刑部たけ美
「山梨県富士吉田市立下吉田第一小学校 校歌」
○気高き富士の白雪を
朝夕仰ぐわれわれは
愛と正義を忘れずに
日々新しき教え受け
明るく強く生いたたん
ああ 下吉田小学校
※作詞刑部たけ美/補作中村星湖/作曲尾高尚忠
※3番あるうちの1番
「山梨県富士吉田市立下吉田第二小学校 校歌」
○緑が丘の 朝風に
希望明るく あおぎ見る
気高き富士のすがたこそ
わたくしたちの 心です
※作詞刑部たけみ/作曲小山章三
※3番あるうちの1番
「山梨県富士吉田市立下吉田第一小学校 校歌」
○気高き富士の白雪を
朝夕仰ぐわれわれは
愛と正義を忘れずに
日々新しき教え受け
明るく強く生いたたん
ああ 下吉田小学校
※作詞刑部たけ美/補作中村星湖/作曲尾高尚忠
※3番あるうちの1番
「山梨県富士吉田市立下吉田第二小学校 校歌」
○緑が丘の 朝風に
希望明るく あおぎ見る
気高き富士のすがたこそ
わたくしたちの 心です
※作詞刑部たけみ/作曲小山章三
※3番あるうちの1番
そめいろの富士は浅黄に秋のくれ
凍屋根に丑満の富士かぶさりぬ
「成仙玉一口玄談」
今眼前に見るを以て、実に世界に是のごとき銀河ある事を知る。我等前年諸国を巡りし時、大人国といふ国へ行て見るに、麦畠は日本の竹林のごとく、松、杉、檜等を始め一切の樹木が、すべて其周囲半町巡り壱町廻りほどあるなり。商家の家といふが、大概大仏の堂程あり。山といふほどの山は、皆富士山ほどありて、軒下のしよろしよろ流れといふが、安倍川、淀河、天竜川程ありし。其国の男も女も、長が五丈四五尺から六丈有余もあり。大男といふは七八丈ほどもあり。
赤富士へ百千鳥声を惜しまざる
富士が嶺に夕だち雲の移りゆく光りは消えて風冷ゆるなり
「産卵せよ富士」より
さへぎるものない
火の矢となって
富士の子宮を灼きにくる
かの太陽の精子の流れよ
プロメテウスは立ち去ったが
役の行者は今も健在
夜ごと夜ごと彼は走る
猿(ましら)のごとく 飛ぶごとく
「馬の背」の 「剣ケ峯」の
深さ二百メートルの火口壁で
行者は叫ぶ 鷲と風を
初富士や一都二県の隔たりに
夏富士や靴より抜きし足真つ白
太陽は没(い)りはてぬれば天(そら)いちめん逆光線のはてに富士あり
「早春」の「青潮」より
少女等(をとめら)がうつくしき指あつめたるそなたに遠く伊東富士見ゆ
するがなる大富士が嶺の裾長に曳きたる野辺の八千草の花
「富士」
またこれにより富士は常に白雪を頂き、寒厳の裸山になったのだ、と古常陸地方の伝説は構成している。
山の祖神の翁は螺の如き腹と、えび蔓のように曲がった身体を岸の叢(くさむら)に靠(もた)せて、ぼんやりしていた。道々も至るところで富士の嶺は望まれたが見れば眼が刺されるようなので顧ってみなかった。
初夏五月の頃、富士の嶺の雪が溶け始めるのに人間の形に穴があく部分がある。「富士の人型」といって駿南、駿西の農民は、ここに田園の営みを初める印とする。その人型は螺の腹をしえび蔓の背をした山の祖神の翁の姿に、似ている。いやそれにやや獣の形を加えたようでもある。
ここにまた筑波の山中に、涙明神という社がある。本体には富士の火山弾が祭ってある。
山は晴れ、麓の富士桜は、咲きも残さず、散りも始めない一ぱいのときである。洞から水を汲みに出た水無瀬女は、浅黄の空に、在りとしも思えず、無しと見れば泛ぶかの気の姿の、伯母の福慈の女神に遇った。
福慈の岳の噴煙は激しくなって、鳴動をはじめた。
不二の嶺のいや遠長き山路をも妹許(いもがり)訪へば気(け)に呻(よ)はず来(き)ぬ
富士の西南の麓、今日、大宮町浅間神社の境内にある湧玉池と呼ばれる湛えた水のほとりで、一人の若い女が、一人の若い男に出会った。
頃は、駿河国という名称はなくて、富士川辺まで佐賀牟(さがむ)国と呼ばれていた時代のことである。
笑ったあとで、女は富士を見上げた。はつ秋の空にしんと静もり返っている。山は自分の気持の底を見抜いていて、それはたいしたことはない、しかしいまの年頃では真面目にやるがよいといっているようでもある。
女は思慮分別も融けるような男の息吹きを身体に感じた。しかし前回での男とのめぐり合いののち、富士を眺め上げて、それはただ血の気の做すわざなんだか、もっと深く喰入るべきものがあるような気がしたのを想い出して、自然と抑止するものがあった。
女は、何となく本意なく、富士の高嶺を見上げた。その姿は、いま眼のまえに横っている小雄鹿の死と同じ静謐さをもって、聳えて揺り据っている。今日も鳥が渡っている。
種族の血を享けてか、情熱と肉体の逞しさだけあって、智慧は足りない方だった。彼は強いままに当時の上司の命を受けて、東国の界隈の土蜘蛛の残りの裔を討伐に向った。たまたまこの佐賀牟の国の富士の山麓まで遠征した。
女は、そ知らぬ顔をして富士を見上げた。碧い空をうす紫に抽き上げている山の峯の上に相変らず鳥が渡っている。奥深くも静な秋の大山。
富士が生ける証拠に、その鼓動、脈搏を形に於て示すものはたくさんあるが、この湧玉の水もその一つであった。
仰げばすでに、はっきり覚めて、朝化粧、振威の肩を朝風に弄(なぶ)らせている大空の富士は真の青春を味うものの落着いた微笑を啓示している。
さぬらくは玉の緒ばかり恋ふらくは不二の高嶺の鳴沢のごと
「川」
「向ふの丘へ行つて異人館の裏庭から、こちらを眺めなすつたらいゝ。相模の連山から富士までが見えます。」
「東海道五十三次」
鈴川、松並木の左富士
「母子叙情」
そしてかの女は規矩男と共に心楽しく武蔵野を味わった。躑躅の古株が崖一ぱい蟠居(ばんきょ)している丘から、頂天だけ真白い富士が嶺を眺めさせる場所。ある街道筋の裏に斑々(はんぱん)する孟棕藪(もうそうやぶ)の小径を潜ると、かの女の服に翠色が滴り染むかと思われるほど涼しい陰が、都会近くにあることをかの女に知らした。
「老主の一時期」
顔を上げた時、二人の頬から玉のやうな涙が溢れ落ちた。御殿女中上りの老婢に粧装(つく)られる二人の厚化粧に似合つて高々と結(ゆ)ひ上げた黒髪の光や、秀でた眉の艶が今日は一点の紅をも施さない面立ちを一層品良く引きしめてゐる。とりわけ近頃憂ひが添つて却つてあでやかな妹娘の富士額(ふじびた)ひが宗右衛門には心憎いほど悲しく眺められたのであつた。
「老妓抄」
柚木は、華やかな帯の結び目の上はすぐ、突襟(つきえり)のうしろ口になり、頸の附根を真っ白く富士山形に覗かせて誇張した媚態(びたい)を示す物々しさに較べて、帯の下の腰つきから裾は、一本花のように急に削げていて味もそっけもない少女のままなのを異様に眺めながら、この娘が自分の妻になって、何事も自分に気を許し、何事も自分に頼りながら、小うるさく世話を焼く間柄になった場合を想像した。
「金魚撩乱」
復一は、鏡のように凪いだ夕暮前の湖面を見渡しながら、モーターボートの纜(ともづな)を解いた。対岸の平沙(へいさ)の上にM山が突兀(とつこつ)として富士型に聳え、見詰めても、もう眼が痛くならない光の落ちついた夕陽が、銅の襖(ふすま)の引手のようにくっきりと重々しくかかっている。
のぼりきて顧みすれば大富士と肩を並べてわれ立つごとし
つぶら実を日に照らさせて大富士の前に枝張る一本の柿
「横浜市立浦島小学校校歌」
○つづくうしろの森かげに
知識の花を求めつつ
み空にあおぐ富士の嶺に
高き思いを養わむ
※作詞/尾上柴舟 作曲/井上武士 3番あるうちの2番
麓から頂きまでも富士の嶺を背負ひて登る八ケ岳かな
俊鶻の翼に低し富士の山
※以上一句、「一蓑一笠」の「春の筑波山」より
山は富士 湖水は十和田 ひろい世界にひとつずつ
「千山萬水」より「月瀬の春」から
旅の用意もはや整ひたればいざやとて同行四人、四月十二日の一番汽車にうち乗り、新橋の停車場を立出でぬ、國の名も武蔵相模駿河遠江参河と遠かり行き、風物も自然と異なる程に、乗り詰めの長旅も厭きの来ぬこと妙なれ。頓(やが)ては雲の富士を車の廂(ひさし)に眺め、濱名の湖水を窓前に熨(の)して、見る間に雨そぼそぼと降り出でたり。
「俺の記」
実は、俺がこれ迄行つてゐた方は、小使部屋、雪隠、湯殿、などの方面だつた。俺が初めて来た折は、西寮の小使部屋へ持つて行かれたのさ。勿論小使部屋だ、マツチ箱の様な中に持つて来て、角火鉢、大薬鑵、炭取、箒、寝台、布団、机、鈴、乃至茶碗、土瓶、飯箱、鉄串に至るまで、まるで足の踏み処も無い始末、もし火事が始まつた時には、小使はキツト焼け死ぬるに異ひないと思つた。秋小口はさうでもないが、追々と、富士山が白うなつて来る頃になると、小使部屋の火鉢にだん/\と、炭をたくさんつぎ出す、それと共に、生徒がこの狭い小使部屋に押しかけて来る。小使の椅子をチヤンと占領してしまつて、火鉢をグルリツと取りまく。
「叙景詩の発生」
奈良の詞人の才能は、短歌に向うてばかり、益伸びて行つた。長歌は真の残骸である。赤人にしても、其短詩形に於て表して居る能力は、長歌に向うては、影を潜めてしまつた様に見える。新らしく完成せられた小曲に対して集中する求心的感動の激しさ、其で居て観照を感情に移すのに毫も姿を崩さない、静かな而もねばり強い把握力の大きさには、驚かされる。其赤人の長歌が、富士の歌と言ひ、飛鳥神南備の歌と言ひ、弛緩した心を見せて居るに過ぎない。それに短篇に段々傾いて行つて居るのも、気分が長詞曲にはそぐはなくなつたことを見せて居る。
「雪の島 熊本利平氏に寄す」
処が、来住の古いことを誇つてゐる家筋では、大晦日の夜の事としたのが多い。大晦日の夜、春の用意をしてゐる時に、神が来臨せられたので、其まゝで御迎へした。其以来此一党では、正月に餅を搗かぬの、標(シ)め飾りをせぬのと言ふ。又、其変化して多く行はれる形は、本土から家の祖先が来た時が、大晦日の夜で、正月の用意も出来ないで、作つて居た年縄(トシナハ)を枕に寝て、春を迎へた。或は、餅を搗く間がなかつたとも言ふ。其で、其子孫一統、正月の飾りや、喰ひ物を作らぬのだ、と説いてゐる。此は皆、富士筑波・蘇民将来の話よりも、古い形なのである。
「大嘗祭の本義」
此新嘗には、生物(ナマモノ)のみを奉るのではなく、料理した物をも奉る。其前には長い/\物忌みが行はれる。単に、神秘な穀物を煮て差し上げる、といふのみの行事ではない。民間には、其物忌みの例が残つて居る。常陸風土記を見ると、祖神(ミオヤガミ)が訪ねて行つて、富士で宿らうとすると、富士の神は、新粟(ワセ)の初嘗(ニヒナメ)で、物忌みに籠つて居るから、お宿は出来ない、と謝絶した。そこで祖神は、筑波岳で宿止(ヤドメ)を乞うた処が、筑波の神は、今夜は新嘗をして居るが、祖神であるから、おとめ申します、といつて、食物を出して、敬拝祇(ツヽシミツカヘ)承つた、とある。此話は、新嘗の夜の、物忌みの事を物語つたものである。此話で見る様に、昔は、新嘗の夜は、神が来たのである。
「稲むらの蔭にて」
神待ちの式のやかましいことは、
誰ぞ。此家の戸押(オソ)ぶる。
新嘗(ニフナミ)に我が夫(セ)をやりて、
斎ふ此戸を鳰鳥(ニホドリ)の葛飾早稲を嘗(ニヘ)すとも、
その愛(カナ)しきを、外(ト)に立てめやも(同)
と言ふ名高い万葉集の東歌と、御祖神の宿を断つた富士の神の口実(常陸風土記)などに、其俤を留めてゐる。
「萬葉集辭典(万葉集辞典)」
ふじ【富士】
常陸風土記に、昔、祖神尊(ミオヤノミコト)諸処を巡行して、駿河国の富士に至って宿を乞うた時、富士の神が、今日は新嘗の夜だから、宿は貸されない、と断つたので、祖神尊が恨んで、自分の親にさへ宿を貸さない様な者の山は、夏冬とも雪が降って、寒さは甚しく、人民が登り得ず、食物も無くなるぞ、と言つたと言ふ話が見えてゐる。
ふじのしばやま【富士ノ柴山】
裾野の灌木帯で、雑木をとる故の名であらう(杣山の対)か。或は富士の神を遙拝するのに、柴を折り挿した為の名であらうか。又、富士ノ嶺。
「妣が国へ・常世へ 異郷意識の起伏」
飛鳥の都の始めの事、富士山の麓に、常世神(トコヨガミ)と言ふのが現れた。秦(ハタノ河勝(カハカツ)の対治(タイヂ)に会ふ迄のはやり方は、すばらしいものであつたらしい。「貧人富みを致し、老人少(ワカ)きに還らむ」と託宣した神の御正体(ミシヤウダイ)は、蚕の様な、橘や、曼椒(ホソキ)に、いくらでもやどる虫であつた。
「愛護若」
大体石芋民譚は、宗教家の伝記に伴ふものが多い様だが、古くは慳貪と慈悲とを対照にした富士・筑波式の話であつた。其善い片方を落したのが石芋民譚で、対照的にならずに、善い方だけの離れたのもある。
かの正本に、聴衆先刻御存知と言つた風の書きぶりが見えるのは、八太夫以前に拡つた愛護民譚と八太夫の浄瑠璃との距離を思はせるのであるが、尚他の浄瑠璃と比べては、原始的の匂ひを止めてゐたであらう。況して「都富士」や「塒箱」などは、説経現在本よりは、幾分か作意の進んでゐたもの、と考へられる。
「最古日本の女性生活の根柢」
万葉巻十四に出た東歌(あずまうた)である。新嘗の夜の忌みの模様は、おなじころのおなじ東の事を伝えた常陸風土記にも見えている。御祖(ミオヤ)の神すなわち、母神が、地に降(くだ)って、姉なる、富士に宿を頼むと、今晩は新嘗ですからとにべもなく断った。妹筑波に頼むと新嘗の夜だけれど、お母さんだからと言うて、内に入れてもてなした。それから母神の呪咀によって、富士は一年中雪がふって、人のもてはやさぬ山となり、筑波は花紅葉によく、諸人の登ることが絶えぬとある。
静岡いでて富士をかかぐる空に遭ふみどり子の熱も落ちつつあらむ
山襞のかげをきはだてて雪白く春日の照れる華麗なる富士
在陣をするがのふじの山よりも たかねにかうは馬のまめかな
※秀吉の右筆、大村由己が読んだ歌といわれる。
「道なき道」
やがて、父娘は大阪行きの汽車に乗った。車窓に富士が見えた。
「ああ、富士山!」
寿子は窓から首を出しながら、こうして汽車に乗っている間は、ヴァイオリンの稽古をしなくてもいい、今日一日だけは自分は自由だと思うと、さすがに子供心にはしゃいで、
「富士は日本一の山……」
と、歌うように言った。
「富士は日本一の山か。そうか」
と、庄之助は微笑したが、やがて急にきっとした顔になると、
「――日本一のヴァイオリン弾き! 前途遼遠だ。今夜大阪へ帰ったらすぐ稽古をはじめよう」
無心に富士を仰いでいる寿子の美しい横顔を見つめながら、ひそかに呟いた。美しいが、しかしやつれ果てて、痛々しい位、蒼白い横顔だった。
「近松半二の死」
あづま路に、かうも名高き沼津の里、富士見白酒名物を、一つ召せ/\駕籠に召せ、お駕籠やろかい參らうか、お駕籠お駕籠と稻むらの蔭に巣を張り待ちかける、蜘蛛の習(ならひ)と知られたり。浮世渡りはさま/″\に、草の種かや人目には、荷物もしやんと供廻(ともまは)り、泊りをいそぐ二人連れ――
「半七捕物帳・ズウフラ怪談」
安政四年九月のことである。駒込富士前町の裏手、俗に富士裏というあたりから、鷹匠屋敷の附近にかけて、一種の怪しい噂が立った。
「半七捕物帳・白蝶怪」
旧暦二月のなかばの春の空は薄むらさきに霞んで、駿河町からも富士のすがたは見えなかった。その日本橋の魚河岸から向う鉢巻の若い男が足早に威勢よく出て来た。
「綺堂むかし語り」
この茶店には運動場があって、二十歳ばかりの束髪の娘がブランコに乗っていた。もちろん土地の人ではないらしい。山の頂上は俗に見晴らし富士と呼んで、富士を望むのによろしいと聞いたので、細い山路をたどってゆくと、裳(すそ)にまつわる萩や芒(すすき)がおどろに乱れて、露の多いのに堪えられなかった。登るにしたがって勾配がようやく険しく、駒下駄ではとかく滑ろうとするのを、剛情にふみこたえて、まずは頂上と思われるあたりまで登りつくと、なるほど富士は西の空にはっきりと見えた。秋天片雲無きの口にここへ来たのは没怪(もっけ)の幸いであった。
ふじのねは雲はれわたる度毎に
たかさやそふとおどろかれつゝ
雲は冬残留孤児の富士額
麦踏みの富士のぼりきる長さとも
炎天の富士となりつつありしかな
雪解富士林道山の端を行けば
雪解不二見て来て青き近江不二
めじるしの能登不二ねむる漁休
※2007年3月1日、俳人大島民郎氏死去されました。ご冥福をお祈り申し上げます。
初旅の晴れ晴れしさよ焼津富士
藷苗をしつゝ富士のやさしけれ
かりがねやそよろと立ちて近江富士
富士暮るゝ迄夕汐を浴びにけり
神棚に代へて初富士拝むなり
富士の下一八の咲ける小家かな
「山梨県立日川高校 校歌」
○天地の正気甲南に
籠りて聖き富士が根を
高き理想を仰ぐとき
吾等が胸に希望あり
※4番あるうちの1番
※作詞大須賀乙字/作曲岡野貞一
富士見せてしめし障子や冬の蝿
富士かけて梅雨明け雲の深さかな
初富士に木花之開耶姫に礼
初富士の自負に陰翳ありにけり
勁さうな虻を引き寄せ富士薊
初御空富岳まさしく三保にあり
初富士の赤富士なりしめでたさよ
五月富士甍の空にかくれなし
筆初め土牛の富士を仰ぎけり
陸の富士海の富士見て年新た
雪解富士全し泉湧きつゞき
羽衣の天女舞ひ来よ五月富士
ふれんとし花も剌持つ富士薊
「信長公記」
富士の根かた、かみのが原、井出野にて、御小姓衆、何れもみだりに御馬をせめさせられ、御くるひなされ、富士山御覧じ候処
※太田牛一について
富士のみはくろし秋晴くづれずに
涼しさや始て富士に後むく
「日本行脚文集」
先づ此山の開始は、いともかしこき聖君、孝安天皇九十二、水無月一夜のうちに、江州に凹(なかくぼ)の湖湧出、浮島が原に凸(なかたか)の富峰忽然と生出たり。しかあれば八層の下陰に皇帝の陵をとどめ給ふ。かつ役の角仙信託をうけ、忝なくも天照大神の息神魂(いきみたま)、市杵島姫の幸魂、加久夜姫命、則ち此御山の本主也
初東雲胸中白き富士を聳たす
二日富士下りひかりの車窓より
鶏鳴や雪富士にいま茜さす
初富士の夕映もなく暮れにけり
裏富士に走る雪痕朴咲けり
不二晴れて更に山なきあした哉
此神の玉に霽たり霧の不二
五月雨夢にも不二は見えぬ也
秋嶺として遠富士のあきらかに
なめらかな海に裳を引く春の富士
初冨士にまみゆ自ずと息深く
「鉄道唱歌」(東海道篇)より
14(御殿場・佐野)
はるかにみえし富士の嶺は
はや我そばに来(きた)りたり
ゆきの冠(かんむり)雲の帯
いつもけだかき姿にて
15
ここぞ御殿場夏ならば
われも登山をこころみん
高さは一万数千尺(すせんじゃく)
十三州もただ一目
18
鳥の羽音におどろきし
平家の話は昔にて
今は汽車ゆく富士川を
下るは身延の帰り舟
20
三保の松原田子の浦
さかさにうつる富士の嶺を
波にながむる舟人は
夏も冬とや思うらん
29(鷲津・二川)
右は入海(いりうみ)しずかにて
空には富士の雪しろし
左は遠州洋(なだ)近く
山なす波ぞ砕けちる
「鉄道唱歌」(第5集=関西・参宮・南海各線)より
28
伊勢と志摩とにまたがりて
雲井に立てる朝熊山(あさまやま)
のぼれば冨士の高嶺まで
語り答うるばかりにて
※大和田建樹作詞・多梅稚(おおのうめわか)作曲
※歌詞は変遷がある。
「平塚学園高等学校 校歌」
○富士が峯の かがよう雪に
久遠なるさとし見ざるや
ふるまいの 美しきもの
尽くさまし 世の人のため
平塚は 和むふるさと
奥ゆかし 清し むつまじ
ああ われら泉を分けて
培わん 徳の芽生えを
※3番あるうちの2番
※作詞大木惇夫/作曲乗松明広
「富士吉田市歌」
○浄(きよ)らけき不二の高嶺の
裾ひくや 緑のわが市(まち)
人のため はらからのため
幸(さいわい)を 紡ぎて織らん
ああ誉(ほまれ)あり 富士の子われら
奮(ふる)ひ立ち こぞり立ち
明日の花の栄えを見ばや
○白妙の不二の高嶺の
影うつす鏡ぞ 湖
ここにこそ人ら集ひて
新しき生命(いのち)を汲まん
ああ 望みあり 富士の子われら
扶(たす)けあい睦みあい
平和の貢(みつぎ) 世にささげばや
○仰ぎ見る不二の高嶺の
みさとしは 気高し ふるさと
美(うる)はしき殿堂を いざ
あけぼのの夢に築かん
ああ 祈りあり 富士の子われら
相呼びつつ 応へつつ
世界に虹を懸けわたさばや
※大木惇夫作詞/小松清作曲
大雪渓袈裟がけ海に利尻富士
ハマナスや雲横引きに利尻富士
寒夕焼富士に一番星沈む
小梅恵草夕富士雲上に浮び出づ
秋の風お中道見ゆ室も見ゆ
雲海に浮び青磁の夜明富士
風花や残照富士の遠ちになほ
峠より遠富士眺め年惜しむ
群蜻蛉飛べど飛べども富士暮れず
枯山をくだり来て夕富士にあふ
ねんごろに会釈しあうて富士講者
くっきりと富士の雪解の縞模様
初東雲あめつち富士となりて立つ
高速路初富士滑り来たりけり
流鶯の夕澄む富士となりにけり
流鶯の夕澄む富士となりにけり
凛々と夜空を占めて涅槃富士
傾ぎつつ芽吹く潅木お中道
凛々と夜空を占めて涅槃富士
傾ぎつつ芽吹く潅木お中道
峠路にまざと大富士鳥帰る
赤人の 富士を仰ぎて 耕せり
「本州横断 癇癪徒歩旅行」
あすここそ頂上に相違ないと、余りの嬉しさに周章(あわ)てたものか、吾輩は巌角(いわかど)から足踏み滑らして十分(したたか)に向脛(むこうずね)を打った。痛い痛いと脛を撫でつつ漸くそこに達し、拝殿にも上らず、直ちにその後(うしろ)の丘の上に駆け上ると、ここぞ海抜三千三百三十三尺、高さからいえば富士山の三分の一位のものであるが、人跡余り到らぬ常州第一の深山八溝山の絶頂である。
「金色夜叉」
「どうぞ此方(こちら)へお出あそばしまして。ここが一番見晴が宜いのでございます」
「まあ、好い景色ですことね! 富士が好く晴れて。おや、大相木犀(もくせい)が匂ひますね、お邸内(やしきうち)に在りますの?」
鋳物の香炉の悪古(わるふる)びに玄(くす)ませたると、羽二重細工の花筐(はなかたみ)とを床に飾りて、雨中の富士をば引攪旋(ひきかきまは)したるやうに落墨して、金泥精描の騰竜(のぼりりゆう)は目貫を打つたるかとばかり雲間に耀(かがや)ける横物の一幅。
一村十二戸、温泉は五箇所に涌きて、五軒の宿あり。ここに清琴楼と呼べるは、南に方(あた)りて箒川の緩く廻れる磧(かはら)に臨み、俯しては、水石(すいせき)はりんりんたるを弄び、仰げば西に、富士、喜十六(きじゆうろく)の翠巒(すいらん)と対して、清風座に満ち、袖の沢を落来る流は、二十丈の絶壁に懸りて、ねりぎぬを垂れたる如き吉井滝(よしいのたき)あり。
「新版・小熊秀雄全集第1巻」(創樹社)
バラバン節
破れ銅鑼を、敲かうよ。
バラバンのバン
一万三千尺、富士の山
せまい日本が、一眼に見える、
お花畑で、カルモチン。
バラバンのバン
「小熊秀雄全集7・詩集(6)長篇詩集」
18
富士山の山姿の
現象的ななだらかさのやうに―、
日本の楽壇も現象的にはなごやかなものだ、
だがこゝのジャンルでも
詩や、劇や、小説のジャンルと等しく
底では、地軸では、海底では
はげしく争ひ鳴つてゐるのだ、
詩集「雨になる朝」
十一月の街
街が低くくぼんで夕陽が溜つてゐる
遠く西方に黒い富士山がある
「香水紳士」
「今日は、日本晴れですから、国府津の叔母さんのお家からは、富士さんがとてもよく見られますよ」