谷川俊太郎
「にっぽんや」より
○オリンピック 近日入荷
フジヤマ 見切
「新・鉄道唱歌」より
○はるかにみえし富士の嶺は
はや我そばを遠ざかる
心もはやるバカンスの
時速は二百有余粁
「にっぽんや」より
○オリンピック 近日入荷
フジヤマ 見切
「新・鉄道唱歌」より
○はるかにみえし富士の嶺は
はや我そばを遠ざかる
心もはやるバカンスの
時速は二百有余粁
雪の富士藁屋一つにかくれけり
「白蛇艸第五集」より
これやこの泥のごとくろがねの研すりたつ腕とぞいふべきかくて三日あそびをりて家路に杖を曳きたりき、今は三とせ四年もやすぎつらん、松井畊雪がもとにて書画どもあまた見わたしける中に、高島芙蓉のかきたる不尽山のゑ、めとどまりて、ほしく思ひけれど、かくともえいはでやみにけるを、此ごろわづらひて何ごともたゞ物うくおもはるゝまにまに、夜ひる衾ひきかづきてのみ有ければ、心のうちいよゝ物さびしくなりもてゆきつゝ、はかなきことゞもいたづらに思ひめぐらさるゝくせなんあやにくなるにつけ、ある夜ねざめにふと此ふじの画にはかに見まほしうなりけるにより、いとあぢきなくしひたるわざにはあれど、かの絵ゆづりくるべく夜あくるまちて、便りもとめ畊雪のもとに、其よしいひやりけるに、畊雪すみやかにうべなひて、人してもたせおこせたりけり、いひやりはやりつるものゝ、いかゞかへりごとすらんと思ひわづらひてありけるほどなりければ、画とり出すとひとしく、病もなにもうちわすれ、やがて壁にかけさせて、しばしは目もはなたでぞありし
痩肩をそびやかしてもほこるかな雲ゐる山を手に入れつとて見し富士の画そらごとゝはなしはてぬ心の曇り去りぞ尽せる上月君の明日故郷にやどりける夜、この菴いとちいさきに松の黒木もて作りたる大きやかなる火桶つねすゑおけるを、今滋とふたりひをけのかたへにちゞまり寝る、狭きこといふばかりなし
「静岡県富士市立今泉小学校 校歌」
○富士さわやかに空高く
あおいでうたう合唱に
新しき日は晴れわたり
われらが心ふるい立つ
※田中末広作詞/岡本敏明作曲
※4番あるうちの1番
「絵入都々逸集」から
○富士の雪かやわたしが思ひ
積るばかりで消えはせぬ。
水平線にやをら突起をつくりつゝ富士より高くなれよとぞおもふ
天地のわたけき心ここにありこの富士のこの柿田川
「南総里見八犬伝」(南總里見八犬傳)
仰ぎて西南を眺れば 夏の富士いまだ装を更めず。遥に東北を省れば 翠の筑波 尚霞を残せり。武総両国の都会にあなれば 海舶多く錨を卸し 商漁那這に軒を比べて 世渡り易き福地になんありける。然ば又這河辺に 三観鼻と喚做す出崎あり。什麼何等の由来にて 這名あるやと原るに 看官知らざる所あり。約莫這水際に 翹て観るときは 右は富士 左は筑波 前面は葛西の曠野まで 杳渺として障るものなく 只一覧にて 三箇の眺望あり。因て土人字して 三観鼻と唱へたり。
「ヒマラヤの意義」
最高峯Everestは高距実に二万九千二百尺、富岳を二倍して且つ加ふるに大山を以てしても、尚低きこと一百尺、四時雪を冠し未だ嘗て絶えず。
富士市すぎ富士宮すぎ富士参道登りてゆけど富士は雲の中
柚子は黄に富士を神とす九十九谷
「日本大学三島中学・高等学校 校歌」
○真白き富士の 嶺を負いて
花咲きほこる 三島路に
聳えて高き わが母校
師弟集いて燃ゆる血に
理想の星を目指さなん
ああ 日大三島
われらに栄え あれ
※4番のうち1番
※作詞高梨公之/作曲貴島清彦
「鎌倉望嶽歌。用坡公登州海市詩韻。」
※鎌倉にて嶽を望む歌。坡公が登州海市詩の韻を用う。
芙蓉八朶撐青空
變幻出沒煙雲中
直立一萬五千尺
登此可以窺天宮
維嶽涌出在上世
削成巉巌神斧功
太湖萬頃一時闢
九霄飛躍深淵龍
我會欲到帝之側
神悸一笑昌黎翁
豈意老天弄狡獪
猜防卻借滕六雄
壬申秋。東游登嶽。比及半腹。天俄雪。竟不窮絶頂而下。
今日養痾碧湘上
憑檻望嶽雙眸窮
玉容儼然隔海立
彩暉映發霞光融
壮時意氣果何在
酒量涓滴空千鍾
新詞寧能致神感
自慙腹笥終不豐
但餘鬢色與嶽爭
皤皤相照臨鏡銅
何當騫翥借鵬翼
直攀絶頂凌長風
※芙蓉 八朶 青空を撐(ささ)え
※變幻 出沒す 煙雲の中(うち)
※直立 一萬五千尺
※此(ここ)に登れば以て天宮を窺(うかが)う可し
※維(これ)嶽涌出するは上世に在り
※削成 巉巌(さんがん) 神斧功(しんぶこう)
※太湖 萬頃 一時に闢(ひら)き
※九霄(きゅうしょう) 飛躍す 深淵の龍
※我會(かつ)て帝の側に到らんと欲し
※神悸(しんき)一笑す 昌黎翁(しょうれいおう)
※豈(あに)意(おも)わんや 老天 狡獪(こうかい)を弄し
※猜防(さいぼう) 卻(かえ)って借る 滕六(とうりく)の雄
※壬申の秋。東游して嶽に登る。半腹に及ぶ比。天俄に雪ふる。竟に絶頂を窮めずして下る。
※今日 痾(あ)を養う 碧湘の上(ほとり)
※檻に憑(よ)り嶽を望み 雙眸(そうぼう)窮まる
※玉容 儼然 海を隔てて立ち
※彩暉(さいき) 映發し 霞光 融(と)く
※壮時の意氣 果して何(いずく)にか在る
※酒量 涓滴(けんてき) 千鍾空(むな)し
※新詞 寧(いずく)んぞ能く神感を致さん
※自(みずか)ら慙(は)ず 腹笥の終(つい)に豐ならざるを
※但(ただ)餘す 鬢色(びんしょく)の嶽と爭い
※皤皤(はは) 相照らし鏡銅に臨むを
※何(いつ)か當(まさ)に騫翥(けんしょ) 鵬翼を借り
※直ちに絶頂に攀(よ)じ長風を凌ぐべし
「晴天に酔ふ」
四方八方こんなによく晴れわたつてしまつては
あんまりまぶしいやうで気まりが悪いやうだ。
十国峠の頂上にいま裸で立たされてゐるやうだ。
頭のまうへにのしかかる巨大な富士は
まるで呼吸をしてゐるやうに岩肌がひかるし、
右と左に二つの海が金銀の切箔をまきちらしてゐるし、
天城の向うに眼さへきいたら唐人お吉の町も見えさうだ。
どこからどこまで秋晴の午前八時だ。
天地一刻の防音装置に
展望はしんとして遠近無視の極彩色。
枯芝の匂の中に身を倒すと
ゆらゆらあたり一面の空気がゆらめき、
白ペンキ鮮かな航空燈台も四十五度にかたむき、
青ダイヤの龍胆がぱつちりと四五輪
富士の五合目あたりに咲いてゐる。
あんまり明るいので太陽の居るのさへ忘れてしまひ
何もかも忘れて此の存在が妙に仮象じみても来るし、
永遠の胎内のやうに温かでもあるし、
たうとうお天気に酔つぱらつて欠伸をすると、
急に耳の孔があいて森羅万象
一度に透明無比な音楽をはじめた。
「智恵子抄」の「噴霧的な夢」より
ほそい竹筒のやうな望遠鏡の先からは
ガスの火が噴射機(ジエツトプレイン)のやうに吹き出てゐた。
その望遠鏡で見ると富士山がみえた。
お鉢の底に何か面白いことがあるやうで
お鉢のまはりのスタンドに人が一ぱいゐた。
智恵子は富士山麓の秋の七草の花束を
ヴエズヴイオの噴火口にふかく投げた。
智恵子はほのぼのと美しく清浄で
しかもかぎりなき惑溺(わくでき)にみちてゐた。
「幕末維新懐古談〜熊手を拵えて売ったはなし〜」
その頃は、もう、ぞろぞろと浅草一帯は酉の市の帰りの客で賑わい、大きな熊手を担いだ仕事師の連中が其所(そこ)らの飲食店へ這入って、熊手を店先に立て掛け上がったりしている。何処の店も、大小料理店いずれも繁昌で、夜透(よどお)しであった。前にいい落したが、その頃小料理屋で、駒形に初富士とか、茶漬屋で曙などいった店があってこんな時に客を呼んでいた。
「般若心経講義」
次に「処」とは、十二処ということで、「六根」と「六境」といったものです。ところでその六根とは、あの富士山や御嶽山などへ登る行者たちが、「懺悔懺悔、六根清浄」と唱える、あの六根で、それは眼、耳、鼻、舌、身の五官、すなわち五根に、「意根」を加えて六根といったので、つまり私どもの身と心のことです。別な語でいえば心身清浄ということが六根清浄です。そこで、この「根」という字ですが、昔から、根とは、識を発(おこ)して境を取る(発識取境(はっしきしゅきょう))の義であるとか、または勝義自在(しょうぎじざい)の義などと、専門的にはずいぶんむずかしく解釈をしておりますが、要するに根とは「草木の根」などという、その根で、根源とか根本とかいう意味です。すなわちこの六根は、六識が外境(そとのもの)を認識する場合は、そのよりどころとなり、根本となるものであるから、「根」といったのです。
海雲糶る嗄声に富士晴れゆけり
初富士へ化粧が濃いとひとり言
博多人形の函を機上に富士初雪
馬市や町に峙つ南部富士
白露より現れて直ちに富士高し
湧く雲の流れて澄めり五月富士
霧ふかく不二は見えねど山開き
水苔が見え鮎が見え下田富士
初秋の雲がかゝるや富士の山
初富士をしばらく旅の肘の上
富士を見し眼もて淡墨桜狩
初富士の浮かび出でたるゆふべかな
冬の日や富士を残して落ちにけり
年の花富士はつぼめるすがたかな
白雲の西に行方や普賢富士
無い山の富士に並ぶや秋の昏
富士に入日を空蝉やけふの月
白雪にくろき若衆や冨士まうで
霞消て富士をはだかに雪肥たり
富士の雪蠅は酒屋に残りけり
「芭蕉翁終焉記」
天和三年の冬、深川の草庵急火にかこまれ、潮にひたり、苫をかつぎて、のびけん。
是ぞ玉の緒のはかなき初め也。爰に猶如火宅の変を悟り、無所住の心を発して、其次の年、夏の半に甲斐が根にくらして、富士の雪のみつれなかればと。それより三更月下入無我といひけん。昔の跡に立帰りおはしければ、
富士は白富士至るところの富士見坂
いまわれは遊ぶ鱶にて逆さ富士
赤富士や不二も不一も殴り書き
雪しげき言葉の富士も晩年なり
「戸田町の正月」
秩父颪と呼ぶ北風が、日がな一日吹きつのり、空気が澄みきってくる夕暮れどき、夕焼に染(にじ)んだ西の地平線にくっきりとした富士が雪を被て、うす桃色に遠望できるのが、わずかに正月らしい風景なのであろうか。しかし、その遠望の富士につづく枯色の荒川の堤防や、更にそのこちら側の畑には、元旦早々から麦踏みの人影が見え、思えば、富士の遠望に心を奪われているのは酔眼の僕ただひとりのようである。
夕富士の火屑となんぬ稲雀
初富士は枯木林をぬきん出たり
山荘の富士ざくらこそ見ほましく
避暑三日富士の笠雲雨か風か
初富士を眺めの句座をしつらへん
南部富士地吹雪寄する中に聳つ
稲刈に富士が一日ある日和
秋の燈を湖畔に配り富士暮るる
富士詣一度せしといふことの安堵かな
とある停車場富士の裾野で竹の秋
北に富士南に我家梅の花
初富士や双親草の庵にあり
初富士や草庵を出て十歩なる
撫子も草の庵も富士のもの
暗やみの中に富士あり羽蟻の夜
代馬は大きく津軽富士小さし
ひろびろと富士の裾野の西日かな
門飾吹きゆがめたる富士颪
富士詣一度せしといふ事の安堵かな
富士に在る花と思へば薊かな
おほらかに裾曳く富士や花芒
初髪や眉にほやかに富士額
夏富士や晩籟神を鎮しむる
芒野はしろがねに日は富士に落つ
一人来て二人三人雪解富士
「富士」
「富士が燃えているよ」
彼は、たしかに、そう言ったと思う。いや、私がたじろぐほど、しっかりした眼つきで私を見つめ、まちがいなく私に向かって、少年はそう言ったのだ。宣告したのだ。「富士が燃えているよ」 それは、風に吹きさらされる大煙突のてっぺんから、はるか彼方に赤く燃えさかる富士の実景を、彼の肉眼で、しっかり見てとったという意味だったろうか。それとも、視力にたよらぬ悪意ある暗示だったのだろうか。
「東西遊記」
山の姿峨々として嶮岨画のごとくなるは、越中立山の剣峯に勝れるものなし。立山は登ること十八里、彼の国の人は、富士よりも高しと云。然れども越中に入りて、初て立山を望むに、甚高きを覚えず、数日見て漸くに高きを知る。
高嶺蝶見失ふとき富士まぶし
みじか夜や雲引残す富士のみね
短夜や雲引き残す富士の山
晩春や見えしところに富士見えず
初富士の白し葛西の海濁る
初富士の金色に暮れ給ひつつ
雪の富士大沢崩れまざまざと
「田舎教師」
行田から羽生に通う路は、吹きさらしの平野のならい、顔も向けられないほど西風が激しく吹きすさんだ。日曜日の日の暮れぐれに行田から帰って来ると、秩父の連山の上に富士が淡墨色にはっきりと出ていて、夕日が寒く平野に照っていた。
かれは茶を飲みながら二三枚写生したまずい水彩画を出して友に示した。学校の門と、垣で夕日のさし残ったところと、暮靄(ぼあい)の中に富士の薄く出ているところと、それに生徒の顔の写生が一枚あった。荻生さんは手に取って、ジッと見入って、「君もなかなか器用ですねえ」と感心した。清三はこのごろ集めた譜のついた新しい歌曲をオルガンに合わせてひいてみせた。
寒い日に体を泥の中につきさしてこごえ死んだ爺(おやじ)の掘切(ほっきり)にも行ってみたことがある。そこには葦(あし)と萱(かや)とが新芽を出して、蛙(かわず)が音を立てて水に飛び込んだ。森の中には荒れはてた社があったり、林の角からは富士がよく見えたり、田に蓮華草が敷いたようにみごとに咲いていたりした。
「少女病」
電車は代々木を出た。
春の朝は心地が好い。日がうらうらと照り渡って、空気はめずらしくくっきりと透き徹(とお)っている。富士の美しく霞んだ下に大きい櫟林(くぬぎばやし)が黒く並んで、千駄谷の凹地(くぼち)に新築の家屋の参差(しんし)として連なっているのが走馬燈のように早く行き過ぎる。
「新撰名勝地誌」
地、丘上にあるがため、これに登れば市内の光景を始めとして、富士、筑波の諸峰隠見して目睫の間にあり。
※宇都宮の二荒山神社からの光景について。
「浅草十二階の眺望」
十二階から見た山の眺めは、日本にもたんとない眺望の一つであるということを言うのに私は躊躇しない。
それには秋の晴れた日に限る。十一月の末から十二月の初旬頃が殊に好い。東京では十一月はまだ秋の気分が残っていて、ところどころに紅葉などがあり、晴れた日には、一天雲霧をとどめずと言ったような好晴がつづくことから、殊に一日の行楽としては、その時分が最も適している。
十二階の上で見ると、左は伊豆の火山群から富士、丹沢、多摩、甲信、上毛、日光をぐるりと細かに指点することが出来る。
第一に目に着くのは富士である。東海の帝王、実際屹然(きつぜん)として群を抜いている。その下にやや左に偏って、足柄群山が見える。
「富士民謡」
○富士の白雪 朝日でとける
とけて流れて 三島に落ちて
三島乙女の 化粧の水
○富士に立つ影 乙女の踊り
右に金時 左に長尾
八重山霞の裾模様
○箱根まゐりに 千軒詣で
富士の裾野に 見る初夢は
一富士二鷹 三なすび
○高い山から 谷底見れば
谷は春ゆき 早や夏半ば
瓜やなすびの 花盛り
○富士の牧狩り 歌舞伎の澤は
飯盛り水仕に その身をやつす
歌舞の菩薩の 晴れの場所。
○玉穂の陣屋は 夜もふけ渡り
怪しき灯影 忍び緒しめて
曽我兄弟は 跳り足
○怨み果たして 身は花と散る
散りゆく花を 傍に見て
虎や少將は 血の涙
※高楠順次郎作詞/弘田龍太郎作曲
※昭和2年
花すすきせりあがりたる表富士
裏不二のひとひらの雲秋日和
夕霧に富士の影富士離れ立つ
北斎の富士雪となる三ツ峠
伊賀冨士のうす紫に今朝の秋
表富士海まで枯れをひろげたり
「平泉志」の「医王山毛越寺」より
五十四代仁明天皇の御宇嘉祥三年慈覚大師の開基なり。大師済度の為め東奥に巡歴し、暫く禅錫を此地に留め伽藍を草創あり。抑大師飛錫の始め俄に霧雲山野を蔽ひて行路咫尺を弁せさりしか怪哉。前程白鹿の毛を敷散し綿々として一径を開けり大師追従数歩にして回顧すれは、白髪の老翁忽焉と出現し大師に告て曰く。此に蘭若を開始せは弘法済民の功※(火+曷)焉にして、邦國不二の霊場ならむと。即ち其形白鹿と共に消えて見えすなりぬ。
「平泉志」の「医王山毛越寺」より
五十四代仁明天皇の御宇嘉祥三年慈覚大師の開基なり。大師済度の為め東奥に巡歴し、暫く禅錫を此地に留め伽藍を草創あり。抑大師飛錫の始め俄に霧雲山野を蔽ひて行路咫尺を弁せさりしか怪哉。前程白鹿の毛を敷散し綿々として一径を開けり大師追従数歩にして回顧すれは、白髪の老翁忽焉と出現し大師に告て曰く。此に蘭若を開始せは弘法済民の功※(火+曷)焉にして、邦國不二の霊場ならむと。即ち其形白鹿と共に消えて見えすなりぬ。
「封内風土記」
荻荘赤荻邑
戸口凡二百三十一。有號笹谷。外山地。本邑及山目。中里。前堀。作瀬。細谷。樋口。上。下黒澤。一関。二関。三関。凡十二邑。曰荻荘。
神社凡十一。
日光権現社。本邑鎮守。不詳何時勧請。
若宮八幡宮。同上。
神明宮二。共同上。
富士権現社。同上。
雲南権現社。同上。
寶領権現社。同上。
白山権現社。同上。
山神社。同上。
稲荷社。同上。
竈田神社。不詳何時祭何神。
富士を見る新樹の森を抜けてより
富士の水ここに湧き居りまんじゆさげ
「スープに浮かんだ富士」
朝の食卓に近い
窓いっぱいに富士
目近く見る
富士は意外に小さい
スープに浮かんだ
その富士を
スプーンに掬う
※↑勝山ふれあいドームの文学碑
東武よりの帰さ、しらすかふた河の際より、松間の不二をかへり見る所あり。
伸上る富士のわかれや花すゝき
名月に富士見ぬ心奢かな
富士に添て富士見ぬ空ぞ雪の原
晴る日や雲を貫く雪の富士
いないいないバァを決め込む梅雨入富士
うち霞む富士三月の雑木のうへ
ゲテモノにして錦秋の球子富士
げんげ田やけふよく見えて富士の方
この向きの夏秋田富士よかりけり
さきざきに富士を眩しむ旅始め
サロベツの花咲く前の利尻富士
そこに見ゆ富士傾けて案山子翁
たちまち霧たちまち霽れて富士裾野
ハルジオン富士も薄紅帯びて聳つ
やっかいな正月の富士詠み初めに
羽衣の松越しに見る湯屋初富士
花に逝く富士を心の観世音
花過ぎの汝の墳富士が其処にあり
霞む中ふなばたよぎる利尻富士
海上に雪化粧して利尻富士
柿若葉皆富士に向く家のむき
柿若葉富士がありあり見ゆる日よ
冠雪の富士の高みに宿木も
冠雪の富士は野梅の空つづき
冠雪富士球子はいつも前向きに
干蒲団富士の白妙差しにけり
間引かれて明るさ半減富士桜
忌を修す弥生の富士のお膝元
啓蟄のぽこんと不二の佇つ遠野
厚雲に首を突っ込む文月富士
郊外に出て一月の風の富士
酷評に球子怯まぬ冠雪富士
酷評に怯まぬ錦秋球子富士
三浦富士登りてくてくつつじ季
三浦富士登山地獄の釜の蓋
三月は不二を遠目の霞み月
讃岐富士うどん腹もてあほぎけり
讃岐富士青麦畑侍らせて
枝豆を植えに植えたり秋田富士
七種の富士はすずしろ色をして
秋麗冨士頭を雲の上に出し
淑気立つ穹見渡して富士の位置
粛々と雲を募らせ睦月富士
春の雲一つぽっかり讃岐富士
春霞富士はうたたね決め込めり
春光に陵折り畳み利尻富士
春光に襞の浮き彫り利尻富士
春光をやはらかに投げ利尻富士
春光を鈍く放てる利尻富士
春夕焼け聳たする(たたする)富士のシルエット
初景色出来過ぎ富士を遠ちに置き
初御空妻は格別富士が好き
昌平坂正月富士の晴れ姿
水っ洟日の落ち際の富士を撮る
水仙に富士を配せる入賞作
青田の上日本一の津軽富士
雪解の最中の利尻富士眩し
雪解靄お顔隠るゝ利尻富士
雪嶽の富士風を切る雑木の枝
銭湯のブリキ板絵に雪の富士
銭湯の富士に長居の小晦日
銭湯の富士の淑気を浴ぶ男女(なんにょ)
早苗の上農兵節の富士現るる
窓に富士膝に初刷手に眼鏡
大寒の富士へ真向かふ尾根筋道
大空へ海猫を吹き上げ利尻富士
鷹の羽もって鷹とす一富士圖
朝富士もげんげも淡く宿発ちぬ
底冷えの富士より冷えを貰ひけり
梯子乗富士へ乗り出す膝八艘
田は展け富士の横雲げんげいろ
田蛙のかいかい富士も貌を出す
冬凪の富士が見えるぞほらあそこ
冬薔薇妥協なき色不二の白
東海道白妙の富士皮切りに
豆腐作りに富士の湧水はんぱじゃない
椴松へ利尻富士より雪解風
汝の恃みし花過ぎの富士空にあり
白隠一富士二鷹三茄子
白妙の富士に瑕瑾といふ言葉
八月の富士に向ひて釣り糸垂る
八重桜花房重う富士を据え
飛花は飛雪然ととびたり花は富士
富士に向く湯宿げんげ田前にして
富士講衆汗して高輪大木戸圖
富士臨む畦の春草照り強め
富士颪ありしや梛の春落葉
片岡球子ドカンと冠雪富士を置く
湧いてくる富士の真水に水草生ふ
湧水と汝が奥津城と富士桜
利尻雪富士望遠レンズに納むべく
利尻富士だんだんしさる雪明り
利尻富士眼鏡の球の雪解冷え
利尻富士高みうろつく雪解靄
利尻富士春さきがけの十六景
利尻富士真白に春光恰しや
利尻富士裾野に数戸春の家
利尻富士裾野青霞に突っ込みて
利尻富士呆と仰げば頬撫づ東風
利尻富士頬切る風に春遅し
利尻富士面を厳しく座禅草
利尻富士塒に春の明烏
利尻富士皚々客船真っしぐら
利尻富士顱頂を覆ふ雪解靄
流鏑馬の馬首めぐらすに冠雪富士
麗らかな容灸まん讃岐富士
恋すてふをみなの猫の富士額
櫟の芽霊峰富士に懸け連ね
雉子となり富士の裾野を啼き渡れ
富士の山 夢に見るこそ 果報なれ
路銀もいらず くたびれもせず
※鯛屋貞柳
来てみれば 聞くより低し 富士の山 釈迦も孔子も かくやあるらん
※村田清風(wikipedia)
「お伽草紙」より
カチカチ山の物語に於ける兎は少女、さうしてあの惨めな敗北を喫する狸は、その兎の少女を恋してゐる醜男。これはもう疑ひを容れぬ儼然たる事実のやうに私には思はれる。これは甲州、富士五湖の一つの河口湖畔、いまの船津の裏山あたりで行はれた事件であるといふ。
「カチカチ山? ここがかい?」
「ええ、知らなかつたの?」
「うん。知らなかつた。この山に、そんな名前があるとは今日まで知らなかつたね。しかし、へんな名前だ。嘘ぢやないか?」
「あら、だつて、山にはみんな名前があるものでせう? あれが富士山だし、あれが長尾山だし、あれが大室山だし、みんなに名前があるぢやないの。だから、この山はカチカチ山つていふ名前なのよ。ね、ほら、カチ、カチつて音が聞える。」
「それやその筈よ。ここは、パチパチのボウボウ山だもの。」
「嘘つけ。お前は、ついさつき、ここはカチカチ山だつて言つた癖に。」
「さうよ、同じ山でも、場所に依つて名前が違ふのよ。富士山の中腹にも小富士といふ山があるし、それから大室山だつて長尾山だつて、みんな富士山と続いてゐる山ぢやないの。知らなかつたの?」
「みみずく通信」
「僕は富士山に登った時、朝日の昇るところを見ました。」ひとりの生徒が答えました。
「その時、どうだったね。やっぱり、こんなに大きかったかね。こんな工合いに、ぶるぶる煮えたぎって、血のような感じがあったかね。」
「いいえ、どこか違うようです。こんなに悲しくありませんでした。」
「そうかね、やっぱり、ちがうかね。朝日は、やっぱり偉いんだね。新鮮なんだね。夕日は、どうも、少しなまぐさいね。疲れた魚の匂いがあるね。」
「もの思う葦──当りまえのことを当りまえに語る」
絵はがき
この点では、私と山岸外史とは異るところがある。私、深山のお花畑、初雪の富士の霊峰。白砂に這(は)い、ひろがれる千本松原、または紅葉に見えかくれする清姫滝、そのような絵はがきよりも浅草仲店の絵はがきを好むのだ。
「パンドラの匣」
いろんな流行歌も知っているらしいが、それよりも都々逸というものが一ばんお得意のようである。僕は既に、五つ六つ聞かされた。松右衛門殿は眼をつぶって黙って聞いているが、僕は落ちつかない気持である。富士の山ほどお金をためて毎日五十銭ずつ使うつもりだとか、馬鹿々々(ばかばか)しい、なんの意味もないような唄(うた)ばかりなので、全く閉口のほかは無い。
あの時にも、僕は胆(きも)をつぶした。学校と家庭と、まるっきり違った遠い世界にわかれて住んでいるお二人が、僕の枕元で、お互い旧知の間柄みたいに話合っているのが実に不思議で、十和田湖で富士を見つけたみたいな、ひどく混乱したお伽噺のような幸福感で胸が躍った。
「ロマネスク」
次郎兵衛は三島のまちのほとんどどこの曲りかどにでもある水車へ眼をつけた。富士の麓の雪が溶けて数十条の水量のたっぷりな澄んだ小川となり、三島の家々の土台下や縁先や庭の中をとおって流れていて苔の生えた水車がそのたくさんの小川の要処要処でゆっくりゆっくり廻っていた。
その翌(あく)る年の二月のよい日に、次郎兵衛は宿場のはずれに新居をかまえた。六畳と四畳半と三畳と三間あるほかに八畳の裏二階がありそこから富士がまっすぐに眺められた。
「九月十月十一月」(中 御坂退却のこと)
そのとき一緒に、やさしい模樣のスリツパも買つて來た。廊下を歩くのに足の裏が冷たからうといふ思ひやりの樣であつた。私はそのスリツパをはいて、二階の廊下を懷手して、ぶらぶら歩き、ときどき富士を不機嫌さうに眺めて、やがて部屋へはひつて、こたつにもぐつて、何もしない。娘さんも呆れたらしく、私の部屋を拭き掃除しながら、お客さん、馴れたら惡くなつたわね、としんから不機嫌さうに呟いた。
「八十八夜」
そろそろ八が岳の全容が、列車の北側に、八つの峯をずらりとならべて、あらわれる。笠井さんは、瞳をかがやかしてそれを見上げる。やはり、よい山である。もはや日没ちかく、残光を浴びて山の峯々が幽(かす)かに明るく、線の起伏も、こだわらずゆったり流れて、人生的にやさしく、富士山の、人も無げなる秀抜(しゅうばつ)と較べて、相まさること数倍である、と笠井さんは考えた。
「古典風」
床の間の、見事な石の置き物は、富士山の形であって、人は、ただ遠くから讃歎の声を掛けてくださるだけで、どうやら、これは、たべるものでも、触(さわ)るものでもないようでございます。富士山の置き物は、ひとり、どんなに寒くて苦しいか、誰もごぞんじないのです。滑稽の極致でございます。文化の果(はて)には、いつも大笑いのナンセンスが出現するようでございます。教養の、あらゆる道は、目的のない抱腹絶倒に通じて在るような気さえ致します。
「富士に就いて」
甲州の御坂峠の頂上に、天下茶屋という、ささやかな茶店がある。私は、九月の十三日から、この茶店の二階を借りて少しずつ、まずしい仕事をすすめている。この茶店の人たちは、親切である。私は、当分、ここにいて、仕事にはげむつもりである。
天下茶屋、正しくは、天下一茶屋というのだそうである。すぐちかくのトンネルの入口にも「天下第一」という大文字が彫り込まれていて、安達謙蔵、と署名されてある。この辺のながめは、天下第一である、という意味なのであろう。ここへ茶店を建てるときにも、ずいぶん烈(はげ)しい競争があったと聞いている。東京からの遊覧の客も、必ずここで一休みする。バスから降りて、まず崖の上から立小便して、それから、ああいいながめだ、と讃嘆の声を放つのである。
遊覧客たちの、そんな嘆声に接して、私は二階で仕事がくるしく、ごろり寝ころんだまま、その天下第一のながめを、横目で見るのだ。富士が、手に取るように近く見えて、河口湖が、その足下に冷く白くひろがっている。なんということもない。私は、かぶりを振って溜息を吐く。これも私の、無風流のせいであろうか。
私は、この風景を、拒否している。近景の秋の山々が両袖からせまって、その奥に湖水、そうして、蒼空に富士の秀峰、この風景の切りかたには、何か仕様のない恥かしさがありはしないか。これでは、まるで、風呂屋のペンキ画である。芝居の書きわりである。あまりにも註文とおりである。富士があって、その下に白く湖、なにが天下第一だ、と言いたくなる。巧(たくみ)すぎた落ちがある。完成され切ったいやらしさ。そう感ずるのも、これも、私の若さのせいであろうか。
所謂「天下第一」の風景にはつねに驚きが伴わなければならぬ。私は、その意味で、華厳の滝を推す。「華厳」とは、よくつけた、と思った。いたずらに、烈しさ、強さを求めているのでは、無い。私は、東北の生れであるが、咫尺(しせき)を弁ぜぬ吹雪の荒野を、まさか絶景とは言わぬ。人間に無関心な自然の精神、自然の宗教、そのようなものが、美しい風景にもやはり絶対に必要である、と思っているだけである。
富士を、白扇さかしまなど形容して、まるでお座敷芸にまるめてしまっているのが、不服なのである。富士は、熔岩の山である。あかつきの富士を見るがいい。こぶだらけの山肌が朝日を受けて、あかがね色に光っている。私は、かえって、そのような富士の姿に、崇高を覚え、天下第一を感ずる。茶店で羊羹(ようかん)食いながら、白扇さかしまなど、気の毒に思うのである。なお、この一文、茶屋の人たちには、読ませたくないものだ。私が、ずいぶん親切に、世話を受けているのだから。
「富嶽百景」
※多数「富士」が出てくるので略。青空文庫等を参照のこと。
「律子と貞子」
あたし夢を見たの、兄ちゃんが、とっても派手な絣(かすり)の着物を着て、そうして死ぬんだってあたしに言って、富士山の絵を何枚も何枚も書くのよ、それが書き置きなんだってさ、おかしいでしょう?
「思ひ出」
私にくらべて學校の成績がよくないのを絶えず苦にしてゐて、私がなぐさめでもするとかへつて不氣嫌になつた。また、自分の額の生えぎはが富士のかたちに三角になつて女みたいなのをいまいましがつてゐた。額がせまいから頭がこんなに惡いのだと固く信じてゐたのである。
みんなでその温泉場を引きあげ、私たちの世話になつてゐる呉服商へひとまづ落ちつき、それから母と姉と三人で故郷へ向つた。列車がプラツトフオムを離れるとき、見送りに來てゐた弟が、列車の窓から青い富士額を覗かせて、がんばれ、とひとこと言つた。私はそれをうつかり素直に受けいれて、よしよし、と氣嫌よくうなづいた。
「惜別」
春になれば、上野公園の桜が万朶(ばんだ)の花をひらいて、確かにくれないの軽雲の如く見えたが、しかし花の下には、きまってその選ばれた秀才たちの一団が寝そべって談笑しているので、自分はその桜花爛漫(らんまん)を落ちついた気持で鑑賞することが出来なくなってしまうのである。その秀才たちは、辮髪(べんぱつ)を頭のてっぺんにぐるぐる巻にして、その上に制帽をかぶっているので、制帽が異様にもりあがって富士山の如き形になっていて、甚だ滑稽と申し上げるより他は無かった。
自分はまず、日本に於いて医学を修め、帰国して自分の父のように医者にあざむかれてただ死を待つばかりのような病人を片端から全治させて、科学の威力を知らせ、愚な迷信から一日も早く覚醒させるよう民衆の教化に全力を尽し、そうして、もし支那が外国と干戈(かんか)を交えた時には軍医として出征し、新しい支那の建設のため骨身を惜しまず働こう、とここに自分の生涯の進路がはじめて具体的に確定せられたわけであったが、ひるがえって、自分の周囲を見渡すと、富士山の形に尖(とが)った制帽であり、市街鉄道の中の過度の礼譲の美徳であり、石鹸製造であり、大乱闘の如きダンスの練習である。
旅順の要塞(ようさい)が陥落すると、日本の国内は、もったいないたとえだが、天の岩戸がひらいたように一段とまぶしいくらい明くなり、そのお正月の歌御会始の御製は、
富士の根ににほふ朝日も霞(かす)むまで
としたつ空ののどかなるかな
「故郷」
その時の私には故郷を誇りたい気持も起らなかった。ひどく、ただ、くるしい。去年の夏は、こうではなかった。それこそ胸をおどらせて十年振りの故郷の風物を眺めたものだが。
「あれは、岩木山だ。富士山に似ているっていうので、津軽富士。」私は苦笑しながら説明していた。なんの情熱も無い。
「新樹の言葉」
「ああ、むかい側もおんなじだ。久留島さんだ。そのおとなりが、糸屋さん。そのまた隣が、秤(はか)り屋さん。ちっとも変っていないんだなあ。や、富士が見える。」私のほうを振りかえって、
「まっすぐに見える。ごらんなさい。昔とおんなじだ。」
夜中の二時すぎに、けたたましく半鐘が鳴って、あまりにその打ちかたが烈しいので、私は立って硝子(ガラス)障子をあけて見た。炎々と燃えている。宿からは、よほど離れている。けれども、今夜は全くの無風なので、焔は思うさま伸び伸びと天に舞いあがり立ちのぼり、めらめら燃える焔のけはいが、ここまではっきり聞えるようで、ふるえるほどに壮観であった。ふと見ると、月夜で、富士がほのかに見えて、気のせいか、富士も焔に照らされて薄紅色になっている。四辺の山々の姿も、やはりなんだか汗ばんで、紅潮しているように見えるのである。
「新釈諸国噺」
私は、もうここの里人から、すっかり馬鹿にされて、どしどしお金を捲(ま)き上げられ、犬の毛皮を熊の毛皮だと言って買わされたり、また先日は、すりばちをさかさにして持って来て、これは富士山の置き物で、御出家の床の間にふさわしい、安くします、と言い、あまりに人をなめた仕打ち故(ゆえ)、私はくやし涙にむせかえりました。
「服装に就いて」
吉田に着いてからも篠(しの)つく雨は、いよいよさかんで、私は駅まで迎えに来てくれていた友人と共に、ころげこむようにして駅の近くの料亭に飛び込んだ。友人は私に対して気の毒がっていたが、私は、この豪雨の原因が、私の銘仙の着物に在るということを知っていたので、かえって友人にすまない気持で、けれどもそれは、あまりに恐ろしい罪なので、私は告白できなかった。火祭りも何も、滅茶滅茶になった様子であった。毎年、富士の山仕舞いの日に木花咲耶姫(このはなさくやひめ)へお礼のために、家々の門口に、丈余の高さに薪(まき)を積み上げ、それに火を点じて、おのおの負けず劣らず火焔(かえん)の猛烈を競うのだそうであるが、私は、未だ一度も見ていない。ことしは見れると思って来たのだが、この豪雨のためにお流れになってしまったらしいのである。
「津軽」
弟は大きくなるにつれて無口で内気になつてゐた。私たちの同人雑誌にもときどき小品文を出してゐたが、みんな気の弱々した文章であつた。私にくらべて学校の成績がよくないのを絶えず苦にしてゐて、私がなぐさめでもするとかへつて不気嫌になつた。また、自分の額の生えぎはが富士のかたちになつて女みたいなのをいまいましがつてゐた。額がせまいから頭がこんなに悪いのだと固く信じてゐたのである。
「や! 富士。いいなあ。」と私は叫んだ。富士ではなかつた。津軽富士と呼ばれてゐる一千六百二十五メートルの岩木山が、満目の水田の尽きるところに、ふはりと浮んでゐる。実際、軽く浮んでゐる感じなのである。したたるほど真蒼で、富士山よりもつと女らしく、十二単衣の裾を、銀杏(いてふ)の葉をさかさに立てたやうにぱらりとひらいて左右の均斉も正しく、静かに青空に浮んでゐる。決して高い山ではないが、けれども、なかなか、透きとほるくらゐに嬋娟たる美女ではある。
「金木も、どうも、わるくないぢやないか。」私は、あわてたやうな口調で言つた。「わるくないよ。」口をとがらせて言つてゐる。
「いいですな。」お婿さんは落ちついて言つた。
私はこの旅行で、さまざまの方面からこの津軽富士を眺めたが、弘前から見るといかにも重くどつしりして、岩木山はやはり弘前のものかも知れないと思ふ一方、また津軽平野の金木、五所川原、木造あたりから眺めた岩木山の端正で華奢な姿も忘れられなかつた。
二百メートルにも足りない小山であるが、見晴しはなかなかよい。津軽平野全部、隅から隅まで見渡す事が出来ると言ひたいくらゐのものであつた。私たちは立ちどまつて、平野を見下し、アヤから説明を聞いて、また少し歩いて立ちどまり、津軽富士を眺めてほめて、いつのまにやら、小山の頂上に到達した。
さうして、私はその遠足の時には、奇妙に服装に凝つて、鍔のひろい麦藁帽に兄が富士登山の時に使つた神社の焼印の綺麗に幾つも押されてある白木の杖、先生から出来るだけ身軽にして草鞋、と言はれたのに私だけ不要の袴を着け、長い靴下に編上の靴をはいて、なよなよと媚を含んで出かけたのだが、一里も歩かぬうちに、もうへたばつて、まづ袴と靴をぬがせられ、草履、といつても片方は赤い緒の草履、片方は藁の緒の草履といふ、片ちんばの、すり切れたみじめな草履をあてがはれ、やがて帽子も取り上げられ、杖もおあづけ、たうとう病人用として学校で傭つて行つた荷車に載せられ、家へ帰つた時の恰好つたら、出て行く時の輝かしさの片影も無く、靴を片手にぶらさげ、杖にすがり、などと私は調子づいて話して皆を笑はせてゐると、
「おうい。」と呼ぶ声。兄だ。
こんど津軽へ来て、私は、ここではじめてポプラを見た。他でもたくさん見たに違ひないのであるが、木造(きづくり)のポプラほど、あざやかに記憶に残つてはゐない。薄みどり色のポプラの若葉が可憐に微風にそよいでゐた。ここから見た津軽富士も、金木から見た姿と少しも違はず、華奢で頗る美人である。
「畜犬談―伊馬鵜平君に与える―」
私は猫背(ねこぜ)になって、のろのろ歩いた。霧が深い。ほんのちかくの山が、ぼんやり黒く見えるだけだ。南アルプス連峰も、富士山も、何も見えない。朝露で、下駄がびしょぬれである。私はいっそうひどい猫背になって、のろのろ帰途についた。
「花燭 燭をともして昼を継がむ。」
とみから手紙が来た。
三日まえから沼津の海へロケーションに来ています。私は、浪のしぶきをじっと見つめて居ると、きっとラムネが飲みたくなります。富士山を見て居ると、きっと羊羹(ようかん)をたべたくなります。心にもない、こんなおどけを言わなければならないほど、私には苦しいことがございます。私も、もう二十六でございます。
「誰も知らぬ」
池があったのですが、それも潰されてしまって、変ったと言えば、まあそれくらいのもので、今でも、やはり二階の縁側からは、真直(まっすぐ)に富士が見えますし、兵隊さんの喇叭(らっぱ)も朝夕聞えてまいります。
「道化の華」
眞野は裏山へ景色を見に葉藏を誘つた。
「とても景色がいいんですのよ。いまならきつと富士が見えます。」
葉藏はまつくろい羊毛の襟卷を首に纏ひ、眞野は看護服のうへに松葉の模樣のある羽織を着込み、赤い毛絲のシヨオルを顏がうづまるほどぐるぐる卷いて、いつしよに療養院の裏庭へ下駄はいて出た。
「駄目。富士が見えないわ。」
眞野は鼻さきをまつかにして叫んだ。
「この邊に、くつきり見えますのよ。」
東の曇つた空を指さした。朝日はまだ出てゐないのである。不思議な色をしたきれぎれの雲が、沸きたつては澱み、澱んではまたゆるゆると流れてゐた。
「いや、いいよ。」
「風の便り」
後輩たる者も亦(また)だらしが無く、すっかりおびえてしまって、作品はひたすらに、地味にまずしく、躍る自由の才能を片端から抑制して、なむ誠実なくては叶(かな)うまいと伏眼になって小さく片隅に坐り、先輩の顔色ばかりを伺って、おとなしい素直な、いい子という事になって、せっせとお手本の四君子やら、ほてい様やら、朝日に鶴、田子の浦の富士などを勉強いたし、まだまだ私は駄目ですと殊勝らしく言って溜息をついてみせて、もっぱら大過なからん事を期しているというような状態になったのです。
「南北の東海道四谷怪談」
庄三郎はそれから富士権現の前へ往った。祠(ほこら)の影から頬冠(ほおかむり)した男がそっと出て来て、庄三郎に覘(ねら)い寄り、手にしている出刃で横腹を刳(えぐ)った。
「与茂七、恋の仇じゃ、思い知ったか」
「日本天変地異記」
要するにわが国は、こういうふうに外側地震帯及び日本海を走っている内側地震帯の幹線に地方的な小地震帯がたくさんの支線を結びつけているうえに、火山脈が網の目のようになっているから、その爆発に因る地震も非常に多く、従って土地の隆起陥没もまた多い。天武天皇の時大地震があって、一夜にして近江の地が陥没して琵琶湖が出来ると共に、駿河に富士山が湧出したという伝説も、その間の消息を語るものである。
貞観六年七月には富士山の噴火に伴うて大地震があって、噴出した鑠石は本栖、■の両湖をはじめ、民家を埋没した。富士山は既に延暦二十年三月にも噴火し、その後長元五年にも噴火したが、この噴火とは比べものにならなかった。
そして元弘元年七月には、紀伊に大地震があって、千里浜の干潟が隆起して陸地となり、その七日には駿河に大地震があって、富士山の絶頂が数百丈崩れた。この七月は藤原俊基が関東を押送せられた月で、「参考太平記」には、「七月七日の酉の刻に地震有りて、富士の絶頂崩ること数百丈なり、卜部宿禰(うらべのすくね)大亀を焼いて卜(うらな)ひ、陰陽博士占文を開いて見るに、国王位を易(か)へ、大臣災に遇ふとあり、勘文の面穏かならず、尤も御慎み有るべしと密奏す」とあって、地震にも心があるように見える。
その大地震の恐怖のまだ生生している十一月に、駿河、甲斐、相模、武蔵に地震が起ると共に、富士山が爆発して噴火口の傍に一つの山を湧出した。これがいわゆる宝永山である。山麓の須走村は熔岩の下に埋没し、降灰は武相駿三箇国の田圃を埋めた。
「オリンポスの果実」
夜の食事のときなど、メニュウが、手紙になったり、先の方に絵葉書がついていたりします。ぼくはその上に書く、あなたへの、愛の手紙など空想して、コオルドビイフでも噛んでいるのです。メニュウには、殆(ほとん)ど錦絵が描(えが)かれています。歌麿なぞいやですが、広重の富士と海の色はすばらしい。その藍のなかに、とけこむ、ぼくの文章も青いまでに美しい。
「若き母達へ」
土蔵のまへの椿の下で、淡い春の日ざしを浴びながらきいた紡車の音も、また遠い街の家並のあなたの赤い入日を、子守女の肩に見ながらきいた子守唄や、または、乳の香のふかい母親の懐できいたねんねこ歌も、今の私達には、もはや遠い昔の記憶になつてしまひました。科学実験時代の現代の文化はサムライや紅い提灯や富士ヤマへの憧憬から、お寺の鐘の音から、人形芝居からそして紙と木の家から、鉄と電気の雑音の都会へ私達を追ひやつてしまつた。
私達は、もはや緑の草の上に寝ころんで、青空をゆく白い雲を見送ることはないであらうか。
「新年」
○富士山のうへに
太陽が出ました
○日本の子供は
みんな出て
太陽を拝みませう
○日本の島に
お正月が来ました
○日本の人は
みんな出て
お正月を祝ひませう
「夢二画集 夏の巻」
その他、破風造のシムプルな神社の建築や。客間の床に飾られた木と称する不快な骨董品や。地獄極楽のからくりや。枯枝に烏のとまつた枯淡な風景。木のない富士山や。数え来れば、灰色の背景は到る所にあるではないか。そしてそれ等の画材を、最も有効に最も適切に描表し得る線画を有するのは日本の誇りではあるまいか。
「沼津」
この子の可愛いさ限りしなし。
山で木の数、萱の数、
富士へ上れば星の数、
沼津へ下れば松林、
千本松原、小松原、
松葉の数よりまだ可愛い。
「お正月」
○正月さんが御座つた。
何処まで御座つた。
富士のお山の麓まで。
何に乗つて御座つた。
お餅のやうな下駄はいて、
譲葉に乗つて、
ゆづり/\御座つた。
○お盆のやうな餅ついて、
割木見たよな魚添へて、
霰のやうな飯食べて、
火燵へあたつてねんこ/\。
「お月様」から
○まうし、まうし、お月様、
猫と鼠が一升さげて
富士のお山を今越えた。
「砂がき」
ある時、銀座の夜店で、獨逸の「シンビリシズム」といふ雜誌を買つて、複寫のすばらしい繪を手に入れた、その山の畫はよかつた。今おもふとたしか、あれは、イタリアのセガンチニイだつたらしい。これにくらべると、その頃評判だつた「白馬山の雪景」や「曉の富士山」なんか影がうすくてとても見られないと思つたが、これもやつぱり誰にも言はないでゐた。
登山會といふ會はどういふことをするのか私は知らないが、多分、人跡未踏の深山幽谷を踏破する人達の會であらう。自分も山へ登る事は非常に好きだが、敢て、高い山でなくとも、岡でも好い。氣に入つたとなると富士山へ一夏に三度、筑波、那須へも二度づゝ登つたが、いつも東京の街を歩くよりも勞れもせず、靴のまゝで散歩する氣持で登れた。
昔下宿屋の二階でよんだ、紅葉や一葉の作物の中にある東京の春の抒景は、もう古典になつたほど、今の東京の新年は、商取引と年期事務としてあるに過ぎないと、思はるる。
富士山の見える四日市場に、紀州の蜜柑船がつくのさへもう見られまい。
「秘密」
けれど、私は何故に生れたらう? とさうきいて御覧なさい。知つてゐる人は言はないし、知らない人は答はしない。それゆゑにおもしろいのです。富士山が一万三千尺あらうとも、ないやがら瀑布が世界第一であらうとも、そんなことは少しもおもしろくない。私達の知らぬことが世の中には、まだどんなに沢山あることだらう。それからまだこの宇宙には世界の人達が今迄に知つた事よりももつともつと沢山の知らない事があるに違ない、けれどそれは土の世界のことである。