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平家物語

「流布本」
駿河国富士の裾野に到る。その国の凶徒、「この野に鹿多く侯。狩して遊ばせ給へ」と申しければ、尊即ち出で遊び給ふに、凶徒等野に火を着けて尊を焼き殺し奉らんとしける時、帯き給へる天叢雲剣を抜きて草を薙ぎ給ふに、苅草に火付きて劫かしたりけるに、尊は火石・水石とて二つの石を持ち給へるが、先づ水石を投げ懸け給ひたりければ、即ち石より水出でて消えてけり。又火石を投げ懸け給ひければ、石中より火出でて凶徒多く焼け死にけり。それよりしてぞその野をば、天の焼けそめ野とぞ名付けける。叢雲剣をば草薙剣とぞ申しける。尊、振り捨て給ひし岩戸姫の事忘れがたく心に懸りければ、山復(かさ)なり、江復(かさ)なるといふとも志の由を彼の姫に知らせんとて、火石・水石の二つの石を、駿河の富士の裾野より、尾張の松子の島へこそ投げられけれ。彼の所の紀大夫といふ者の作れる田の北の耳に火石は落ち、南の耳に水石は落つ。二つの石留まる夜、紀大夫の作りける田、一夜が内に森となりて、多くの木生ひ繁りたり。火石の落ちける北の方には、如何なる洪水にも水出づる事なく、水石の落ちたる南の方には、何たる旱魃にも水絶ゆる事なし。これ火石・水石の験なり。


「城方本・八坂系」
するがのくにうきしまがはらにもなりしかばおほいとのこまをひかへて
  しほぢよりたえずおもひをするがなるみはうきしまになをばふじのね
おんこゑもんのかみ
  われなれやおもひにもゆるふじのねのむなしきそらのけぶりばかりは


「高野本」
入道相国うれしさのあまりに、砂金一千両、富士の綿二千両、法皇へ進上せらる。

まことにめでたき瑞相どもありければ、吹くる風も身にしまず、落くる水も湯のごとし。かくて三七日の大願つゐにとげにければ、那智に千日こもり、大峯三度、葛城二度、高野・粉河・金峯山、白山・立山・富士の嵩、伊豆、箱根、信乃戸隠、出羽羽黒、すべて日本国のこる所なくおこなひまは(廻つ)て、さすが尚ふる里や恋しかりけん、

清見が関うちすぎて、富士のすそ野になりぬれば、北には青山峨々として、松ふく(吹く)風索々たり。南には蒼海漫々として、岸うつ浪も茫々たり。

   ただたのめ(頼め)ほそ谷河のまろ木橋ふみかへしてはおち(落ち)ざらめやは
むねのうちのおもひはふじのけぶりにあらはれ、袖のうへの涙はきよみが関の波なれや。


「長門本」
彼庄内にあさくら野と云所に、ひとつの峯高くそびえて、煙りたえせぬ所あり、日本最初の峯、霧島のだけと號す、金峯山、しやかのだけ、富士の高根よりも、最初の峯なるが故に、名付て最初の峯といふ、六所権現の霊地也、

今も女院だに渡らせ給はましかば、申留め参らせ給ひなましと、事のまぎれに旧女房たちささやきあひ給へり、富士綿千両、美濃絹百疋御験者の禄に法皇に参らせらるるこそ、いよいよ奇異の珍事にてありけれ、

大将年ごろ浅からず思ひて通はせられけるに、ある夜待わび、さむしろ打拂ひ富士のけぶりのたえぬ思の心地して、宵のかねうち過おくれがねかすかに聞えければ、侍従なくなくかうぞ思ひ続けける、
   待宵のふけゆくかねの音きけばあかぬわかれの鳥はものかは

「龍谷大学本」
侍、郎等、乗替相具して、馬上二十八万五千余騎とぞ記しける、其外甲斐源氏に一条次郎忠頼を宗徒として二万余騎にて兵衛佐に加はる、平家の勢は富士の麓に引上げて、ひらばり打ちてやすみけるに、兵衛佐使を立てて、親の敵とうどんげにあふ事は、極めて有がたき事にて候に、御下り候こと悦存候、あすは急ぎ見参に入候べく候といひおくられたり、

清見が関をも過ぬれば、富士の裾べにもなりにけり、左には松山ががとそびえて、松吹く風もさくさくたり、右には海上漫々として、岸打浪もれきれきたり、

清見が関にかかりぬれば、朱雀院御時、将門が討手に宇治民部卿忠文、奥州へ下りける時、此関に止まりて、唐歌を詠じける所にこそと涙をながし、田子の浦にも着ぬれば、富士の高根と見給ふに、時わかぬ雪なれども、皆白妙に見え渡りて、浮島が原にも到りぬ、北はふじの高根、東西はるばると長沼あり、いづくよりも心すみて、山の翠かげしげく、空も水も一なり、

みなみに向て、又念仏二三十遍計申けるを、宗遠太刀をぬき頸をうつ、その太刀中より打をりぬ、又打太刀も、目ぬきよりをれにけり、不思議の思ひをなすに、富士のすそより光り二すぢ、盛久が身に、差あてたりとぞ見えける、


「百二十句本」
法皇、やがて還御の御車を門前に立てられたり。入道相国、うれしさのあまりに、砂金一千両、富士綿二千両、法皇へ進上せらる。人々、「しかるべからず」とぞ内々に申されける。

まことにめでたき瑞相どもあまたあり。吹き来る風も身に沁まず、落ち来る水も湯のごとし。かくて三七日の大願つひにとげければ、那智に千日籠り、大峰三度、葛城二度、高野、粉河、金峯山、白山、立山、富士の岳、伊豆、箱根、信濃の戸隠、出羽の羽黒、総じて日本国残る所もなく行きまはり、さすがなほ旧里や恋しかりけん、都へのぼりたりければ、飛ぶ鳥も祈りおとす、「やいばの験者」とぞ聞こえし。

清見が関も過ぎ行けば、富士の裾野にもなりにけり。北には青山峨々として、松吹く風も索々たり。南は蒼海漫々として、岸うつ波も茫々たり。

是は浮島が原と申しければ、大臣殿(おほいとの)、
   塩路よりたえぬ思ひを駿河なる名は浮島(うきしま)に身をば富士のね
右衛門督(ゑもんのかみ)、
   我なれや思ひにもゆる富士のねのむなしき空の煙ばかりは

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