓉峰
 霞に雲に はた雪に
 千古の容姿 動き無く
 質実剛毅 さとすなり

※3番あるうちの2番
※作詞葛原しげる/作曲納所辨次郎


「羽衣」
あれ天人(てんにん)は 羽衣(はごろも)の
舞を舞い舞い 帰り行(ゆ)く
風に袂(たもと)が ヒラヒラと
羽根に朝日が キラキラと
松原こえて 大空の
霞に消えて 昇り行く

あれかくれ行く 松原は
三保の浜辺か なつかしや
浜の漁師は 安らかに
栄え栄えよ いつまでも
日本一の 富士山も
霞の下に 消えてゆく

※葛原しげる作詞・梁田貞作曲

2006年02月23日

三木鶏郎

「僕は特急の機関士で」(東海道の巻)から抜粋
右に見えるは 富士の山
左に見えるは 駿河湾
仲をとりもつ 展望車
沼津食わずの 三等車
東京 京都 大阪
ウ ウウウウ ウウウ ポポ

※三木鶏郎作詞・作曲

林不忘

「丹下左膳」日光の巻
大は、まず小より始める。
富士の山も、ふもとの一歩から登りはじめる……という言葉がある。
日本の世直しのためには、まずこの江戸の人心から改めねばならぬ。
それには、第一に、この身辺のとんがり長屋の人気を、美しいものにしなければならない。
と、そう思いたった泰軒先生。

沼津名物、伊賀越え道中双六の平作と、どじょう汁。
品川から十三番目の宿場ですな。
三島からくだり道で、沼津の町へはいりますと、
「どうだい、右に見えるのが三国一の富士の山、左は田子の浦だ。絶景だなア!」
お壺の駕龍が千本松原へ通りかかると、お壺休み。つきしたがう侍たちは、松の根方や石の上に腰をかけて、あたりの景色にあかず見入っています。

作詞不詳

「アルプス1万尺」

アルプス1万尺 小槍の上で
アルペン踊りを 踊りましょう
ランラララ ララララ
ランラララ ラララ
ランラララ ララララ
ラララララ

きのうみた夢 でっかい小さい夢だよ
蚤(のみ)がリュックしょって 富士登山
ランラララ ララララ
ランラララ ラララ
ランラララ ララララ
ラララララ

1万尺に テントを張れば
星のランプに 手が届く
ランラララ ララララ
ランラララ ラララ
ランラララ ララララ
ラララララ

※作詞不詳・アメリカ民謡
※多数の替え歌がある

樋口一葉

「ゆく雲」
我が養家は大藤村の中萩原とて、見わたす限りは天目山、大菩薩峠の山々峯々垣をつくりて、西南にそびゆる白妙の富士の嶺は、をしみて面かげを示めさねども冬の雪おろしは遠慮なく身をきる寒さ、魚といひては甲府まで五里の道を取りにやりて、やう/\まぐろの刺身が口に入る位、あなたは御存じなけれどお親父(とつ)さんに聞て見給へ、それは隨分不便利にて不潔にて、東京より歸りたる夏分などは我まんのなりがたき事もあり、そんな處に我れは括(くく)られて、面白くもない仕事に追はれて、逢ひたい人には逢はれず、見たい土地はふみ難く、兀々(こつ/\)として月日を送らねばならぬかと思に、氣のふさぐも道理とせめては貴孃(あなた)でもあはれんでくれ給へ、可愛さうなものでは無きかと言ふに、あなたは左樣仰しやれど母などはお浦山しき御身分と申て居りまする。

原勝郎

「東山時代における一縉紳の生活」
そもそも連歌師の常とはいいながら、宗祇の旅行は、その回数においても、はたまたその範囲においても、共にすこぶる驚くに足るものであり、関東には七年も遍歴し、十一箇国それぞれの場所から富士山を眺めて、なかんずく筑波山から見るが最もよいと断定したほどの大旅行家で、したがって方言にも精通し、かつて実隆に『京ニ筑紫ヘ坂東サ』などの物語をしたこともある。

林芙美子

「放浪記」(初出)
十一月×日
○富士を見た
 富士山を見た
 赤い雪でも降らねば
 富士をいゝ山だと賞めるに当らない。
 あんな山なんかに負けてなるものか
 汽車の窓から何度も思った徊想
 尖った山の心は
 私の破れた生活を脅かし
 私の瞳を寒々と見降ろす。
○富士を見た
 富士山を見た
 烏よ!
 あの山の尾根から頂上へと飛び越えて行け!
 真紅な口でカラアとひとつ嘲笑ってやれ
○風よ!
 富士はヒワヒワとした大悲殿だ
 ビュン、ビュン吹きまくれ
 富士山は日本のイメージーだ
 スフィンクスだ
 夢の濃いノスタルジヤだ
 魔の住む大悲殿だ。
○富士を見ろ!
 富士山を見ろ!
 北斎の描いたかつてのお前の姿の中に
 若々しいお前の火花を見たが…………
○今は老い朽ちた土まんじゅう
 ギロギロした瞳をいつも空にむけているお前――
 なぜやくざな
 不透明な雲の中に逃避しているのだ!
○烏よ! 風よ!
 あの白々とさえかえった
 富士山の肩を叩いてやれ
 あれは銀の城ではない
 不幸のひそむ大悲殿だ
○富士山よ!
 お前に頭をさげない女がこゝに一人立っている
 お前を嘲笑している女がここにいる
○富士山よ
 富士よ!
 颯々としたお前の火のような情熱が
 ビュンビュン唸って
 ゴウジョウな此女の首を叩き返えすまで
 私はユカイに口笛を吹いて待っていよう。
私はまた元のおゆみさん、胸にエプロンをかけながら、二階の窓をあけに行くと、ほんのひとなめの、薄い富士山が見える。


「夜福」
昨夜はまんじりともしなかつたけれども、兎に角、一晩たつたといふことは、福へ對しての怒りを、ほどよく冷ますのに十分であつた。
今、眼の前に見る福といふ女は、久江にはきれいに見えた。赤ん坊もよくふとつて、清治に生うつしである。
富士山のやうに盛りあがつた小さい唇に、蟹のやうにつばきをためながら、青く澄んだ眼を久江へ呆んやり向けた。久江が思はず手を出すと、赤ん坊は思ひがけないあどけさで兩の手を久江の方へのばして來るのである。


「谷間からの手紙」
「これ‥‥」
さう言つて、富士山の模様の風呂敷から、萄葡と固パンを出して私の膝に載つけましたので、私はチヨコレートの犬の尻つぽをお返しにしました。すると、兵隊さんは、その犬の尻つぽをひと口に頬ばつて、私の足をきつと踏みました。
「痛いわ!」
さう小さい声で言つたんですけど、兵隊さんはまるで赤い地図のやうに首筋から血を上せて、顔をあかくしました。

長谷川時雨

「明治美人伝」
とはいえ、徳川三百年の時世にも、美人は必ずしも同じ型とはいえない。浮世絵の名手が描き残したのを見てもその推移は知れる。春信、春章(しゅんしょう)、歌麿、国貞と、豊満な肉体、丸顔から、すらりとした姿、脚と腕の肉附きから腰の丸味――富士額――触覚からいえば柔らかい慈味のしたたる味から、幕末へ来ては歯あたりのある苦みを含んだものになっている。

ぽんたは貞節の名高く、当時大阪の人にいわせると、日本には、富士山と、鴈次郎(大阪俳優中村)と、八千代があるといった。富田屋八千代は菅(すが)画伯の良妻となり、一万円とよばれた赤坂春本の万竜も淑雅(しゅくが)な学士夫人となっている。祇園の歌蝶は憲政芸妓として知られ、選挙違反ですこしの間罪(つみ)せられ、禅門に参堂し、富菊は本願寺句仏上人(くぶつしょうにん)を得度して美女の名が高い。


「柳原��子(白蓮)」
だが、わたしは、そのおりの印象を、ふらんすの貴婦人のように、細(ほそ)やかに美しい、凛としているといっている。そして、泉鏡花さんに、『踏絵』の和歌(うた)から想像した、火のような情を、涙のように美しく冷たい体で包んでしまった、この玲瓏たる貴女(きじょ)を、貴下(あなた)の筆で活(いか)してくださいと古い美人伝では、いっている。貴下のお書きになる種々な人物のなかで、わたくしの一番好きな、気高い、いつも白と紫の衣(きぬ)を重ねて着ているような、なんとなく霊気といったものが、その女をとりまいている。譬えていえば、玲瓏たる富士の峰が紫に透(す)いて見えるような型の、貴女をといっている。これはだいぶ歌集『踏絵』に魅せられていた。


「一世お鯉」
お鯉さんは朝のままで、髪も結いたてではなかった。別段おめかしもしていなかった。無地の、藍紫(あいむらさき)を加味したちりめんの半襟に、縞のふだん着らしいお召と、小紋に染めたような、去年から今年の春へかけて流行(はや)ったお召の羽織で、いったいに黒ずんだ地味なつくりであった。
かわらないのは眉から額、富士額の生際(はえぎわ)へかけて、あの人の持つ麗々しい気品のある、そして横顔の可愛らしさ、わたしは訪ねて来て、近々と見ることの甲斐のあったのをよろこんだ。


「最初の外国保険詐欺」
後に金瓶大黒は娼妓(しょうぎ)も二、三人になり、しがなくなって止めたそうだが、浅草観世音仁王門わきの弁天山の弁天様の池を埋めたり、仲見世を造ったり、六区に大がかりな富士山の模型をつくったりした。公園事務所長は初代が福地桜痴(ふくちおうち)居士、二代目が若い方の金兵衛さんだときいた。


「木魚の配偶」
「でも水で大変だろう。」
「うん、床が高いけれど、座ってる胸のところへ来ている。」
「硫黄をみんな二階へあげてあげるといっておくれ。」
「こっちへ連れて来たいが、老人(としより)だから流されるだろう、とても甚(ひど)いや、僕でもあぶない。」
私は突嗟(とっさ)に富士登山の杖が浮いてるのをとって、窓の外の弟にわたした。
水が引いたあと、ヘドロを掻くのと、濡れた衣物(きもの)や書籍が洗いきれずに腐って、夜になると川へ流して捨てた。

「イヨウ、綺麗になりやがあったな、弁天様だぞ。」
酒をもひとつというように口をあけた。そして露を吸うように、垂らされる雫が舌のさきに辷(すべ)ると、
――富士の、白さけ……
と幽(かすか)な幽な声で転がすように唄った。正(まさ)しく生ているおりなら、笑みくずれるほどに笑ったのであろう。唇をパクリとした。


「神田附木店」
おしょさんは、その部屋の、真中の柱に、長い柱鏡のかかっている前に、緋(ひ)の毛せんを敷いて二面の二絃琴にむかって座っている。すべての小道具は、燦然(さんぜん)とみな磨かれて艶々(つやつや)している。座ぶとんの傍に紫檀(したん)の煙草盆があって、炉扇(ろせん)でよせられた富士山形の灰の上に香(こう)がくゆっている。

2006年02月22日

萩原朔太郎

「蝶を夢む」より

榛名富士

その絶頂(いただき)を光らしめ
とがれる松を光らしめ
峰に粉雪けぶる日も
松に花鳥をつけしめよ
ふるさとの山遠遠(とほどほ)に
くろずむごとく凍る日に
天景をさへぬきんでて
利根川の上(へ)に光らしめ
祈るがごとく光らしめ。

野上豐一郎(野上豊一郎)

「吹雪のユンクフラウ」
私たちの立ってるすぐ上の軒庇から黒い鳥が二羽三羽と吹雪の中を飛び下りて来てはまた飛び上って行く。烏に似て烏よりは小さく、鳩よりは大きい。名前を聞いたらベルクドーレ(山がらす)というのだそうだ。私たちはすぐ目の前にユンクフラウの本体を仰ぎながら、富士より三九〇米高く、新高より二一六米高いその俊峰を卍(まんじ)巴の雪花の中に見失い、しばらく償われない気持で立ちつくした。


「エトナ」
エトナの遠望は孤立したところは富士に似て居り、その高さ(三三〇〇米)も富士に近いが、富士よりも大きく根を張って、裾野が直接海の中へ走り込んでるのと、残雪の間から噴煙を立てているのがちがう。登って見ると幾つも峰があったり、熔岩流が無数にあったりするけれども、直径二五キロを距てたタオルミーナから眺めると、山容はなだらかな線となって、海の紺碧との調和が譬えようもなく美しい。


「日本文學と外來思潮との交渉(四)西洋文學」
例へば明治十三年刊行の橘顯三譯「春風情話」(スコットの「ラマムアの花嫁」)の人物が讀本(よみほん)や草双紙の如き日本風俗の男女に描かれたり、明治十九年刊行の「天路歴程」が、口繪には西洋風な原作者の銅版肖像が入れてありながら、中にはちよん髷の老人や、ざんぎり頭に羽織を着て下駄をはいた紳士が出たり、從道と名乘るクリスチャンが新田義貞の如き甲冑に身を固め日本刀を拔いて、蝙蝠の如き翼を張つて毒矢をかざした惡魔アポリオンと格鬪して居ると、その背景に富士山が見えてゐたりする。斯くの如き適應性が果して當時尚ほ必要であつただらうか。疑なきを得ない。


「湖水めぐり」
吉田から先は少し歩かうと云ふことであつたけれども、わぎわざ歩くほどの價値もなささうな所だから、それに、歩くとなると槇村君の提げて來た大きなカバンのために人夫を一人傭はねばならぬので、矢張り鐵道馬車で出かける事にした。桑と黍と小松の間の下り道をのろのろと一頭の馬が首を振り振り曳いて行くのである。富士は曇つて裾野だけが明るく展けてゐた。

私と青楓君は浴衣に着替へて湖水を眺めたり雲に蔽はれた富士を見たりしてゐたが、まだ日が高くて二階には相當のほてりがあり、外へ出て見たところで大してしようもなささうだから、(實際、河口湖は平凡である、)やがて歸つて來た兩君と一緒になつて寢ころびながら、例の大カバンの中から罐詰のソオセイジを取り出したり、ミルクココアをこさへたりして雜談に耽つた。

九時半。富士は昨日よりよく見えたが、それでも顏だけはヴェイルを取らなかつた。六合目か七合目かの石室が肉眼でもよく見えた。馬返しの附近にはもう登山の群が見える頃だといふので、舟の中から頻りに望遠鏡をのぞいたけれども、なんにも見えなかつた。

長濱に上るとすぐ道は上りになり、照りつける日は熱かつたけれども、三十分の後には私達は鳥坂峠の頂上に立つてゐた。其處から今渡つて來た河口湖を後に見下し、これから横ぎらうとする西湖を目の下に見やつた眺めは、恐らくいつまでも忘れられないであらう。更に、西湖の向に青木ヶ原の樹海を見渡し、それに續く丘陵の先に龍ヶ嶽(その頭は富士と同じやうにまだ雲の中に隱れてゐた)を見た景色は、たとへば、此處から引返すとしても私たちは此の旅行を後悔しないだらうと思はれる程度のものであつた。

西湖は周りにすぐ山が迫つて、河口湖よりは暗いけれども、それだけ靜寂の氣に多く充ちて、私には高く値ぶみされる。けれども舟で渡るよりも、鳥坂峠から見下した景色の方が遙かによい。舟で行くと、その間に富士が斷えず見えてゐるのがうれしい。

私たちの集まつてゐた窓の前にはまつすぐな赤松が何本も立つて、その間から、肩を稍〃そばめ加減にして端坐した富士孃の、全身に夕日を浴びてまぶしさうにしてゐる姿が、時間の進むにつれてだんだんと近くなつて來るやうに見えた。

さうしてまた窓ぎはに椅子を寄せて明日の旅程についてさつきのつづきを話し合つた。馬で大宮方面へ出ることだけはきまつてゐるが上井出から先は鐵道馬車があるさうだから、馬は上井出まで(六里半とも七里ともいふ)にして、大宮に泊るか、身延へ(輕便鐵道で)出るか、それとも吉原へ行つて泊るか、或ひは富士驛に出て終列車で東京へ歸るか、と云つた風に、皆んなが別別の意見を持つてゐるだけならまだよいが、一人で幾つもの意見を持つてゐる者があるので、小田原評定に終つてしまつた。

私は輕井澤から追分へかけての高原を歩いたこともあり、妙高山の高原を歩いたこともあるけれども、これほどの雄大な高原はまだ見たことがなかつた。富士は半分以上雲の中に隱れてゐたが、右の方にすぐ龍ヶ岳が聳えて、その山と富士の中間の臺地が私たちの前に限りなく遠くまで起伏してゐるのである。皆んな口口に、いいね、いいね、と叫んだ。どこを見ても一面の草原で、その間に秋草が咲いて、なでしこの色が湖水の縁のよりも一きは濃く、ところどころに菖蒲の咲いてゐるのも珍らしかつた。

結局、大宮には登山客が雜沓するだらうから泊らないといふことだけをきめて、大宮から富士驛までの切符を買つた。
富士身延の輕便鐵道は思つたより乘心地がよかつた。大宮町の停車場で、休刊してゐた東京の新聞が出てゐたことと、敷島が十五錢になつたことを知つて、なんだか二三日の間に世間から遠くなつてゐたやうに思はれた。汽車の中で梨子をむいて食べながら、とにかく今夜は海道の何處かへ泊まり、明日東京へ歸ることにしようと一決した。それで、切符は東京までのを買つたけれども、富士驛で乘り換へ、沼津で下りた。

2006年02月21日

民謡

「デカンショ節」から抜粋
丹波篠山 山家の猿が
ア ヨイヨイ
花のお江戸で 芝居する
ヨーイヨーイ デッカンショ

酒は飲め飲め 茶釜でわかせ
ア ヨイヨイ
お神酒あがらぬ 神はない
ヨーイヨーイ デッカンショ

霧の海から 丹波の富士が
ア ヨイヨイ
ぼかし絵のように 浮び出る
ヨーイヨーイ デッカンショ

※兵庫篠山地方

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1961年の日別気象グラフです。見にくい?

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