寺田寅彦
野分止んで夕日の富士を望みけり
朝寒や富士を向ふに大根畑
「言葉の不思議」
アイヌ語「シリ」はいろいろの意味があるがその中で陸地を意味する場合もある。またこれに他の語が結びついた時には「シリ」が山を意味する事もあるらしい。この「シリ」が梵語(ぼんご)の山「ギリ」に通じる可能性がある。
この「ギリ」は露語の「ゴーラ」に縁がありそうに見える。箱根の強羅を思い出させる。また信州に「ゴーロ」という山名があり、高井富士(たかいふじ)の一部にも「ゴーロ」という地名がある。上田地方方言で「ゴーロ」は石地の意だそうである。土佐の山にも「ナカギリ」という地名がある。
「LIBER STUDIORUM」
遠くにはお城の角櫓(すみやぐら)が見え、その向こうには大内山(おおうちやま)の木立ちが地平線を柔らかにぼかしている。左のほうには小豆色の東京駅が横たわり、そのはずれに黄金色(こがねいろ)の富士が見える。その二つの中間には新議会の塔がそびえている。昔はなかったながめである。
「ジャーナリズム雑感」
従来用い古した解析的方法に容易にかかるような現象はだれも彼も手をつけて研究するが、従来の方法だけでは手におえないような現象はたとえ眼前に富士山のようにそびえていてもいっさい見て見ぬふりをしているという傾向がたしかにあるのである。しかし、だれか一人のパイオニアーがその現象に着眼して山開きのつるはしをふるって登山道がつき始めると、そうすると、始めて我れも我れもとそのふもとに押しかけるようになるのである。
「丸善と三越」
「駿河町」の絵を見ると、正面に大きな富士がそびえて、前景の両側には丸に井桁(いげた)に三の字を染め出した越後屋ののれんが紫色に刷られてある。絵に記録された昔の往来の人の風俗も、われわれの目には珍しくおもしろい、中でも著しく自分の目につくのは平和な町の中を両刀をさして歩いている武士の姿である。
富士山の見える日本橋に「魚河岸」があって、その南と北に「丸善」と「三越」が相対しているのはなんだかおもしろい事のように思われる。丸善が精神の衣食住を供給しているならば三越や魚河岸は肉体の丸善であると言ってもいいわけである。
「伊吹山の句について」
大垣停車場から、伊吹山頂、海抜一三七七メートルの点までの距離が、ほとんどちょうど二十キロメートル、すなわちざっと五里である。それから計算してみると、大垣から見た山頂の仰角は、相当に大きく、たとえば、江の島から富士を見るよりは少し大きいくらいである。従って大垣道から見て、この山はかなり顕著な目標物でなければならない。もっとも伊吹以北の峰つづきには、やはり千メートル以上の最高点がいくつかあるから、富士のような孤立した感じはないに相違ない。
「先生への通信」
氷河の向こう側はモーヴェ・パーという険路で、高山植物が山の間に花をつづり、ところどころに滝があります。ここから谷へおりる途中に、小さなタヴァンといったような家の前を通ったら、後ろから一人追っかけて来て、お前は日本人ではないかとききますから、そうだと答えたら、私は英人でウェストンというものだが、日本には八年間もいてあらゆる高山へ登り、富士へは六回登ったことがあると話しました。その細君は宿屋の前の草原で靴下を編んでいました。
「変った話」
その話によると、K先生は教場の黒板へ粗末な富士山の絵を描いて、その麓に一匹の亀を這わせ、そうして富士の頂上の少し下の方に一羽の鶴をかきそえた。それから、富士の頂近く水平に一線を劃しておいて、さてこういう説明をしたそうである。「孔子の教えではここにこういう天井がある。それで麓の亀もよちよち登って行けばいつかは鶴と同じ高さまで登れる。しかしこの天井を取払うと鶴はたちまち冲天(ちゅうてん)に舞上がる。すると亀はもうとても追付く望みはないとばかりやけくそになって、呑めや唄えで下界のどん底に止まる。その天井を取払ったのが老子の教えである」というのである。何のことだかちっとも分からない。しかし、この分からない話を聞いたとき、何となく孔子の教えよりは老子の教えの方が段ちがいに上等で本当のものではないかという疑いを起したのは事実であった。富士山の上に天井があるのは嘘だろうと思ったのであった。
「小さな出来事」
五人の描く絵が五人ながら、それぞれの小さな個性を主張しているのがかなり目立って見えた。のみならず銘々にもう既にきまった一種の型のようなものが芽を出しかけているのであった。何と云ってもいちばん多くの独創的な点をもっているのはいちばん小さい冬子の自由画であったが、その面白い点が一度認められ賞められるとそれがもう十八番になって、例えば富士山が出だすとそれがいかなる絵にでも必ず現われるのであった。今度は趣向を変えて驚かしてやろうというような気はさすがにまだ無かった。
「思い出草」
漱石先生の熊本時代のことである。ある日先生の宅で当時高等学校生徒であった自分と先生と二人だけで戯れに十分十句(じっぷんじっく)というものを試みたことがあった。ずいぶん奇抜な句が飛び出して愉快であったが、そのときの先生の句に「つまずくや富士を向こうに蕎麦の花」というのがあったことを思い出す。いかにも十分十句のスピードの余勢を示した句で当時も笑ったが今思い出してもおかしくおもしろい。しかしこんな句にもどこか先生の頭の働き方の特徴を示すようなものがあるのである。
「旅日記から(明治四十二年)」
午後にはもうイタリアの山が見えた。いよいよヨーロッパへ来たのかと思った。夕食時にはメッシナ海峡の入り口へかかった。左にエトナが見える。富士山によく似ているという人もあったが、自分の感じはまるでちがっていた。右舷(うげん)の山には樹木は少ないが、灰白色の山骨は美しい浅緑の草だか灌木(かんぼく)だかでおおわれている。
「映画芸術」
エイゼンシュテインは特に写楽のポートレートを抽出して、強調された顔の道具の相剋的(そうこくてき)モンタージュを論じているが、われわれは広重でも北斎でも歌麿でもそれぞれに特有な取り合わせの手法を認めることができるであろう。樽の中から富士を見せたり、大木の向こうに小さな富士を見せたりするシリーズは言わば富士をライトモチーヴとしたモンタージュの系列である。
「映画雑感(4)」
塚本閤治(こうじ)氏撮影の小型映画を見た時の話である。たしか富士吉田町の火祭りの光景を写したものの中に祭礼の太鼓をたたく場面がある。そのとき、もちろん無声映画であるのにかかわらず、不思議なことには、画面に写し出された太鼓のばちの打撃に応じて太鼓の音がはっきり耳に聞こえるような気がした。
「春六題」
ある日二階の縁側に立って南から西の空に浮かぶ雲をながめていた。上層の風は西から東へ流れているらしく、それが地形の影響を受けて上方に吹きあがる所には雲ができてそこに固定しへばりついているらしかった。磁石とコンパスでこれらの雲のおおよその方角と高度を測って、そして雲の高さを仮定して算出したその位置を地図の上に当たってみると、西は甲武信岳(こぶしだけ)から富士箱根や伊豆の連山の上にかかった雲を一つ一つ指摘する事ができた。
「時事雑感」
帰りの汽車で夕日の富士を仰いだ。富士の噴火は近いところで一五一一、一五六〇、一七〇〇から八、最後に一七九二年にあった。今後いつまた活動を始めるか、それとももう永久に休息するか、神様にもわかるまい。しかし十六世紀にも十八世紀にも活動したものが二十世紀の千九百何十年かにまた活動を始めないと保証しうる学者もないであろう。こんな事を考えながら、うとうとしているうちに日が暮れた。
「札幌まで」
岩手山(いわてさん)は予期以上に立派な愉快な火山である。四辺の温和な山川の中に神代の巨人のごとく伝説の英雄のごとく立ちはだかっている。富士が女性ならばこれは男性である。苦味もあれば渋味もある。誠に天晴(あっぱれ)な大和男児の姿である。
「東上記」
このあたりの景色北斎(ほくさい)が道中画譜をそのままなり。興津を過ぐる頃は雨となりたれば富士も三保も見えず、真青なる海に白浪風に騒ぎ漁(すなど)る船の影も見えず、磯辺の砂雨にぬれてうるわしく、先手の隧道(ずいどう)もまた画中のものなり。
此処小駅ながら近来海水浴場開けて都府の人士の避暑に来るが多ければ次第に繁昌する由なり。岩淵(いわぶち)の辺甘蔗畑(かんしょばたけ)多くあり。折から畑に入るゝ肥料なるべし異様のかおり鼻を突きて静岡にて求めし弁当開ける人の胸悪くせしも可笑しかりける。沼津を過ぐれども雨雲ふさがりて富士も見えず。
これより下り坂となり、国府津近くなれば天また晴れたり。今越えし山に綿雲かゝりて其処とも見え分かず。さきの日国府津にて宿を拒まれようやくにして捜し当てたる町外れの宿に二階の絃歌を騒がしがりし夕、夕陽の中に富士足柄を望みし折の嬉しさなど思い出してはあの家こそなど見廻すうちにこゝも後になり、大磯にてはまた乗客増す。
大船にて横須賀行の軍人下りたるが乗客はやはり増すばかりなり。隣りに坐りし静岡の商人二人しきりに関西の暴風を語り米相場を説けば向うに腰かけし文身(いれずみ)の老人御殿場の料理屋の亭主と云えるが富士登山の景況を語る。近頃は西洋人も婦人まで草鞋にて登る由なりなどしきりに得意の様なりしが果ては問わず語りに人の難儀をよそに見られぬ私の性分までかつぎ出して少時(しばし)も饒舌(しゃべ)り止めず、面白き爺さんなり。
「根岸庵を訪う記」
室(へや)の庭に向いた方の鴨居に水彩画が一葉隣室に油画が一枚掛っている。皆不折が書いたので水彩の方は富士の六合目で磊々(らいらい)たる赭土塊(あかつちくれ)を踏んで向うへ行く人物もある。油画は御茶の水の写生、あまり名画とは見えぬようである。
「浮世絵の曲線」
北斎の描いたという珍しい美人画がある。その襟がたぶん緋鹿(ひが)の子(こ)か何かであろう、恐ろしくぎざぎざした縮れた線で描かれている。それで写実的な感じはするかもしれないが、線の交響楽として見た時に、肝心の第一ヴァイオリンがギーギーきしっているような感じしか与えない。これに反して、同じ北斎が自分の得意の領分へはいると同じぎざぎざした線がそこではおのずからな諧調(かいちょう)を奏してトレモロの響きをきくような感じを与えている。たとえば富岳三十六景の三島を見ても、なぜ富士の輪郭があのように鋸歯状(きょしじょう)になっていなければならないかは、これに並行した木の枝や雲の頭や崖を見れば合点される。そこにはやはり大きな基調の統一がある。
「科学者とあたま」
いわゆる頭のいい人は、言わば足の早い旅人のようなものである。人より先に人のまだ行かない所へ行き着くこともできる代わりに、途中の道ばたあるいはちょっとしたわき道にある肝心なものを見落とす恐れがある。頭の悪い人足ののろい人がずっとあとからおくれて来てわけもなくそのだいじな宝物を拾って行く場合がある。
頭のいい人は、言わば富士のすそ野まで来て、そこから頂上をながめただけで、それで富士の全体をのみ込んで東京へ引き返すという心配がある。富士はやはり登ってみなければわからない。
「連句雑俎」
これに反して連句の場合は、言わば町から町、宿場から宿場への旅の道筋を与えられないで、ただ出発点と到着点とを指定されるだけである。その間をつなぐ道筋はいくつもあり途上の景観にもまたさまざまの異同がある。それでも、どの道筋にも共通に、たとえば富士が右手に見え近辺に茶畑が見えなければならないといったような要求が満たされなければならない。そういうわけであるから連句の場合には特に創作心理と鑑賞心理との区別を立てて考察する必要があるのである。
「銀座アルプス」
アルプスと言えば銀座にもアルプスができた。デパートの階段を頂上まで登るのはなかなかの労働である。そうして夏の暑い日にその屋上へあがれば地上百尺、温度の一度や二度ぐらいは低い。上には青空か白雲、時には飛行機が通る。駿河(するが)の富士や房総の山も見える日があろう。ついでに屋上さらに三四百尺の鉄塔を建てて頂上に展望台を作るといいと思う。その側面を広告塔にすれば気球広告よりも有効で、その料金で建設費はまもなく消却されるであろう。高い所に上がりたがるのは人間というものに本能的な欲望である。