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折口信夫(しのぶ、釈迢空)

「叙景詩の発生」
奈良の詞人の才能は、短歌に向うてばかり、益伸びて行つた。長歌は真の残骸である。赤人にしても、其短詩形に於て表して居る能力は、長歌に向うては、影を潜めてしまつた様に見える。新らしく完成せられた小曲に対して集中する求心的感動の激しさ、其で居て観照を感情に移すのに毫も姿を崩さない、静かな而もねばり強い把握力の大きさには、驚かされる。其赤人の長歌が、富士の歌と言ひ、飛鳥神南備の歌と言ひ、弛緩した心を見せて居るに過ぎない。それに短篇に段々傾いて行つて居るのも、気分が長詞曲にはそぐはなくなつたことを見せて居る。


「雪の島 熊本利平氏に寄す」
処が、来住の古いことを誇つてゐる家筋では、大晦日の夜の事としたのが多い。大晦日の夜、春の用意をしてゐる時に、神が来臨せられたので、其まゝで御迎へした。其以来此一党では、正月に餅を搗かぬの、標(シ)め飾りをせぬのと言ふ。又、其変化して多く行はれる形は、本土から家の祖先が来た時が、大晦日の夜で、正月の用意も出来ないで、作つて居た年縄(トシナハ)を枕に寝て、春を迎へた。或は、餅を搗く間がなかつたとも言ふ。其で、其子孫一統、正月の飾りや、喰ひ物を作らぬのだ、と説いてゐる。此は皆、富士筑波・蘇民将来の話よりも、古い形なのである。


「大嘗祭の本義」
此新嘗には、生物(ナマモノ)のみを奉るのではなく、料理した物をも奉る。其前には長い/\物忌みが行はれる。単に、神秘な穀物を煮て差し上げる、といふのみの行事ではない。民間には、其物忌みの例が残つて居る。常陸風土記を見ると、祖神(ミオヤガミ)が訪ねて行つて、富士で宿らうとすると、富士の神は、新粟(ワセ)の初嘗(ニヒナメ)で、物忌みに籠つて居るから、お宿は出来ない、と謝絶した。そこで祖神は、筑波岳で宿止(ヤドメ)を乞うた処が、筑波の神は、今夜は新嘗をして居るが、祖神であるから、おとめ申します、といつて、食物を出して、敬拝祇(ツヽシミツカヘ)承つた、とある。此話は、新嘗の夜の、物忌みの事を物語つたものである。此話で見る様に、昔は、新嘗の夜は、神が来たのである。


「稲むらの蔭にて」
神待ちの式のやかましいことは、
   誰ぞ。此家の戸押(オソ)ぶる。
   新嘗(ニフナミ)に我が夫(セ)をやりて、
   斎ふ此戸を鳰鳥(ニホドリ)の葛飾早稲を嘗(ニヘ)すとも、
   その愛(カナ)しきを、外(ト)に立てめやも(同)
と言ふ名高い万葉集の東歌と、御祖神の宿を断つた富士の神の口実(常陸風土記)などに、其俤を留めてゐる。


「萬葉集辭典(万葉集辞典)」
ふじ【富士】
常陸風土記に、昔、祖神尊(ミオヤノミコト)諸処を巡行して、駿河国の富士に至って宿を乞うた時、富士の神が、今日は新嘗の夜だから、宿は貸されない、と断つたので、祖神尊が恨んで、自分の親にさへ宿を貸さない様な者の山は、夏冬とも雪が降って、寒さは甚しく、人民が登り得ず、食物も無くなるぞ、と言つたと言ふ話が見えてゐる。
ふじのしばやま【富士ノ柴山】
裾野の灌木帯で、雑木をとる故の名であらう(杣山の対)か。或は富士の神を遙拝するのに、柴を折り挿した為の名であらうか。又、富士ノ嶺


「妣が国へ・常世へ 異郷意識の起伏」
飛鳥の都の始めの事、富士山の麓に、常世神(トコヨガミ)と言ふのが現れた。秦(ハタノ河勝(カハカツ)の対治(タイヂ)に会ふ迄のはやり方は、すばらしいものであつたらしい。「貧人富みを致し、老人少(ワカ)きに還らむ」と託宣した神の御正体(ミシヤウダイ)は、蚕の様な、橘や、曼椒(ホソキ)に、いくらでもやどる虫であつた。


「愛護若」
大体石芋民譚は、宗教家の伝記に伴ふものが多い様だが、古くは慳貪と慈悲とを対照にした富士・筑波式の話であつた。其善い片方を落したのが石芋民譚で、対照的にならずに、善い方だけの離れたのもある。

かの正本に、聴衆先刻御存知と言つた風の書きぶりが見えるのは、八太夫以前に拡つた愛護民譚と八太夫の浄瑠璃との距離を思はせるのであるが、尚他の浄瑠璃と比べては、原始的の匂ひを止めてゐたであらう。況して「都富士」や「塒箱」などは、説経現在本よりは、幾分か作意の進んでゐたもの、と考へられる。


「最古日本の女性生活の根柢」
万葉巻十四に出た東歌(あずまうた)である。新嘗の夜の忌みの模様は、おなじころのおなじ東の事を伝えた常陸風土記にも見えている。御祖(ミオヤ)の神すなわち、母神が、地に降(くだ)って、姉なる、富士に宿を頼むと、今晩は新嘗ですからとにべもなく断った。妹筑波に頼むと新嘗の夜だけれど、お母さんだからと言うて、内に入れてもてなした。それから母神の呪咀によって、富士は一年中雪がふって、人のもてはやさぬ山となり、筑波は花紅葉によく、諸人の登ることが絶えぬとある。