道の記(富士の道の記)
十とせあまりのむかし、子なるものゝ病て、こゝの医かしこの医の術つきて、此世のものともおもわざりしが、冨士の御山やまへねぎごとし、三五の年にあたれる時、御嶺へのぼらん事を誓ぬるに、神も其真心を納ましてや、そくに病の愈し事こそ尊くありがたけれ。
旭のつと昇り隅田あたりまで一眼にみへ渡りければ、
きり晴や冨士と筑波を右ひだり
と口ずさみつゝ、はや市ヶ谷の御門を通り、尾の大侯の御表を過行に、我より先へ旅のよそほひしたる人の行けるあり。久しう此みち行来ゝせぬ事にありぬれば、「此人冨士へや行かん、府中へや行かたなるべし。よき案内や」と、己がこゝろにたくし、付行けるに、程もなく大きやかなる道へいづ。
「しばし足を休めん」と茶家に立より茶などふくしてありけるに、はや冨士の登山終りて帰かへれる同者五六人も此茶店に休み居たり。草咄してある其中に、先達とおぼしき人油扇子を笏にとり、或は開きて風を乞て咄すを聞ば、「夫(それ)冨士山はいにしへの事はしらねども、元禄の年次、甲陽吉田口を道ひらきせし食行身禄といへるは、勢州一志郡清水村の産にして富めるものなりけるが、行者となりて家を出、十七歳より御山へ登山なし其外諸国諸山をへめぐり、果は江戸山手に借家して妻もありて女子三人ありとかや。四十五ヶ年の登山終つて六十三歳の時、『中なる娘は其器にあたる行者也』と、行法並書るものどもを譲り教へて登山なし、三十一日の断食し七合五勺目に入定あられしとかや。今烏帽子岩にてなり。夫よりして北口登山の同行多く吉田の繁栄いちぢるし。又此食行の教へに、冨士山は神佛両部にて死服の穢れ魚肉の穢れをいとわずとも、心にも諸の穢れなければ登山して、其ねぎ事の叶はぬはなし」など、実か否かわしらねど、鼻うごめかして語り居けるを、かたわらにてこゝかしこ聞、「長物語きかんも道行邪魔」と立いでつ。
かつらなる其つ文字かわ(は)しらねども弓とつらなる近道を来て
と言いつゝ舟をわたり、此乗合先の商人と又下野佐野辺のものなるよし五人連にて冨士参詣のものにして、我もよき同行と思ひ、咄し合、渡しを上り崖に添、弓手に流れをみて行ば、ほどなく吉野へいづ。
木戸を通れば大鳥居、「冨士山大権現」の額は新田源道純公の御筆也。此鳥居の前にひざおりて鈴ふりならして御歌を上る同者あり、又直さまに行も有。是より御師商家軒をならべて賑しく、登り来る同者あれば、登山過て帰る同行ありて、其鈴の音かしましく、我講の御師は仙元坊なれど、一人り別ならん事の本意なくて佐野の五人らが御師外川能登守へ行んと約しつゝ、東側にて中程ほどの外川の家へ馬もろ共に七ツ下りに着にける。
又しばしして「夫々の御勘定はかくの通」と手代の持出す書付は、
一百廿二文御山役料 一九十弐文 綿入損料 一百文 御持弁当 一八十文 上下わらし四足 一八十文 強力わり合 十壱人前四百九十文
といへる所へ、一人毎に金弐朱つゝ出し残りは「余り少しなれども坊入也」と手代に渡せば、御師の出て坊入の礼をのべ、「はや寝まり候へ」と蚊帳つり寝ござふとんまで持出す合図にほつ/\降り来る小雨は、「今日午の七刻土用の明し印にもやあらん冷しさや」と不二の御山を枕とし能き夢みんと、みなもろ共に寝まりけり。
又先程ほどのくみ給へる酒の御恩も多性のいにし、しるとしらぬをゆるし給はゞ行衣の御判をかたに着て先達をやいたさんと、
先達にあらねど夫と頼まれて呑込んで行五合目の酒
といへければ、みな/\と笑わらへけり。
※新潟大学佐野文庫所蔵の一冊しかないらしい。